All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 71 - Chapter 79

79 Chapters

71.千鶴からつながる名

佐伯は、すぐに答えなかった。紗和の前には、まだ何も書かれていない白い紙がある。筆は硯箱の横へ置かれたままだった。紙の端には、岩倉が置いていった手続きの控えが重なっている。その一番上には、まだ榊原紗和という名が記されていた。佐伯は、しばらくその紙を見つめていたが、やがて静かに立ち上がった。「少し、お待ちください」そう言って廊下へ出る。紗和は、ひとり残された部屋で、指先を膝の上に重ねた。さきほどまで持っていた筆の感触が、まだ手に残っている。書こうとした。けれど、書けなかった。白藤紗和。その名を、まだ自分の手は知らない。しばらくして、佐伯が戻ってきた。手には小さな盆があり、湯気の立つ茶が載っている。香りは強すぎず、昼の静かな部屋にふさわしいものだった。「お茶を」「ありがとうございます」紗和は湯呑みを受け取った。指先に温かさが移る。胸の奥で固くなっていたものが、少しだけほどける気がした。佐伯は急かさず、少し離れたところに膝をついた。「佐伯さん」「はい」紗和は、湯呑みを両手で包んだまま、ぽつりと尋ねた。「白藤を名乗るということは……私は、榊原ではなくなるということなのでしょうか」佐伯は静かに紗和を見た。「父の娘ではなくなる、ということなのでしょうか」問いは、口にした瞬間、自分でも幼いと思った。けれど、胸の奥にあったのはその言葉だった。榊原家へ戻りたいわけではない。父にすがりたいわけでもない。それでも、榊原という名を離れることが、父の娘だった時間をすべて捨てることのように思えて、怖かった。佐伯は、すぐに否定しなかった。その沈黙が、紗和にはありがたかった。簡単に「違う」と言われても、きっと心は追いつかなかっただろう。やがて佐伯は、低く答えた。「白藤の名は、紗和様から榊原を奪うためのものではございません」紗和は顔を上げた。
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72.白藤の印

午後の奥座敷には、紙と朱肉の匂いが静かに満ちていた。紗和は文机の前に座り、膝の上で手を重ねていた。机上には、岩倉が整えた書類が並んでいる。宗一郎の遺言の写し。白藤家の名跡に関わる控え。商会主として扱う印に関する書付。今後、契約や証文に用いる名義を整えるための書類。どれも、見た目にはただの紙だった。けれど、その一枚一枚が、紗和のこれから立つ場所を決めていく。岩倉は、書類の位置を丁寧に整えた。「紗和様。本日は、名跡継承に関わる手続きを進めます」その声はいつも通り落ち着いていた。だが、紗和の胸は静かではなかった。「こちらには、宗一郎殿の遺言に基づき、紗和様が白藤家の後継者として名跡を継ぐ旨を記します。今後、白藤商会の契約、証文、正式な書状においては、白藤紗和様として扱われることになります」白藤紗和。その名は、前に一度、自分の手で書いた。白藤の名は、榊原を奪うためではない。千鶴からつながる名を返すものだと、佐伯は言った。それでも、正式な書類の上でその名を書くとなると、胸の奥がまた違う重さで沈んだ。試しに書くことと、残る紙に書くことは違う。岩倉は、一本の筆を紗和の前へ置いた。「まず、こちらへお名前をお願いいたします」紗和は筆を見つめた。榊原紗和と書くなら、手は迷わない。どれほど痛みのある名でも、長く自分の名として使ってきた。手が覚えている。紙の上に置く形も、筆の運びも、迷うことはない。けれど、今日は違う。白藤紗和。まだ手が覚えていない名。だが、これから自分の前に置かれる名。紗和は筆を取った。指先がわずかに震える。岩倉は急かさない。佐伯も、少し離れたところに控えたまま何も言わない。紗和は、墨を含ませた筆先を紙の上へ下ろした。白。最初の一画が、少し細くなった。藤。線がわずかに揺れる。紗和。最後まで書き終えた時、胸の奥で息が止まっていた
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73.白藤紗和様

夕方、白藤家の広間には、静かな人の気配が満ちていた。一日の仕事が少し落ち着いたあとだった。帳場の音はまだ完全には止まっていない。遠くで紙を重ねる音や、誰かが低く品名を確認する声が聞こえる。けれど、昼間の忙しさとは違い、白藤商会全体がひとつの節目のために息を整えているようだった。広間は、中庭に面していた。障子の向こうには、夕方の光を受けた白藤の枝が淡く見える。派手な飾りはない。床の間に季節の花が生けられ、畳はきれいに拭き清められている。ただ、それだけだった。けれど紗和には、その静けさがかえって重かった。佐伯が、白藤家の者たちを集めると言った時、紗和はすぐに返事ができなかった。名跡の手続きは整った。白藤紗和と書き、白藤の印も扱った。書類の上では、もう後戻りできないところまで進んでいる。それでも、人の前に立つとなると、また別の緊張があった。紗和は、広間の奥に座っていた。髪には白藤の簪を挿している。おしまが、派手にならないよう、けれど隠れないように整えてくれたものだった。着物も、華やかではない。白藤家の者たちの前に立つための、落ち着いた装いだった。けれど、胸の中は少しも落ち着いていなかった。人前に出る時、紗和はいつも測られる側だった。榊原家では、一歩引くことを求められた。美佐乃の隣に立つ時も、華乃のそばにいる時も、自分が目立ちすぎないよう気をつけていた。華乃が主役で、紗和はそれを支える者だった。有馬家では、さらに違った。立ち方、礼の角度、袖の扱い、茶の運び方。何をしても直される側だった。寿美子の目は穏やかでも、紗和は常に足りないものを探されている気がした。今日もまた、人の前に立つ。けれど、違う。白藤家の者たちは、紗和を測るために集まったのではない。直すためでも、品定めするためでもない。新しい主として迎えるために、ここにいる。その事実が、紗和にはまだ信じられないほど重かった。広間の入口の方に、佐伯が立った。その横には秋山総一がいる。帳場で紗和に入出荷帳の読
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74.榊原家へ届いた名

その書状は、朝のうちに榊原家へ届いた。使いの者は、白藤商会の名を告げ、丁寧に包みを差し出した。屋敷の者が受け取り、直清の書斎へ運ぶ。榊原家の朝は、いつもと変わらないはずだった。庭では下男が掃き掃除をし、奥では美佐乃の指示を受けた女中が膳を下げている。けれど、白藤商会からの書状というだけで、屋敷の空気が少しだけ硬くなった。直清は、机の前でその包みを見つめた。白藤。千鶴の実家の名。そして、紗和が有馬家を出されたあと、迎えられたという家の名だった。直清は、紗和が白藤家にいることは聞いていた。婚約破棄の後、すぐに榊原家へ戻らなかったことも知っている。白藤家の大番頭が迎えに来たという話も、断片的には耳に入っていた。だが直清は、どこかでこう思っていた。傷ついた娘を、母方の実家がしばらく預かっているのだと。落ち着けば、話せる。父娘なのだから、紗和もいつか分かってくれる。そう考えようとしていた。直清は包みを開いた。中には、整った筆跡の書状が入っていた。紙質はよく、余計な飾りはない。文面も、過度にへりくだったものではなく、淡々とした正式なものだった。そして、差出人の名を見た瞬間、直清の手が止まった。白藤紗和。一瞬、意味が分からなかった。榊原紗和ではない。白藤紗和。直清は、その四文字を見つめたまま、しばらく動けなかった。自分の娘の名が、別の家の名を冠している。いや、別の家ではない。千鶴の実家だ。紗和には白藤の血がある。そう分かってはいても、紙の上に正式な名として置かれると、直清の胸に落ちる重さはまるで違った。「……紗和が」声が、思わず漏れた。紗和は、榊原家の娘だったはずだ。千鶴を亡くした後も、紗和は榊原家にいた。美佐乃が奥を取り仕切るようになり、華乃が生まれ、家の空気が変わっても、紗和は榊原の娘としてそこにいた。おとなしい娘だっ
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75.父の家へ戻らない

榊原家へ向かう道は、よく知っているはずだった。幼い頃から何度も通った道であり、母を亡くしたあとも、紗和が日々の暮らしの中で当たり前に行き来してきた道だった。門の前の植え込みも、塀の古びた色も、角を曲がった時に見える屋根の形も、身体が覚えている。それなのに、その日、紗和の胸には帰るという感覚がなかった。訪れる。その言葉の方が近かった。紗和は、白藤家の車の中で膝の上に手を重ねていた。隣には岩倉が必要な書類を収めた鞄を持って座り、少し前には佐伯が控えている。誰も余計なことは言わなかった。沈黙が、かえって今日の訪問の意味をはっきりさせていた。榊原家の娘が実家へ戻るのではない。白藤家の主が、榊原家の当主に会いに行く。その違いを、紗和は何度も胸の中で確かめた。髪には、白藤の簪を挿している。着物は派手ではない。けれど白藤家の者として整えられた装いだった。榊原家で一歩引いていた頃の紗和ではない。有馬家で作法を直される娘でもない。白藤紗和。その名を、まだ自分の内側へ完全に馴染ませたわけではない。だが、今日この名で榊原家の門をくぐるのだと思うと、胸の奥が静かに冷えていく。「ご気分は、いかがでございますか」佐伯が低く尋ねた。紗和は少し間を置いて答えた。「怖いです」「はい」佐伯は、それを否定しなかった。「ですが、戻るわけではありません」自分に言い聞かせるように言うと、佐伯は静かに頷いた。「はい。紗和様は、白藤家の主として榊原家をお訪ねになります」その言葉だけで、紗和の背筋が少し伸びた。やがて、榊原家の門が見えてきた。紗和は息を止めた。何も変わっていないように見えた。門の木目も、脇に植えられた木も、玄関へ続く石畳も、記憶の中にあるものとほとんど同じだった。けれど、見え方は違っていた。ここで紗和は、いつも一歩引いていた。華乃が笑っている時、紗和は邪
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76.支えられていた家

紗和は、座敷の空気が変わるのを感じていた。直清は、父として言葉をかけようとしていた。美佐乃は、整った微笑の奥でこちらの出方を測っている。華乃は、まだ事態をうまく飲み込めない顔で紗和を見ていた。かつての紗和なら、この三人の視線を受けただけで息を詰めていただろう。父を困らせないように。美佐乃の機嫌を損ねないように。華乃を不安にさせないように。けれど、今日は違う。紗和は、佐伯へ静かに目を向けた。佐伯が一礼し、持参した書類を机上へ置く。岩倉もその隣に控え、書類の順を整えた。座敷の中央に、白藤家の記録が広げられていく。それだけで、美佐乃の目が少し鋭くなった。「これは、何ですの」紗和はすぐには答えなかった。佐伯が、榊原家に関する控えを一枚、直清の前へ置いた。「榊原家と白藤家との間に残る、支援記録の控えでございます」直清の顔がわずかに強張った。「支援……」岩倉が静かに補足した。「こちらは、白藤家に正式に保管されている帳簿、受領控え、書付の写しをもとに整えたものです。感情的な覚え書きではございません」直清は、紙へ目を落とした。その表情が、ゆっくりと変わっていく。最初は戸惑いだった。次に、見覚えのある名や日付を見つけたのだろう。目がわずかに揺れた。榊原家の印。白藤の控え。千鶴の嫁入り支度に関する記録。そこに続く、屋敷の維持や交際に関わる支出の控え。直清は、何も知らなかったわけではないのだと、紗和は思った。白藤から助けを受けたこと。千鶴の実家に頼ったこと。それを完全に忘れていたわけではないはずだった。けれど、直清はきっと、見ないようにしていたのだ。どこまで白藤に支えられていたのか。それがどれほど長く続いていたのか。自分の家の体面が、何によって保たれていたのか。紙の上に並べられなけれ
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77.無条件の援助は終わりです

座敷の中央には、まだ白藤家の記録が置かれていた。榊原家の名が記された控え。白藤家の印がある写し。千鶴の名が残る紙。榊原家が受け取ってきた支えの跡。それらが畳の上にあるだけで、この座敷の空気は以前とは違っていた。紗和は、その紙を見つめながら、静かに息を吸った。榊原家は、白藤に支えられていた。その事実を告げるところまではできた。だが、ここから先が本題だった。直清は、まだ紙の上から目を上げられずにいる。美佐乃は、反論の言葉を探すように唇を結んでいた。華乃は、自分の名が関わる支援の一部を知った衝撃からか、先ほどから落ち着きなく視線を動かしている。紗和は、膝の上で手を重ねた。ここで声を荒げれば、楽だったかもしれない。母の名を薄く扱ったことを責め、美佐乃の言葉を責め、華乃の身代わりにされたことを責め、父に守られなかった痛みをそのままぶつければ、胸の奥に溜まったものは一瞬だけ軽くなるかもしれない。けれど、それは白藤のためではない。紗和は、白藤家の主としてここにいる。「榊原家への、白藤家からの無条件の援助は、本日をもって終わりといたします」その言葉を口にした瞬間、座敷の空気が凍った。直清が顔を上げる。「紗和……」呼び方は、父のものだった。その声に、紗和の胸は一瞬だけ揺れた。幼い頃から聞いてきた声。責めるのではなく、困ったように引き止める声。紗和がその声に弱いことを、父は知っているのかもしれない。けれど、今日はその声に流されてはいけなかった。美佐乃が先に言葉を挟んだ。「無条件の援助を終わりにするとは、どういう意味ですの」声は落ち着いていたが、奥に焦りが滲んでいた。「白藤家は、これまで榊原家を支えてくださっていたのでしょう。紗和さんが白藤家を継いだのなら、なおさら榊原家を助けるのが筋ではありませんか」紗和は美佐乃を見た。その言葉は、予想していたものだった。
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78.私は、白藤紗和でございます

条件を告げたあと、座敷には長い沈黙が落ちた。庭の方から、夕方の風に揺れる葉音が聞こえる。かすかな音だった。けれど、その静けさの中では、やけに大きく感じられた。机上には、まだ白藤家の記録が置かれている。榊原家が受けてきた支援の控え。千鶴の名が記された紙。白藤家からの条件を整えた書付。それらは、もう片づけられていなかった。片づけられないのだと、紗和は思った。榊原家が見ないふりをしてきたもの。白藤家が、長く黙って残してきたもの。そのすべてが、今この座敷に置かれている。直清は、紙を見つめたまま動けずにいた。先ほどまで父として紗和を呼ぼうとしていた人が、今は榊原家の当主として、白藤家の通告を受けている。その事実が、紗和には痛かった。美佐乃は、唇を引き結んでいる。怒りを抑えているのか、次にどう言えば白藤の力を榊原家へ引き戻せるかを考えているのか、紗和には分からない。ただ、その目には、これまで通りにはいかないことへの苛立ちが見えた。華乃は、顔を青ざめさせていた。自分の稽古事も装いも、榊原家の社交も、その一部が白藤によって支えられていたと知った。姉が身代わりに有馬家へ行ったことも、もう家の中だけの都合として片づけられない。華乃は、紗和を見ている。姉を見る目ではなかった。自分より後ろにいるはずだった者が、いつの間にか別の場所へ立っていることを、まだ受け入れられない目だった。紗和は、静かに息を吸った。言うべきことは言った。無条件の援助は終わる。榊原家が条件を受け入れるなら、最低限の整理支援は残す。けれど、体面や贅沢のために白藤の名を使うことは許さない。これ以上、長居をすれば、父娘の情に引き戻される気がした。紗和が立ち上がろうとした時、直清がようやく顔を上げた。「待ちなさい、紗和」その声に、胸が大きく揺れた。父の声だった。幼い頃から、何度も聞いてきた声。怒鳴るのではなく、困ったように引き止
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79.次に立つ場所

白藤家へ戻ってからも、紗和の胸には榊原家の座敷の空気が残っていた。直清の声。美佐乃の硬い微笑。華乃の揺れる目。そして、自分が口にした名。私は、白藤紗和でございます。静かに言ったつもりだった。怒鳴ったわけではない。父を突き放すために、冷たく言い捨てたわけでもない。それでも、その名は榊原家の座敷に深く落ちた。直清は言葉を失った。美佐乃は、もう紗和が榊原家の言葉だけでは動かないことを悟ったように唇を引き結んだ。華乃は、姉を見上げるような、見知らぬ人を見るような目をしていた。紗和は戻らないと決めた。その決意は揺らいでいない。けれど、痛みが消えたわけではなかった。白藤家の部屋へ戻り、文机の前に座っても、父の声は耳の奥に残っていた。お前は榊原の娘だ。その言葉は、ずっと欲しかった言葉でもあった。だが、今は紗和を榊原家の都合へ引き戻す言葉でもあった。欲しかったものが、傷になることもあるのだと、紗和は初めて知った気がした。文机の上には、白藤の簪が置かれている。榊原家へ向かった時、髪に挿していたものだ。今は外して、柔らかな布の上に置いてある。紗和は、指先でその花の細工に触れた。冷たかった。その冷たさが、胸の奥に残る熱を少しだけ鎮めてくれる。白藤家では、すでに動きが始まっていた。帳場の方からは、紙を重ねる音や、秋山が手代へ短く指示を出す声が聞こえる。榊原家への条件の整理。有馬家への書状の支度。岩倉が整える文書。佐伯が確認する控え。それらは、紗和が命じたことから始まっていた。その事実にも、まだ慣れない。紗和が言ったから、人が動く。それは救いであると同時に、恐ろしくもあった。昼を少し過ぎた頃、佐伯が部屋の外から声をかけた。「紗和様。坂上清彬様がお見えでございます」紗和は顔を上げた。「清彬様が……」
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