All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 41 - Chapter 50

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40.白藤の門

馬車の窓の向こうで、町の灯りが少しずつ増えていった。有馬家を出た時にはまだ夕方の名残があった空も、今は藍色に沈みかけている。通りの店先には行灯がともり、暖簾を下ろす者、荷を片づける者、帳場へ急ぐ若い手代の姿が流れていく。紗和は、膝元の行李に手を置いたまま、その光景を見ていた。有馬家へ向かった時の馬車とは、まるで違う揺れだった。あの時は、認められなければならない場所へ向かっていた。父の言葉を背に受け、有馬家で居場所を得られるかもしれないと、心細い期待を抱いていた。今は違う。有馬家を出された。榊原家へも戻らなくてよいと言われた。そして、自分の知らない白藤という場所へ向かっている。不安がないはずはなかった。白藤宗一郎の遺言。白藤家の後継。千鶴様のお嬢様。白藤の血を引くお方。聞かされた言葉はどれも重く、まだ紗和の中で形を結んでいない。ただ、行李の奥にしまった白藤の簪だけが、その言葉たちと細い糸でつながっているように感じられた。「もう間もなくでございます」向かいに座る佐伯が、静かに告げた。紗和は小さくうなずいた。「はい」馬車が大通りから少し外れ、広い道へ入った。あたりは華やかな社交の町ではない。商家が並び、倉があり、荷を積んだ車が行き交う場所だった。夜の入口にもかかわらず、人の動きは途切れていない。ただし、騒がしいわけではなかった。荷を運ぶ者は荷を運び、帳面を抱えた者は足早に奥へ向かい、門前に立つ者は客と荷の出入りを見ている。誰も無駄に声を張り上げず、それでいて場全体が動いていた。紗和は、思わず窓に目を寄せた。「あれが……白藤家でございますか」馬車の先に、門が見えた。有馬家の門とは違っていた。石造りの重々しい門柱や、華族家らしい威圧感はない。けれど、門は大きく、木の扉はよく磨かれ、金具にも曇りがなかった。門の内側からは灯りが漏れ、人の
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41.白藤の夜

佐伯と岩倉は、部屋の前で深く頭を下げた。紗和は、行李を手にしたまま、まだ部屋の入口に立っていた。行灯の光はやわらかく、畳の上に淡い輪を落としている。文机も、鏡台も、寝具も、すでに整えられていた。初めて入る部屋なのに、そこには紗和を拒む冷たさがなかった。だからこそ、足がすぐには動かなかった。有馬家の奥向きで与えられた部屋は、いつでも紗和を外へ出せるような部屋だった。必要なものは揃っている。粗末ではない。けれど、そこに紗和がいることを誰かが望んでいる気配はなかった。この部屋は違う。派手ではない。華やかでもない。だが、文机の向き、鏡台の高さ、寝具の置き方、行李を置く場所まで、誰かが考えて整えたように見えた。それが怖かった。自分がここにいる理由を、まだ受け止めきれないからだった。「紗和様」佐伯が静かに呼んだ。紗和は、はっとして顔を上げた。「はい」「今夜は、何もお考えにならず、お休みくださいませ。宗一郎様のご遺志についても、白藤のことについても、明日あらためて順を追ってお話しいたします」岩倉も、穏やかに言葉を添えた。「書類のことも、今すぐお聞きになるには重すぎましょう。今夜はまず、お体を休めてください」「ですが」紗和は思わず言った。「私は、何も分からないまま、こちらへ」「はい」佐伯は、その言葉をそのまま受け止めた。「ですから、急がせることはいたしません。紗和様がご自分でお考えになれるよう、必要なことを一つずつお伝えいたします」ご自分で。その言葉に、紗和はまた胸を揺らした。榊原家では、家のために分かってくれる娘であることを求められた。有馬家では、有馬家にふさわしくなるために直され続けた。どちらの家でも、紗和が何を考えているかは、あまり問われなかった。ここでは、考える時間を与えると言われている。それが安堵なのか、不安なのか、紗和にはまだ分からなかった。
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42.封じられた遺言

目を覚ました時、紗和はしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。障子の向こうが白く明るんでいる。榊原家の朝とも、有馬家の朝とも違う光だった。どこか硬いのに、刺すような冷たさがない。薄い紙を通して入る朝の色は、部屋の中にあるものを一つずつ静かに浮かび上がらせていた。文机。硯箱。新しい筆。まだ誰の手にも折られていない紙。箪笥の取っ手。白藤の意匠が控えめに入った小箱。そして、文机の上に置いたままの簪。昨夜、紗和はそれを箱に戻さなかった。布に包むことも、行李の底へ隠すこともしなかった。ただ、そこに置いた。誰かに叱られるのではないか、朝になれば誰かが取り上げに来るのではないかと、眠る前には思っていた。だが、簪はまだそこにあった。白藤の花をかたどった小さな飾りが、朝の光を受けて淡く光っている。派手なものではない。けれど紗和には、胸の奥に残った細い糸のように見えた。起き上がると、寝具の布がわずかに音を立てた。その音にさえ、紗和は肩を震わせそうになる。有馬家の奥向きでは、少し物音を立てただけで、誰かの気配が廊下に近づくことがあった。襖の向こうから、滝乃の控えた声がしたこともある。奥様がお呼びです、と。ここでは、誰も入ってこなかった。廊下の方に耳を澄ませると、遠くで戸を開け閉めする音がした。人の足音もある。水を運ぶ気配、かすかな話し声、どこかで木箱を下ろす低い音。屋敷は眠っているのではなく、すでに動き出している。そのことが、紗和を少し落ち着かなくさせた。自分だけが、まだ昨日の中に取り残されているようだった。婚約破棄を告げられた座敷の畳の匂い。寿美子の整った声。貴臣の伏せられた目。君なら、一人でも生きていけるだろう、という言葉。紗和は膝の上で手を重ねた。生きていけるかどうかを、あの人は本当に考えたのだろうか。そう思いかけて、すぐに胸の奥を閉じた。考えたところで、昨日の座敷へ戻れるわけではない。あの門はもう背にした。有馬家へ戻る道も、榊原家へ戻る道も、今の紗和にはどちらも遠かった。遠いはずなのに、まだ足元に絡みついている。襖の
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43.継がれるもの

岩倉が開いた紙は、思っていたよりも静かだった。もっと重々しい音がするものだと、紗和はどこかで思っていたのかもしれない。封じられたものが開かれれば、座敷の空気が大きく揺れ、誰かの顔色が変わり、自分の足元も崩れるような気がしていた。けれど、実際に広げられた和紙は、ただ机の上に置かれているだけだった。古びてはいるが、よく保たれている。墨の色は少し落ち着き、紙の端には時を経た柔らかさがあった。折り目は正しく、乱れがない。何度も開かれた紙ではないことが、紗和にも分かった。岩倉は両手を揃え、遺言状へ一礼した。佐伯も、番頭たちも、座敷の端に控えるおしまも、同じように頭を下げた。紗和は一拍遅れて、慌てて頭を下げた。胸の奥が落ち着かない。自分だけが、何に頭を下げているのか分かっていないような気がした。白藤宗一郎という人の名にか。母の兄である伯父にか。それとも、これから自分の前に差し出される何かにか。顔を上げた時、岩倉の指が紙の端をそっと押さえていた。「それでは、白藤宗一郎殿のご遺言について、必要な箇所を読み上げます」座敷に、紙の匂いと墨の匂いが漂っていた。有馬家の座敷にも、墨や香の匂いはあった。けれどそれは、格式を整えるための匂いだったように思う。ここにある匂いは違う。手紙を書き、帳簿をつけ、印を押し、約束を残してきた匂いだった。岩倉の声は、低く、乱れがなかった。「白藤宗一郎は、白藤家の名跡ならびに白藤商会に属する一切の権利、財産、帳簿、証文、契約、商会印、その他これに付随する管理権限を、妹・白藤千鶴の娘、榊原紗和に継承させるものとする」紗和は、まばたきを忘れた。榊原紗和。自分の名が、そこにあった。誰かの口から呼ばれる名ではなく、叱責や命令の前に添えられる名でもない。紙に書かれている。宗一郎という、ほとんど知らないはずの人が、いつかこの場で読まれることを見越して、自分の名を残していた。膝の上の手に力が入った。岩倉は続ける。「白藤家本邸、帝都帳場、ならびにこれに付属
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44.帳簿と責任

紗和の言葉が落ちたあと、座敷はしばらく静かだった。誰かが息を呑む気配もない。叱る声も、慰める声も、すぐには降ってこなかった。その沈黙がかえって怖く、紗和は膝の上で握った手をほどくこともできなかった。自分には務まらない。言ってしまった。白藤宗一郎の遺言が開かれたばかりの席で。佐伯や岩倉、番頭たちが見守る前で。宗一郎が守り残したものを示されたその場で。紗和は、また間違えたのではないかと思った。有馬家なら、奥様はきっと眉をひそめた。己の分もわきまえず、与えられた立場に不満を申すのですか、と。榊原家なら、直清は困ったように笑い、紗和なら分かってくれると思ったのだが、と言っただろう。しかし、佐伯は叱らなかった。ただ、深く一礼した。「ご無理もございません」その一言に、紗和はかすかに顔を上げた。佐伯の声は穏やかだった。けれど、昨夜のように守るためだけの柔らかさではない。古い帳場の柱のように、手触りはなめらかでも芯は硬い。紗和はその硬さを感じた。「昨日まで有馬家におられたお方に、今朝すぐ白藤のすべてを背負えと申し上げるつもりはございません」佐伯はそこで、机の上に置かれた帳簿の一冊へ視線を落とした。「ですが、紗和様。白藤を継ぐとは、屋号を名乗ることだけではございません」紗和の喉が小さく動いた。佐伯は、帳簿に手を置いた。分厚い帳面だった。布張りの表紙は使い込まれており、角が少し丸くなっている。けれど乱暴に扱われた様子はない。何度も開かれ、閉じられ、必要な時に確かめられてきたものの古び方だった。「帳簿を見ることです。どの品が入り、どの品が出たか。誰がいつ支払い、誰がまだ支払えずにいるか。どの倉庫に何があり、どの納入先が何を待っているか。それを知ることです」佐伯の指が、帳簿の表紙から離れた。次に示されたのは、机の脇に置かれた小さな鍵束だった。黒ずんだ金属の輪に、大小いくつもの鍵が通されている。華やかな細工はない。だが、それを見た瞬間、紗和には冷たい重さが伝わってくるようだった。「こちら
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45.千鶴の手

部屋へ戻るまでの道のりを、紗和はよく覚えていなかった。佐伯が先に立ち、廊下を案内してくれたことは分かっている。途中、帳場の方から人の声が聞こえたことも、木箱を運ぶ低い音がしたことも、かすかに薬種の匂いが漂ってきたことも、どこか遠くのことのようだった。頭の中では、佐伯の言葉が何度も響いていた。白藤では、見なければなりません。目を閉じぬ方であっていただきたい。紗和は、今までずっと目を伏せてきたのだと思っていた。榊原家でも、有馬家でも、そうすることでしか一日を越えられなかった。見えていることを見えないふりをする。分かっていることを分からないふりをする。胸の奥にしまい、顔には出さない。それが自分の役目なのだと、いつの間にか思い込んでいた。けれど白藤では、目を伏せることの方が怖いと言われた。その言葉が、紗和の中でまだ落ち着く場所を見つけられずにいた。部屋に入ると、朝と同じ文机があり、同じ鏡台があり、同じ簪が机の上にあった。昨夜そこへ置いたはずのものが、昼の光の中で小さく静まっている。紗和はその前に座った。手を伸ばしかけて、やめる。簪に触れれば、母のことを思い出す。けれど、今思い出す母は、これまでの母とは違っていた。榊原家の奥で、静かに笑っていた母。体が弱くなってからは、白い手で紗和の髪を撫でてくれた母。簪を大切にしまっていた母。紗和が知っていた千鶴は、いつも榊原家の中にいた。そこから出た姿を、紗和は知らない。母が白藤家でどんな娘だったのか。どんな声で兄と話し、どんなふうに帳場へ入っていたのか。そんなことを考えたこともなかった。白藤の娘。その言葉が、母の姿の輪郭を少しずつ変えていく。紗和は膝の上に手を置いた。先ほどから指が冷たい。佐伯の前で震えていた手は、まだ完全には落ち着いていなかった。帳簿を見る手。紙をそろえる手。印を扱う手。母にも、そんな手があったのだろうか。襖の外で、控えめな声がした。「
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46.白藤の名を受け取る

夕方の光は、朝のものよりもやわらかかった。障子越しに差し込む色が、文机の上を薄く染めている。そこには、昼前からずっと置かれたままの白藤の簪があった。朝の光の中で見た時よりも、花の細工は静かに沈んで見える。けれど、紗和にはそれが弱くなったようには思えなかった。おしまの言葉が、まだ胸の中に残っていた。千鶴様のお手は、紗和様の中に残っておられます。紗和は、自分の手を見た。小さな頃、母に髪を結ってもらった記憶がある。優しく、けれど乱れを残さない手だった。痛くないように髪を梳きながら、結び目はきちんと整える。幼い紗和は、その手をただ母の手として覚えていた。今は、その手の奥に別のものが見える気がした。紙をそろえる手。品物を確かめる手。人の言葉を最後まで聞く手。帳場の端で、何かを静かに見ていた白藤の娘の手。母は、ただ榊原家で耐えていた女ではなかったのかもしれない。そのことを知っただけで、宗一郎の遺言の重さが消えたわけではない。白藤商会の屋号も、帳簿も、倉庫も、証文も、紗和にはまだ遠すぎる。自分がそれらを扱う姿など、少しも思い描けなかった。それでも、完全に自分とは無関係なものだとは言えなくなっていた。白藤は、母の名だった。そして、その母の手の癖が、自分の中に残っているのだとしたら。紗和は、机の上の簪へ手を伸ばした。指先で触れると、細工の冷たさが伝わってくる。有馬家では、この簪を隠した。布に包み、行李の奥へしまい、誰かに見つからないようにした。白藤の名を口に出すことさえ、胸の奥で息をひそめるようだった。だが、今は違う。まだ堂々と髪に挿せるほどの強さはない。白藤家の者たちの前で、これを身につけて立てるほど、自分の心は定まっていない。けれど、持って行きたいと思った。宗一郎の遺言の前へ戻るなら、母の形見をこの部屋に置いたままにはできなかった。紗和は簪を両手で包み、しばらく目を閉じた。逃げない。その言葉を胸の中で言ってみる。まだ頼りなかった。声にすれば、す
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47.小さな表店

遺言を受け取ってから、二日が過ぎた。その間、紗和は白藤家の中で休むようにと言われていた。けれど、ただ寝ているだけではなかった。おしまから母の話を少しずつ聞き、佐伯から白藤家の朝夕の決まりを教わり、岩倉が残していった書類の控えを眺めた。控えの中にある文字は、まだほとんど自分のものにはならなかった。屋号、帳簿、倉庫、債権、納入契約、証文。どの言葉も、紙の上ではきちんと並んでいるのに、紗和の胸の中では重なり合って、うまくほどけない。ただ、その言葉の向こうに人がいるのだと、佐伯に言われてからは、もうただの難しい字面として見られなくなっていた。朝の膳を終えたころ、佐伯が部屋へ来た。「紗和様。本日は、白藤商会の表を見ていただきたく存じます」紗和は膝の上で手を止めた。「表……ですか」「はい。帳簿や証文をご覧いただく前に、まずは白藤がどのような場所で商いをしているのか、目で確かめていただくのがよろしいかと」商会。その言葉だけで、紗和の胸はまた重くなった。遺言の中で告げられた白藤商会は、あまりに大きく聞こえた。屋号。倉庫。納入契約。帝都の学校や病院へ品を納める仕組み。証文箱に眠る約束の数々。紗和はまだ見たことのないものを、知らぬ間に頭の中で大きな建物のように思い描いていたのかもしれない。人の出入りが絶えず、大きな看板を掲げ、いくつもの店蔵が並ぶ場所。そこへ連れて行かれるのだと思うと、体の奥がこわばった。「私が伺って、邪魔になりませんか」そう尋ねると、佐伯はいつものように深く頭を下げた。「邪魔になることはございません。紗和様は、白藤を知るべきお方です」知るべき。その言葉には、もう驚かなくなってきた。けれど、胸が鳴ることには変わりない。紗和はゆっくり頷いた。身支度を整え、廊下へ出る。今日、紗和は白藤の簪を髪には挿さなかった。けれど、文机の小箱にしまい込むこともしなかった。布に包み、懐に近いところへそっと入れている。誰かに見せ
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48.帳場の奥

表店の奥へ足を踏み入れた瞬間、紗和は思わず息を止めた。表から見た白藤商会は、小さく控えめな店だった。古い看板も、磨かれた格子も、目立つためではなく、長くそこにあるためのものに見えた。だから、その奥にこれほどの広さが続いているとは思っていなかった。通路を抜けると、板敷きの広い帳場が開けていた。高い天井ではない。華族家の広間のように、畳を幾間も続けて客を圧するような造りでもない。けれど、奥行きがある。壁際には棚が並び、背表紙に札を貼られた帳簿が整然と収められている。中央には低い机がいくつも置かれ、番頭、手代、丁稚らしい若い者までが、それぞれの持ち場で手を動かしていた。誰も大声を上げていなかった。それなのに、帳場は静まり返ってはいない。紙がめくられる音。算盤の玉が小さく鳴る音。筆が紙を走る音。荷札の紐をそろえる音。木箱の蓋が静かに置かれる音。短い確認の声と、それに応じる返事。それらが重なり合って、ひとつの流れになっていた。紗和は、足を止めた。忙しい、という言葉では足りなかった。人がただ慌ただしく動いているのではない。ひとつひとつの動きに場所があり、順があり、次に渡す相手がいる。机から机へ、帳簿から荷札へ、荷札から木箱へ、目に見えない糸が張られているようだった。秋山が少し横に立ち、声を低くした。「こちらが、白藤の帳場でございます」紗和は頷こうとしたが、うまく動けなかった。帳場。遺言で聞いた言葉。佐伯から、白藤を継ぐなら見なければならないと言われた場所。けれど、紙の上で聞くのと、実際にその場へ立つのとではまるで違った。棚に並ぶ帳簿の数が、紗和の目を圧した。分厚いもの、細いもの、日付ごとに綴られたもの。表紙の色も、札の書き方も少しずつ違う。机の上には筆と硯、砂を入れた小さな器、印箱、控え紙が置かれている。奥では、若い手代が紙束を数え、別の男が荷札に細い筆で行き先を書いていた。そのすべてが、何かにつながっている。紗和にはまだ、そのつながりが見えない。佐伯が半歩後ろから言った。
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49.倉庫の匂い

帳場の奥へ続く通路は、思っていたよりも長かった。表店から帳場へ入った時にも、紗和はすでに白藤商会の奥行きに驚かされていた。けれど、その帳場のさらに向こうに、また別の空気があるとは思っていなかった。秋山が先に立ち、帳場の机の間を抜ける。手代たちは筆を止めず、算盤を弾く指も止めない。ただ、紗和が通ると、わずかに身を引き、静かに頭を下げる。その一つ一つの礼に、紗和はまだ慣れなかった。自分は何もできない。帳簿の一行を見て、紙の量の違いに気づいただけだ。それだけで、白藤の者たちが向ける礼を受ける資格があるとは思えない。だが、佐伯は何も言わず、紗和の少し後ろを歩いていた。急かさない。けれど、戻る道を示すわけでもない。通路の先で、秋山が木戸の前に立った。太い梁の下に、頑丈そうな戸がある。戸の横には、小さな札がいくつも掛けられていた。紙、薬種、衛生、官、学校、屋敷向き。紗和にはすべての意味までは分からなかったが、それぞれの札が、場所を分けるためのものだということは分かった。秋山は戸の脇にいた男へ声をかけた。「芳蔵、紗和様をご案内する」倉庫番らしき男が、すぐに背筋を伸ばした。四十代ほどだろうか。日に焼けた顔に、無駄のない動きがある。着物の袖は短くまとめられ、手には木箱を扱う者らしい硬さが見えた。「かしこまりました」男は深く頭を下げた。「倉庫番をしております、芳蔵にございます」紗和も頭を下げかけ、途中で迷った。どこまで下げてよいのか分からない。相手は紗和へ礼をしている。けれど、年長の働き手へ何も返さないことはできなかった。「榊原紗和です。どうぞ、よろしくお願いいたします」芳蔵は一瞬だけ目を瞬いたように見えた。だがすぐに、さらに丁寧に頭を下げた。「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」その言葉が、紗和の胸をまた落ち着かなくさせた。よろしくお願いするのは自分の方だと思った。何も知らず、何もできず、ただ見せてもらうだけの自分の方が。秋山が戸を開ける。途端
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