佐伯は、すぐに答えなかった。紗和の前には、まだ何も書かれていない白い紙がある。筆は硯箱の横へ置かれたままだった。紙の端には、岩倉が置いていった手続きの控えが重なっている。その一番上には、まだ榊原紗和という名が記されていた。佐伯は、しばらくその紙を見つめていたが、やがて静かに立ち上がった。「少し、お待ちください」そう言って廊下へ出る。紗和は、ひとり残された部屋で、指先を膝の上に重ねた。さきほどまで持っていた筆の感触が、まだ手に残っている。書こうとした。けれど、書けなかった。白藤紗和。その名を、まだ自分の手は知らない。しばらくして、佐伯が戻ってきた。手には小さな盆があり、湯気の立つ茶が載っている。香りは強すぎず、昼の静かな部屋にふさわしいものだった。「お茶を」「ありがとうございます」紗和は湯呑みを受け取った。指先に温かさが移る。胸の奥で固くなっていたものが、少しだけほどける気がした。佐伯は急かさず、少し離れたところに膝をついた。「佐伯さん」「はい」紗和は、湯呑みを両手で包んだまま、ぽつりと尋ねた。「白藤を名乗るということは……私は、榊原ではなくなるということなのでしょうか」佐伯は静かに紗和を見た。「父の娘ではなくなる、ということなのでしょうか」問いは、口にした瞬間、自分でも幼いと思った。けれど、胸の奥にあったのはその言葉だった。榊原家へ戻りたいわけではない。父にすがりたいわけでもない。それでも、榊原という名を離れることが、父の娘だった時間をすべて捨てることのように思えて、怖かった。佐伯は、すぐに否定しなかった。その沈黙が、紗和にはありがたかった。簡単に「違う」と言われても、きっと心は追いつかなかっただろう。やがて佐伯は、低く答えた。「白藤の名は、紗和様から榊原を奪うためのものではございません」紗和は顔を上げた。
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