朝の光は、まだ薄かった。障子越しに差し込む白い明かりは、部屋の隅まで届かず、畳の上に細く伸びて、箪笥の下で静かに途切れていた。榊原の帝都屋敷は、朝になるとよく冷える。磨かれた廊下も、きちんと拭き清められた柱も、どこか人の温もりを拒むような澄まし方をしていた。紗和は鏡台の前に座り、櫛を取った。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。寝乱れた髪を整え、襟元を直し、帯の締め具合を確かめる。特別に目立つ装いではない。薄い鼠がかった藤色の着物は、古びてはいないが、新しくもなかった。柄も控えめで、座敷の端にいても邪魔にならない色だった。華乃(かの)なら、きっと選ばない色だ。そう思ってから、紗和は櫛を動かす手を少しだけ止めた。比べるつもりはなかった。けれど、屋敷の中にいると、比べずにいられないものがいくつもあった。華乃の部屋には、新しい反物が届く。明るい色の帯が置かれる。美佐乃が選んだ髪飾りが、季節ごとに増えていく。女中たちは華乃の部屋へ入る時、声の高さまで変える。戸を開ける前に名を呼び、返事を待ち、笑い声をこぼしながら支度を手伝う。紗和の部屋にも、必要なものはある。箪笥、鏡台、文机、針箱。どれも壊れてはいない。畳も障子も破れていない。けれど、そこにあるものは、みな静かだった。人の手が足りないというより、人の心が残りすぎないように整えられている部屋だった。紗和は髪をまとめ、文机の引き出しを開けた。奥に、薄い布に包んだ簪がある。指先で布をほどくと、白藤の細工が朝の光を受けて、淡く浮かんだ。銀の地に、白い藤の花が小さく垂れている。派手な宝石は使われていない。遠目にはただの古い簪に見えるかもしれなかった。けれど近くで見ると、花びらの一枚一枚に細かな線が刻まれていて、先の細い房の揺れまで丁寧に作られていた。母のものだった。白藤千鶴。その名を心の中で呼ぶと、紗和の指先はいつも少しだけ固くなる。母の声を、紗和はもうはっきりとは思い出せない。抱き寄せられた腕の重さも、日ごとに遠くなる。けれど、ほんのわずかな記憶だけは残っていた。紙の匂い。乾いた木箱の匂い。母が何かを包む時の、迷いのない手つき。幼い紗和の髪を撫でる指が、いつも少し冷たかったこと。そして、母がこの簪を手に取る時だけ、横顔がやわらいだこと。白藤はね、強い花なのよ。いつ聞いた言葉だったのか、
Last Updated : 2026-06-07 Read more