All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 31 - Chapter 40

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31.伯爵家筋の噂

形見の一件以来、有馬家の奥向きの空気は、少しずつ冷たさを増していった。寿美子が声を荒げることはなかった。叱責も、罵倒もない。朝の挨拶も、礼法の稽古も、控え帳の確認も、すべて以前と同じように整った声で進められる。けれど、紗和には分かった。寿美子の目が、変わった。以前は、まだ直せば使えるものを見る目だった。榊原家から来た娘を、有馬家の形に整えようとする目。そこには冷たさもあったが、少なくとも、紗和を有馬家へ入れる前提があった。今は違う。寿美子は、紗和を見るたび、どこか遠くから測っている。手の置き方を直す時も、返事の間を指摘する時も、帳面の字を見て「まだ粗いですね」と言う時も、その声の奥には、もう期待のようなものがなかった。「礼の角度が戻っています」「申し訳ございません」「一度直したことは、繰り返さないようになさい。有馬家では、同じ失敗を何度も見逃すわけにはいきません」「はい」紗和は頭を下げた。直される内容は、以前と大きく変わらない。だが、言葉の重さが違う。前は、覚えさせるための指摘だった。今は、できないことを数えられているように感じた。滝乃たちの態度も、わずかに乾いていた。無礼ではない。「紗和様」と呼び、必要な礼はする。だが、説明はさらに短くなり、帳面は当然のように積まれ、茶は少し遅れて出される。何かを尋ねれば、滝乃は静かに答える。「奥様から伺っておりませんでしたか」その一言だけで、紗和はそれ以上聞きにくくなる。有馬家の奥向きでは、寿美子の気配がそのまま序列になるのだと、紗和は日ごとに思い知った。その日も、午後の控え帳を終えたあと、紗和は奥向きの控えの間へ行くよう言われた。滝乃から頼まれた茶会支度帳を、棚へ戻すためだった。帳面はそれほど重くはなかったが、朝から筆を持ち続けていた指には、紙の束の角が少し痛んだ。控えの間の襖は、わずかに開いていた。中から、女中たちの低い声が漏れてくる。紗和は
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32.有馬家にふさわしくない

午後の座敷は、整いすぎているほど静かだった。紗和は滝乃に案内され、寿美子の部屋へ入った。障子越しの光はやわらかく、畳の上には庭木の影が細く落ちている。床の間には淡い花が生けられ、香の匂いも控えめだった。いつもと同じ座敷。けれど、紗和にはそこが稽古の場ではなく、何かを言い渡される場所のように感じられた。滝乃は部屋の端に控えた。寿美子は上座に座り、膝の前に小さな文机を置いている。そこには、これまで紗和が写してきた控え帳の一部と、礼法の稽古で使った茶器の控え、それから折り畳まれた紙が数枚置かれていた。紗和は下座に進み、深く頭を下げた。「お呼びと伺いました」「ええ」寿美子の声は穏やかだった。「あなたが有馬家の奥向きで学び始めて、しばらく経ちました。そろそろ、これまでの様子を一度確かめておくべきでしょう」「はい」紗和は頭を下げたまま答えた。行儀見習いの締めくくり。そう言われれば、自然な場だった。婚礼前に有馬家の作法を学び、その出来を確かめる。寿美子が直々に見てくれるのだから、ありがたいことなのだろう。そう思おうとした。けれど、寿美子の前に置かれた紙の白さが、妙に冷たく見えた。「まず、礼法について」寿美子はゆっくりと言った。「形は、いくらか覚えましたね。礼の角度も、茶碗を置く音も、最初よりは整いました」「ありがとうございます」「けれど、形だけです」紗和は、息を止めた。寿美子の声は、少しも荒くならない。「有馬家の作法は、動きをなぞればよいものではありません。家の空気を読み、自分の立場を知り、何を慎むべきかを身につけるものです。あなたは返事はできる。けれど、心から従っているかと問われれば、まだ足りないところがあります」「……申し訳ございません」「謝ればよいということではありません」寿美子は静かに微笑んだ。「あなたは、謝ること
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33.貴臣の沈黙

夕方の光は、庭に面した障子を淡く染めていた。寿美子の座敷を下がってから、紗和はしばらく自室へ戻れずにいた。滝乃に命じられた帳面の続きも、茶席の支度も、その日はもう手につかなかった。このままでは、貴臣の妻として迎えることは難しいかもしれませんね。寿美子の声が、何度も胸の奥で繰り返される。婚約を破棄する、とは言われていない。けれど、意味は分かった。紗和は、有馬家に迎えられる娘として見られていない。努力を見てもらう場にいたのではない。作法、返事、帳面、母の形見、白藤の名。そのすべてを、有馬家にふさわしくない理由として数えられていた。廊下の端で足を止めると、庭の方から冷たい風が入ってきた。薄い葉が揺れ、庭石の影が夕暮れの中で長く伸びている。有馬家の庭は整っている。だが、その整い方さえ、今はどこか紗和を拒むもののように見えた。「紗和さん」声がした。紗和は、はっと顔を上げた。貴臣が、廊下の少し先に立っていた。一人ではなかった。離れた場所に若い女中が控えている。奥向きの廊下である以上、二人きりにはならない。けれど、貴臣が紗和へ声をかけようとしていることは、はっきり分かった。貴臣は、いつもより少し沈んだ表情をしていた。「少し、お話ししてもよろしいですか」紗和は、すぐに返事ができなかった。今、貴臣に会えば、何かを期待してしまう。それが分かっていた。それでも、紗和は頭を下げた。「はい」庭に面した控えの間へ通された。襖は開けられたままで、女中は廊下の離れた位置に控えている。夕暮れの光が座敷の端に落ち、茶器の影を細く伸ばしていた。貴臣は紗和の向かいに座った。「今日、母上に呼ばれていたと聞きました」紗和は膝の上で手を重ねた。「はい」「……つらい思いをさせていますね」その一言で、胸の奥が揺れた。貴臣は、分かっている。
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34.白藤へ届いた知らせ

白藤商会の帳場には、夕方になっても紙と墨の匂いが残っていた。表の通りでは、荷車の音が少しずつ遠のき始めている。日中は人の出入りで賑わっていた店先も、今は番頭たちが帳面を閉じ、納入品の控えを木箱へ戻す音だけが静かに響いていた。その奥、帳場のいちばん深い席に、佐伯源蔵は座っていた。六十を越えた大番頭である。背筋はまだ崩れておらず、細い目には商いの場で長く人を見てきた者の鋭さがあった。白藤商会に奉公して四十年余り。先代の白藤宗一郎に仕え、その妹君である千鶴の婚礼も、遠くから見送った。千鶴が榊原家へ嫁いだ日のことを、佐伯は今も覚えている。白藤家の娘であり、宗一郎の妹でありながら、千鶴は控えめな人だった。華やかに飾り立てるより、静かに白い簪を挿す姿がよく似合った。榊原家へ嫁いだ後、白藤の名は表に出にくくなったが、それでも宗一郎は、妹のことを忘れなかった。そして、千鶴が早くに亡くなった後も。榊原家に残された、千鶴の娘のことを。「佐伯様」若い手代が、控えめに声をかけた。「榊原様の方から、先日お願いしていた嫁入り支度の件、まだはっきりしたお返事がないとのことです」佐伯は筆を止めた。「榊原のどなたからだ」「出入りの者を通じてでございます。以前は、有馬子爵家へのお支度に関わるものとして、いくつか品の見立てを急ぐようなお話でしたが、このところ急に言葉が濁っているそうで」「濁っている、か」佐伯は帳面を閉じた。嫁入り支度。榊原紗和。その名を胸の内で呼ぶと、千鶴の面影とともに、宗一郎の最期の頃の声がよみがえる。あの子を、見捨ててはならん。宗一郎は、紗和をそう呼んだ。妹・千鶴の忘れ形見。白藤の血を引く娘。けれど榊原家では、母方の名をほとんど知らされずに育った娘。無理に手を伸ばしてはならない。榊原家に嫁いだ千鶴の立場も、残された紗和の立場もある。だが、榊原家で守られず、婚家でも守られぬ時は、白藤が迎えに行け。
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35.婚約破棄

午後の座敷は、あまりにも整っていた。障子越しの光は淡く、床の間には白い花が一輪だけ生けられている。茶器も、座布団も、畳の目も、乱れたところは何もない。静かで、品よく、冷たい。紗和は滝乃に案内され、座敷の前で膝をついた。「紗和様をお連れいたしました」「お入りなさい」中から、寿美子の声がした。いつもと同じ声だった。紗和は襖を開け、静かに中へ進んだ。上座には寿美子が座っていた。その少し脇に、有馬忠成がいる。穏やかな面立ちの有馬家当主は、紗和を見ると軽く会釈をした。さらに少し離れた場所に、貴臣が座っている。三人が揃っていた。その光景を見た瞬間、紗和の胸の奥が冷えた。これは、稽古ではない。帳面の確認でも、茶席の支度でも、持ち物の検分でもない。何かが決まったあとに呼ばれたのだと、座敷の空気だけで分かった。紗和は下座に座り、深く頭を下げた。「お呼びと伺いました」寿美子は、静かに紗和を見た。「ええ。今日は、大切なお話があります」大切なお話。その言葉は、かつて榊原家の書斎で父から有馬家との婚約を告げられた時の空気を思い出させた。あの時も、父は穏やかだった。怒っていたわけではない。ただ家のために必要なこととして、紗和の人生を別の場所へ向けた。今も同じだった。穏やかな声で、紗和の立つ場所が変えられようとしている。寿美子は、ゆっくりと茶碗を置いた。「これまで、紗和さんには有馬家の奥向きで、嫁入り前の行儀見習いをしていただきました」「はい」「作法、奥向きの流れ、持ち物の扱い。短い間ではありましたが、こちらとしても、あなたの様子をよく見せていただきました」紗和は、膝の上で手を重ねた。よく見せていただきました。その言葉の中に、温かさはなかった。寿美子は続けた。「そのうえで、貴臣との婚約について、改めて見直すことになりました」
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36.白藤の迎え

荷をまとめるのに、長い時間はかからなかった。有馬家の奥向きで紗和に与えられていた部屋には、最初から多くのものがなかった。文机、鏡台、衣桁、寝具、行李。必要なものは揃っていたが、それは有馬家が預かった娘を置くためのものにすぎない。紗和のものは、わずかだった。着替えを数枚。手巾。文箱。筆。榊原家から持ってきた控えめな帯。小さな針道具。そして、白藤の簪。紗和は行李の前に膝をつき、薄布に包んだ簪を手に取った。白い藤の房は、布越しにも形が分かる。寿美子に身につけることを禁じられ、有馬家の席で見かけたら預かると言われた簪。それでも、紗和はこれを置いていくつもりなどなかった。有馬家には、何も残したくなかった。けれど、奪われるように出ていくのでもない。白藤の簪だけは、自分の手で持っていく。紗和は簪を丁寧に布で包み直し、行李の奥へ入れた。隠すためではなく、守るために。着物の下ではなく、文箱のそばへ。自分が手を伸ばせば、すぐに確かめられる場所へ。襖の外から、滝乃の声がした。「紗和様。お支度はお済みでございましょうか」「はい」紗和は行李の蓋を閉じた。「整いました」「失礼いたします」襖が開き、滝乃が入ってきた。いつも通りの顔だった。婚約が白紙に戻ったことも、紗和がこの部屋を出ていくことも、滝乃にとっては奥向きの手順の一つでしかないようだった。着物の乱れを見、部屋を見、行李を見て、静かにうなずく。「お荷物は、こちらで玄関までお運びいたします」「ありがとうございます」「榊原家へは、奥様より先にお使いが出ております。お戻りになりましたら、榊原様よりお話があるかと存じます」榊原家へ戻る。その言葉に、紗和は胸の奥が重くなるのを感じた。有馬家に居場所はなかった。では、榊原家にはあるのだろうか。父は、どんな顔をするだろう。困ったように眉を寄せ、榊原の体面を案じるのかもしれない。美佐乃は、柔
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37.門の外の迎え

迎えに来た、と男は言った。紗和は、有馬家の門の外で、その言葉の意味をすぐには受け取れなかった。背後には、つい先ほどまで自分を婚約者として置いていたはずの家がある。重い門は夕方の光を受けて黒く沈み、石造りの門柱の影が道の上へ長く伸びていた。その影の内側から、紗和は出された。荷は小さな行李ひとつだった。有馬家の奥向きで使っていたものは、もとより多くない。着物、文箱、筆、手巾、針道具。そして、布に包んだ白藤の簪。寿美子に預けることも、有馬家へ置いていくこともせず、自分の手で荷の奥へ入れたものだった。それだけを持って、紗和は門の外へ立っている。榊原家へ戻るしかないと思っていた。父はどんな顔をするだろう。美佐乃は、どんな言葉で紗和を迎えるだろう。華乃さんは、きっと気まずげに目をそらす。自分が逃れた縁談から戻された姉を、どう扱えばよいか分からない顔をするだろう。そこへ、この男たちは現れた。白藤商会の大番頭だと名乗った年配の男。佐伯源蔵。そして、公証人だと名乗った細身の男。岩倉正倫。紗和は、二人を見つめた。どちらも有馬家の者ではない。榊原家の使いでもない。華族家の使用人のような身なりではなく、かといって粗野な商人にも見えなかった。きちんと整えられた着物、無駄のない所作、控えた声。佐伯の立ち姿には、長く大きな商家を預かってきた者の落ち着きがあった。その佐伯が、紗和に深く頭を下げている。紗和は、どうしてよいか分からなかった。「どうか、お顔をお上げください」思わずそう言った。佐伯はすぐには顔を上げなかった。「紗和様に、このような場所でお声がけすることになりましたこと、まずはお詫び申し上げます」その言葉に、紗和の胸が小さく揺れた。詫びられる理由が、分からなかった。有馬家で婚約を白紙に戻されたのは、自分だ。有馬家にふさわしくないと判断されたのも、自分だ。母の形見にこだわり、白藤の名を捨てきれなかった娘として
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38.宗一郎の遺言

有馬家の門が見えなくなるまで、紗和は振り返らなかった。佐伯と岩倉に案内されたのは、有馬家から少し離れた通り沿いの小さな待合だった。表から見れば、商いの者が荷の受け渡しや人待ちに使う控えの場所に見える。だが中は清潔に整えられ、奥には簡素な座敷が用意されていた。畳は新しくはないが、よく拭き込まれている。隅には小さな火鉢が置かれ、行灯にはすでに火が入っていた。外はまだ夕方の名残を残しているのに、部屋の中には宵の静けさが先に下りている。有馬家の客間のような圧はなかった。榊原家の奥座敷のような、どこに座ればよいかを無言で決められる空気もない。それなのに紗和は、すぐには座れなかった。「紗和様、どうぞこちらへ」佐伯が、上座に近い席を示した。紗和は戸惑った。「私は、こちらで結構です」そう言って下座へ座ろうとすると、佐伯は静かに首を振った。「いいえ。紗和様に、そのお席へお座りいただくわけにはまいりません」その言い方は強くはなかった。けれど、譲れないものがある声だった。紗和は困ったように岩倉を見た。岩倉も、穏やかにうなずく。「佐伯殿の申す通りでございます。どうか、こちらへ」紗和は、胸の奥がまた落ち着かなくなるのを感じながら、示された席へ座った。誰かに上座へ促される。それは、紗和にとって慣れないことだった。有馬家では、いつも見られ、測られ、直される席に座らされていた。榊原家でも、華乃が中心にいる場では一歩引いた場所が紗和の席だった。だから、自分が丁重に扱われることが、かえって不安だった。行李は、自分のすぐ脇に置いた。佐伯はそれを見て、何も言わなかった。中に白藤の簪があると伝えてから、彼は決して荷へ手を伸ばそうとしない。そのことが、紗和にはまだ不思議だった。有馬家では、持ち物を広げられ、見られ、ふさわしいかどうかを判断された。ここでは、紗和のものとして扱われている。それだけで、胸の奥に小さな戸惑いが残った。
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69.名跡の支度

白藤商会が動き始めたことを、紗和は帳場の音で知った。朝から、帳場の空気はいつもより少し硬かった。手代たちが大声を出すわけではない。秋山も、佐伯も、普段と同じように低い声で指示を出している。けれど、紙を重ねる音、帳簿を開く音、荷札とは別の控えを取り出す音が、昨日までとは違って聞こえた。有馬家への書状。榊原家への通告。紗和が自分の口で命じたことが、白藤の中で形になり始めている。それが、まだ信じられなかった。紗和は帳場の端に座り、秋山がまとめた榊原家に関わる控えの一覧を見ていた。そこには、今後止めるべき小口の支払い、確認すべき名義、過去の控えに照らすべき項目が並んでいる。昨日までなら、ただ見ているだけで胸がすくんだはずのものだった。今も怖い。けれど、もう目を逸らすだけではいられなかった。秋山が静かに言った。「こちらは、榊原家から近年問い合わせのあった贈答品の手配です。今後は、佐伯さんを通さずには動かしません」「お願いします」紗和は頷いた。自分の声が、まだ少し小さいことは分かっている。それでも、秋山はその言葉をきちんと受けた。「承知いたしました」その一言のたびに、紗和の胸には重さが積もった。命じれば、人が動く。それは、思っていたよりもずっと怖いことだった。しばらくして、帳場の奥から岩倉が姿を見せた。手には、いくつかの書類を収めた包みがある。いつものように穏やかな顔をしていたが、その目には事務に向かう人の静かな厳しさがあった。「紗和様。少しお時間をいただけますか」紗和は顔を上げた。「はい」「有馬家への書状と榊原家への通告を整える前に、先にお話ししておくべきことがございます」その言葉に、紗和の背筋が伸びた。また何か、知らなければならないことがある。白藤へ来てから、その繰り返しだった。遺言。帳簿。倉庫。証文。支援記録。どれも、知るたびに胸が揺れた。だ
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39.見守られていた娘

馬車が動き出すと、車輪の音が夜へ向かう道に低く響いた。有馬家の門前から離れた小さな待合で話を聞いたあと、紗和は佐伯と岩倉に伴われ、白藤の用意した馬車へ乗った。外はすでに夕方の色を失い始めている。通りの店先には灯りが入り、行き交う人々の声も昼間より落ち着いていた。紗和は、膝の上に手を重ねて座っていた。行李は足元に置いている。中には白藤の簪がある。自分で持つと告げた時、佐伯はそれ以上踏み込まなかった。今も行李に触れようとはしない。ただ、向かいの席で背筋を伸ばし、必要な時にだけ静かに言葉をかける姿勢で座っている。岩倉は隣で書類鞄を膝に置き、窓の外へ一度だけ目を向けた。有馬家は、もう見えなかった。けれど紗和の胸の中には、まだあの門の影が残っている。門の内側から出されたこと。貴臣が「すまない」と言ったこと。君なら一人でも生きていけるだろう、と最後に告げたこと。そのすべてが、馬車の揺れに合わせて胸の奥で沈んでいた。しばらく沈黙が続いたあと、紗和は小さく口を開いた。「佐伯様」「佐伯で結構でございます」佐伯はすぐに頭を下げた。「紗和様から様付けで呼ばれる身ではございません」紗和は戸惑った。榊原家でも有馬家でも、紗和は呼び方ひとつで何度も立場を測ってきた。美佐乃をどう呼ぶか。寿美子を奥様と呼ぶか。貴臣にどう言葉を返すか。それなのに佐伯は、紗和が自分を高く呼ぶことを、むしろ控えようとする。「では……佐伯さんと」「はい」佐伯は深くうなずいた。その礼に、紗和はまた落ち着かない気持ちになった。「お尋ねしても、よろしいでしょうか」「何なりと」「白藤は、どうして私が有馬家を出されると分かったのですか」言葉にすると、胸が少し痛んだ。出される。自分でそう言った瞬間、有馬家での最後の場面がまたよみがえる。寿美子の冷静な声。忠成の曖昧な同意。貴臣の沈黙。紗和は視線を落とした。
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