جميع فصول : الفصل -الفصل 70

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60.白藤が支えた家々

清彬が茶を置いたあと、応接の間にはしばらく静かな間が落ちた。帳場の方からは、変わらず紙の音が聞こえている。算盤の玉が弾かれる音、誰かが低く品名を確認する声、荷札を束ねる紐の音。そのどれもが、紗和には先ほどよりも少し遠く感じられた。目の前に座る清彬は、穏やかだった。有馬家の者のように、こちらを測る視線ではない。紗和の傷を覗き込むような同情もない。ただ、白藤商会の場に座り、白藤の者として紗和に向き合っている。それが、紗和にはまだ不思議だった。華族であるというだけで、身体は身構える。寿美子の声や、有馬家の座敷の冷たさは、理屈より先に身体へ残っている。けれど、清彬はその記憶と同じ場所にはいなかった。それでも、完全に気を許すことはできない。紗和は湯呑みの縁に目を落とした。茶の水面に、障子越しの光が小さく揺れている。清彬は、急がずに口を開いた。「紗和様。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」その声は変わらず静かだった。だが、部屋の空気が少し引き締まった。佐伯がわずかに顔を上げる。秋山は帳場との境に控えたまま、視線だけをこちらへ向けた。おしまは下がっていたが、廊下の向こうに気配がある。紗和は、湯呑みから手を離した。「はい」返事をしたものの、胸の奥が固くなる。何を問われるのだろう。有馬家のことか。婚約破棄のことか。榊原家へ戻らず白藤へ入ったことか。どれも、まだ他人から問われるには痛すぎる。けれど清彬は、すぐにその名を出さなかった。「詳しい事情を、私が知る立場にはありません」紗和は、少し目を上げた。清彬の表情は落ち着いている。好奇心で探る顔ではなかった。むしろ、踏み込む場所を慎重に選んでいるように見える。「宗一郎殿の遺言の内容も、白藤家の帳簿や証文の中身も、私が尋ねるべきことではないでしょう。それらは、白藤の内側に属するものです」紗和は息を止めた。その言葉に、胸の奥の警戒が少し違う形に変わる。
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61.父君に何を見せたいのですか

清彬の問いは、静かに置かれたまま、しばらく部屋の中に残っていた。白藤が支えた家々に、どう向き合うのか。紗和は、その言葉を胸の中で何度もなぞった。答えは出ない。出るはずもなかった。榊原家と有馬家の名を聞いただけで、胸の内側は別々の方向へ引かれる。有馬家に対しては、怒りがある。それは分かっていた。寿美子の声、貴臣の伏せられた目、母の形見を否定された時の冷たさ。あの家を思い出すと、胸の底に硬いものが沈む。もう戻りたいとは思わない。分かってほしいとすら、今は思えない。ただ、あの家が白藤を軽んじたことだけは、そのままにはしたくなかった。けれど、榊原家は違った。父の顔が浮かぶと、言葉が止まる。その沈黙を、清彬は見ていた。「紗和様」穏やかな声だった。けれど、紗和は思わず身構えた。清彬は、少しも声を荒げていない。責めてもいない。それなのに、次の言葉が深いところへ届くことを、紗和の身体は先に知っているようだった。「父君を罰したいのですか」紗和は顔を上げた。息が止まる。父君。直清のことを、清彬はそう呼んだ。「それとも」清彬の視線は逸れない。「父君に、何を見せたいのですか」その問いは、鋭すぎた。紗和は、とっさに答えようとして、何も言えなかった。唇だけがわずかに開き、声にならない息がこぼれる。清彬は、何も知らないはずだった。直清が、紗和なら分かってくれるなと言ったことも知らない。美佐乃が、華乃を守るために紗和を有馬家へ差し出すよう促したことも知らない。華乃が、自分の望みを通すためにどれほど無邪気に紗和へ寄りかかったかも知らない。知らないはずなのに。なぜ、その問いになるのだろう。父を罰したいのか。父に何を見せたいのか。紗和の胸の奥で、閉じ込めていたものが揺れた。直清は、紗和を怒鳴りつける父ではなかった。乱暴な言葉を投げる人でもなか
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62.刃を抜く相手

清彬は、それ以上すぐには言葉を重ねなかった。応接の間には、夕方の光が少しずつ入り始めていた。障子越しの明るさは昼前よりも弱くなり、帳場の奥に置かれた灯りの色が、畳の縁に淡く映っている。外の帳場の音も、わずかに変わっていた。朝や昼前のような絶え間ない忙しさではない。まだ筆の音はする。算盤の玉も鳴る。けれど、荷札を束ねる音や木箱を動かす音は少し減り、一日の終わりへ向けて、白藤商会全体が静かに呼吸を整え始めているようだった。紗和は、膝の上で指を重ねていた。父に何を見せたいのか。その問いが、まだ胸の奥に刺さっている。父を罰したいのか。見せたいのか。謝らせたいのか。母の名を認めさせたいのか。自分が華乃の代わりではなく娘だったと、今さらでも見てほしいのか。どれも答えのようで、どれもまだ足りなかった。清彬は、紗和が言葉を探すのを待っていた。急かさない。代わりに答えを言わない。慰めもしない。その沈黙が、苦しかった。けれど、有馬家で味わった沈黙とは違った。あの家の沈黙は、紗和が間違えるのを待つ時間だった。寿美子の前で、紗和が何を言っても足りず、何も言わなければ気が利かないとされる時間。清彬の沈黙は、紗和が自分の内側を見るために置かれている。それが分かるからこそ、逃げられなかった。やがて清彬が言った。「白藤の名で動くなら、刃を抜く相手と、頭を下げさせて留める相手を見分けなければなりません」紗和は顔を上げた。刃を抜く相手。頭を下げさせて留める相手。言葉の意味はすぐには掴めなかった。けれど、その重さだけは胸に落ちた。清彬は、静かに続けた。「相手を潰すために証文を使うのか。相手に事実を認めさせ、そこで留めるのか。あるいは、白藤の信用を守るために、表へ出すところまで進めるのか。どれを選ぶかで、同じ記録の意味は変わります」紗和は、昼間見た証文箱を思い出した。榊原家の帳簿。有馬家の証文。先代有馬子爵
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63.問いの残る朝  

朝の光が障子を白く染めていた。紗和は目を覚ましてから、しばらく起き上がれずにいた。白藤家の部屋は静かで、文机も鏡台も昨夜のまま整っている。けれど胸の内だけが、少しも落ち着かなかった。清彬の言葉が残っていた。父君を罰したいのですか。それとも、父君に何を見せたいのですか。刃を抜く相手と、頭を下げさせて留める相手を見分けなければならない。声は静かだった。責められたわけではない。慰められたわけでもない。ただ、逃げ場のない問いだけが、紗和の胸に残っている。清彬は、紗和が受けた仕打ちの細部を知らない。寿美子が、白藤の簪をどのような目で見たのか。直清が「お前なら分かってくれるな」と言った時、紗和がどれほど傷つき、それでも父に必要とされたのだと思おうとしたのか。美佐乃の言葉も、華乃の無邪気さも、清彬は知らない。知らないのに、迷いの中心に触れた。それが苦しかった。紗和は文机の上の白藤の簪に触れた。冷たい花の細工が、指先に静かに当たる。有馬家には怒りがある。母の名を侮られたこと。白藤を商家として見下されたこと。貴臣が最後まで自分を守らなかったこと。その怒りは、冷たく形を持っている。けれど榊原家は違う。怒りはある。母の名を薄く扱い、白藤に支えられながら、紗和を華乃の身代わりにした。そのことは許せない。それでも父の顔を思い出すと、怒りはまっすぐに伸びなかった。父に苦しんでほしいのか。事実を知ってほしいのか。母の名を軽く扱ったことを認めてほしいのか。自分が華乃の代わりではなく、娘だったのだと見てほしいのか。どれも胸にある。けれど、どれか一つだけではなかった。支度を終えるころには、紗和は一つだけ決めていた。もう一度、証文を見なければならない。前に見た時は、何が残っているのかを知るだけで精いっぱいだった。榊原家の名、有馬家の名。それらが白藤の古い紙の中にあることを受け止めるだけで、胸がいっぱいだった。
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64.情と記録

証文を保管している部屋へ向かう廊下は、帳場のすぐ奥にあるのに、空気が少し違っていた。表店や帳場には、人と品が動く気配がある。紙をめくる音、算盤の音、手代たちの低い声、荷札をまとめる紐の音。白藤商会が今も生きているのだと分かる音だった。けれど、その奥の戸を開けると、音は急に遠くなる。佐伯が鍵を差し、古い戸を静かに開いた。中から流れてきたのは、乾いた紙と木箱の匂いだった。古い墨、封の糊、長く閉じられていた和紙。紗和はその匂いを吸い込み、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。以前この部屋に入った時、紗和はただ怖かった。榊原家の名。有馬家の名。母の名。先代子爵の署名。礼状。紙の中に、自分が知らなかった過去が眠っていた。見るだけで、胸がかき乱された。怒りも痛みも、まだ区別できなかった。だが今日は違う。何が残っているかを知るためだけに来たのではない。それを、どう扱うべきか考えるために来た。部屋の奥には、岩倉がすでに座っていた。紗和を見ると、静かに一礼する。「紗和様」「岩倉先生。お時間をいただき、ありがとうございます」紗和も頭を下げた。岩倉は穏やかに首を振った。「証文について考える場であれば、私も同席すべきでしょう」その言葉で、部屋の重さがいっそう増した。佐伯は、棚の前へ進んだ。そこには、以前見た帳簿箱と証文箱が並んでいる。榊原、有馬。その名のついた箱もある。紗和はその札を見ただけで、喉の奥がわずかに固くなった。佐伯は、すぐに箱を開けなかった。「本日は、一つ一つの中身を詳しく見るためではございません」紗和は頷いた。「はい」「まず、白藤がなぜこれらを残してきたのか。そのことを、お話し申し上げます」佐伯の声は、いつもより低かった。責めるためでも、慰めるためでもない。白藤の古い家風を、紗和へ渡そうとしている声だった。「白藤家は、困った相手を見捨てる家ではございませんでした」佐伯は、証文箱の一
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65.証文を出す重さ

岩倉は、証文箱の前に置かれた控えを一枚、静かに整えた。その手つきには、佐伯とは違う慎重さがあった。佐伯が白藤家の内側を守る者の手なら、岩倉の手は、紙を世の中へ出す時の重さを知る者の手だった。紗和は、その手元を見つめていた。先ほど佐伯から、白藤家が証文を残してきた理由を聞いた。情をかけることと、記録を残すことは矛盾しない。白藤は支える。けれど、消させない。その言葉は、紗和の胸にまだ残っている。けれど、残すことと、使うことは同じではない。岩倉は、まさにその境目を示すように口を開いた。「紗和様。証文は、ただ相手へ突きつければ済むものではございません」紗和は背筋を伸ばした。「はい」「相手が事実を認めるなら、話は早うございます。ですが、相手が認めぬ場合、証文一枚だけで押し切れるとは限りません」岩倉の声は落ち着いていた。冷たくはない。けれど、感情を慰めるための柔らかさもない。紙を扱う者として、必要なことを一つずつ置いていく声だった。「証人、控え、帳簿、礼状、当時の出納記録、立会人の記憶。そうしたものを合わせて示して、初めて逃げ場のない形になります」紗和は、証文箱を見た。そこには榊原家や有馬家に関わる紙がある。だが、それは一枚だけで独り歩きするものではないのだ。帳簿の行、受領の控え、礼状、印、書かれた日付。それらがつながって、ようやく事実を支える。帳場で学んだことに似ていた。帳簿の数字だけでは足りない。荷札だけでも足りない。倉庫の品と照らし合わせ、出荷の控えを残して、初めて白藤の仕事になる。証文もまた、同じなのかもしれない。「有馬家のような華族家を相手にするなら、なおさら場の形式が重要になります」有馬。その名に、紗和の指先が小さく固まった。岩倉は続ける。「白藤商会が怒りに任せて押しかけたように見えれば、たとえ記録が正しくとも、世間は別の見方をいたします。商家が華族家へ無礼を働いた、と言われる恐れもある」
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66.有馬には刃を

岩倉の言葉が、証文保管の部屋に静かに残っていた。証文を出すとは、相手だけでなく白藤もまた表へ出ること。その重さを聞いたあとで、紗和は机上に置かれた有馬家の控えを見つめていた。黒塗りの箱から取り出された紙は、以前見た時と同じもののはずだった。先代有馬子爵の名。返済猶予の覚書。礼状。立替の控え。けれど、今は少し違って見える。初めて見た時、紗和はただ衝撃を受けた。有馬家が白藤に救われていたこと。その有馬家が、白藤を商家として見下したこと。その矛盾に、怒りが胸の底で冷えていった。今は、その怒りの向こうを見なければならなかった。この紙を、どう使うのか。紗和は、礼状の写しへ目を落とした。白藤への感謝。有馬家の体面を守ってくれたことへの礼。すべてを読み返す必要はない。そこに何が書かれているかは、もう知っている。有馬家は、白藤に助けられていた。その事実は消えない。それにもかかわらず、寿美子は白藤を侮った。母の形見を、有馬にふさわしくないもののように見た。千鶴の名を、商家の名と結びつけて下に置いた。貴臣もまた、止めなかった。優しい顔をしていた。柔らかい声で紗和に話しかけた。だが、最後には母の側に立ち、紗和へ謝ることしかできなかった。君なら、一人でも生きていけるだろう。その言葉を思い出しても、もう胸が揺れることは少なかった。ただ、静かに冷えた怒りが残る。あの家は、紗和を捨てたのではない。白藤を侮ったのだ。母の名を踏みにじったのだ。「有馬家については」佐伯が口を開いた。紗和は顔を上げた。「白藤家として、正式に確認を求める必要があると存じます」その声は落ち着いていた。怒りはない。けれど、迷いもなかった。「確認……」「はい。先代有馬子爵の証文、返済猶予の覚書、礼状、立替記録。これらについて、当代の有馬忠成様に確認の場を求めます」有馬忠成。有馬家の当主の名が、紙の上ではなく現実の
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67.榊原には事実を

有馬家の証文が布の上へ戻されたあと、部屋にはしばらく沈黙が残った。紗和は、まだ胸の奥に冷えたものを抱えていた。有馬家には、正式に記録を示す。白藤を侮ったことを、なかったことにはさせない。その方針を口にしたことで、怒りは少しだけ形を得た。だが、その形は鋭かった。刃を抜く相手。清彬の言葉が、また胸に戻る。有馬家については、その言葉を受け止められた。怖さはある。けれど、迷いは少ない。あの家には、白藤の記録を正式に示す必要がある。問題は、榊原家だった。佐伯が別の帳簿箱を机上へ置いた。古い桐箱。薄くなった墨で記された榊原の名。紗和は、その文字を見ただけで、胸の中の熱が別の痛みに変わるのを感じた。有馬の名を見た時とは違う。そこには、怒りだけではないものが混じっていた。佐伯は箱を開け、必要な控えだけを静かに並べた。母・千鶴の嫁入りに関わる記録。榊原家の体面を支えるために白藤が用立てた記録。細かな内容を一つ一つ読み返さなくても、紗和にはもう分かっている。榊原家も、白藤に支えられていた。その事実は消えない。紗和は、古い紙を見つめた。母の名がある。榊原の名がある。父の家の印がある。母が嫁いだ家。紗和が生まれ育った家。美佐乃が奥を取り仕切り、華乃が大切にされ、紗和がいつも一歩退いていた家。その家の体面の下に、白藤の支えがあった。「榊原家についても、同じように正式確認を求めることは可能でございます」岩倉が静かに言った。「記録の形は異なりますが、白藤が支えた事実を示すことはできます」紗和は頷いた。「はい」可能なのだろう。有馬家と同じように、書状を送り、記録を示し、榊原家に頭を下げさせることはできるのかもしれない。白藤に支えられていた事実を突きつけ、美佐乃の言葉を覆し、華乃が当然のように受け取っていたものの根を示すこともできる。けれど、それを考えた
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68.主の判断

夕方の光が、奥座敷の障子を淡く染めていた。机の上には、二つの家の記録が置かれている。有馬家に関わる証文の控え。榊原家に関わる支援記録の控え。どちらも古い紙の匂いをまとっているのに、紗和の胸へ届く重さはまるで違っていた。有馬家の記録を見る時、胸にあるのは冷えた怒りだった。白藤を商家として侮った家。母の名を踏みにじった家。紗和を有馬家にふさわしくない娘として退けた家。その家が、かつて白藤に体面を守られていた。その事実は、認めさせなければならない。一方で、榊原家の記録を見る時、胸にあるのは痛みだった。母が嫁いだ家。紗和が生まれ育った家。白藤に支えられながら、母の名を薄く扱い、紗和を華乃の身代わりにした家。許せない。けれど、すぐに潰したいとは思えない。それが弱さなのか、情なのか、紗和にはまだ分からなかった。ただ、清彬の問いと、佐伯の言葉と、岩倉の説明を聞いたあとでは、もう感情のままに一つの刃へまとめることはできなかった。奥座敷には、佐伯、岩倉、秋山がそろっていた。佐伯は紗和の正面に控え、岩倉は文書を整えるための紙と筆を前に置いている。秋山は少し下がった位置に座り、帳場側の控えを抱えていた。皆が、紗和の言葉を待っていた。紗和は、膝の上で手を重ねた。指先は少し冷たい。喉も乾いている。白藤商会の主として命じるなど、まだ自分には遠すぎることのように思えた。けれど、誰かに代わってもらうわけにはいかなかった。これは、紗和が決めなければならないことだった。「有馬家については」声が少し震えた。それでも、佐伯も岩倉も秋山も、急かさなかった。紗和は息を整え、もう一度言った。「有馬家については、白藤家として正式に確認を求める書状を用意してください」佐伯の目が静かに紗和を見ている。「相手は、寿美子様ではなく、当主である有馬忠成様です。感情的な抗議ではなく、先代有馬子爵と白藤家の間に残る記録について、当主に確認を求める形にしてくださ
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70.榊原という名

岩倉の説明が終わったあと、紗和は自室へ戻った。帳場では、いつも通り紙と筆の音がしていた。けれど、紗和の耳には少し遠かった。白藤商会は動いている。有馬家への書状も、榊原家への通告も、少しずつ形になっている。その中で、自分の名もまた変わろうとしている。部屋へ入ると、文机の上には岩倉が残していった控えが置かれていた。名跡に関する手続きの下書き。白藤家の印に関わる控え。宗一郎の遺言の写し。そして、紗和が確認するために置かれた一枚の紙。そこには、まだこう書かれていた。榊原紗和。紗和は、その文字の前で立ち止まった。これが最後になるのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥が思いがけず痛んだ。榊原という名に、温かい思い出だけがあるわけではない。むしろ、痛みの方が多い。母を亡くしたあと、榊原家の中で紗和の場所は少しずつ狭くなっていった。美佐乃の前では、一歩引くことを覚えた。華乃には、姉として譲ることが当然になった。家の空気が乱れないように、紗和が先に我慢する。華乃が泣かないように、美佐乃の機嫌が損なわれないように、父が困らないように。そうやって過ごすうちに、紗和は榊原家の娘でありながら、いつも家の端に置かれているようになった。父の直清は、紗和を怒鳴る人ではなかった。それが、かえって今も胸に残っている。幼い頃、熱を出した時に様子を見に来てくれたことがある。母を亡くして間もない頃、寂しい思いをさせたなと、困ったように笑ったこともある。紗和はその小さな優しさを、長く胸の中で大切にしていた。父は自分を嫌っているわけではない。そう思いたかった。けれど父は、紗和を守らなかった。有馬家との縁談の時も、そうだった。華乃が嫌がった縁を、紗和へ回した。父は荒々しく命じたわけではない。むしろ、いつもの穏やかな声で言った。お前なら分かってくれるな。その言葉を思い出すたび、紗和の胸はまだ痛んだ。あの時、自分は傷ついた。けれど同時に、父に必要とされたのだと思おう
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