身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

30 チャプター

第1話 

午前3時、琴川澄音(ことかわ すみね)はスマホの着信音で目を覚ました。 まだ夢と現実の境目にいるような意識の中で、氷室清陽(ひむろ すばる)の低い声が聞こえてきた。 「企画書をバー『ノクターン』まで持ってこい」 澄音は一瞬で目が覚め、慌てて身支度を整えると、企画書を手にタクシーで店へと向かった。 指定された個室は19階だった。スタッフはエレベーターの前まで案内すると、そのまま立ち去った。澄音は化粧と身なりを整えてから、個室の前へ向かった。扉にはわずかな隙間が空いていた。そこから、中の会話がはっきりと漏れ聞こえてきた。 「氷室社長、琴川さんはもう随分長くあなたのそばにいますよね。年齢的にも、そろそろ身を固める時期じゃないですか?」 ノックしようと持ち上げかけた澄音の手は、空中でぴたりと止まった。「あいつか?身ぎれいで従順ではあるが、家柄が平凡すぎる。氷室家が迎え入れる相手じゃない。ただの遊び相手だ」 清陽の口調は、まるで手慰みの品について語るように、淡々として冷たかった。 澄音は息を詰まらせ、宙に浮かせていた手をそっと下ろした。 ――ただの遊び相手、か……? 澄音は個室に入らず、書類をスタッフに預けてその場を離れた。 夜更け、雨は土砂降りになっていた。通りには人影ひとつない。澄音は30分待ってもつかまらない配車サービスをキャンセルし、傘を開いて雨の中へ踏み出した。 清陽のあの言葉が、せわしい太鼓のような雨音に混ざり、耳の奥で鳴り続けている。ばらばらと叩きつける音は、澄音の世界をまるごと呑み込もうとしているかのようだった。 周囲の人間は、澄音が清陽のそばにいて4年になることを知っていた。 けれど本当は、澄音が清陽を好きになってから、今年で8年目になっていた。 澄音は、初めて清陽に会った日のことを思い出した。 大学の入学式の日も、ひどい雨だった。講堂のマイクは調子が悪く、外の雨音に負けて、壇上の声がほとんど届かなかった。 新入生たちは話を聞き取れず、次々に眠り込んでいた。澄音もまた、うとうとと舟をこいでいた。 式がOBの祝辞に移った瞬間、それまで静まり返っていた講堂が、突然ざわめきに包まれた。天井まで震わせるような歓声が上がり、澄音も隣の同級生に揺り起こされた。 澄音は前から2列目
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第2話 

目ざとい社員が退職願の文字に気づき、その話はたちまち社内をざわつかせた。 ほどなくして、澄音が辞めるという噂は会社中に広まった。 各部署の社員がちらほら、澄音の執務室へやって来て、彼女を引き留めようとした。言い方はそれぞれ違っていたが、要するに伝えたいことは一つだけであった。 清陽の仕事に対する要求はあまりにも厳しく、澄音以外に彼を納得させられる人間はいなかった。厄介な案件や面倒な後始末があるたび、皆は澄音が何とかしてくれると当てにしていた。 誰もが口を開けば「社長だって琴川さんがいないと困りますよ」と言った。澄音は、引き留めに来る同僚たちを、落ち着いた態度で一組ずつやんわりと受け流した。 その騒ぎは、ついに清陽の耳にも入った。 退勤時間の直前、清陽はアシスタントに命じて、澄音を執務室へ呼ばせた。 澄音がドアを押し開けると、目の前の光景に思わず動きが止まった。 清陽は、若い女性を抱くようにして社長椅子に座っていた。 「お前の退職願は受理した。ただ、社内の業務が立て込んでいる。今月末までは残れ。手元の仕事は先に恋羽へ引き継げ」 心の底から冷たいものがせり上がり、澄音はその場に立ち尽くした。 清陽はその女性の背中を押して澄音の前に立たせ、ひどく柔らかな声で言った。 「紹介する。星野恋羽(ほしの こはね)。俺の新しい秘書だ」 目の前の女性はとても若く見えた。顔立ちは、澄音とどこか似ていた。六割ほどは重なって見えるだろうか。 周りでは、清陽は澄んだ瞳と整った顔立ちの、華奢な女性を好むと言われていた。どうやら、その噂は間違っていなかったらしい。前任と後任の秘書が、ここまで似た顔立ちだったのだから。 澄音の胸には、鈍い痛みが重く広がった。彼女はどうにか苦い笑みを作り、恋羽を連れて執務室を出た。 たった1日で、清陽は澄音の代わりを見つけていた。若々しく可憐で、白い花のような女性だった。 そうだ。自分のような女性はいくらでもいた。清陽が本気になるはずなどなかった。 間違っていたのは自分のほうだった。清陽にとって自分が特別な存在だと、思い込んでいただけだった。 それから1か月、澄音は手元の仕事を少しずつ恋羽へ引き継いだ。 けれど恋羽は仕事に身が入らず、細かなことさえまともにこなせなかった。 澄音が書類
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第3話  

社長室はその一言で、死んだように静まり返った。 清陽は眉間を押さえた。声には、かすかな怒りが滲んでいた。 「引き継ぎも終わらせず、勝手に辞めるつもりなら、責任を問わないわけにはいかないな」 澄音は息がうまく吸えない気がした。目を伏せ、乱れかけた感情をどうにか整えた。 「社長、この件はすでに恋羽さんへ引き継ぎました。3回も念を押してから退社しております」 清陽は不快げに澄音を見やり、机の上のファイルを無造作に投げつけた。 「卒業したばかりの新人に責任を押しつける気か?澄音、お前は曲がりなりにも4年、俺の下にいた。それで思いつく言い訳がその程度か?」 ファイルが澄音のこめかみに鈍い音を立ててぶつかった。一瞬、視界が滲んだ。 ――そうだ。4年も清陽のそばにいたのに、自分は入社して1か月の新人にも及ばないのだ。 「下がれ!1日だけ猶予をやる。今すぐ挽回策を考えろ!」 怒りを孕んだ清陽の冷たい声が耳にまとわりついた。澄音は結局、何も説明しなかった。黙ってファイルを拾い、うつむいたまま返事をした。 挽回策を考えるため、澄音は深夜まで本社ビルで仕事を続けた。 最後の社員がいなくなってから、澄音はようやくパソコンを閉じた。バッグを手に取り、帰ろうとして立ち上がった。 けれど本社ビルを出た途端、強いめまいが襲ってきた。澄音は無理に数歩進もうとしたが、やがて視界が真っ暗になり、その場で意識を失った。 次に目を覚ましたとき、澄音は病院のベッドに横たわっていた。 看護師は澄音が目を覚ましたのを見ると、眉をひそめて小言をこぼした。 「あなたね、妊娠2か月なのに、丸1日何も食べないなんてどういうこと?自分の体を大事にしなさすぎよ。親切な通行人が病院まで連れてきてくれたからよかったけれど、そうじゃなかったらお腹の子も危なかったんだから。 しばらく横になっていなさい。この点滴が終わったら帰れるから」 その言葉を聞いた瞬間、澄音の頭の中で雷が落ちたようだった。 ――自分が妊娠している? ――もう2か月? 澄音はベッドに横たわったまま、頭の中が真っ白になった。 1時間後、点滴の薬液が残り少なくなってきた。澄音は窓の外に広がる真っ暗な空を見つめ、長いあいだ迷った末、清陽にメッセージを送った。今夜、あの家で会いたいと伝
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第4話 

澄音は中絶手術の予約を入れた。 だが、診察と検査を終えたあと、医師は厳しい顔で告げた。澄音はもともと妊娠しにくい体質であり、この子を諦めれば、今後子どもを望むのは難しくなるかもしれないという。 澄音はまだ膨らみのないお腹に手を当て、うつむいたまま長いあいだ黙り込んだ。 今の自分は、頭の中がぐちゃぐちゃで、とても決められる状態ではなかった。 「琴川さん、本当に中絶手術の予約を入れますか?」 医師がもう一度尋ねると、澄音は疲れきった顔を上げ、最後にはゆっくりと首を横に振った。 翌朝早く、父から見合い相手の写真と待ち合わせ場所が送られてきた。 澄音はため息をつきながら起き上がり、身支度を整えて、急いで約束の場所へ向かった。 待ち合わせ場所は、駅ビルにあるカフェだった。澄音が着いたとき、相手はまだ来ていなかった。 澄音は水を一杯頼んで席に着き、この相手にどう切り出して事情を話すべきか考えた。 ――今の自分は妊娠している。子どもを諦めるにしても産むにしても、すぐに新しい関係を始められる状態ではない。 約束の時間を30分過ぎてから、見合い相手はようやく現れた。 30代半ばを過ぎたように見える、柄物のシャツを着た、少し髪の薄い男だった。 男は席に着くなり、澄音に苦手なものがあるかどうかも聞かず、食べ物や飲み物を勝手にいくつも注文した。 澄音が口を開こうとした瞬間、向かいの男が遠慮なく話し始めた。 「琴川さんですね。私は須藤栄太(すどう えいた)、今年34歳です。あなたの資料はもう拝見しましたので、雑談は省きましょう。午後も予定がありますから、なるべく手短に進めたいんです。 私は大手IT企業のG社でプログラマーをしています。朝九時から夜九時まで毎日忙しく、週末も出勤が多いので、家にいる時間はほとんどありません。ですから、結婚後は仕事を辞めて家庭に入っていただきたい。あなたは子どもを産んで、家事をしてくれれば、それで構いません。 それから、結婚後は私の両親も同居します。2人とも年を取っていますから、そのあたりの世話もきちんとしていただかないと困ります」 栄太は話し出すと止まらなかった。まるでもう結婚が決まっているかのような口ぶりで、次々と条件を並べていった。澄音はついに聞いていられなくなり、その場で立ち上がっ
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第5話  

悠臣は、澄音が食い入るように見つめていることに気づき、その視線の先を追った。 清陽と舞衣だった。 「君は清陽のそばに4年いたけど、あいつが女性にここまで気を配るところを見るのは初めてだろう?」 澄音はそこでようやく我に返った。悠臣がなぜ急にそんなことを言い出したのか分からず、瞳には戸惑いが浮かんでいた。 「舞衣は顔立ちも華やかで、踊りも昔から抜きん出ていた。子どものころから、俺たちの周りでは多くの人間にとって手の届かない高嶺の花だったんだ。清陽みたいに昔から冷めきったやつでさえ、舞衣には心を動かされた。 舞衣が体調を崩すたび、清陽はたとえ海外にいても、十数時間かけて夜通し飛行機で戻ってきた。舞衣が真珠を好きだと言えば、清陽は20億円以上を惜しまず、目につく真珠を片っ端から買い上げた。舞衣が本格的に学ぶために別れを切り出したあと、清陽は2年も抜け殻みたいになっていた」 悠臣の話を聞きながら、澄音は窓の外で少しずつ遠ざかっていく、寄り添う2人の姿を見つめていた。何も言葉が出てこなかった。 澄音はただ静かに聞いていた。一言も返さなかった。 けれど下腹部には、もう鈍い痛みが滲んでいた。まるでお腹の子までが、自分の代わりに怒っているかのようだった。 痛みはあっという間に広がり、胸の奥まで侵していく。 ――清陽が誰かを愛する姿なら、何度も想像したことがある。 ――でも、こんな姿だとは思わなかった。 それでも、もう自分には関係のないことだった。 澄音は瞳に滲みかけたものを押し隠し、かすかに笑った。 「それなら、2人がまた一緒になれたのは、よかったですね」 悠臣はその言葉を聞いて澄音を一瞥した。薄い唇がわずかに動き、何か言いかけたようだったが、結局何も言わず、黙って車を発進させた。 一方そのころ。 清陽は舞衣を家まで送り届けたあと、そのまま車を走らせて邸宅へ向かった。 家の中は真っ暗だった。清陽が明かりをつけると、部屋から澄音のものがすべて消えていることに気づいた。 そこで清陽はようやく、舞衣が戻ってきたあの日、澄音から何度も着信があったことを思い出した。 引っ越すことを伝えようとしていたのだろう。 清陽は深く考えなかった。出ていったなら、それでいい。どうせ澄音の実家の住所は知っている。 翌
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第6話  

朔哉はひどく頭が痛くなった。清陽を一途と言うべきなのか、薄情と言うべきなのか分からなかった。ため息をつき、震えているスタッフに救急セットとガーゼを持ってこさせた。 飛び散ったガラスで、清陽の手のひらは血まみれになっていた。スタッフは恐る恐る血を拭い、消毒してから包帯を巻いた。 手当てが終わると、朔哉はふと思い出したように、感慨まじりに口を開いた。 「そういえば、最近ずっと澄音を見てないな。お前、あいつとは本当に切れたのか? 俺から見れば、澄音のほうが舞衣よりずっといい女だ。3年前のこと、覚えてるか。あいつは身を挺して、お前に向かって飛んできた酒瓶を何本も受け止めたんだぞ。額から血を流していたのに、一言も文句を言わなかった。まったく、どれだけお前のことが好きだったんだか」 朔哉が話す出来事に、清陽はまったく覚えがなかった。わずかに眉をひそめた。 「何の酒瓶だ?」 「覚えてないのか?3年前、舞衣が交際を公表したとき、お前はバーで浴びるほど酒を飲んだだろ。ボディーガードもつけずに行って、たまたま柄の悪い連中に絡まれた。店の中は大騒ぎになって、怪我人も何人も出た。お前は酔いつぶれていたくせに、澄音に守られて、かすり傷ひとつ負わなかったんだ。 お前に心配をかけたくなかったのか、目が覚めたあとも適当な理由をつけて長めの休みを取っていた。なのにお前は、あのころ機嫌が最悪だったから、あいつが仕事を放り出したと思い込んで、3か月分の給料を減らしたんだよ。澄音はそれでも一言も説明しなかった。あいつ、本当にお前に尽くしてたんだな」 清陽は初めてその話を聞いた。胸の奥が、不意にどくりと跳ねた。 朔哉は話し出すと止まらず、そのままぼやき続けた。 「なあ、どうして舞衣ひとりにそこまでこだわるんだ?澄音は本当にいい相手だろ。お前も少しはちゃんと見て、大事にしてやれよ」 清陽はそれ以上聞いていられず、冷たく遮った。 「俺が好きなのは澄音の顔だ。あいつ自身じゃない。それに、澄音はもう退職して出ていった!」 清陽の表情は冷えきっていた。だが朔哉は、呆れたように舌を鳴らした。 「あれだけお前のことが好きだった女が、本気で離れられるわけないだろ。どうせお前に引き止められるのを待ってるだけだ。信じられないなら電話してみろよ。絶対すぐに飛
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第7話  

清陽は顔を上げ、澄音を見た。さっき着信拒否されていたことをまだ根に持っているのか、声は氷のように冷ややかだった。 「あの家を出ていったときは、ずいぶん潔かったじゃないか。何も持たずに消えたくせに、どうして今さら戻ってくる気になった?」 澄音は顔が一瞬で熱くなるのを感じた。ここ最近に起きたことを、どこから説明すればいいのか分からなかった。結局、覚悟を決めるしかなかった。 「少し事情があって、至急2000万円が必要なんです。安心してください。必ず返します」 清陽の顔に、何かを察したような表情が浮かんだ。 「2000万円か。いいだろう。俺の要求を三つ呑め」 三つどころか、今の自分なら30でも呑むしかなかった。澄音はすぐにうなずいた。 「一つ目。俺の許可なく勝手に出て行ったことを今すぐ謝れ」澄音は唇を強く噛み、静かに頭を下げた。「……申し訳ありませんでした」 「二つ目。最近どこにいたのか、全部話せ」 澄音は隠さず、最近3人と見合いをしたことを打ち明けた。 清陽の顔色が、たちまち険しくなった。澄音がさらに何か言おうとした瞬間、清陽の瞳が昏く沈んだ。清陽は突然、澄音の手首を掴んで胸元へ引き寄せ、血の気を失った唇を強引に塞いだ。 「んっ……」 澄音は必死にもがいた。だが清陽の口づけはますます荒くなった。澄音が息もできなくなりかけたころ、清陽はようやく唇を離した。絡みつくような息がすぐそばに残り、清陽の口元がゆっくりと上がった。 「澄音。お前の見合い相手たちが知ったらどう思うだろうな。お前が俺の単なる遊び相手だった女で、少しキスされただけでこれほど乱れると知っても、まだお前と結婚したいと思うのか?」 澄音は怒りと羞恥で震えた。けれどすぐに、胸の奥で暴れ出しそうな感情を必死に押し殺した。 澄音は口元を拭い、赤くなった目で清陽を見上げた。 「それで社長、三つ目の要求は、もう一度あなたと寝ることですか」 その言葉を聞いた瞬間、清陽の顔色が変わった。 ――いつからあいつは、こんなことを平気で口にするようになったのか。 ――あの見合い相手たちに、そう教え込まれたのか。 ――金さえ払えば、誰とでも寝るというのか。 清陽は不意に立ち上がった。手首の腕時計を乱暴に外し、窓を開けると、階下の人工池へ投げ捨てた。声
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第8話  

澄音はどう答えればいいのか分からなかった。うつむいたまま、長いあいだ黙り込んだ。 隣の病室から突然、ガシャン、ガシャーンと何かが砕ける大きな音が響いた。看護師が入り口から、早く来るようにと澄音を呼んだ。 澄音は慌てて靴を履いた。悠臣は彼女を支え、そのまま一緒に隣の病室へ向かった。 父が目を覚まし、怒りに任せて暴れていた。テーブルのそばにあった果物の籠や食器は、すべて床に払い落とされていた。看護師は父の興奮を抑えるため、すでに鎮静剤を打つ準備に追われていた。 父はいつも穏やかで、優しい人だった。 ――どうして突然、ここまで激高したのか。 澄音はふいに、何かを察した。体をこわばらせたまま病室の外に立ち、中が再び静かになるのをじっと見つめることしかできなかった。 叔母の琴川佳代(ことかわ かよ)が涙を拭いながら歩み寄り、澄音の手を取って何かを言おうとした。悠臣はそれを見て、気を利かせてすぐに看護師を連れてその場を離れた。 「澄音、ここまで来たら、もう隠しても仕方ないね。お父さんが今回倒れたのは、大量の写真が届いたからなの。 澄音がきれいで、学歴もあることは、みんな分かってる。でも写真に写っていた男の人は、ひと目でうちなんかが関わっちゃいけない相手だって分かる人だったのよ。乗っていた車も、従弟に調べてもらったら、最高級のセダンで数億円はするらしいじゃない。うちとは住む世界が違うの。まして、ああいう男の人たちは結局ただの遊びで、本気になんてしてくれないのよ。 今、地元では澄音が愛人として囲われているって噂になってる。聞いていられないような話ばかりなの。澄音、おばさんの言うことを聞いて。お願いだから。お父さんの体のことも考えて、もうああいう人たちとは関わらないで。うちみたいな普通の家が、あんな相手に近づいちゃいけないの。お父さんの言う通り、早く誰かを見つけて結婚して。これ以上、地元の人たちに好き勝手言わせないで」 澄音はその場に立ち尽くした。全身の血が凍りついたようだった。しばらくして、ぎこちなくうなずくことしかできなかった。 この騒ぎのあと、父の容体は悪化した。医師は、引き続き入院して治療を続ける必要があると告げた。 悠臣は時間が空くたびに病院へ駆けつけ、澄音を見舞った。さらに父を特別個室へ移す手続きに奔走し、名
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第9話 

澄音が家に着いたころには、すでに外は暗くなっていた。 悠臣は考える時間をくれると言ってくれた。その言葉通り、澄音の頭の中ではここ最近の出来事が何度も巡り続けた。ベッドに入っても寝返りを打つばかりで、夜更けになっても眠れなかった。 ――自分が何を迷っているのかは分かっていた。 お腹の中の子ども。清陽との子どもだった。清陽はまだ、この子の存在を知らなかった。そして澄音自身も、この子をどうすればいいのか分からずにいた。 悠臣が差し出してくれた好意は、まっすぐで、少しの曇りもないものだった。澄音はそれを裏切りたくなかった。だから本当に悠臣を受け入れると決めるのなら、同じだけの誠意を返さなければならなかった。 朝六時、澄音はベッドを抜け出し、お茶を飲もうとした。そのとき、スマホに届いたニュース通知を見て、動きが止まった。 「氷室グループ社長・氷室清陽、初恋の相手・宝生舞衣へのプロポーズ動画が流出!」 澄音は少しためらった。それでも、動画を開いた。 見渡す限りのチューリップ畑の中で、熱気球がゆっくりと空へ昇っていった。空からは花びらが舞い落ち、清陽はダイヤの指輪を手に、片膝をついて舞衣にプロポーズしていた。 長い動画を見終えたころには、外はすっかり明るくなっていた。カップの中のお茶は、すでに冷えきっていた。 その瞬間、澄音はふと分からなくなった。 ――いったい何に、まだしがみついていたのだろう。 長い沈黙のあと、澄音は目を伏せた。手の中のカップを置き、電話をかけた。 「悠臣。考えは決まったわ」 1か月後。 清陽と舞衣の婚約パーティーには、2人の周りにいる多くの知人たちが招かれていた。 朔哉は招待状を受け取ったとき、ひどく気が重くなった。あの日、澄音をわざわざバーまで呼ばせたはずだった。それなのに、どうして清陽は結局、舞衣にプロポーズしたのだろうか。 パーティーの開始が近づくころ、朔哉は控室へ向かい、清陽を見つけた。しばらく迷った末、やはり口を開いた。 「清陽、お前、本当に舞衣と結婚するのか?ちゃんと考えたんだよな?」 清陽は朔哉の問いに答えなかった。椅子に座り、目を閉じたまま、胸の中で乱れる思いを持て余していた。 彼は10年以上、舞衣を好きでいた。けれど舞衣はずっと、近づいたり離れたりを繰り返してき
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第10話 

電話は、ぷつりと切れた。 冷たい通話終了音が耳に残った瞬間、清陽の心臓はぎゅっと締めつけられた。誰かに胸を鷲づかみにされたようで、息をすることさえうまくできなかった。 頭の中は真っ白だった。清陽は足元をふらつかせながら外へ走り出した。入り口で舞衣が立ちはだかった。 けれど清陽は、騒然となる会場を気にする余裕などなかった。舞衣の手を振り払い、そのまま駐車場へ向かった。 赤信号を八つも無視したのに、まだ道のりの半分しか進んでいない。病院へ向かう道が、これほど遠く感じられたことはなかった。 看護師のあの言葉が、何度も胸の中で反響していた。清陽は前方に詰まる車列を睨みつけ、狂ったようにクラクションを鳴らした。だが、もし間に合わなかったらという結末だけは、どうしても考えられなかった。 30分後、清陽はようやく病院へ駆け込んだ。階を一つずつ、部屋を一つずつ探し回り、最後に6階のいちばん奥の病室で、意識を失ったまま眠っている澄音を見つけた。 清陽が病室へ飛び込もうとした瞬間、悠臣が扉の前に立ちはだかった。 「澄音は手術を終えたばかりで、まだ経過観察中だ。中に入って邪魔をするな」 崩れかけていた清陽の理性は、その言葉で完全に切れた。清陽は悠臣の胸ぐらをつかみ、苦痛と信じがたさに満ちた声で問い詰めた。 「何の手術だ。はっきり言え!」 悠臣の瞳に、痛ましげな色がかすかに揺れた。悠臣は病室へ一瞬目を向け、それから清陽へ向き直った。声は静かだった。 「中絶手術だ。たった今、終わった」 「なぜだ!どうしてだ!澄音はどうして妊娠していたことを俺に言わなかった!どうして俺と澄音の子を堕ろしたんだ!」 清陽は感情のままに吠えた。これほど取り乱したことは、今まで一度もなかった。 澄音をここまで傷つけた男を前に、悠臣の目には冷ややかなものしか浮かんでいなかった。 「澄音がバーに君を訪ねたあの日、彼女はすべてを打ち明けるつもりだった。だが君は何をした?あれほど寒い日に、彼女を冷たい水の中へ1時間以上も入らせた。彼女がやっと時計を見つけて宝生家まで届けに行ったのに、君は舞衣のために、彼女を門の外に放っておいた。外では雪が降っていた。澄音はずぶ濡れのまま、長いあいだ待っていた。俺が宝生家へ着いたとき、彼女は血の海に倒れていて、もう意識が
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