FAZER LOGIN午前3時、琴川澄音(ことかわ すみね)はスマホの着信音で目を覚ました。 まだ夢と現実の境目にいるような意識の中で、氷室清陽(ひむろ すばる)の低い声が聞こえてきた。 「企画書をバー『ノクターン』まで持ってこい」 澄音は一瞬で目が覚め、慌てて身支度を整えると、企画書を手にタクシーで店へと向かった。 指定された個室は19階だった。スタッフはエレベーターの前まで案内すると、そのまま立ち去った。 澄音は化粧と身なりを整えてから、個室の前へ向かった。 扉にはわずかな隙間が空いていた。そこから、中の会話がはっきりと漏れ聞こえてきた。 「氷室社長、琴川さんはもう随分長くあなたのそばにいますよね。年齢的にも、そろそろ身を固める時期じゃないですか?」 ノックしようと持ち上げかけた澄音の手は、空中でぴたりと止まった。
Ver mais小さな階段の踊り場には、一つの窓があった。そこは、2人が初めて出会った場所だった。思い出の場所に戻ってきて、澄音は嬉しそうに目を細めた。「どうしてここへ連れてきたの?」悠臣は懐からあるものを取り出し、澄音の手へ渡した。澄音は一目見た瞬間、その笑顔を固まらせた。――結婚に必要な書類?悠臣の声は、得意げな響きに満ちていた。「さっき両親が俺たちをあれこれ問いただしているあいだに、藍姉さんがみんなの目を盗んで2階へ上がって、こっそり探し出してくれたんだ。金庫の暗証番号を割り出すのに、かなり苦労したらしい。さっき家を出るときに渡してくれて、兄貴を見習えって言われたよ」澄音は思わず、藍が個性的なスカート姿のまま、こそこそ家中を探し回る様子を想像してしまった。――どうして結婚するだけなのに、こんなに後ろめたいことをしているような気分になるのだろう。澄音が何も言わないのを見て、悠臣はようやく顔から笑みを消した。澄音の表情を注意深く観察した。澄音の顔には、怒っているような、喜んでいるような、悲しんでいるような、笑っているような、複雑な色が浮かんでいた。悠臣には読み解けなかった。だが以前、実家から書類をくすねて入籍を強行する話をしたときのやり取りから、今は責任をなすりつけるべき場面だと判断した。「もちろん、これは全部藍姉さんの提案だ。俺は少し意見を言っただけで、最終決定権は君にある。澄音、もう少し待ちたい?」澄音は顔を上げた。複雑な表情を和らげると、その書類を大切そうに悠臣の手へ戻した。「こうやってこっそり持ち出すのは、やっぱりよくないと思う。ご両親も、いつか気づくわ」悠臣の顔に、かすかな失望が浮かんだ。けれど澄音の顔には、いたずらっぽい笑みが広がった。「だから、急いで役所で手続きを済ませて、元の場所に戻しておかないと。ご両親に気づかれる前に!」突然変わったその言い方に、悠臣は完全に不意を突かれた。少し固まってから、ようやく澄音の言葉の意味を理解した。嬉しさのあまり、また澄音を抱き上げて回ろうとした。幸い、その場所は狭くて動き回れなかったため、澄音はどうにか難を逃れた。だが悠臣は喜びで頭がいっぱいになっていた。一晩眠ったら澄音の気が変わるのではないかと心配し、今すぐ夜が明けてほしいとさえ
悠臣は2人が初めて会ったときの細部を、すべて覚えていた。ゆっくり歩きながら、一つずつ語っていった。「『君のワンピースは、たしかにお姫様が着るようなものじゃない』って俺は言った。すると君の顔は、一瞬でさっと青ざめた。どうして君がそんなに悲しむのか、あのときの俺には分からなかったんだ。でも俺は慰めるつもりで、こう言った。きれいなドレスを持っていなかったシンデレラも、最後にはガラスの靴を履いた。だからドレスなんて、そんなに大事じゃないだろうって」澄音の頭の中でぼやけていた記憶が、悠臣の声に導かれて少しずつ蘇った。――思い出した。あのとき、自分が何と返したのかを。「じゃあ、ガラスの靴は持ってきたの?」2人が同時にその言葉を口にしたとき、ちょうどホールの中央にたどり着いていた。澄音はテーブルの上に置かれた透明な箱を見た。中には銀色のハイヒールが入っていた。悠臣は重ねた2人の手を、その箱の上へそっと置いた。声は柔らかかった。「澄音、今日はガラスの靴を持ってきた。もうすぐ12時だ。俺と一緒に行ってくれる?」一方、その頃。 朔哉が澄音の番号を呼び出そうとスマホに触れた瞬間、別の手によってその動きは止められた。朔哉が顔を上げると、ソファに横たわっていた清陽が目を覚ましていた。いつから起きていたのか、どこまで聞いていたのかは分からなかった。朔哉は慌てて説明しようとした。「清陽、俺はただ、お前のために澄音に聞いてみようと……」言いかけたところで、清陽に遮られた。その声はひどくかすれ、本来の響きが分からないほどだった。「分かっている。でも、もういい」部屋はそのまま静かになった。清陽はソファにもたれたまま、少しも動かなかった。また眠ってしまったようにも見えた。朔哉は黙って立ち上がり、明かりを消して部屋を出た。長いあいだこらえていた清陽の涙は、ようやく誰の目にも触れることなく流れ落ちた。清陽は、澄音を取り戻せると思っていた。だから時間をかけて新居を整え、プロポーズの準備をし、式場まで用意していた。胸いっぱいの期待を抱いて、プロポーズしに行くつもりだった。だが澄音の淡々とした拒絶の言葉で、清陽の感情は完全に崩れ去った。ポケットに入れていたダイヤモンドの指輪を、清陽は取り出す勇気がなかった。
悠臣は澄音を、営業を終えて静まり返ったホテルへ連れて行った。入口で澄音に目隠しをし、手を引いてゆっくりとホールへ入っていった。階段を一段ずつ上がるたび、悠臣は澄音を支え、とても慎重に歩いた。ホールの入口に着いたところで、澄音のポケットの中のスマホが鳴った。目隠しをされていて見えないため、澄音はスマホを悠臣に渡し、誰からか見てほしいと頼んだ。悠臣は画面に表示された名前を見つめ、嘘をついた。「知らない番号だ。たぶん迷惑電話だろう」澄音は切っておいてと頼んだ。悠臣は前方の扉を開け、澄音の目隠しを外した。そして通話ボタンを押して応答するのと同時に、口を開いた。「澄音、今日ここへ連れてきたのは、君にプロポーズするためなんだ。気づいていた?」澄音は気づいていた。ホテルの名前を見た瞬間、悠臣の考えは分かっていた。ここは、澄音が初めて悠臣と出会った場所だった。あのころ、澄音は大学を卒業したばかりで、清陽の秘書になったばかりだった。清陽に連れられて、このパーティーへ出席したのだ。澄音は名家の集まりに厳しいドレスコードがあることなど知らなかった。そのため、ごく普通のワンピースを着てきてしまった。清陽の秘書としてそんな場に出席した彼女の装いは、当然のように会場中の嘲笑を招いた。清陽もそのことで腹を立て、澄音を1人置き去りにして姿を消してしまった。澄音は広い会場で途方に暮れた。四方から向けられる冷たい視線やヒソヒソ話に耐えながら、1人で出口を探した。恥ずかしくて、悲しくてたまらなかった。逃げるようにして人気のない片隅へたどり着き、そこで1人くつろいでいた悠臣に出会った。悠臣は窓辺に座っており、足音を聞いて振り返った。澄音は、そのとき悠臣がこちらを見た瞳を今でも覚えている。きらきらと明るく輝いていた。まるで夜空に瞬く星のようだった。今、このホールには誰もいない。けれど室内には、何年も前のあのパーティーの飾りつけがそのまま再現されていた。人の背丈ほどあるケーキ、美しいフラワーアレンジメント、積み上げられたシャンパンタワー、色とりどりのスイーツ。ぼんやりと、澄音は4年前の、まだ右も左も分からなかったころの自分に戻ったような錯覚に陥った。悠臣は澄音の手を取り、会場の中へ歩いていった。「澄音、
朔哉がこれほど打ちのめされた清陽を見るのは、久しぶりだった。朔哉の記憶の中で、親友がここまで自暴自棄になったのは、舞衣に振られたときまでさかのぼる。頼んだばかりの酒20本がまた空になり、清陽はもう酔って意識もおぼつかない。それでもスタッフに、早く酒を持ってこいと催促していた。清陽の意識はすでにぼやけていた。だが胸の痛みだけはまだ暴れ続けていた。清陽は朦朧としたまま1杯、また1杯と飲み下したが、どうしても自分を麻痺させられなかった。朔哉はスタッフにチェイサーを持ってこさせた。それから清陽の手にあるグラスを奪い取り、中身をテーブルへぶちまけ、必死に言い聞かせた。「清陽、もう飲むな。これ以上飲んだら胃がもたない。また病院へ運ばれるぞ」だが清陽はテーブルに突っ伏し、縁から滴る酒を口で受けようとした。砂漠に閉じ込められた死にかけの人間が、最後の水をすするような、痛ましい姿だった。朔哉には止められなかった。清陽が壊れていくのを、ただ見ているしかなかった。清陽は澄音に容赦なく拒絶されてから、毎日のように酒に逃げていた。朔哉は椅子に深く沈み込み、清陽が酔った勢いで漏らした本音を思い出した。胸の奥に、かすかな苦さが広がった。朔哉は清陽を長く知っていた。清陽は普段は冷徹に見えても、内には熱い感情を秘めており、いつも本心とは裏腹な行動をとってしまう男だった。清陽が澄音を特別に思っていることにも、朔哉はずっと前から気づいていた。だから何度も親友に忠告し、2人きりになれる時間も作ってやった。清陽が素直に自分の気持ちを打ち明けられるようにと。だが、結局は遅すぎたのだ。スタッフが先ほどのチェイサーを運んでくると、清陽は一口飲んだだけで、水はいらない、酒を出せと騒ぎ、もがくようにカウンターへ向かおうとした。朔哉が慌てて追いかけると、酔った清陽は見知らぬ女性を抱きしめ、声を上げて泣いていた。舞衣に振られたときでさえ、清陽は涙を一滴も流さなかったというのに。清陽が澄音をどれほど深く愛していれば、ここまで取り乱すのか。朔哉には想像もつかなかった。朔哉は前へ出て親友を支え、個室へ引きずるように戻した。ひとしきり泣いたあと、清陽は深く眠り込んだ。朔哉は長いあいだ、ぼんやりと座っていた。そして意を決して、清陽のスマホを手に取った。