記憶を消した私と北の暖かな光 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

24 チャプター

第1話

辛い記憶を消すための通電療法・MECTの処置室で、月城影(つきしろ えい)のそばには誰もいなかった。心から愛する婚約者、神崎蒼真(かんざき そうま)の姿すらない。医師によって筋弛緩薬が投与され、意識が薄れていく中、影はあの日の夕暮れをぼんやりと回想していた。三時間も並んで買ったケーキを手に、蒼真を驚かせようと帰宅した彼女が目にしたのは、彼と妹の月城結愛(つきしろ ゆあ)が唇を重ねている光景だった。二人はきつく抱き合い、互いを貪るように口づけを交わしていた。手から滑り落ちたケーキが床で無惨に潰れる。影は蒼真の頬を力任せに張り飛ばした。だがその直後、結愛の手によって階段から突き落とされた。階段を転げ落ちていく最中、影の胸の内にあったのは、どこか「やっぱり」という奇妙な納得感だった。影の周りにいる人間は皆、最終的には結愛に奪われていくのだ。結愛は情熱的でおおらかで、まるで小さな太陽のような存在だった。それに比べて、無口な影はその名の通り、存在感のない影のようだった。蒼真が結愛を見た最初の瞬間から、影には嫌な予感があった。あの頃、彼女は自分に言い聞かせていた。自分と蒼真には十年の絆があるのだから、そんなはずはない、と。しかし現実は、影を容赦なく叩き潰した。蒼真は影を病院へ運び、点滴で手が冷えないようにと看護師から湯たんぽをもらって、ベッドのそばで見守っていた。「あのキスは、ただの事故なんだ」蒼真はそう言った。「昔の君と重ねてしまっただけなんだ。若くて、明るくて活発だった頃の君とな。影、君は気が強すぎるし、どこか冷めている。俺はいつも、君に必要とされていないような気がしていた。次はもうない……それに結愛のことは、君の妹だし、まだあんなに若いんだ。大目に見てやってくれないか?」影は目を伏せ、ふっと自嘲気味に笑った。「そんなことを言うのは、私が結愛を追い出すのが怖いから?」蒼真は息を呑み、影の手を強く握った。「影、今君が怒っているのは分かっている。大丈夫だ、君の気が済むまでずっとそばにいるよ」影は手を引き抜き、寝返りを打って彼に背を向けた。背後から蒼真の溜め息が聞こえた。まるで聞き分けのない子供をあつかうような態度だった。スマートフォンの着信音が鳴り、スピーカー越しに結愛の甘ったる
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第2話

治療を受ける前に、戸籍の手続きはすでに済ませていたはずだと、彼女はぼんやりと記憶していた。影がスマートフォンを開くと、LINEでの結愛との最後のやり取りは、蒼真とのキスを目撃する前で止まっていた。結愛は限定モデルのスニーカーを欲しがり、お姉ちゃんと甘えてきた。影が十八歳の頃はとても貧しく、二千円以上の服さえ買うのをためらっていた。女の子がおしゃれをしたい気持ちも、その年頃の少女のプライドが高いことも分かっていた。彼女は何も言わずに送金した。結愛は黙って金を受け取り、一言の返事もよこさなかった。影は溜め息をつき、結愛とのトーク画面を閉じて、蒼真の画面を開いた。彼との会話も、彼女が入院した翌日で途切れていた。「君のことがすごく心配だ」と彼は言っていた。影が退院し、MECTの予約を取り、検査を経て最初のクールを終えるまで、すでに半月近くが経過していた。蒼真の心配がどこへ消えたのか、彼女にはよく分からなかった。家に帰り、ドアを開けて蒼真と友人たちが結愛の二十一歳の誕生日を祝っているのを目にするまでは。その時、彼女はすべてを悟った。影は処方された薬とバッグを手に、足を引きずりながらドアを開けると、中から陽気な歓声が聞こえてきた。「誕生日おめでとう、結愛!」リビングに入ると、全員が結愛を囲んでバースデーソングを歌っていた。結愛は目に涙を浮かべ、驚きと喜びに満ちた表情で蒼真に抱きついた。一人の友人がふと横を向き、影の姿に気づいて軽く咳払いをした。影が帰ってきたことに気づくと、部屋全体が水を打ったように静まり返った。しばらくして、蒼真が少し気まずそうに尋ねた。「影、もう退院したのか?どうして一言言ってくれなかったんだ、迎えに行ったのに」影は十年付き合ったこの男を見つめたが、今はどこか見知らぬ人のように感じられた。最初に彼と結愛のキスを見た時は、とても悲しかった。最も親しく、最も多くを捧げた二人に同時に裏切られ、立っていられないほどの痛みを覚えた。問い詰め、罵ろうと口を開きかけた瞬間、影はかつて酒に酔ってヒステリックに叫んでいた母親の姿を思い出した。母親と同じ道を歩みたくなくて、無理やり冷静を保つしかなかった。しかし今、蒼真を見ても、心臓が一度だけきゅっと締め付けられるような一
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第3話

「うぅ……っ」重苦しい沈黙を破ったのは、結愛の泣き声だった。真っ赤になった目から次々と涙が溢れ落ち、鼻の頭まで赤く染まっている。その姿はひどく哀れに見えた。「お姉ちゃん、それって……私を追い出すってこと?」結愛は口元を押さえ、信じられないという目で、戸惑いながら蒼真を見つめた。「蒼真さん、どうしよう!お姉ちゃんにちゃんと説明してくれるって約束してくれたのに。お姉ちゃん、まだ私を信じてくれないよ」蒼真は結愛の頭を撫でてなだめながら、顎を強張らせ、影をじっと見据えた。きつく寄った眉間と、引き結ばれた唇からは、隠しきれない苛立ちが滲み出ていた。影は急に深い無力感に襲われた。説明しようと口を開く前に、友人の非難の声が飛んできた。「影!いくらなんでもひどすぎるよ!」「結愛ちゃんを追い出して、どこに住ませるつもり?」「若い女の子が外で何か事件にでも巻き込まれたらどうするの?本当に平気なの!」雫は見るに見かねた様子で、結愛のために弁護した。「もういいじゃない、影。結愛ちゃんがこんなに泣いてるんだし。それに、まだあんなに若いのに、追い出されたらどうなるのよ」影は長年の親友を見つめた。かつて雫が詐欺に遭って貯金をすべて失った時、自分の貯金をすべて彼女に渡し、住む場所を提供したのは影だった。あの時の雫は目に涙を浮かべ、影を抱きしめながら「最高の親友」と言っていたのに。今、彼女は影の敵に回り、婚約者とキスをした妹のために影を非難している。影は、若い頃からの付き合いである親友をじっと見つめ、心の底から冷え切っていくのを感じた。「雫、あなたとどんなに仲が良くても、これは私の家の問題よ……それに、私も引っ越すんだし、この家は……」影の言葉が終わらないうちに、蒼真が口を挟んだ。「いい加減にしろよ、影。雫も、結愛のために公平なことを言っただけだ。結愛は君の妹だ。この家には彼女が住む権利もある」彼は優しい声で結愛を慰めながら、影を睨みつけた。「結局のところ、君はまだ俺と結愛のことで腹を立てていて、いくら説明しても信じないんだな。だが、こいつはまだ子供だ。何か言いたいことがあるなら俺に言えばいい。結愛に八つ当たりする必要はないだろう」影は一方的にまくしたてられ、弁解の言葉は喉に詰まってしまっ
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第4話

一行は影の横を通り過ぎ、ドアは乱暴にバタンと閉められた。ギシギシと音を立てて揺れるドアの向こうから、結愛の遠ざかる歓声が聞こえてきた。「やったー!蒼真さんありがとう!やっぱりみんなが一番優しいね」そして、すべてが静寂に包まれた。誰もいなくなった広いリビングにただ一人立ち、影はテーブルの上に置かれた精巧なクリームケーキと壁に掛かっている横断幕を静かに見つめていた。そこには「結愛、誕生日おめでとう!」と大きく書かれていた。何かに憑かれたように指を伸ばし、クリームを少しすくい取る。とても甘かったが、胸が焼け焦げるほどに苦い甘さだった。影は突然、幼い頃のことを思い出した。自分の誕生日を覚えていて、あのような小さなケーキを買ってきてくれたのは祖母だけだった。祖母は亡くなり、この世で唯一自分を愛してくれた人はもういない。そして今、祖母が残してくれた唯一の思い出の品であるこの家さえも、治療費を工面するために売らなければならないのだ。結愛と蒼真が情熱的にキスをしているのを見た時。蒼真の頬を叩き、結愛に階段から突き落とされた時。一人きりで病院のベッドに横たわり、水一口すら飲めないまま、友人たちに説教された時。その時すでに、影はここから去ることを決意していた。名家に嫁いで玉の輿に乗った嫁だと神崎家から見下されるのも、文句一つ言わずに尽くし続ける姉でいるのも、もう嫌だった。彼女は自分自身になりたかった。月城影という一人の人間になりたかった。スマートフォンの通知音が鳴り、二件のLINEが届いた。一件は蒼真からだった。【さっきは少し言い過ぎた。気にしないでくれ。俺たちの時間はまだまだこれからだ】もう一件は、半月後に迫った次回の治療の知らせだった。治療が終われば、彼女はすべてを忘れ、家を売って残った金を持って景色の美しい小さな街へ行き、一からやり直すのだ。影は看護師にだけ返信し、身をかがめて床に散らばったリボンを拾い集めた。蒼真はおそらく勘違いしている。影が彼と結愛のキスを見たあの瞬間に、彼らとの未来はとっくに終わっていたのだ。……部屋を片付けた後、影は連絡しておいた不動産屋の担当者を呼んだ。担当者は写真を撮ってアプリにアップロードした後、言いよどんだ。「月城さん、このマンションは立地もいい
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第5話

影が画像を開くと、それは蒼真が付き合って十周年の記念にプレゼントしてくれたものだった。高級ジュエラーの特注品で、トップにあしらわれたルビーは、写真の中でさえ美しい輝きを放っていた。プレゼントされた時、影もその眩さに驚いたが、次の瞬間には蒼真の母親の言葉が突き刺さった。「親なしの孤児の分際で、よくそんな悪知恵が働くものね。現金の送金だと後で返還を求められると知っていて、うちの息子に宝石を贈らせたんでしょう」蒼真は顔色を変えたが、ただ困ったように母親を見つめ、「母さん……」と咎めることしかできなかった。影は蒼真にネックレスをつけてもらうのを断り、ただ大切に金庫の中にしまっていた。たまに取り出して眺めるだけだった。今となっては、もう取り戻す必要もなかった。彼女は「とりあえずそっちに置いておいて。また後で連絡する」と返信した。メッセージを送った後、彼女は深い眠りに落ちた。目を覚ますと、蒼真がベッドのそばに座っていた。影が目を開けたのを見て、彼はかすれた声で言った。「目が覚めた?様子を見に来たんだ。ついでにネックレスも持ってきたよ」影は体を起こすことなくネックレスを受け取り、無造作にテーブルの上に置いた。「ご苦労様。わざわざこんな夜遅くに持ってくる必要なんてなかったのに」蒼真は首を振った。「このネックレスは意味が違うんだ」彼は影の手を握った。「これを見ると、俺たちが一緒に過ごしたこれまでの日々を思い出す。あんなにたくさんの困難を乗り越えてきたのに、今、こんな小さなことで喧嘩して冷戦状態になるなんて……」彼はそう言いながら、声を詰まらせた。「本当に馬鹿げてるよ」影もまた、過去のことを思い出した。彼女が熱を出した時、蒼真は深夜に車を飛ばして薬を届けてくれ、危うく事故を起こしそうになった。神社に参拝した時、ある巫女から彼女は一生孤独な運命にあると予言され、彼は神社で祈り続けた。「影が一生平穏で、幸せになれますように」子宮癌が見つかり、二度と子供が産めないと分かった時、蒼真はパイプカット手術を受け、母親に自分の意志を示した。あの頃は、あんなに良かったのに……影は手を引き抜いた。手の甲には青ざめた痕と注射の跡がくっきりと残っていた。しかし蒼真はそれらを無視して、彼女に言った。
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第6話

帰り道、影の脳裏には蒼真の言葉が絶えずこだましていた。かつて心が折れそうになった時、蒼真に打ち明けた過去の数々が、今や自分を刺す鋭い刃へと変わっていた。初めて彼女の過去を影自身の口から聞いた時、いつも気丈な彼が涙を流したのだ。影が受けた理不尽な扱いに憤り、影のために悲しんでくれた。そして、影を幸せにすると誓った。それが今では、呆れたような、揶揄するような口調で、異母妹を相手に彼女の愚痴をこぼしている。影は大きく息を吸い込んだ。涙がとめどなくこぼれ落ち、いくら流しても枯れることはないように思えた。目の前が霞み、呼吸さえも苦しくなっていく。爪が手のひらに食い込む痛みでわずかな理性を保ち、どうにか家までたどり着いた。薬を飲んでようやく、彼女はゆっくりと落ち着きを取り戻した。バッグの中の二つのネックレスを見て、いっそのこと蒼真からもらったものをすべて整理し、トランクルームに預けることにした。この街を離れる時に、同日配達の宅配便で蒼真に送り返せばいい。不動産仲介業者から電話があり、買い手が見つかったと言われた。内見の都合の良い時間を聞かれたので、影は彼と日時を合わせた。内見に来たのは、結婚を間近に控えたカップルだった。男が婚約者に向ける熱を帯びた視線から、二人が深く愛し合っていることが見て取れた。「このお家、すごく温かい感じがする。ねえ、ここにしない?」男は頷き、愛おしそうに彼女の鼻先を軽く指でつまんだ。「ああ、君の言う通りにしよう」影はその幸せそうな雰囲気に当てられ、思わず少し笑みを浮かべた。この家は祖母が残してくれた安息の場所だった。一組の幸せな夫婦の役に立てるのなら、祖母も天国で喜んでくれるだろう。契約の際、女性がリビングの木彫りの置物をひどく気に入っているのを見て、影はあっさりと譲ることにした。結婚祝いのつもりだった。かつて、蒼真が傷だらけの手でこの木彫りをプレゼントしてくれた時、とても満足そうに笑っていたことを思い出した。自分がいない時は、この小さなウサギが代わりにお前のそばにいるから、と彼は言ったのだ。今となっては、もう蒼真にそばにいてもらう必要などない。もし買い手が欲しがらなければ、蒼真に返すか捨てるかしていただろう。手続きを済ませると、すぐに家の代金が振り込まれた。
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第7話

影は蒼真に肩を握られ、骨がきしむような痛みを感じた。彼の手を振りほどこうとしたが、蒼真は聞く耳を持たない。周りの人々は蒼真が影に乱暴に振る舞うのを見ても、無関心を決め込んでいた。その中には、全貯金を貸してあげた親友もいれば、徹夜で企画書を修正してミスをカバーしてやった部下もいる。だが彼らは皆例外なく、憎悪の込もった目で影を見つめていた。まるで彼女が大罪人であるかのように。「私じゃないわ!ここ最近、彼女には会ってすらいない。それに、結愛がうつ病だなんて、今日初めて知ったのよ」雫がたまらず口を挟んだ。「まだしらばっくれる気?知らなかったら、どうして保護者の権限で医者に結愛ちゃんへの薬を止めさせたりできるのよ。結愛ちゃんが時間通りに薬を飲めていれば、あんなにパニックを起こすこともなかった!今になってもまだ言い逃れするつもり?結愛ちゃんが死にかけたのよ、分かってるの!」影はここでようやく、蒼真の背後に隠れて震えている結愛の姿に気づいた。「結愛?どうしたの?」結愛は影の声を聞いてビクッと震え、その後は硬直して、うつむいたまま何を考えているのか分からない様子だった。影は近づいて、彼女がどうしたのか確かめようとした。だが思いがけず、結愛が突然悲鳴を上げ、「来ないで!」と叫び出したのだ。そして狂乱したように近くの物を手当たり次第に掴み、影に向かって投げつけた。影は避ける間もなく、それをまともに食らった。額が大きく切れ、鮮血が流れ落ちた。蒼真は慌てて結愛を庇うように立ち塞がり、影に向かって怒鳴った。「出て行け!結愛に近づくな!」影は深く息を吸い込み、傷口を押さえた。彼女は蒼真とどうしても話をつけなければならなかった。病室を出ると、ドア越しに彼らが結愛を慰める声が聞こえた。ドアのガラス越しに見ると、蒼真が注意深く結愛の手に薬を塗っているのが見えた。皆が彼女を慰め、怖い人はもういなくなったと言っている。結愛はゆっくりと緊張を解き、蒼真に強く抱きついた。蒼真もそっと抱き返し、なだめるように彼女の背中をさすっていた。影は背を向け、ナースステーションで薬と絆創膏をもらおうとした。看護師は彼女の顔中が血だらけなのを見て驚き、すぐに処置室へと案内して縫合の手配をした。「帰ってからは気をつけてくださいね。
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第8話

目を覚ますと、病院の白い蛍光灯の光が眩しかった。影は頭が割れるように痛む中、無理に起き上がろうとしたが、体が全く動かないことに気づいた。見下ろすと、自分の体は拘束帯でベッドにきつく縛り付けられていた。治療に行った時に見たことがあった。これは、患者がパニックを起こして自分や他人を傷つけるのを防ぐために使われる拘束具だ。だが、なぜ自分がここに拘束されているのだろうか。その時、ドアが開いた。蒼真がゆっくりと彼女の前に現れ、何も言わず、ただ複雑な表情で彼女を見下ろした。「蒼真、私を放して」蒼真は首を振った。「影、結愛は精神的に大きなショックを受けている。医者の話では、回復する確率は低いそうだ」影は問い返した。「それが何だっていうの?言ったでしょ、結愛の件は私とは無関係よ」蒼真の目から、最後に残っていた罪悪感が消え去った。「君はまだ非を認めず、反省すらしないのか。それなら、俺も容赦はしない。君もうつ病の治療の苦しみを味わってみろ。結愛への償いだ」蒼真はそう言うと、医師から渡された同意書にサインした。「先生、お願いします。治療を始めてください」彼はそれきり、二度と影を見ようとはしなかった。影は医師が電気痙攣療法の機器を準備するのを見て、目を見開き、蒼真の名前を絶叫した。蒼真は振り返ることも、ためらうこともなく、ドアを開けて立ち去った。影は、医師が残忍な笑みを浮かべながら機器を持って近づいてくるのを見た。「月城さんですね。ある方から、あなたを特別に『お世話』するよう頼まれていましてね。安心してください。外傷一つ残さずに、たっぷりと苦しませてあげますよ」彼女は、彼が電極をゆっくりと自分の両こめかみに当てるのを見た。そして突然、凄まじい電流が流れた。「ああああああぁぁっ——」彼女はたまらず悲鳴を上げた。通電療法がこれほど痛いものだとは思わなかった。通常のMECT治療の時は麻酔をかけられていたため、痛みを感じなかったのだ。痛い!痛い!痛い!もがこうとしても身動きが取れない。問い詰め、罵ろうと口を開いても、声はおろか一切の力が湧いてこない。一体誰を罵り、誰を問い詰めればいいのだろう?心変わりした蒼真か、身勝手な結愛か?それとも、自分に苦痛を与えながらも育ててくれ
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第9話

意識が朦朧とする中、誰かが自分の名前を呼んでいた。影が目を開けると、目の前に看護師がいた。「月城さん、目が覚めましたか?気分はどうですか?」影は呆然と天井を見つめ、しばらくしてようやく状況を思い出した。自分はMECTの治療を受けて、今病院にいるのだ。看護師は優しく彼女を助け起こし、今後の経過観察用の薬と彼女のノートを渡した。「月城さん、こちらで少し休んでいってください。治療が終わった直後ですから、少し頭がぼんやりするのは正常なことですよ」影は看護師に案内されて休憩スペースに座ったが、手持ち無沙汰だった。頭の中がからっぽで、何かが欠落しているような気がした。思い出そうとしたが、いくら考えても思い出せない。影は考えるのを諦め、手元のノートを開いて見始めた。なぜか、このノートを見た時、無意識のうちに強い拒絶感を抱いた。しかし好奇心に駆られ、そのまま読み進めた。ノートには多くのことが記録されていた。彼女自身の重要な情報のほかに、頻繁に登場するのは神崎蒼真という人物だった。二人が出会い、心を通わせ、最後には結ばれたこと。そして家族からの反対にどう立ち向かい、婚約に至ったかが書かれていた。最後のページにはこれまでの記録はなく、ただ一行だけが書かれていた。【私は神崎蒼真と別れた。彼にとっても私にとっても、これは一つの解放だ……これでようやくここを離れ、私自身の人生を生きることができる】筆跡には安堵が漂っていた。具体的に別れた理由は分からないが、影はこう思った。何年も付き合って別れを選んだということは、この蒼真という男は、きっと自分を傷つけるような何かをしたのだろう。あるいは取り返しのつかない所まで関係が壊れたのだろう。影は心の中の違和感を懸命に振り払い、看護師にお礼を言ってから病院を後にした。ホテルに戻り、スマートフォンで自分の口座残高を確認すると、かなりの額があった。ノートに書いてあったことを思い出した。ここを離れ、別の場所で暮らすのだと。影はあまり迷うことなく、祖母の故郷である遼峰市(りょうほうし)を選んだ。そこは風景が美しく、素朴な人々が暮らす場所だ。彼女の記憶にはまだ残っていた。幼い頃、祖母の膝の上に座り、昔の遼峰市の話を聞かせてもらったことを。そこには連な
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第10話

「どちら様ですか?」見知らぬ若い女性が顔を出し、警戒したような表情で蒼真を見つめた。蒼真は呆気にとられ、一歩下がって部屋番号を確認したが、間違いはなかった。彼は内心に込み上げてくる激しい焦燥を必死に抑え、目の前の女性に尋ねた。「すみません、元々ここに住んでいた方はどこへ行かれたのですか?」女性は依然として警戒を解かなかった。「ああ、前の持ち主のことですね?家を私たちに売って引っ越しましたよ。どこに行ったかは知りません。別の街に移るとは言ってましたけど」蒼真の心の中の嫌な予感が的中した。「どこへ行くか、言ってませんでしたか?」女性は首を振った。目の前で焦りを露わにする男を見て、彼女は内心で鼻で笑った。以前、前の持ち主の月城さんと話をした時、彼女はひどく沈み込んでいる様子だった。その後、家の片付けをしていた時に一枚のツーショット写真を見つけた。まさに目の前の男と月城さんが写っているものだった。誰の目にも、二人が別れたことは明らかだった。月城さんはきっとひどく傷ついたに違いない。こういうクズ男に限って、外見だけは立派で、女を傷つけることしかしないのだ。彼女は蔑むように口元を歪め、蒼真が魂が抜けたように立ち去るのを見届けると、バタンとドアを閉めた。蒼真は無言で歩き続けた。脳裏に何度も浮かんでは消えるのは、ここ最近の影と過ごした些細な出来事ばかりだった。それすらも、悲しくなるほど少なかった。最後に会った時、彼女が何か言いたげに口ごもっていた様子を思い出した。あの時、彼女は自分に何を言おうとしていたのか?この街を去るということだったのか?それとも……蒼真がそこまで思い至った時、心臓の最も深い場所から強烈な痛みが広がった。彼女はあの時、別れ話をしようとしていたのではないか。きっとそうだ。蒼真は自虐的に、影が自分を捨てたのだと何度も心の中で反芻した。彼女は本当に、自分と別れたのだ。あっさりと家を売り払い、何の手がかりも残さずに。どうしてだ?なぜ弁解のチャンスすら与えてくれないんだ。あと少し早ければ、彼女を見つけ出せたかもしれないのに。蒼真はふらつく足取りで家に戻った。彼を出迎えたのは、嬉しそうに飛び跳ねる結愛だった。「蒼真さん、やっと帰ってきた!私、ずっと
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