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All Chapters of 呼吸が出来る場所: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

1-1

 小泉陽翔(こいずみはると)は、キッチン用品メーカー〝マドカ〟に勤めて三年目になる。 今日も、陽翔の企画は通してもらえなかった。 否── 陽翔の企画は、企画会議の議題にすら上がらなかった。「神谷さん! なんで僕の企画、通してくれなかったんですか? 今回は、まあまあ良いって言ってくれたのに!」 会議室を出たところで、陽翔は上司の神谷悠真(かみやゆうま)に声を掛ける。「まあまあ良いとは言ったが、通すとは言ってないだろう」 しれっと躱される。「でも先日、良いと言ったら通してやるって……」「そうだ。良いと言ったら通してやると言った。〝まあまあ〟じゃ駄目だ」 そう言い置いて、神谷はオフィスに戻っていってしまった。(くそ! 騙された!) だがこれは、いつものことだ。 アルファの中でも〝より優れたアルファ〟と評される神谷は、陽翔と同期なのに既にスーパーバイザーとなっている。 勤続三年目。 オメガの陽翔は、未だ一度も企画が通ったことがない。 廊下を、オフィスへと戻っていく同僚たちが、陽翔をクスクス笑いながら去っていく。 それもまた、いつものことだ。(これが、アルファとオメガの差……か) そんなことは考えたくない。(雇用均等とか、オメガの社会進出とか、政府は言うけど……) 周りの同僚や社員が囁く陰口で、その〝差〟は常に話題に上る。「神谷さんに敵うわけないのに」「季節毎に一週間、特別休暇もらってる〝オメガ様〟が、一端に仕事出来るんですかね?」 色濃いオメガ差別の前に、苛立ちが募った。(それにしても、ムカつくっ!) 負けん気の強い陽翔は、ガッつと壁面を蹴った。
last updateLast Updated : 2026-06-10
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1-2

 退勤時間になっても、陽翔はパソコンの画面を睨みつけていた。(僕の企画、却下したくせに!) 今日の企画会議で、神谷が提案していた企画の中には、以前に陽翔が出した企画の草案が使われていた。 体の小さい、女性やオメガ向けの補助機能の提案。 しかし、神谷のそれは〝体格差のあるカップルでも使いやすい〟をコンセプトにしていて、ユーザーへのアピールが良くなっていた。(なにが〝ふたりのサイズで、ひとつのキッチン〟だよ!) キャッチコピーに上層部は絶賛の嵐で、すんなりと商品化されるのが目に見えるようだ。(僕のより洗練されてるのが、なおさら気に障るぅ!) 弱者層にアピールする陽翔の案よりも、それを購買層へのアプローチにまで広げた神谷の発想が評価されるのは当然だ。 そこに気付けなかった、自分が悔しい。 ちらと目をやると、指示を出す神谷に向かって、熱っぽい視線を送っているベータの女性社員がちらほらと散見された。 アルファ故に仕事が出来て、人望も厚い。 上司の期待も高く、既にエリートコースに乗っている。(顔面偏差値までエリートかよ!) そんな神谷だが、陽翔への当たりはきつい。「おまえの企画は、いつもどっか抜けてるな。コスト試算、競合分析、ちゃんと資料を読みこんだのか?」 企画を通さないのはもちろん、突き返す時も一言多い。 いちいち神経を逆撫でるような物言い。(でも的を射ているから、なおさら腹が立つんだよ!) なんとか神谷を「ぎゃふん」と言わせるような、すごい企画を立てて見返してやりたい。 その一心で、陽翔はデスクに向かっていた。「小泉、また残業か?」 退勤時間になったのも気付かず、熱心にパソコンに向かっていた陽翔の背中に、同僚の長野が声を掛けてきた。「あ、うん。ちょっと、切れが悪くて……」 長野は、勤続年数は陽翔より長いが、未だ平社員のベータだ。 オメガ差別をあからさまにせず、入社当時は神谷と陽翔の指導をしてくれた人物でもある。「長野、そんなの構ってないで、飲みに行こうぜ」「オメガのくせにアルファをライバル視して、莫迦みたい」「二百人に一人しかいない希少〝生物〟だけあるわ」 オフィスの扉のところで、他の同僚たちが長野を呼んだ。「あんまり、根を詰めるなよな」 困ったような笑みを浮かべ、長野は足早にオフィスから去っていった。(あ
last updateLast Updated : 2026-06-10
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1-3

 草案がまとまったところで、陽翔は一つ息をついた。「あ〜、もうこんな時間かぁ……」 チラと、パソコン画面の端にある時計に目をやる。 周囲を見回すと、神谷のデスクのパソコンが稼働しているモーター音がしているだけで、人影はない。(アルファのくせに、こんな時間まで残業してるとか……。フィットネスにでも行って、体でも鍛えとけよ……) 椅子の背もたれに体を預けて、筋を伸ばすように仰け反る。 その瞬間、背中をぞくりといやな感覚が駆け抜けた。「え……、うそ……?」 前回のヒートは一ヶ月前。 あと二ヶ月は、来るはずのない予兆だった。(まずい……、残業続きで体調下がってた?) 慌てて鞄を漁り、緊急用の抑制剤を探す。 その間にも、体がどんどん熱くなる。 喉が乾き、それが更に陽翔の焦りに拍車を掛けた。(ない……、ない、ない、ない!) 指先が震え、目が霞み、ポーチの中に入ってるはずの薬剤が見つけられない。(まさか入れ忘れてる?! いや、毎晩ちゃんと確認してるし! 落ち着け……!) しかし焦れば焦るほど、手の震えは酷くなり、視界が潤み、思考が鈍る。 自分の吐く荒い息遣いが耳に響き、じわりと染み出る汗が甘く香りはじめている。「くそっ!」 陽翔は鞄をひっくり返し、中身を全て床にぶちまけた。 床に這いつくばって、散らかった鞄の中身を見る。 ポーチのファスナーからはみ出した薬剤のシートが目に入った。「あった!」 ブルブル震える手でPTPシートを掴むが、指先が上手く動かず、なかなか中身を取り出すことが出来ない。「あああ、もう!」 ようやく一粒押し出したものの、糖衣錠がつるりと滑って指から取り落とす。「しまった! 待って! どこいった?」 再び這いつくばり、床を手で攫いながら、血眼になって薬を求めた。「おい! なんだこの匂いは!」 扉が開いて、神谷の声がした。「薬……、くそっ! どこだ……」「莫迦! こんな場所でヒートするやつがあるか!」「うるさい! こっちだって好きでヒートしてるわけじゃ……」 ぶわっと鼻を突くアルファのフェロモンに、陽翔の意識はたちまちヒートに引っ張られた。(良い匂い……、違う、よせ! 抱いて……) 理性と本能がせめぎ合う中で、陽翔の視界にちらとボールペンが映った。 考えるより先に、陽翔はそのボールペンを握り
last updateLast Updated : 2026-06-10
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2-1

 セーフエリアを出た神谷は、洗面所に行って頭から水を被った。 オメガのフェロモンの香りに、目の奥底がガンガンするほど本能が揺すられている。「大丈夫ですか……?」 洗面所を出たところで、警備室にいた警備員が声を掛けてきた。「ええ、大丈夫です」「今、救急車を呼んだので、すぐに来ると思いますよ」「えっ?!」「オメガ性の方が突発ヒートを起こした時の手順です。セーフエリアの確保、避難後にセーフエリアの施錠と、救急車を呼ぶまでがセットですから」 警備員は、マニュアル通りに動いた。 それは間違っていない。 だが、ここで救急車を呼ばれては、陽翔の体裁は傷つく。「タオル、お貸ししましょうか?」「えっ? ……あ、はい。ありがとうございます」 洗面所で水を被って、シャツまでびしょびしょだったことすら、神谷は忘れていた。「どうぞ」 受け取ったタオルで、髪を拭い、シャツの水気を取る。 最後にタオルに顔を埋め、神谷は深々と溜息をついた。 悪態をつきながらも、ヒートに蕩けた陽翔。 熱に潤んだ瞳で必死に睨みつけてきた顔が、傷をえぐりながら震えていた唇が、脳裏から離れない。 危うく本能に飲まれて、口付けてしまいそうになった。 神谷は、もう一度短く息を吐きながら、顔を上げる。「あの……、救急車をキャンセル出来ませんか?」「オメガのかた、自傷されてましたよね?」「しかし、救急車なんて来たら騒ぎになってしまいます」「ですが……」 警備員が言いかけたところで、サイレンの音が近付いてくる。「失礼します」 申し訳なさそうに会釈をして、警備員は救急車を誘導するために出ていった。
last updateLast Updated : 2026-06-10
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2-2

 警備員と共に救急車を見送ったあと、神谷は身支度を整えて帰宅の途に付いた。 残業をしていたのは、仕事があったから……ではない。 陽翔が残っているのに気付いたからだ。 神谷が初めて陽翔に会ったのは、入社前の面接時だった。 可愛らしい面立ちと、小柄な体格。 なにより、うなじをガードするために巻かれたチョーカーを見れば、陽翔がオメガであることは一目瞭然だった。 同期にオメガがいたことに驚きもあったが、その時はさほど気に留めてはいなかった。(オメガとつがえないアルファは、数多にいるものだしな) 人口比率として、それは当たり前の話だ。 そもそも合理主義の神谷は、〝本能に引きずられる〟ということにも納得出来なかった。 男性であっても妊娠が可能で、アルファを生む可能性が高い。 政府の教育方針によって、学校でもオメガは特別〝大事にしなければいけない〟と教えられる。(だからって、守られて当然って態度はどうなんだ?) オメガ性であることを全面に押し出し、優遇処置を声高に叫ぶ同級生。 アルファの中でも更に優秀と太鼓判を押された神谷に、フェロモンを撒き散らしながら迫ってくる者。 神谷のオメガに対するイメージは、かなり悪かった。(関わりになるのは、面倒だな……) 最初は、そう思っていた。 だが、長野の元で一緒に指導を受けたことで、陽翔に対する印象は塗り替わった。 オメガだからと甘えずに、アルファの神谷に負けじと努力する姿勢。 真面目で、負けん気が強く、易々と心が折れないことにも感心した。 しかし同時に、同じ企画を出しても、陽翔の──オメガのものだけが採用されない現状にも気付いた。(上層部は、アルファの言うことなら大丈夫と思ってる) システムキッチンの動線。 棚の配置。 ユーザーの意見の受け止め方。 陽翔の発想は、いつも神谷に新しい刺激をくれた。(もし小泉がアルファだったら、俺より優秀だっただろう) もちろん、陽翔がオメガであるが故に、弱者目線の発想が出来ることもあるだろうが。 それ以上に、逆境に負けない根性や、否定や欠点を補うためにどうしたら良いかを探求する向上心が、自分には無いと感じた。(オメガだからと埋もれさせるのは、もったいない) 陽翔を上に認めさせたくて、神谷はさほど興味も無かった〝出世〟を望んだ。 自分が上に立てれば
last updateLast Updated : 2026-06-10
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3-1

 神谷の予想通り、社屋に救急車が横付けされた件は、すぐにも社内で噂になった。 あの警備員が喋ったとは思わないが、残業をしていた者は神谷と陽翔だけではない。 オメガがヒートを起こせば、気付かないアルファなどいないだろう。 残っていた者の中には、体調不良を訴えた者もいる。 即座に上から〝オメガに無理な残業をさせないこと〟と命が下り、救急車騒ぎを知らない社員まで、ヒート事案が発生したことを知った。 さらに、陽翔が数日休んだことで、ヒートを起こしたオメガが誰かは、言わずもがなで皆の知るところとなった。「おはようございます」 ようやく出勤してきた陽翔は、最初に神谷のデスクの前にやってきた。「先日は、ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」 陽翔は、深々と頭を下げる。 神谷はチラとその頭頂部を見やってから、おもむろにデスクの引き出しを開けた。 あの晩、陽翔がぶち撒けた物を拾い集め、放り出されていた鞄に入れて保管していたのだ。「これと。それから、これを……」 神谷がもう一つ差し出したのは、一通の封筒だった。「なんですか、これ?」「高い薬剤だったんだろう? 俺が無理に封を切った」 ちらと封筒を見てから、陽翔は首を横に振る。「受け取れません。僕の体調管理が悪かったんですから」「だが……」「いえ。神谷さんに責任はありません」「受け取っておけ」「いらないって言ってるだろ!」 顔を真っ赤にして、陽翔は叫んだ。 オフィスの中の視線が、こちらに集まる。 神谷に謝ることさえも、陽翔には相当な屈辱だっただろう。 話を長引かせるのは悪手だと考えた神谷は、ぐいと封筒を陽翔の手の中に押し込む。「同期として、放っておけないだけだ」 眉を寄せ、不機嫌そうな顔になったものの、陽翔はそれを押し返してはこなかった。「すみません。仕事に戻ります」「あ
last updateLast Updated : 2026-06-12
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3-2

 手の中の封筒を、陽翔はぽいとデスクの引き出しの中に放り込んだ。(自分のほうが給料がいいからって、弁償しますってか?) 立ち上がったパソコンの画面を見ると、あの晩にたたき台の形になった草案が表示された。(休んでる間に、この企画は進んじゃったんだよな。くそ、また一から考え直しか……) 陽翔はファイルをゴミ箱に入れた。 なにもかもがリセットされてしまったが、ここでくじけては神谷どころか、周囲の同僚からの蔑みは消えないのだ。 心の中の雑念を払い、新たなファイルを作る。(なんでオメガには、ヒートなんて面倒なものがあるんだろう) 病院のベッドで、理性が戻ったのは二日も経ったあとだった。 のぼせてはいてもなんとか家に帰れる程度になったところで、退院の手続きをした。 ヒート中のオメガは、否応なしに個室にされるから、入院費用が必要以上に嵩む。(休めていいねなんて言われる筋合い、こっちには毛の筋ほどもないんだぞ……) 神谷のデスクから自席に戻った時から、ヒソヒソと後ろ指をさされているのは知っている。 差し出された封筒を受け取ったことを揶揄する声や、拒否した態度が失礼だと批難する声。(全部、聞こえてるつーの。てか、当てこすりかよ……) 同僚たちを無視して、陽翔は画面に集中した。「おい、小泉」 声を掛けられ、陽翔は振り返った。 そこには、帰り支度を済ませた神谷が立っている。(えっ、もうそんな時間?) ぎょっとなったが、時計を見るまでもなく、窓の外は夕暮れだ。「なんですか?」「今日も残業か?」「そちらはお帰りですか。お疲れ様」 陽翔は視線をパソコン画面に戻した。 背後で、ふうっと聞こえよがしの溜息が聞こえる。「さっさと帰れ」「ちゃんと就業規則内に収めてますが、なにか?」「また突発ヒート起こすなよ」
last updateLast Updated : 2026-06-13
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4-1

 あれ以来、陽翔は残業をしなくなった。(少しは、危機感を持ったようで、良かった……) 本人がどれほど頑張りたいと思っていても、オメガの体は無理やストレスですぐにも崩れる。 神谷は胸の内で安堵の息をつきつつも、日中の陽翔の様子をそれとなく気に掛けていた。「おい、そろそろ休憩を入れろ」 十時と三時に、声を掛ける。 陽翔が根を詰めやすいことも、集中すると時間が見えなくなることも知っていたから、時報のようなつもりだった。「………はい」 不満そうな顔で、陽翔は画面から顔を上げる。「小泉〜、休憩入れるならコーヒー買ってきてくれよ〜」 誰かが言った。「自分で行けよっ! 自販機あんの、廊下じゃないか!」「立ってる者は親でも使えって言うだろ。ついでだ、ついで」「あ、なら、俺も!」「俺は、無糖の紅茶、お願いしまーす!」 小銭を出す者や、電子決済で送金する者もいる。「くそっ! そう勝手に言われちゃわかんねぇよ! 誰がなんだって?!」「山田でーす! コーヒー!」「淀原は無糖の紅茶!」 陽翔はブツブツ文句を言いつつも、それらを引き受けて廊下に出て行く。 神谷はさり気なく立ち上がると、陽翔の後を追った。「貸せ、持ってやる」「別に缶コーヒーの五〜六本、一人で運べるって」「頼まれたのは、全部で十二本だろう」 自販機の前で屈んでいた陽翔は、チラと神谷を見上げてから、購入した缶をぽいと渡してきた。「あまり、こういう雑用を引き受けるな」「別にこれぐらいで、倒れたりしないし」「課内のバランスが崩れる」「ああ、神谷の評価に響くって? 済まないね、救急車騒ぎなんか起こして」 チクチク嫌味を織り交ぜつつも、ポンポン言い返してくる陽翔の負けん気が心地良い。「そんな話はしてない。こういうことが積もり積もって、社内のいじめ
last updateLast Updated : 2026-06-14
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4-2

 陽翔が残業をしなくなったのは、単に社外持ち出し禁止の極秘事項以外を、クラウドとノートパソコンで共有し、自宅に持ち帰るようになったからだ。(絶対、あのクソアルファを見返してやる!) と、最初は息巻いていたものの。 自室での作業は、集中を欠いてどうにも締まりのない時間になる。 追い打ちを掛けているのが、休憩スペースで囁かれていた陰口だ。(長野さんも、本当は僕のこと、厄介だって思ってるんだろうなぁ……) 一人、真っ向から否定的なことを言わなかった長野だが、強く庇ってくれたわけでもない。(いや、いや! なに言ってんの? 長野さんに庇ってもらおうとか! そんなんだから、オメガは甘えてるとか言われちゃうわけでしょ!) 自分を鼓舞するものの。 凹んだ気持ちは、思考までもマイナス方向へと引っ張る。(でも実際、一週間休んで、企画は次に移ってて……。僕が居なくたって、仕事は進んじゃうんだよなぁ……) 休日、部屋ではどうにも誘惑が多いからと、ノートパソコンを持ち出して、街のカフェに場所を移してみる。 が、それでもやっぱり集中出来なかった。「陽翔?」 ぼんやりと道行く人を眺めていると、声を掛けられる。「えっ、……碧(あおい)?」 そこに居たのは、学生時代の同級生、笠原碧だった。 大学のオメガコミュニティで知り合い、良く愚痴をこぼしあった仲だ。 連絡先は交換しているが、卒業後は距離が離れたこともあって疎遠になっていた。「久しぶり! 偶然こんなとこで会えるなんて、どうしてた〜?」 笠原は、陽翔の向かい側に腰を下ろす。「どうも、こうも、しがない勤め人やってるよ。碧は?」「僕だって同じだよ。陽翔はマドカだったっけ?」「うん、そう。よく覚えてるなぁ」「いや……。陽翔はインテリアとか、住空間デザインを専攻してたのに
last updateLast Updated : 2026-06-15
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5-1

 休みが明けて、陽翔はいつも通りに出社した。「小泉、俺の顔になにかついているか?」 目が合った神谷に、そう問われる。「いえ、別に……」「そうか? さっきから俺のほうばかり見て、仕事をしてないように見えるが?」「そんな……、つもりは……」 オフィスの中に、クスクス笑いが広がる。「イケメンに見惚れてんの?」「オメガが発情して、秋波送ってんのか? みっともねぇ……」 かあっと、頭に血が上り、顔が熱くなる。(くそ……。転職のことを考えて、ついクソアルファを見てた) 顔を伏せ、いつものように陰口をやり過ごそうとしたが……。 手の甲に、雫が落ちた。(嘘! 泣きやめ! 泣きやめ!) 必死に鼓舞をするが、肩が震えて嗚咽がこみ上げてきそうになる。 陽翔は慌てて、椅子から立ち上がった。「顔洗ってきます」 と言ったつもりだが、言葉がどれほど形をなしていたかはわからない。 閉じかけの扉から、囁きですらなくなった陰口が聞こえたが、振り払うように洗面所に走る。(そうだ。どうせこの会社にいたって、僕の企画は全部神谷に潰される。相談相手も居ない) 叫びだしそうな気持ちを飲み込み、洗面所で顔を洗う。 そうして顔を上げると、正面に鏡があった。「ひどい顔……」 不健康な顔色の自分に、このままではまた職場で突発ヒートを起こしかねないと考える。(でも……、僕が辞めると言ったら、きっと神谷は〝逃げるな卑怯者〟とか言うんだろうな……) 自分の性格を考えると、挑発されたら辞表を撤回しかねない。(同僚も、嘲笑ったり、嫌味を言ったりするだろう。……もう、そ
last updateLast Updated : 2026-06-16
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