All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 51 - Chapter 60

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50.見える数字

秋山が示したのは、倉庫の一角に置かれた低い台だった。そこには、帳場から持ってきた控え帳が一冊、荷札の束、細い筆、朱の印を押すための小さな台が置かれている。すぐそばには、出荷を待つ木箱や紙包みがいくつか並んでいた。紗和は、ただ見ていればよいのだと思っていた。秋山も、そういうつもりだったのだろう。彼は帳簿を開き、荷札を一枚取り、品物の前に置かれている札と見比べながら、ゆっくりと説明した。「まず、帳場で納入先と品目を確認いたします。こちらは本日午後に出す分です。納入先、品名、数、期日。帳簿と荷札が合っているかを見ます」秋山の指は、紙に直接触れず、少し浮かせるようにして行を示した。「このあと、倉庫側の品と数を確かめ、問題がなければ荷をまとめます。最後に、出荷控えへ印を入れる。大きな流れは、このようになります」紗和は頷いた。難しい手順ではないように聞こえる。けれど、目の前には似たような木箱があり、似たような荷札があり、帳簿には細かな文字が並んでいる。ひとつひとつを正しく合わせることが、どれほど神経を使うものなのか、すぐに分かった。秋山は、一つ目の荷を示した。「こちらは学校向けの帳面です。帳簿では五十冊。荷札も五十冊。束は十冊ずつ五つに分けてあります」芳蔵がその束を少しずつ動かし、紐の緩みを確かめる。紙束は整然としていて、紗和の目にも数えやすかった。秋山は次に、包帯の箱へ向かった。「こちらは病院向けの包帯です。帳簿では十箱。荷札にも十箱とございます」紗和は帳簿を見た。日付。納入先。包帯。十箱。隣に置かれた荷札にも、確かに同じ文字がある。秋山の説明は丁寧だった。芳蔵が木箱の蓋に貼られた札を見せる。そこにも同じ納入先の名が書かれていた。紗和は、目で追った。一箱、二箱、三箱。積まれた箱は、同じ大きさだった。二段に積まれている。上に四つ。下に五つ。紗和は、もう一度数えた。上に四つ。下に五つ。九つ。
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51.帝都へ流れる品

倉庫から帳場へ戻ると、紗和はしばらく、鼻の奥に残る匂いを意識していた。薬種の苦み。紙の乾いた匂い。木箱の匂い。石鹸の清潔な香り。消毒薬の鋭さ。それらは、帳場に戻ってもすぐには消えなかった。紙がめくられる音や算盤の音の中に、まだ倉庫の空気が混じっているように感じる。先ほど見た包帯の箱、荷札、棚に置かれた紙束、消毒薬の瓶。それらが帳簿の数字とつながっているのだと思うと、帳場の机の上にある紙まで、少し違って見えた。秋山は、帳場の奥にある少し広い机へ紗和を案内した。そこには、分厚い納入記録と、いくつもの荷札の控え、出荷予定をまとめた細長い紙が置かれていた。さらに、帝都の町筋を簡単に記した地図のようなものも広げられている。通りや橋、役所や学校の名らしい文字が細かく書き込まれ、ところどころに赤や黒の印が打たれていた。紗和は、その紙面の細かさにまた息をのんだ。「こちらは、主な納入先を控えたものです」秋山が言った。「すべてではございません。日々の店頭売りや小口の注文は、別に控えております。ここにあるのは、定期的に品を納める先でございます」定期的に。その言葉だけで、紗和にはすでに重かった。秋山は地図の上を指で示した。直接触れず、少し浮かせるように。「こちらは学校。紙類、帳面、筆記具、綴じ紐。こちらは診療所と病院。包帯、脱脂綿、石鹸、消毒薬、薬種の一部。こちらは官公庁向けで、記録用紙、帳簿、封筒、筆、墨などを納めます」紗和は、地図上の印を目で追った。ひとつではない。ふたつでもない。白藤商会から出た品が、帝都のあちらこちらへ向かっている。学校、病院、診療所、役所、記録所、町の薬局、紙問屋。それぞれの名は、紗和にとってまだ馴染みがない。けれど、紙の上に点として置かれたそれらが、倉庫で見た品と一本ずつ結ばれていくようだった。表店は小さかった。けれど、品の行く先は小さくない。「こちらの印は……」紗和は、地図の端に打たれた小さな印へ目を留めた。
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52.帳場に立つ

帳場へ戻った時、外の光は少し傾き始めていた。朝、表店を見た時の明るさとは違う。格子の向こうから入る光はやわらかくなり、帳場の奥には早めの灯りがひとつ、ふたつと入れられている。机の上の帳簿は閉じられたものもあれば、まだ開かれたままのものもあった。算盤の音は昼前より少し減っていたが、完全に止まってはいない。紙をめくる音。筆の先が紙をなぞる音。誰かが低く確認する声。そのすべてが、朝よりも少し近く聞こえた。紗和は、帳場の端に立ったまま、その音を聞いていた。朝、この場所に入った時には、すべてが遠かった。番頭や手代たちの動きも、棚に並ぶ帳簿も、荷札も、算盤も、自分には到底触れられないものに見えた。白藤宗一郎の遺言によってここへ連れてこられたものの、紗和はまだ何も知らない娘でしかなかった。今も、何も分かっていない。その思いは変わらない。納入記録の読み方も、倉庫の区分も、帳簿の種類も、支払いと請求の流れも、紗和にはまだほとんど見えていない。学校、病院、官公庁、診療所、薬局、紙問屋。名前は聞いた。地図の上で印も見た。けれど、それぞれがどのように白藤と結ばれているのか、自分の口で説明することはできない。それでも、朝とは違っていた。帳簿の数字が、ただの墨の並びではないことを知った。倉庫の荷札が、ただの札ではないことを知った。包帯の箱が一つ足りないだけで、どこかの病院が困るかもしれないことを知った。表店は小さい。けれど、その奥から帝都へ品が流れている。白藤の商いは、大きく見せる商いではなく、切らさぬ商い。秋山の言葉が、まだ胸に残っていた。佐伯がそばへ来た。「お疲れでございましょう。今日はここまでになさいますか」その声に、紗和は少し驚いた。休んでよいのだ、とまず思った。有馬家では、疲れたと言うことはできなかった。奥様の前で疲れを見せれば、嫁ぐ者としての覚悟が足りないと見なされる。榊原家でも、自分だけが疲れた顔をすることは許されないように思っ
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53.古い帳簿の箱

その朝、紗和は帳場の端に座って、前日に教わった入出荷帳をもう一度開いていた。日付。品名。数量。相手先。受けた者の名。確認の印。一行ずつ目で追うだけでも、まだ時間がかかる。昨日よりは少し慣れたと思っても、隣の行へ視線が滑れば、すぐに何を見ていたのか分からなくなる。筆を持つ手も、まだぎこちなかった。それでも、紗和は逃げずに帳簿の前へ座っていた。朝の帳場はすでに動いている。表店の戸が開く音、手代が荷札を整える音、算盤の玉が弾かれる音。紙と墨の匂いの中で、誰も大声を出さず、それぞれの手が確かに動いていた。初めてこの場所に立った時、帳場は遠かった。今も遠い。けれど、まったく届かないものではないのかもしれないと思い始めている。紙問屋から入った帳面用紙。学校へ出す試験用の紙。倉庫で数えた包帯の箱。白藤の品が帝都へ流れていく記録。それらを知ったあとで見る帳簿は、ただ墨の並びではなかった。まだ意味を掴みきれない行もある。けれど、その向こうに品と人があるのだと分かるだけで、目を逸らしてはいけない気がした。秋山が一つ隣の机で、若い手代に荷札の書き方を直している。「こちらは日付を先に。品名は略さず書きなさい。出す時に迷う」「はい」その声を聞きながら、紗和は帳簿の同じ行をもう一度読んだ。焦らなくてよいと、佐伯は言った。けれど、焦らないことと、止まることは違う。紗和は、その違いを少しずつ考え始めていた。やがて、佐伯が帳場の奥から姿を現した。いつも通り背筋を伸ばし、無駄のない歩き方をしている。紗和の前まで来ると、深く一礼した。「紗和様。本日は、今動いている帳簿ではなく、残しておかねばならなかった帳簿をご覧いただきます」紗和は筆を持つ手を止めた。「残しておかねばならなかった帳簿……ですか」聞き返しても、すぐには意味が分からなかった。入出荷帳
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54.榊原家の体面

続きです。佐伯が最初に開いた帳簿は、思っていたよりも美しく保たれていた。古い紙は時を経て少し黄みを帯びている。けれど、端は崩れていない。綴じ紐は新しいものに替えられているらしく、無理なく頁が開く。墨の色は薄れかけているところもあったが、筆跡は丁寧で、日付も品名も金額も、ひとつひとつ読み取れる。紗和は、その帳簿の前に座りながら、胸の奥が静かに縮んでいくのを感じていた。榊原。先ほど見たその家名が、まだ目の奥に残っている。自分が生まれ育った家。父の家。母が嫁いだ家。美佐乃が奥を取り仕切り、華乃が当然のように笑っていた家。その名が、白藤家の保管部屋に残っている。佐伯は、慎重に頁をめくった。「まずは、千鶴様のご婚礼に関わる記録でございます」千鶴。母の名が、その静かな部屋に置かれた。紗和の指先が、膝の上でわずかに動く。佐伯は、帳簿の一行を示した。「こちらが、ご婚礼支度の目録控えです。着物、帯、寝具、鏡台、文机、装身具、日用の調度、そして持参金の控え」紗和は、目で文字を追った。白藤千鶴。その名が、そこにあった。榊原家で、母の名は薄かった。仏間に位牌がある。紗和の記憶の中には、静かに微笑む母の姿がある。けれど家の中で、母の名が丁寧に語られることは少なかった。美佐乃の前では、千鶴の名は出しにくかった。直清も、たまに懐かしむような顔をするだけで、深くは語らなかった。母は、榊原家の前妻だった。そう扱われていた。けれど白藤の帳簿では違う。白藤千鶴。その名は、消されていない。誰かが後から薄く扱うこともなく、丁寧な墨で残されている。嫁入りの品も、金額も、日付も、渡した先も、ひとつずつ記されている。紗和は、唇を結んだ。「母の名が……」声が小さくこぼれた。佐伯は静かに頷いた。「白藤の帳簿から、千鶴様の名が消え
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55.記録から消えないもの

紗和は、開かれた帳簿の前で、しばらく声を出せなかった。古い紙の上には、榊原の名があった。母の名があり、父の家の印があり、いくつもの日付が並んでいる。先ほどまで佐伯が示した記録のひとつひとつは、もう細かな項目としてではなく、胸の奥に重い塊となって沈んでいた。千鶴の嫁入りにあたり、白藤家が整えた品。その後も、榊原家の体面を保つために動かされた金や品。紗和は、そのすべてを正確に理解できたわけではない。帳簿の読み方も、支援の名目も、まだ佐伯や岩倉に教えられなければ分からない。けれど、ひとつだけ分かってしまったことがあった。榊原家は、白藤に支えられていた。母の実家に。紗和が隠すように抱えてきた白藤の名に。その事実は、紙の上で少しも揺らがなかった。「なぜ……」紗和は、ようやく声を出した。それは問いというより、胸の内から漏れた息に近かった。だが佐伯は、その小さな声を聞き逃さなかった。「はい」紗和は帳簿から目を離せないまま続けた。「なぜ、宗一郎様は……そこまで榊原家を支えられたのでしょうか」言ってから、喉の奥が熱くなった。榊原家は、母を大切にしたのだろうか。紗和を守ったのだろうか。少なくとも、紗和にはそう思えなかった。母の名は家の中で薄くなり、白藤の血は美佐乃の言葉の中で低く扱われた。華乃は当然のように大切にされ、紗和は一歩退くことを覚えた。そして最後には、有馬家へ差し出された。「白藤がなければ困る家だったのなら、なぜ……その白藤の娘である母も、私も」そこまで言って、言葉が続かなかった。責めたい相手が、一人ではなかった。美佐乃を責めるのは簡単だった。華乃に腹を立てることもできる。けれど、直清の名が胸に浮かぶと、怒りは形を失う。父は紗和を憎んでいたわけではない。優しい声を向けることもあった。だが、肝心な時には守らなかっ
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56.先代子爵の名

佐伯の手が、黒塗りの証文箱の上で止まっていた。榊原家の帳簿を見たあとの胸は、まだ落ち着いていない。紙の上に残っていた母の名、榊原の印、白藤が支えた金と品。そのひとつひとつが、紗和の内側に重く積もっている。そこへ、有馬の名が置かれた。紗和は、箱から目を離せなかった。榊原の名を見た時とは違う。あの時は、胸の奥が痛みと怒りで乱れた。父への未練があった。母が嫁いだ家であり、自分が生まれた家でもあった。どれほど傷つけられても、完全に切り離せないものがあった。有馬家は違う。紗和を迎えた家。婚約者としてではなく、しつけ直すべき娘として扱った家。母の形見を有馬にふさわしくないと言った家。そして最後には、紗和を座敷に座らせ、婚約を白紙に戻すと告げた家。黒塗りの箱に貼られた札には、墨で有馬と書かれていた。墨の色は少し薄れている。けれど、その二文字は紗和の胸に、今も新しい傷のように入ってきた。岩倉が静かに言った。「こちらは、有馬家の先代に関わる証文と書簡の控えでございます」先代。紗和はその言葉を胸の中で繰り返した。今の有馬子爵、忠成の父にあたる人だろうか。寿美子や貴臣が、どれほど知っているのかは分からない。だが、白藤家の証文箱に残っているということは、ただの噂や言い伝えではない。佐伯は、箱の蓋をゆっくりと開けた。榊原家の桐箱とは違い、こちらの箱はさらに重く見えた。内側に布が敷かれ、証文らしき紙束がいくつかに分けて収められている。封が残るもの、写しとしてまとめられたもの、細い紐で括られた書簡。古い紙の匂いが、ふわりと上がった。紗和は、その匂いに息を詰める。有馬家の座敷には、香が焚かれていた。古びた壁や調度の陰りを、上品な匂いで包もうとしていた。寿美子の袖からも、いつも淡い香がした。ここにあるのは、それとはまったく違う匂いだった。体面を守るために隠された紙の匂い。佐伯は一枚の証文を布の上に置いた。「こちらは、
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57.二つの怒り

その夜、紗和はなかなか灯りを落とせずにいた。白藤家の部屋は静かだった。廊下を行き来する足音も、日中の帳場の気配も、夜になると遠くなる。障子の向こうには庭の暗がりがあり、時折、風が葉を揺らす音だけが聞こえた。文机の上には、佐伯が許した範囲の控えが置かれている。すべてではない。古い帳簿や証文そのものを部屋へ持ち出すことはできないと言われた。代わりに、紗和が今日見た記録の一部について、日付と家名とおおまかな内容を写した控えが置かれている。榊原。有馬。その二つの名が、同じ机の上にあった。紗和は、湯呑みに手を添えたまま、しばらくその紙を見つめていた。茶はもうぬるくなっている。飲むつもりで置いたはずなのに、一口含んだだけで、そのままになっていた。眠れるはずがなかった。昼間に見た古い紙の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。証文保管の部屋に満ちていた、乾いた和紙と古い墨の匂い。帳場の生きた音とは違う、閉じられていた年月の匂い。あの中に、榊原家の名があった。あの中に、有馬家の名があった。紗和の人生を大きく傷つけた二つの家が、どちらも白藤の紙の中に残されていた。榊原家は、母の名を薄く扱った家だった。千鶴は、榊原家では前妻として語られることが多かった。白藤の娘としてではなく、直清の先の妻として。美佐乃の前では、その名を出すだけで部屋の空気が冷えることがあった。紗和自身も、母の話をする時には、どこか遠慮する癖がついていた。その家が、白藤に支えられていた。そして紗和を、華乃の身代わりとして有馬家へ差し出した。紗和は、膝の上で手を握った。有馬家は、また別だった。あの家は、紗和を迎えた。迎えたように見せた。けれど実際には、最初から対等な婚約者として見てはいなかった。寿美子は、榊原家の娘であることを認めながら、白藤の血を取り除かなければならないもののように扱った。白藤は商家でしょう。その声が、夜の静けさの中でよみがえる。母の形見を、有馬家にはふさわし
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58.坂上家の使者

坂上家からの先触れが届いたのは、午前の帳場が少し落ち着き始めた頃だった。紗和は帳場の端に座り、秋山から入出荷帳の読み方を教わっていた。まだ筆を入れることは許されていない。ただ、日付と品名と数量を追い、どの品がどの倉庫へ入り、どの納入先へ向かうのかを一行ずつ確かめている。紙問屋から入った帳面用紙。診療所へ出す包帯。官公庁へ納める帳簿用品。そのひとつひとつが、ようやく紙の上だけのものではなくなってきた頃だった。表店の方で、いつもより少し改まった声がした。「佐伯さん、坂上家のお使いの方がお見えです」帳場の空気が、わずかに変わった。大きなざわめきは起きない。筆を止める者も少ない。けれど、紙をめくる音が一拍だけ遅れたように感じた。秋山も、指で示していた帳簿の行から手を離し、表の方へ目を向けた。佐伯はすでに立ち上がっていた。「お通ししなさい」その声は落ち着いていた。紗和だけが、息を詰めた。坂上家。その名は、白藤へ来てから何度か耳にしていた。白藤商会の信用を知る華族家。宗一郎の代から白藤の納入網を評価していた家。有馬家よりも格上の侯爵家。侯爵家。その響きだけで、紗和の背筋がこわばった。華族というだけで、身体の奥が先に身構えてしまう。有馬家へ初めて入った日の門構え。寿美子の整った微笑。やわらかい言葉に含まれた冷たさ。あの家で紗和は、婚約者でありながら客でもなく、嫁でもなく、奥向きでしつけ直される娘のように扱われた。茶の所作。控え帳。納入品の確認。客間の支度。どれも、白藤へ来てから意味が変わり始めたものばかりだった。けれど、有馬家で身体に刻まれた緊張は、簡単には消えない。華族の家から使いが来た。その事実だけで、紗和の手は膝の上で冷たくなった。やがて、表店から一人の男が通された。坂上家の使いの者だろう。身なりは控えめだが、着物の仕立てと立ち居振る舞いに、上の家に仕える者ら
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59.白藤を知る華族

表店から近づいてくる足音は、静かだった。軽すぎず、重すぎない。板の間を踏む音に、無理な威圧はなかった。けれど、誰かがこちらへ近づいていることは、帳場の奥に立つ紗和にもはっきり分かった。紗和は、袖の下で指をそっと握った。白藤の簪が髪にある。そのことを意識すると、背筋の奥が緊張で固くなる。隠していない。今日は隠していない。白藤商会の主として客を迎えるために、おしまに挿してもらった。けれど、相手は華族だった。坂上侯爵家。その名の重さは、紗和の身体にまだ慣れていなかった。榊原家では、華族との縁が家の体面を押し上げるものとして語られていた。有馬家では、華族の屋敷の中で、紗和は常に自分の足りなさを思い知らされていた。だから、華族と聞くだけで身体が先に怯える。それは、理屈ではなかった。佐伯が一歩前に出る。秋山は少し後ろに控え、帳場の流れが乱れぬよう目を配っている。おしまは部屋の端で、紗和の襟元と髪の乱れを最後に一度だけ見た。紗和は息を整えた。表店から通された人物が、応接の間の前で足を止める。最初に目に入ったのは、濃い色の羽織だった。上質だが、見せびらかすような華やかさはない。袴の線は整い、立ち姿には華族の家に育った者らしい静かな品がある。背は高めで、姿勢に無駄がない。顔立ちは端正だった。けれど、有馬貴臣のような柔らかさとは違う。目元は涼しく、感情を軽々しく表へ出さない。冷たいというより、物事を見定める目だった。相手を上から眺めるような高慢さはない。だが、場に流される頼りなさもなかった。その人が、坂上清彬なのだと、紗和はすぐに分かった。清彬は、まず佐伯に向かって丁寧に頭を下げた。「佐伯殿。急な訪問となり、失礼いたしました」紗和は、その一言に少し驚いた。佐伯殿。清彬は、佐伯をただの商家の番頭として扱わなかった。華族の客として当然のように迎えられる顔ではなく、白藤商会を長く支えてきた者に対する礼を示していた。佐伯も深く一礼する。
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