All Chapters of 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします: Chapter 101 - Chapter 104

104 Chapters

101.遅すぎた謝罪

貴臣は、何から言えばよいのか分からなかった。廊下の窓から、午後の光が差している。応接室の中にあった重い空気とは違い、ここには庭からの薄い明るさがあった。障子越しに木々の影が揺れ、どこか遠くで人の足音が一度だけ聞こえて、また静かになる。声を荒げるには、あまりに静かな場所だった。そして、言葉を誤るには、あまりに遅すぎる場所だった。貴臣は、目の前に立つ紗和を見た。白藤紗和。そう呼ぶべき人なのだと、先ほど応接室で思い知らされたばかりだった。父が筆跡を否定できなかった証文。白藤商会の帳簿。先代の礼状。有馬家が、白藤家に助けられていたという事実。それらは、貴臣がこれまで見ようとしなかったものを、いくつも照らし出した。白藤という名。紗和が大切にしていた簪。母が軽んじたもの。自分が守らなかったもの。紗和は、静かに立っていた。かつて有馬家の奥で見ていた彼女とは違う。あの頃の紗和は、いつも一歩引いていた。母の言葉を受け、使用人たちの視線を受け、自分が何を言えるのかを測るように、静かに目を伏せていた。今も静かではある。けれど、伏せてはいない。貴臣はそのことが、胸に痛かった。「紗和さん」もう一度名を呼んだ。紗和は答えない。ただ、こちらを見ている。その目は冷たいわけではなかった。けれど、かつてのように貴臣の言葉を待って揺れる目ではない。有馬様。先ほどそう呼ばれた時、貴臣は自分の立っている場所を知らされた気がした。婚約者ではない。彼女の味方であったこともない。白藤家の主に対する、有馬家の嫡男。その距離が、たった一言で置かれた。「僕は……」声が詰まった。謝らなければならない。そう思っていた。応接室で証文を見た時から。父が先代の筆跡を認めざるを得なかった時から。礼状の文面を聞いた時から。いや、
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102.優しい言葉だけでは

紗和は、貴臣の謝罪を最後まで聞いた。廊下には、午後の光が静かに差していた。障子越しに見える庭の木々は、風に揺れている。応接室の扉は少し離れたところにあり、その向こうではまだ岩倉と有馬忠成が低い声で言葉を交わしている気配があった。けれど、この場所だけは別の静けさに包まれていた。貴臣は、紗和の前で頭を下げた。以前にも、彼は謝ったことがある。有馬家の座敷で、婚約破棄を告げられたあの日。寿美子の言葉がすべて終わったあと、貴臣は苦しそうな顔で「すまない」と言った。まるで自分も傷ついているのだと伝えるように。けれど、あの時の謝罪は紗和を守るものではなかった。今日の謝罪は、それとは違う。貴臣は、自分の弱さを言葉にした。母に逆らえなかったこと。紗和が傷ついていると分かっていたこと。分かっていながら、止めなかったこと。守らなかったこと。それを聞いて、胸が痛まないわけではなかった。紗和は、ゆっくり息を吸った。貴臣は悪人ではなかった。それは、紗和にも分かっている。彼は寿美子のように、紗和を真正面から見下す言葉を投げたわけではない。紗和の母の形見を取り上げようとしたわけでもない。わざと紗和を苦しめて楽しんだわけでもない。有馬家にいた頃、貴臣は時折、優しい言葉をかけてくれた。疲れていないか、と聞いたこともある。母上も悪気があるわけではない、と困ったように笑ったこともある。紗和が言葉を飲み込んでいると、申し訳なさそうな顔をしたこともあった。その顔に、紗和は何度も縋りかけた。貴臣様だけは分かってくださるのではないか。いつか、寿美子の前で自分の側に立ってくれるのではないか。この人がいるなら、有馬家でもやっていけるのではないか。そう思おうとした日が、確かにあった。だからこそ、痛かった。優しい顔をしているのに、守ってはくれない。苦しそうにしているのに、選んではくれない。謝ってくれるのに、何も変えてはくれない。
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103.奥様の沈黙

寿美子は、応接室の扉の内側で、しばらく動けずにいた。机の上には、つい先ほどまで証文と帳簿と礼状が並んでいた。岩倉正倫が確認の記録を整え、有馬忠成が低い声で今後の返答について応じている。佐伯源蔵は白藤家の証文箱を閉じ、書類の順を乱さぬよう、静かに確かめていた。すべてが、丁寧だった。その丁寧さが、寿美子には耐えがたかった。誰も有馬家を罵らなかった。声を荒げる者もいなかった。白藤紗和も、勝ち誇った顔などしていなかった。ただ、紙が示され、筆跡が確認され、礼状が読まれた。それだけだった。それだけで、有馬家は白藤家を見下す言葉を失った。寿美子は、扇を持つ指に力を込めた。力を入れすぎていることに気づき、すぐに緩める。扇の骨が鳴れば、動揺を見せることになる。ここは有馬家の奥座敷ではない。女中たちが寿美子の気配を読んで動く場所でもない。岩倉が整えた、記録を扱うための場だった。寿美子の沈黙を、誰も慰めてはくれない。扉の外から、かすかに声が聞こえた。貴臣の声だった。寿美子は、反射的に顔を上げた。「紗和さん」その呼び方が、扉越しにも聞こえた気がした。寿美子の胸の奥で、鋭い苛立ちが動く。貴臣が、紗和を追った。確認の席が終わるや否や、母である寿美子のそばにいるのではなく、父の横に控えるのでもなく、白藤紗和を追って廊下へ出た。以前なら、すぐに止めただろう。貴臣、と呼んだはずだった。あるいは、扇の陰から紗和へ向けて言ったかもしれない。いまだに貴臣に未練がおありなの。白藤の名を得たからといって、有馬家の嫡男に近づくのはお控えなさい。有馬家を出た方が、今さら何を望むのです。言葉はいくつも浮かんだ。かつてなら、それらは自然に口から出た。声を荒げる必要などなかった。寿美子は、穏やかな笑みと整えた言葉だけで、紗和を一歩下がらせることができた。榊原家から来た、前妻の娘。商家の血を引き、有馬家に迎えられる立場をわきまえるべき娘。
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104.有馬家の沈黙

応接室の扉が、再び開いた。紗和は廊下の途中で足を止めた。先ほど貴臣と向き合った窓辺から、ほんの数歩進んだところだった。障子越しの午後の光は、少し傾きを増している。廊下の木目に沿って長く伸びた影が、応接室の扉の前まで届いていた。出てきたのは、有馬忠成だった。その顔には、深い疲労があった。応接室へ入ってきた時の、華族当主としての整えられた顔とは違う。先代の筆跡を見、証文を見、礼状を見、有馬家の名が白藤の記録の中に残っていることを受け止めた男の顔だった。けれど、崩れてはいなかった。忠成は廊下へ出ると、一度だけ息を整えた。それから紗和の方へ向き直る。寿美子は、その少し後ろにいた。扇を持つ手はまだ硬い。顔には形だけの落ち着きが戻っているが、目の奥にあった高慢な光は、以前のようには立っていなかった。何かを言いたそうで、しかし言えば自分の立場をさらに損なうことを知っている顔だった。貴臣はさらに後ろに立っている。先ほどの廊下での会話の余韻を、まだ抱えたままのようだった。紗和を見る目に、言葉にならないものが浮かんでいる。けれど彼もまた、何も言わなかった。有馬家の三人が、同じ廊下にいる。紗和は、その前に立っていた。かつて有馬家の座敷で、自分は言葉を飲み込んでいた。寿美子に何を言われても、貴臣が何も言えなくても、忠成が重く沈黙していても、自分だけが声を小さくし、目を伏せ、場を乱さぬようにしていた。今は違う。黙っているのは、有馬家の方だった。忠成は、紗和の前で足を止めた。「白藤様」その呼び方に、紗和の胸がかすかに震えた。榊原紗和ではない。貴臣の元婚約者でもない。白藤家の主として、呼ばれている。忠成は、ゆっくりと頭を下げた。深くへりくだる礼ではない。華族当主としての体面を残した、抑えた礼だった。けれど、それは先ほど応接室へ入る時の形式的な挨拶とは違っていた。白藤家の記録を確認した後の礼。有馬家が、白藤家へ向き合うための礼。
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