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記憶を消した私と北の暖かな光
記憶を消した私と北の暖かな光
作者: みやこじるし

第1話

作者: みやこじるし
辛い記憶を消すための通電療法・MECTの処置室で、月城影(つきしろ えい)のそばには誰もいなかった。

心から愛する婚約者、神崎蒼真(かんざき そうま)の姿すらない。

医師によって筋弛緩薬が投与され、意識が薄れていく中、影はあの日の夕暮れをぼんやりと回想していた。

三時間も並んで買ったケーキを手に、蒼真を驚かせようと帰宅した彼女が目にしたのは、彼と妹の月城結愛(つきしろ ゆあ)が唇を重ねている光景だった。

二人はきつく抱き合い、互いを貪るように口づけを交わしていた。

手から滑り落ちたケーキが床で無惨に潰れる。影は蒼真の頬を力任せに張り飛ばした。だがその直後、結愛の手によって階段から突き落とされた。

階段を転げ落ちていく最中、影の胸の内にあったのは、どこか「やっぱり」という奇妙な納得感だった。

影の周りにいる人間は皆、最終的には結愛に奪われていくのだ。

結愛は情熱的でおおらかで、まるで小さな太陽のような存在だった。

それに比べて、無口な影はその名の通り、存在感のない影のようだった。

蒼真が結愛を見た最初の瞬間から、影には嫌な予感があった。

あの頃、彼女は自分に言い聞かせていた。自分と蒼真には十年の絆があるのだから、そんなはずはない、と。

しかし現実は、影を容赦なく叩き潰した。

蒼真は影を病院へ運び、点滴で手が冷えないようにと看護師から湯たんぽをもらって、ベッドのそばで見守っていた。

「あのキスは、ただの事故なんだ」

蒼真はそう言った。

「昔の君と重ねてしまっただけなんだ。若くて、明るくて活発だった頃の君とな。

影、君は気が強すぎるし、どこか冷めている。俺はいつも、君に必要とされていないような気がしていた。

次はもうない……それに結愛のことは、君の妹だし、まだあんなに若いんだ。大目に見てやってくれないか?」

影は目を伏せ、ふっと自嘲気味に笑った。

「そんなことを言うのは、私が結愛を追い出すのが怖いから?」

蒼真は息を呑み、影の手を強く握った。

「影、今君が怒っているのは分かっている。大丈夫だ、君の気が済むまでずっとそばにいるよ」

影は手を引き抜き、寝返りを打って彼に背を向けた。

背後から蒼真の溜め息が聞こえた。まるで聞き分けのない子供をあつかうような態度だった。

スマートフォンの着信音が鳴り、スピーカー越しに結愛の甘ったるい声がはっきりと聞こえてきた。

「蒼真さん……一人で家にいるのがすごく怖いの。帰ってきて、一緒にいてくれないかな?

お姉ちゃんをわざと突き飛ばしたわけじゃないの。ただ、お姉ちゃんがあなたを叩いたから、すごく胸が痛くて。

後で落ち着いて考えてみたけど、あの時私、本当にそんなに力を入れてないの。どうしてお姉ちゃんが落ちてしまったのか分からない」

蒼真は低い声でいくつか慰めの言葉をかけ、影に向かって言った。

「会社で急用ができた。すぐ戻ってくる」

そして、逃げるように病室を去っていった。

影が退院するまで、蒼真が戻ってくることは二度となかった。

影の足の怪我はまだ完治していなかったが、彼女が退院を急いだのは、これ以上誰かに見舞いに来られたくなかったからだ。

ここ数日、見舞客が次々とやって来たが、話す内容は判で押したように同じだった。

結愛を許してやってくれ、というものだ。

結愛が彼らに何を吹き込んだのかは分からない。

影の友人や同僚は、皆一様に深く彼女を非難するような目を向けていた。

「結愛ちゃんはまだ子供じゃない。お母さんがどんなに酷い人だったとしても、その恨みを子供にぶつけるのは間違ってるわよ。

あなたは彼女のたった一人のお姉さんで、この世で唯一の身内なのよ。あなたまで彼女を色眼鏡で見たら、本当に天涯孤独になっちゃうじゃない!」

親友である橘雫(たちばな しずく)がもっともらしくそう言うのを聞いて、影はただ背筋が凍る思いだった。

恨みなら、ある。

だが、彼女は結愛を少しも冷遇したことはなかった。海外留学をしたいと言えば、高校から留学できるように学費を工面して送り出したほどだ。

誰もが暗黙の了解のように忘れていた。二人の父親である月城宗一郎(つきしろ そういちろう)が、影が三歳にも満たない頃に結愛の母親と駆け落ちし、全財産を持ち逃げしたことを。

影と母に残されたのは、息が詰まるような借金だけだった。

母は夫への恨みを影に向け、身を粉にして働きながら、影を罵倒し続けた。

影は必死に勉強し、有名大学に合格し、大手IT企業に入社した。蒼真に出会い、すべてが軌道に乗り始めた時のことだった。

親戚たちが結愛を連れて、彼女の前に現れたのだ。

「宗一郎と奥さんが交通事故で亡くなってね、この子が一人ぼっちになってしまったんだ。

今年で十三歳だ。血の繋がりから言えばお前が姉なんだから、成人するまで育てる義務があるだろう」

宗一郎は父親として、何年もの間一度も電話をかけてこず、一円の仕送りも寄越さなかった。

それなのに今、彼女は自分たちを苦しめた元凶が産んだ子供を育てなければならないというのだ。

影にはどうすることもできず、結愛を家に連れ帰った。

自分自身まだ二十歳だったのに、まるで母親のように十三歳の妹の世話をしなければならなかった。

仕事が忙しい時は、結愛を会社に連れて行くしかなかった。

宗一郎夫婦にとって結愛は一人娘だったため、当然のことながら溺愛され、明るくおおらかな子に育っていた。

影の周りの友人や同僚は、最初は戸惑っていたものの、次第にこの屈託のない女の子を好きになっていった。

「妹さんの方があなたより愛嬌があるわね」

周囲の人々からそう言われるのを、彼女は一度や二度ではなく耳にしてきた。

今では、十年付き合った恋人までそう思っているのだ。

「月城さん……起きてください……」

意識が朦朧とする中、誰かが優しく彼女の名前を呼んでいた。

影の思考は断ち切られ、目を開けると、ちょうど治療が終わったところだった。

体を起こすと、看護師が頭の器具を外してくれた。

「しばらくの間は記憶力が低下しますが、正常な反応ですからね。規則正しい生活を心がけてください。

次回の予約日も忘れないでくださいね」

影は頷き、看護師が言ったことをすべて手持ちのノートに書き留めた。

MECTの回数を重ねるにつれ、彼女は次第に多くのことを忘れていくだろう。

だから、やるべきことはすべてノートに書き留めていた。

思い出そうとすると、過去の出来事は霧に包まれたようになり、自分はまるで傍観者のように、冷静で理性的になっていることに気がついた。

注意事項の前に、赤い太字で書かれた二つの項目があるのを目にした。

一つ目、結愛を戸籍から分籍させること。

二つ目、蒼真と別れること。

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