《捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される》全部章節:第 21 章 - 第 30 章

43 章節

菓子の行方

豆沙包をそっと唇へ運んだ梅鈴は、まるで未知の世界へ踏み出すかのように一瞬ためらった。だが、ひと口含んだ途端、ふわりとほどける甘さが花の香りのように口中へ広がり、胸の奥まで温かく満たしていく。「……美味しい。こんなに優しくて、甘くて、幸せな味を口にしたのは、生まれて初めてだわ!」思わず声が弾み、頬が紅潮する。外皮は雲のように柔らかく、指先で触れれば崩れてしまいそうなほどふわふわ。中の餡はしっとりと舌に寄り添い、ほのかな甘味が余韻となって残る。「都には、こんな食べ物があるのね……」驚きと感嘆が入り混じった瞳で梅鈴が呟くと、店主は目尻を下げて笑った。「お前さんの故郷には、甘いものやご馳走はなかったのかい?」問いかけは柔らかく、まるで彼女の過去をそっと撫でるようだった。梅鈴は、遠い記憶の引き出しをそっと開くように目を伏せた。「お嬢様は……果物や焼き菓子をよく召し上がっていたわ。でも、こんなふうに真っ白で、ふわふわした甘味は見たことがなかったの」言葉には、羨望でも劣等でもない、ただ淡い過去の影が揺れていた。豆沙包を半分ほど食べ進めたところで、梅鈴の手がふいに止まった。指先がわずかに震え、視線は残りの半月形に落ちたまま動かない。「……どうしたんだい?」李婆が怪訝そうに眉を寄せる。梅鈴は、胸の奥に浮かんだ想いをそっと掬い上げるように、か細い声で呟いた。「これ……とっておけないかしら。弟にも、食べさせてあげたいの」その言葉は、甘味よりもずっと柔らかく、切なく、まるで遠く離れた弟への想いそのものだった。梅鈴の言葉を聞いた瞬間、李婆はまるで胸の奥をつかまれたように、ふっと言葉を失った。だが次の瞬間には、長年の暮らしで身についた、照れ隠しのような笑いを浮かべ、自分の前にあった豆沙包をそっと梅鈴のほうへ押しやった。「これはねぇ、そんなに日持ちする菓子じゃないよ」皺の刻まれた指先が、まるで子に食べ物を分ける母のようにやさしい。「故郷へ戻るときは、もっと日持ちするのを土産に買えばいいさ。よかったら、これもお食べ」「えっ……でも、それは李婆さんの分じゃ……」梅鈴が慌てて手を引こうとすると、李婆は湯気の向こうで、どこか誇らしげに笑った。「あたしはね、もう腹がいっぱいなんだよ。もったいないから、お前さんが食べな」豆沙包を食べ
閱讀更多

気づき

夜明けの薄桃色が路地の瓦をそっと染めはじめるころ、梅鈴はもう身支度を終えていた。李婆の家に身を寄せて数日、彼女の朝はすっかりこの家の呼吸に溶け込んでいる。掃き清められた土間には、早起きの足音が静かに積み重なり、家畜小屋からは水を求める山羊の鼻声が聞こえる。井戸の滑車が軋むたび、冷たい水の匂いが朝の空気に広がった。台所に火が入ると、湯気がふわりと立ちのぼり、梅鈴の横顔を柔らかく包む。山村で育った頃と変わらぬ手順だが、ここには李婆の暮らしがあり、梅鈴はその一部となりつつあった。「梅鈴。今日は市場に付き合っておくれ」背後から声をかけた李婆は、いつものように大きな籠を肩にかけていた。梅鈴は振り返り、軽く息を整えると微笑んだ。「わかりました、李婆さん。籠は私が担ぎます」籠を受け取ると、その重みが背に心地よく収まる。二人は戸口を出て、朝の光が満ちる通りへ歩み出した。市場へ向かう道は、まだ人影もまばらで、遠くから聞こえる呼び声が一日の始まりを告げている。梅鈴がはじめて足を踏み入れた市場は、まるで別世界の奔流だった。見たこともない品々が色とりどりに並び、野菜の青い匂い、肉の生温い気配、香辛料の刺激的な香りが渦を巻く。布地の波が風に揺れ、履物が山のように積まれ、ここにはこの世のすべてが息づいているように思えた。「今日は肉を少しと、野菜を買って帰るよ」李婆はそう言いながら、大きな肉塊を吊るした店の前で足を止めた。「やあ李婆。今日はまた、えらく可愛い連れじゃないか」店主が親しげに声をかける。李婆は肩をすくめ、気にも留めぬ様子で笑った。「娘みたいなもんさ」(娘…)その言葉は、梅鈴の胸の奥に、ひそやかな温もりとなって落ちていった。(嬉しい…そんなふうに思ってもらえるなんて)胸の奥で、梅鈴の心はそっと灯がともるように温かくなっていった。---買い物を終え、李婆が代金を数えて支払っている。その姿を、梅鈴はまるで息をひそめるように見つめていた。「どうかしたのかい?」李婆がふと顔を上げる。「李婆さんは……読み書きだけじゃなくて、計算もできるのね。すごい……」驚きと尊敬が混じった声が、自然とこぼれた。「計算ができなきゃ商売はできないからね」李婆は軽く笑い、肉の塊を背中のかごへと収めた。二人は再び市場のざわめきの中へ歩み出す。人
閱讀更多

李婆の気遣い

市場の喧騒を割るように、背後からふいに名を呼ぶ声が落ちてきた。「李婆に梅鈴じゃないか」振り向けば、陽光が陽だまりのような笑みを浮かべて立っていた。「陽光さん」「買い物か?」陽光の視線が、梅鈴の背に抱えられた荷へとそっと移る。「ずいぶん重そうだな。俺が持ってやろう」差し伸べられた手に、梅鈴は小さく首を振った。「これくらい平気よ。村にいた頃は、こんなのよりずっと重い荷物を運んでたの」梅鈴がふと首を傾げて尋ねた。「陽光さんは今からお仕事?」その言葉が空気に触れた瞬間、陽光の表情がかすかに強張った。ほんの一瞬――しかし、梅鈴の目には確かに映る変化だった。「……あ、ああ」陽光は視線をそらし、耳の後ろを軽く掻きながら続けた。「今日は午後からの出仕でいいんだ。だから、まだ少し時間があるよ」声の調子はいつも通り穏やかだが、その奥にわずかな逡巡が滲む。李婆はふと視線を宙に漂わせ、短い逡巡を胸の内に沈めた。やがて思いついたように、陽光へと柔らかな声を向ける。「陽光さん。まだ少し時間があるんだろう? 梅鈴に市場を案内してやっておくれよ」陽光は肩をすくめ、ためらいもなく応じた。「……ああ、構わないが」その返事を聞くと、李婆は梅鈴の背から荷をそっと取り上げ、自分の背に担ぎ直した。年季の入った手つきは驚くほど軽やかで、まるで長年の癖のように自然だった。「じゃあ、あたしゃ先に戻って店を開ける支度をしておくよ。二人とも、ゆっくり見ておいで」そう言い残し、李婆は夕光の差す路地を、店へ続く道のほうへと歩み去った。背に揺れる荷物が、彼女の小柄な体をひとまわり大きく見せていた。梅鈴は、去っていく李婆の背を小さくなるまで見送っていた。背に揺れる荷物が角を曲がるたびに影を伸ばし、その姿が完全に見えなくなると、彼女は胸の前で指をそっと組む。「い、いいのかしら……。私だけ、ゆっくりしていて」か細い声は、路地の静けさに吸い込まれてしまいそうだった。そんな不安を払うように、陽光が横から穏やかな調子で言葉を投げる。「そのうち一人で買い出しにも来なきゃならなくなるかもしれないだろう。俺が案内するから、ちゃんと覚えておくんだぞ」その言い方は、叱るでも励ますでもなく、ただ梅鈴の未来を思っての自然な響きだった。梅鈴はハッと顔を上げ、瞳に光を宿す。「そ、
閱讀更多

山査子の実

市場の喧騒を割るように、背後からふいに名を呼ぶ声が落ちてきた。「李婆に梅鈴じゃないか」振り向けば、陽光が陽だまりのような笑みを浮かべて立っていた。「陽光さん」「買い物か?」陽光の視線が、梅鈴の背に抱えられた荷へとそっと移る。「ずいぶん重そうだな。俺が持ってやろう」差し伸べられた手に、梅鈴は小さく首を振った。「これくらい平気よ。村にいた頃は、こんなのよりずっと重い荷物を運んでたの」梅鈴がふと首を傾げて尋ねた。「陽光さんは今からお仕事?」その言葉が空気に触れた瞬間、陽光の表情がかすかに強張った。ほんの一瞬――しかし、梅鈴の目には確かに映る変化だった。「……あ、ああ」陽光は視線をそらし、耳の後ろを軽く掻きながら続けた。「今日は午後からの出仕でいいんだ。だから、まだ少し時間があるよ」声の調子はいつも通り穏やかだが、その奥にわずかな逡巡が滲む。陽光がふと足を止めた瞬間、通りのざわめきがひと呼吸だけ静まったように感じられた。彼の視線の先では、夕陽を受けて透きとおる赤がきらめき、まるで小さな花房が枝先に咲きこぼれているかのように糖葫芦が吊り下げられていた。「おっ、糖葫芦だな」陽光の声はどこか弾んでいて、梅鈴はその響きに導かれるように露店へと歩み寄った。串に刺された赤い実は、光を抱きこんだまま艶やかに輝き、梅鈴の瞳をひき寄せて離さない。「食べたことあるか、梅鈴」問いかけられても、梅鈴はただその赤に見入ったまま、かすかに首を傾げた。「これ……たべられるの?」驚きと戸惑いが混じった声は、幼い日の秘密をそっと打ち明けるように震えていた。陽光はその反応に頬をゆるめ、店主へ小銭を渡すと、咲き誇る花の房からそっと二本の串を摘み取った。飴の膜が光を返し、赤い実が小さく揺れる。そのうちの一本を、彼は梅鈴へと差し出した。「ほら。甘いぞ」梅鈴は手のひらに載せた糖葫芦を、まるで初めて出会う宝物のようにじっと見つめていた。赤い実は陽の光を受けて淡く輝き、その艶めきが彼女の瞳にそっと映り込む。やがて、ためらいがちに一粒を唇へ運ぶ。そっと噛みしめた瞬間――“カリッ” 澄んだ小さな破裂音が静かな空気を揺らし、飴の香ばしい甘みが梅鈴の口内にふわりと広がった。次の刹那、果実の甘酸っぱい汁が弾ける。「んっ――」思わず漏れたその声は、驚き
閱讀更多

故郷への想い

梅鈴は、二粒程の山査子を口に運んだところで、ふと動きを止めた。甘酸っぱさの余韻がまだ舌に残るまま、彼女はそっと指先を引き寄せる。怪訝そうに眉を寄せた陽光が問いかける。「どうした? やっぱり口に合わなかったのか」梅鈴は小さく首を振った。「ううん、とても美味しいの。……美味しいからこそ、李婆さんにも食べさせてあげたくて」言葉の端に宿る温かさと、どこか慎ましい願い。彼女の手の中では、串に残った糖葫芦が宝物のように握られていた。「これ……残りは持って帰ってもいい?」陽光は返事を忘れ、ただその優しさに心を打たれる。胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じながら、彼は言葉を探した。「り、李婆にはもう一串買ってやる!……だから、それはお前が全部食べろ」陽光はそう言うなり、少し慌てたように屋台へ戻り、もう一本の串を求めた。戻ってきた彼は、その糖葫芦をそっと梅鈴の手に握らせる。その声音には、照れと優しさが入り混じっていた。梅鈴は一瞬ためらい、遠慮がちに残った山査子を口へ運ぶ。歯を立てるたび、甘酸っぱさがほどけ、先ほど浮かべた笑みがまたこぼれた。その笑みは、まるで朝の光が静かに差し込むように、周囲の空気まで柔らかく染めていく。陽光はその様子を、言葉も忘れて見つめていた。嬉しさが胸の奥で静かに膨らみ、彼の表情までほころんでいく。梅鈴が一粒を噛むたび、陽光の心にも小さな灯がともる。その灯は、彼女の笑顔と同じ色をしていた。陽光がふと歩みをゆるめ、梅鈴へ声を落とした。「…なあ、梅鈴。もし旅費が貯まったら――お前は故郷へ戻るつもりなのか」梅鈴は迷いのない瞳でうなずいた。「ええ。できるだけ早くお金を貯めて、故郷へ帰りたいわ」その答えに、陽光の横顔がわずかに陰る。「…故郷で、決して楽な暮らしをしていたわけじゃないんだろう。朝から晩まで働き詰めで、給金もほとんどもらえなかったと聞いた」梅鈴の表情に、かすかな翳りが落ちた。「ええ……それでも、ご飯は食べさせてもらっていたし、雨風をしのぐ家もあったわ。それに――」言葉を継ぐとき、彼女の声はそっと震えた。「まだ小さな弟が、一人で待っているの。帰りを信じて、ずっと……だから、早く帰ってあげないと」陽光はその一言を胸の奥でそっと反芻した。「弟……」まるでその名が、梅鈴の帰り道を照らす灯火であ
閱讀更多

陽光の不安

一か月が過ぎようとする頃、梅鈴の暮らしには都の空気がゆっくりと染み込み始めていた。朝夕のざわめきにも、通りを行き交う人々の気配にも、もう怯むことはない。店の前を掃く彼女に、近所の者が声をかけてゆく姿も増えた。昼前、戸口の鈴が軽やかに鳴った。入ってきたのは、すっかり顔なじみとなった客だった。「よう、梅鈴 。今日も元気だな」「趙さん、早いわね。まだ開店前よ?」「お前さんの顔が見たくて、つい足が向いちまったよ」奥から李婆が、湯気の向こうに顔をのぞかせる。「ほう、あたしの顔は見なくていいのかい?」「簡便してくれよ、李婆さん」三人の笑い声が、まだ朝の涼しさを残す店内にふわりと広がった。陽光が店へ顔を出す頻度は、いつの間にか季節の移ろいのように自然と増えていた。 昼下がりの柔らかな光が差し込むころ、戸口の影がふっと揺れると、梅鈴はもう誰が来たのか察するほどだった。「陽光さん、最近よく来るねぇ。前なんて十日に一度来ればいいほうだったのにさ」李婆は湯気の立つ鍋をかき混ぜながら、ちらりと梅鈴の方へ視線を送る。その目は、年寄り特有の茶目っ気を帯びている。「べ、別に忙しくないだけだ。……それに、俺がここに連れてきた責任もあるしな」陽光は言いながら、差し出された茶碗を受け取る。湯気が頬に触れ、動揺を隠すように一口すする。その仕草はどこかぎこちなく、しかし梅鈴の胸には、なぜか温かいものが灯った。店内には、煮物の香りと三人の気配がゆるやかに混じり合い、都の片隅に小さな安らぎの輪が広がっていった。李婆は豆の筋を取る手を止めることなく、まるで指先の動きと同じリズムで言葉を紡いでいった。「最近はねぇ、梅鈴目当ての客が増えてきたよ。売り上げも上がって、ほんとありがたいことさ」その何気ない一言が、店内の空気をぴんと張りつめさせた。「……何だって⁉」陽光は椅子を鳴らして立ち上がった。驚きというより、胸の奥を突かれたような反応だった。「おい李婆!梅鈴に変な接客させたりしてないだろうな⁉」豆をはじく音が一瞬止まり、李婆は肩を揺らして笑った。「変な接客って、そりゃ何のことだい?」梅鈴はきょとんとした顔で陽光を見上げる。その瞳は澄んでいて、疑いも曇りもなく、ただ問いかけるように揺れていた。「陽光さん、どういう意味なの?」陽光の言葉は、喉の奥でほど
閱讀更多

陽徳帝と後宮

梅鈴は湯気の余韻をまとったまま、洗い場へと静かに消えていった。陽光が店を出ようとしたとき、李婆はそっと身を寄せ、耳元で囁いた。「陽光さん。野に咲く花を、気まぐれで折るようなことはしないでおくれ」その声は、老いた者の優しさと厳しさがひとつに溶けた、深い井戸の底から響くような響きを帯びていた。陽光は短く息をのみ、「ああ……わかっている」と答えたが、その背はどこか心許なく、夕暮れの風に押されるように小さくなっていった。李婆はその背を見送りながら、梅鈴の行く末を案じる思いと、陽光の不器用さへの哀れみが胸の奥でゆっくりと交わっていくのを感じていた。----即位を半年後に控えた宮廷は、まるで初夏の風に追い立てられるように慌ただしく揺れていた。役人たちは巻物を抱え、廊を駆け、言葉を交わす暇さえ惜しむほどに戴冠式の準備に追われている。豊來帝は玉座の上からその喧騒を遠く聞きながら、ふと家臣へ声を落とした。「……陽徳はどうした」家臣は膝をつき、慎ましく答える。「はい。陽徳様は本日も市中の視察に出られております」その言葉に、豊來帝の眉間がわずかに寄った。「またか。即位までは自由を許したとはいえ、近頃は三日と置かず街へ出向いているではないか」帝の声音は叱責というより、どこか憂いを含んでいた。家臣たちはただ静かに頭を垂れ、帝の思案が過ぎるのを待つしかなかった。豊來帝は、玉座の背にもたれながら静かに息を吐いた。その吐息には、諦めとも慈しみともつかぬ色が混じっていた。「……まあ、民の暮らしを知ること自体は悪いことではないが」帝の呟きは、広い殿内に淡く溶けていく。陽徳に許されたわずかな自由は、砂時計の細いくびれを落ちる砂のように確実に、そして容赦なく減り続けていた。そのとき、殿の前方で膝をつき、両手を揃えた役人が慎ましく声をかけた。後宮を統べる責任者である。「陛下……お言葉を頂戴してもよろしいでしょうか」「なんだ」役人は一度深く頭を垂れ、言いにくそうに唇を開いた。「申し上げにくいのですが……陽徳様は、いまだ一度も後宮へお渡りになっておりません」その瞬間、豊來帝の表情が鋭く変わった。「――何だと!」玉座がわずかに軋むほどの勢いで立ち上がる。殿内の空気が一瞬にして張り詰め、役人たちは息を呑んで身を縮めた。広々とした玉座の間に、帝
閱讀更多

陽徳の母

「父上──陽徳、参上いたしました」静かに告げる声とともに、陽徳は玉座の前へ歩み出て深く礼を取った。その姿を見た豊來帝は、眉間に険しい影を寄せ、重く口を開く。「また市中を歩き回っていたと聞く。近頃は頻度が過ぎるのではないか。即位の準備も山積していよう」叱責の響きを含む父帝の言葉を、陽徳は正面から受け止めた。しかし、その瞳には揺らぎがない。静かな息を整え、穏やかに反論する。「即位の支度は滞りなく進めております。庶民の暮らしをこの目で学べるのは、今のうちだけ。どうか──ご容赦いただけませんでしょうか」豊來帝は苦々しげに唇を結び、しばし沈黙した。やがて、息をひとつ吐き、息子の真意を汲むように視線を和らげる。「……おまえの考えは分かった。好きにするがよい。ただし、身の安全だけは怠るな」その言葉に陽徳は深く頭を垂れ、静かに礼を述べた。父帝の厳しさと慈しみが、玉座の間に淡く交じり合っていた。陽徳の胸中に、父帝の言葉が鋭い矢のように突き刺さったのが、ひと目でわかるほどだった。「――ところで陽徳。お前、いまだ一度として後宮を訪れておらぬと聞く。なぜ足を運ばぬ」静かな叱責が玉座の間に落ちた瞬間、陽徳の表情がかすかに強張った。そのわずかな揺らぎは、誰よりも父帝の目にこそ鮮やかに映った。「父上……何度申し上げても足りぬのでしょうが、あれほど多くの后は、私には必要ございません」抑えた声は、まるで胸の奥底から絞り出すようだった。だが父帝は、息子の慎ましい拒絶を一蹴する。「何を言うか! 世継ぎを産める女は、一人でも多い方が良いに決まっておる!」玉座の上から響く声は、帝王としての理と、父としての焦りが混じり合い、重く陽徳に降りかかった。陽徳はその言葉を黙って受け止めながら、ただ静かに目を伏せた。豊來帝の後宮は、四季の花が絶えず咲き乱れる庭のように華やかで、皇后を頂点として、数えきれぬほどの側室たちがその奥深くに暮らしていた。だが、その華やぎの裏側には、誰にも見せぬ寂寥が折り重なっていた。陽徳の母――身分は貴妃。名目上は高位であっても、帝の愛情が彼女だけに注がれることなど、決して望めぬ立場だった。渡りのない夜。静まり返った後宮の一隅で、母は灯火の揺れる部屋にひとり座り、袖口を濡らす涙を、誰にも知られぬようそっと拭っていた。陽徳は幼
閱讀更多

手習い

帝都には、早くも初夏の風が店先の暖簾を揺らしていた。陽光が久方ぶりに李婆の店を訪れると、薄明かりの差す店内で梅鈴が小さな椅子に腰かけ、黙々と紙に向かっていた。「やあ、梅鈴。久しぶりだな」声をかけると、彼女はぱっと顔を上げ、花が開くように笑った。「陽光さん、いらっしゃい!」陽光がそっと覗き込むと、紙の上には幼い筆跡が、風に揺れる草のように並んでいた。「何をしているんだ?」問いかけた瞬間、梅鈴は慌てて紙を胸元に抱え込む。「も……文字を書けるようになりたくて……」頬を染め、視線を伏せるその仕草は、初夏の陽に照らされた若葉のように初々しい。陽光はその横顔を見つめ、目を細めた。まるで、風にそっと触れられたような、静かな温もりが胸に広がった。陽の光が店先の木陰を淡く照らす午後、梅鈴の前に腰をかがめた陽光は、ふと柔らかな声で言った。「よかったら、俺が教えてやろうか?」その言葉は、初夏の風がそっと頬を撫でるように梅鈴の胸へ届いた。「いいの?」ぱっと花が開くように、彼女の表情が明るくなる。「ああ。暇なときは教えに来るよ」陽光はそう言って、彼女の隣に静かに腰を下ろした。二人の間に、紙の白さと墨の匂いがほのかに漂う。「見せてみろ?」促され、梅鈴はおずおずと紙を差し出す。そこには、揺れる草のような幼い筆跡が並んでいた。「まだ始めたばかりなんだけどね……手紙が書きたくて」言葉の端に、照れと願いがそっと滲む。「手紙?」陽光は紙を見つめたまま、静かに言葉を継いだ。「ああ……弟に出すんだな」陽光は梅鈴の差し出した紙をしばし眺め、ふっと柔らかく息をこぼした。「よし、少しだけ手を貸してやる」そう言うと、彼は梅鈴の背後に回り、そっと彼女の手元へ自分の手を添えた。指先が触れた瞬間、梅鈴の肩がわずかに震える。墨の香りと、初夏の風が揺らす店先の気配が、二人の間に静かに満ちていった。「筆はな、力を入れすぎると字が怒る。こうして……」陽光は梅鈴の指を包み、ゆっくりと紙の上へ導いた。筆先が紙を撫でるたび、細い線が生まれ、かすかな震えが文字の形をつくっていく。梅鈴は息を呑みながら、その動きを追った。「……こんなふうに?」「そうだ。今のはいい線だ」陽光の声は、初夏の陽だまりのように穏やかだった。梅鈴の頬に、ほのかな赤みが差す。彼女の指
閱讀更多

髪飾り

陽光の歩みは、昼下がりの光に溶けるように市場の雑踏へ紛れていった。人々の声、果物の匂い、布地を揺らす風――そのすべてが、いつものように生命の鼓動を響かせている。ふと、小物を扱う露店の前で彼は足を止めた。木箱の上には、安価ながらもどこか愛らしい髪飾りや装飾品が、陽を受けてきらきらと瞬いている。色とりどりの硝子玉、素朴な金細工、花弁を模した薄い板金――雑多であるはずなのに、どれも小さな物語を秘めているようだった。その中の一つ、淡い色合いの髪飾りが、陽光の視線をそっと引き寄せた。指先で触れれば壊れてしまいそうなほど儚い造り。だが、その柔らかな佇まいは、ある人の面影を静かに呼び起こす。(梅鈴に、きっとよく似合う)陽光は手に取った髪飾りを、掌の上でそっと転がすように眺めた。光を受けて淡くきらめくその小さな装飾品は、店主の前で値段を尋ねた瞬間、拍子抜けするほど控えめな価値しか求めてこなかった。「店主、これはいくらだ?」告げられた額は、貴族の娘たちが身に着ける華美な装飾品の、十分の一にも満たない。だが、陽光の胸の内では、その簡素な数字が意味を持たなかった。値段では測れない何か――その髪飾りが纏う、静かな温もりのようなものが、彼の心をすでに決めていた。迷いは一切なかった。陽光は代金を支払い、髪飾りを懐へと収めると、踵を返して歩き出した。向かう先は、あの店。あの少女が、今日も変わらぬ笑顔で迎えてくれる場所。風が市場の喧騒を押し流し、陽光の背を軽く押した。陽光が店の戸をくぐると、昼の光を受けてふわりと揺れる笑顔が迎えた。「陽光さん、いらっしゃい」梅鈴はいつものように、春の蕾がほころぶような愛らしい表情で彼を見上げた。軽く挨拶を交わしたのち、陽光は懐へそっと手を差し入れた。指先に触れる小さな重み――市場で選んだ髪飾り。それを取り出すと、淡い光が店内の空気に溶けるようにきらめいた。「わぁ……とても綺麗ね!」梅鈴の瞳がぱっと開き、驚きと喜びが混ざった声が零れた。その瞬間、髪飾りはまるで彼女のために生まれたかのように見えた。「お前に似合いそうだと思って、今市場で買ってきたんだ」陽光の言葉は、照れ隠しのように淡々としていたが、その奥にある温度は隠しきれない。「えっ……私、に?」梅鈴は胸の前で髪飾りを抱くようにしながら、戸惑いに
閱讀更多
上一章
12345
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status