All Chapters of 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜: Chapter 1 - Chapter 10

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第一章 第1話 水鏡の死体①

 雨が降っていた。 王都アルヴェリアの石畳を濡らす夜の雨は、音もなく細く、肌に触れるたび冷たい湿りだけを残していく。風はほとんどなかった。煙突から立つはずの煙も、低く家並みの屋根に貼りついて動かない。街の輪郭が、ぼんやりと水に溶けていた。    ルシアン・アルヴェリアは黒い外套を翻しながら、騎士たちに囲まれた噴水広場へ足を踏み入れた。革靴の下で、雨水を含んだ石畳が一度だけ低く軋んだ。提げられたランタンの油の匂い、馬の汗、湿った石、それから誰かの上着の毛織物に染み込んだ煙草の残り香が、雨の中に薄く層を成している。深夜だというのに、人が集まりすぎている。貴族街で死体が見つかったからだろう。その報せだけで、これだけの人間を呼び寄せるには十分だった。 広場の周囲では、夜会帰りの貴族たちの馬車が動けずに停まり、御者たちが手綱を握ったまま、騎士の差し向ける手の動きを目で追っていた。誰も、口を開かず静まり返り、雨音だけが、街全体の代わりに、ひそかに呼吸を続けていた。「第三王子殿下」 若い騎士が慌てた様子で駆け寄ってくる。顔色が悪い。「現場は」「こちらです……」 妙に歯切れが悪い。ルシアンは眉を寄せた。殺人事件など珍しくはない。王都の治安を預かる以上、死体を見ることにも慣れている。だが、今夜の空気は妙だった。誰もが怯えている。古参の騎士までが、視線を地面に落としたまま、こちらをまっすぐ見ようとしない。普段なら冗談の一つも飛ばす男だった。その男の口元が、今は固く結ばれている。ランタンを掲げる手が、わずかに震えていた。橙色の火が水滴の落ちる角度で揺れ、地面に落ちる影の輪郭を一度だけ歪ませた。雨音ばかりが、やけに大きく石畳の上へ落ちていた。 騎士に導かれ、噴水の前へ出た瞬間、ルシアンは足を止めた。 噴水の縁に、一人の男が座るように倒れていた。年は四十前後。上質な濃紺の礼装は雨に濡れてなお高級品だと分かる仕立てで、胸元には銀糸で刺繍された家紋が刻まれている。糸の盛り上がりが、ランタンの光を受けて細かく艶めいた。指には深紅の宝石を嵌めた印章指輪、腰には儀礼用の短剣。鞘の彫り金が、雨で濡れて、いつもより重そうに光っていた。間違いなく高位貴族だ。 だが、その姿を見た瞬間、ルシアンは息を呑んだ。 男の肌には、一切の血色がなかった。青白いというより、蝋で作られた人形の
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第2話 水鏡の死体②

 雨音の中、セレネの声だけが静かに響いた。 一瞬、誰も言葉を発せなかった。やがて騎士たちが顔を見合わせ、困惑したようにざわめき始める。「し、しかしですね…ヴァルキュリア侯爵令嬢」「傷一つありません」「こんな死に方、人間にできるわけが」 怯えた声が重なる。セレネは騒ぎ立てる騎士たちを見ようともしなかった。ただ静かに、死体の右手を持ち上げる。「灯りを」 短く告げると、騎士の一人が慌ててランタンを近づけた。雨に揺れる炎の橙色が、死人の灰色の指先を照らす。皮膚の白さがランタンの光を吸い込み、爪の白濁した縁だけが、わずかに反射した。そこで初めて、ルシアンは違和感に気づいた。爪の隙間に、黒ずんだ泥のようなものが入り込んでいる。光に照らされて、その黒が、ただの汚れではなく、しっとりと湿気を含んだ重さを持っていることが分かった。「……土か」「ええ」 セレネは淡々と答えた。「ですが、王都の土ではありません」「分かるのか」「王都の土は赤みが強いんです」 彼女は指先についた泥を軽く擦った。「これは水辺特有の黒土ですね。湿り気が強い」 ルシアンは眉を寄せた。この噴水広場は貴族街の中心だ。石畳で整備されており、土や泥が入り込むような場所ではない。「つまり、この男は別の場所で死んだ」「可能性は高いです」 セレネは死体の靴へ視線を落とす。「靴底の濡れ方も不自然です」 ルシアンも視線を追った。服は雨で濡れている。だが死体が履いている革靴は、雨に濡れただけとは言えない。まるで浅い水辺に浸かっていたように濡れていた。革のつやが完全に死に、底の縫い目に黒い水が滲んで、足首のあたりまで色が深くなっている。雨で上から濡れたなら、こうはならない。下から、長い時間をかけて、水に浸かった靴だった。「運ばれた死体……」 騎士の一人が呟く。その声には、まだ拭いきれない恐怖が滲んでいた。 セレネは今度は死体の腕を持ち上げ、静かに袖をめくった。重く濡れた礼装の布地が、肘の内側で皺になり、めくる手の動きに合わせて鈍く音を立てる。青白い腕が露わになる。その白さは異常だった。生きた人間の肌ではない。血の気を失ったというより、身体の内側を丸ごと空にされたような色だった。皮膚の下にあるはずの筋の動きも、脂肪の柔らかさも、何かが欠けたまま、ただ白い表面だけが残っている。 そこで、ル
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第3話 水鏡の死体③

「何かを起こそうとしているのですね……」 雨音に紛れるほど、小さな呟きだった。けれど、ルシアンの耳には確かに届いていた。 セレネはまだ水面を見つめている。揺れる水鏡。雨粒が次々と落ち、波紋が幾重にも重なって、新しい紋様が古い紋様を押し潰し、また別の雨粒が落ちて、ひと時も平らに戻らない。先ほど、確かにそこに映って見えた女の姿は──もう、どこにもなかった。 錯覚だったのか。 そう思おうとしても、背筋に残る寒気が消えない。外套の襟元から、いつのまにか冷たい水が一筋、首筋を伝って背中へ落ちていた。皮膚を伝う雨の温度よりも、もっと内側、肋骨の奥のあたりが、ひとり冷えていた。「何が起ころうとしている」 ルシアンは思わず声が漏れた。広場では騎士たちが、死体を覆う布を運び込むために、ぬかるんだ石畳の上を行ったり来たりしている。靴底が泥を擦る音、抑えた指示の声、ランタンの油が燃える微かな匂い。普段なら気にも留めない音と匂いが、今夜はやけに耳の縁に残った。 セレネはすぐには答えなかった。指先で外套の裾を軽く絞り、雨粒を石畳へ落とす。彼女が動くたびに、雨に濡れた黒髪の毛先から、しずくが等間隔で滴った。落ちる速度、落ちる場所、その全部が、誰かに決められた振付のように整っている。「殿下」 いつもと変わらない、抑揚の薄い声だった。「今夜のことは、できるだけ伏せていただけますか」「怪異騒ぎを避けるためか」「ええ」 セレネはようやくこちらを向いた。雨粒が、彼女の睫毛の縁で一度だけ震えて、頬を伝っていく。それなのに彼女は、目を細めも、瞬きを増やしもしない。雨に怯む人間らしい反射が、その顔のどこにもなかった。「人は恐怖を与えられると、見なくていいものまで見始めます」 ルシアンは少しだけ目を細めた。「まるで、怪異を知っているような言い方だな」 セレネは否定しない。ただ、ほんのわずか、視線を逸らした。それだけで、胸の奥に小さな違和感が残る。彼女は昔から、時々こういう顔をする。自分だけが違う世界を見ているような──そんな顔だ。 雨脚が、わずかに強くなった。広場の隅で、夜会帰りの馬車の馬が短くいなないた。御者が小さく宥める声がする。湿った藁の匂いが、馬車の足元から立ち上ってきた。「……殿下」「ああ」「この事件、一人では終わらないかもしれません」「連続殺人だと」「
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第4話 死人の名前①

 王城へ戻った頃には、空が白み始めていた。 夜明け前の薄青い光が、長い廊下の窓から差し込んでいる。雨は王城に着く頃にはほとんど止んでいて、回廊の硝子窓の外では、最後の細かい霧雨が、灰色がかった青の空気の中を、まだゆっくりと落ちていた。廊下の燭台はほとんど落とされ、残った一つだけが、回廊の角で低く揺れていた。蝋の溶けた匂いが、湿気を含んだ空気の中にかすかに残っている。ルシアンは外套を脱ぎながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、胸の奥に嫌な感覚だけが残っていた。 雨に濡れた噴水の縁で、不自然に笑ったまま動かなかった死体。そして、水面に一瞬だけ映った、長い黒髪の女。どちらも、目を閉じれば瞼の裏に張り付いて離れなかった。死体の口腔の中に溜まっていた雨水の色までも、はっきりと思い出せた。「……錯覚か」 そう呟いた時だった。「殿下」 静かな声が背後から響く。振り返るまでもない。セレネ・ヴァルキュリア。彼女はすでに着替えていた。雨に濡れていた黒のドレスは消え、今は深い紺色の室内用ドレスに変わっている。襟元には控えめな銀の刺繍があり、袖口は手首をきっちりと締めて、室内用とは思えないほど隙がなかった。長い黒髪も整えられ、結い上げず、肩のあたりで一度緩く編まれて、白い首筋の右側に流されている。先ほどまで雨に濡れていた毛先には、もうどこにも湿りの痕跡がなかった。 つい先ほどまで、死体の前に立っていたとは思えないほど、完璧に。 夜明けの薄光の中に立つ彼女は、相変わらず人形じみて美しかった。窓越しの青い光が、片頬の輪郭だけを淡くなぞり、もう片頬は、廊下の燭台の橙色の中に沈んでいた。二色の光が、白い肌の上で静かに混ざる。白い肌。感情を映さない海色の瞳。その整いすぎた美貌は、時々ひどく冷たく見える。「休まなくていいのか」「殿下こそ」「俺は慣れてる」「私もです」 淡々と返され、ルシアンは苦笑する。昔からこうだ。彼女との会話は、時々討論会のようになる。学園時代からずっと。 ルシアンは執務室の扉を開けた。扉の蝶番が低く一度だけ鳴り、夜のあいだに溜まっていた紙とインクと薪の匂いが、ふっと廊下の冷気の中に押し出されてくる。卓上には、昨日の昼に処理しきれなかった書類が積み重なり、その上で、消し忘れたランプの炎が、まだ細く息を保っていた。外套を椅子の背に掛け、革張りの椅子に深
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第5話 死人の名前②

 一瞬、部屋が静まり返った。 暖炉の薪がぱちりと爆ぜる音だけが、やけに大きく耳に残る。窓の外はまだ夜の名残を引きずる薄青で、雨上がりの湿った匂いが、開け放たれた扉の隙間から忍び込んでいた。「……は」 ルシアンの手が、握りかけていた書類の上で止まる。「もう次が出たのか」 声に、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。「は、はい」 報告に来た騎士の顔は、ランプの光の下でも分かるほど青ざめていた。雨に濡れた外套の裾から、絨毯に小さな滴が落ちる。「最初の被害者と同じです。血液がほとんど──失われています」 言葉の最後が、掠れた。 誰かが、息を呑む音。空気が、ぴんと張り詰める。 ルシアンは机に両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。木製の椅子が後ろへ滑り、低い軋みを立てる。「場所は」 短く、抑えた声だった。「──王立学院です」 その一語で、部屋の温度が、ふっと落ちた気がした。窓硝子の縁に張りついた最後の細かい霧雨が、誰かの息が止まったその瞬間に、つうっと一筋、新しい雫を作って下へ滑った。 書記官のペン先が止まる。インクの一滴が、書きかけの紙の余白に、小さな黒い染みを作った。新人騎士が、わずかに目を見開いた。誰もが、その名の重さを知っていた。 王立学院。王都中心部から離れた丘の上に建つ、国内最高峰の学び舎だ。高い石壁に囲まれた広大な敷地には、講堂、図書塔、礼拝堂、温室、学生寮までを擁する。通うことを許されるのは、王族と貴族のみ。全寮制であり、卒業まで生徒たちは学院の内側で暮らす。王国の未来を担う者たちを育てる場所であると同時に貴族社会の縮図でもあった。 ルシアンとセレネもまた、数年前まで、その壁の中にいた。「学院、だと」 ルシアンの指先が、机の縁を一度だけ叩いた。「今朝、学院中庭の噴水前で発見されました」 騎士の声は、わずかに震えていた。「早朝巡回をしていた教員が発見し、現在は現場を封鎖しております」「生徒には」「まだ、正式には知らされておりません」 騎士は、視線を落とした。「ですが、早朝訓練へ向かっていた生徒が数名、すでに騒ぎを目に──」 ルシアンが短く舌打ちする。「……遅かったか」「寮母たちには口止めしておりますが、何分、全寮制ですので」 騎士は唇を湿らせ、言いづらそうに続けた。「朝食の時間には、噂が広がるかと」 ルシ
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第6話 死人の名前③

 王城を出た頃には、空が薄く白み始めていた。 雨は完全に上がっていた。けれど王都の石畳には、まだ昨夜の雨を吸ったままの水溜まりがあちこちに残り、灰色がかった空をぼんやりと映している。馬車の車輪が、その上を通るたびに低く軋み、轍が浅く水を弾いて、また背後に小さな水紋を作っていった。 ルシアンは窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、頭の奥には、昨夜の噴水が、まだ濃く焼き付いて離れなかった。 笑う死体。血のない身体。そして、揺れる水面に一瞬だけ映った、長い黒髪の女。 目を閉じれば、すぐに浮かぶ。瞼を上げれば、向かいの窓硝子に、湿った朝の街が、ぼんやりと映って流れていた。 向かい側で、セレネは静かに資料へ目を落としている。深い紺色のドレスの膝の上に重ねられた書類の端を、白い指先がときおり、軽く整えるように撫でた。窓から差し込む朝の光が、長い黒髪を青く照らし、毛先のあたりに細かい銀の光を散らしている。 ふと、馬車が小さく揺れた瞬間、甘い香りが微かに鼻先を掠めた。花の香り。強くはない。けれど、雨上がりの湿った空気に混ざると、妙に印象に残る匂いだった。 セレネらしくない香りだ、と、昔は思っていた。冷たそうで、近寄りがたくて、人形めいた女に、花の香りは似合わない。 今はもう、なぜか、そうは思わなくなっていた。「……何ですか」 視線を上げないまま、セレネが言う。「いや」 ルシアンは窓へ視線を戻した。「お前、昔からその香りだなと思ってな」 その時、書類の端を撫でていた白い指が、ほんの一拍だけ止まった。紙の繊維を、指の腹が浅く押さえる。それから、何事もなかったかのように、また動き始めた。「……そうですか」 それだけだった。けれど、その短い返事のあとの沈黙のほうが、ルシアンの耳には、やけに長く残った。 馬車は静かに王都を進んでいく。朝の街は、本来であれば穏やかな時間のはずだった。市場の幌を上げ始める商人。前夜の宴の名残を箒で掃き出す使用人。焼きたてのパンの匂いが、どこかの石窯から薄く立ち上って、湿った石の匂いに混ざる。 だが、今朝は違った。 通りを行く人々の動きが、どこか、揃いすぎていた。誰もが少しだけ、水溜まりから遠い側を歩いている。すれ違いざまに視線を交わし、何かを短く囁いては、また各々の方向へ流れていく。子供を連れた女が、自
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第7話 足跡

 セレネの視線は、ずっと中庭の奥のほうへ向けられていた。死体ではない。もっと奥の、別の何かを探しているような目だった。「……お前、何を見てる」 ルシアンは低く問う。 セレネはすぐには答えなかった。睫毛の動きすら惜しむように、視線だけが、ゆっくりと中庭の隅から隅へと流れていく。それから、ぽつりと言った。「まだ、分かりません。ですが、嫌な感じがします」    その時だった。「殿下」 中庭の側で待機していた男が、早足で駆け寄ってきた。エドガー。王族特務隊の隊長補佐。数か月前から隊長補佐になった男だが、普段は資料整理を任せている、几帳面で空気を読むことに長けた男だった。「現場の封鎖は完了しております」 ルシアンが到着するより、ずっと早く済ませてあった、ということだ。「生徒は」「目撃した数名は、講堂へ誘導してあります。ですが、噂はかなり広がっております」 ルシアンは小さく舌打ちした。「だろうな」 全寮制の学院で、噂を止めることは難しい。一度広がった恐怖は、夜になるほど形を変えて膨れ上がる。寮の壁の薄さを、ルシアンはこの学院を出るまでの数年間、嫌というほど知っていた。「行くぞ」 ルシアンは中庭へ続く回廊を進んだ。 古い石造りの廊下には、まだ朝の冷気が残っていた。色硝子を通った淡い光が、磨かれた床の上に、桃色と紫の斑をぼんやりと落としている。生徒たちの靴音は、もう聞こえない。誰もが講堂か寮へ追いやられたあとの回廊では、自分たちの足音だけが、奇妙に長く尾を引いた。 やがて、中庭へ出た。 最初に届いたのは、温度ではなく、湿度だった。回廊の屋根の下とは違う、雨上がりの土の匂いが、深く胸の中まで降りてくる。その匂いの奥に、ほんの一筋だけ、別の匂いが混ざっている。 血の匂いではない。けれど、血の匂いに近い、湿った金属の匂いだった。 中央の噴水の前に、数人の騎士と教師が、暗い顔で立ち尽くしていた。誰もが半歩、噴水から距離を取っている。 その中心に、男が一人、座っていた。「……またか」 ルシアンの口から、唸るような声が漏れた。 中年の男だった。質素な黒衣。学院の教師の服だ。猫背気味の肩。歳のわりに痩せた首筋。ありふれた老年の学者の体つきだった。 その顔に、まったく場違いな、穏やかな笑みが浮かんでいた。 灰色の唇。乾いた皮膚。血の気を完全
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第8話 水鏡の噂

 始業の鐘が鳴り終わってからも、中庭の囁き声は止まなかった。 教師たちが落ち着かない様子の生徒たちを講堂へと誘導している。けれど、その隊列の中から、一定の間隔で、湿った朝の空気の中へ言葉の切れ端が漏れ続けていた。水鏡の魔女だの、昨夜も噴水で見たらしいだの、また死人が出るのではないか、だの。怯えと、それと同じ量の好奇心とが、ひとつの声色になって、生徒たちの背中の方角へと流れていく。 ルシアンは小さく息を吐いた。ここまで広がってしまえば、もう学院の中だけで抑え込むのは難しい。「完全に広がったな」「ええ」 セレネが返した。視線は、噴水近くの石畳の上から離れない。 教師の死体の周囲には、すでにエドガーが指示した縄が張られていた。雨上がりの石畳の上には、それを踏み荒らさないよう、騎士たちが静かな足の運びで立ち尽くしている。残された生々しい靴跡は、いまもそこに、淡く濡れたまま残っていた。 その横で、フィンは噴水から目を離せずにいた。先ほどよりも、明らかに頬の色が悪い。歪んだリボンに何度か手をやろうとしては、そのたびに諦めるように、また膝の脇へ手を戻している。 ルシアンは、その横顔をしばらく見つめた。 ただ怪異を恐れているようには、見えなかった。もっと別のもの、たとえば、自分の覚えている景色を頭の中で何度も繰り返しているような、そんな目だった。「……お前、何か知っているな」 低く問うと、フィンの肩がびくりと跳ねた。「ち、違います」「フィン」 今度はセレネが口を開いた。声に厳しさはなかった。けれど、その静かさは、フィンに逃げ場を残さない種類のものだった。「隠していることがあるなら、今ここで話して」 フィンは唇を強く噛んだ。視線が、噴水の縁の死体、そして周囲の靴跡、立ち並ぶ騎士たちの間を、忙しく彷徨う。やがて、観念したように、口を開いた。「……昨日の夜、変な人を見たんです」 ルシアンが目を細める。「どこで」「図書塔の、近くです」 フィンは続けた。「僕、昨日、遅くまで起きていて」「何時です」 セレネが、間を置かず問いを重ねた。「12時半、くらい」「夜更かしですね」「う……」 フィンは肩を縮めた。「友達と、課題をやってて」「それで」 ルシアンが先を促す。 フィンは小さく息を呑み込んだ。「寮へ戻る途中、図書塔の横を通った時
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第9話 女子寮の鏡

 王立学院の女子寮は、中庭から少し離れた、敷地の北の角にひっそりと建っていた。 男子寮とは長い回廊で完全に分けられ、中央には小さな庭園が挟まっている。男子生徒の立ち入りは禁止。教師であっても、許可なく踏み入ることは許されない。寮母と一部の女性教師、そして許可を受けた侍女だけが、この壁の内側で過ごす生徒たちの世話をしていた。 その入口前に、今、いくつかの色の違う制服と侍女のエプロンが、不揃いに集まっていた。 数人の女性教師。寮母。侍女。それから、登校時間に差し掛かって寮の前を通りかかった女子生徒たちまでが、足を止めたまま、誰も建物の方角から目を逸らせずにいた。「本当に、誰か見たの」「水鏡の魔女って……」 幼い声が、いくつも重なっては、すぐに別の囁きに塗り潰されていく。 ルシアンは小さく息を吐いた。「最悪の時間帯だな」 一日のうちで、もっとも人目の多い時間。寮の朝食前から始業までの、ほんの一刻。ここで何かを取り違えれば、学院全体が、簡単に均衡を失う。 女子寮の入口の少し奥から、40代ほどの女性教師が、慌てた様子で歩み出てきた。寮の監督役らしい。顔は青ざめ、結い上げた髪のひと房が、こめかみのあたりでほどけたままになっていた。「ルシアン殿下、お待ちしておりました」 声が、わずかに震えていた。「何が起きている」「生徒が、1人、錯乱の状態にありまして……」 その時だった。 寮の上の階から、重く、乾いた音が響いた。何かが床に強く落ちた音。続いて、女子生徒の悲鳴が、いくつも層になって降ってくる。 寮の入口の少女たちが、揃って一歩、後ずさった。誰かが侍女のエプロンの裾を、無意識に強く握っている。「リリア様、です……」 寮母が、口の中で名前を呟いた。「リリア」 ルシアンが繰り返す。「リリア・セイン伯爵令嬢、です」「歴史学の、補習を受けてた人です」 横から、フィンの声が小さく重なった。 ルシアンは、ゆっくりとフィンへ視線を移した。「補習」 フィンは、少し言いづらそうに視線を逸らした。「アルバート先生、最近、ずっとリリア様を、個別指導してて……」「夜遅くまで、図書塔に残ってることも多かったです」 ルシアンは目を細めた。 深夜の図書塔。アルバート・レイン。そして、その教師の死体。 偶然と呼ぶには、糸が、繋がりすぎている。 寮
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第一章 第10話 リリア・セイン

 寮の前の少女たちは、教師の指示でぽつりぽつりと教室へ流れ始めていた。それでも誰もが、何度か後ろを振り返って女子寮の上階の窓を確かめずにはいられないようだった。 ルシアンも、その視線の先を追って同じ窓を見上げた。 硝子越しに人の影はない。けれど窓の奥のどこかで、低く乾いた音だけが続いていた。何かが床へ落ちる音。鈍く、何度も、繰り返されている。 ルシアンは無意識に外套の襟元を握り直した。 女子寮の扉が内側から開かれたのは、その時だった。「殿下」 息を切らせていたのは寮母だった。先ほどよりも、こめかみの髪が大きくほどけて肩の前にこぼれている。「申し訳ございません。ヴァルキュリア侯爵令嬢から伝言を預かりました」「セレネが」「はい」 寮母は唇を一度湿らせてから、迷うように続けた。「ご令嬢のお部屋に、本来であれば殿下をお招きすることはできません。ですが」 言いかけて、寮母はもう一度、自分の背後の廊下の奥へ視線を投げた。「今のリリア様のご様子では、ヴァルキュリア侯爵令嬢おひとりにお任せするのは、あまりにも……」 最後まで言葉にしきれない、というふうだった。「殿下にも、どうかご同席をお願いできませんでしょうか。寮の責任で、特例としてお通しいたします」 ルシアンはほんの一拍、間を置いた。 男子禁制の女子寮、それも令嬢の自室。その壁を、寮の側が責任を持って一時だけ開ける。それは寮母にとって、簡単に下せる判断ではないはずだった。「分かった」 短く返すと、寮母はほっとしたように肩を落とした。「こちらです」 ルシアンは寮母の背に続いて扉を潜った。 女子寮の中は、奇妙に静かだった。 普段の朝なら、制服のスカートが擦れる音、紅茶を運ぶ侍女の足音、教科書を抱えた令嬢たちの早足、そうした音がいくつも層になって響いているはずの時間帯だった。けれど今、廊下に出ている令嬢たちは皆、壁際に身を寄せ合い、口を片手で覆って小声で囁き合っていた。「本当に、鏡を割ったの」「水の中に、誰かいるって叫んでたらしいわ……」 幼い声が絨毯の毛足を擦るように、廊下の奥へ流れていく。 だが、ルシアンの黒い外套が回廊の角を曲がった瞬間、その囁きはふつりと止んだ。 第三王子。それも、男子禁制の寮内への立ち入り。少女たちの息が揃って詰まる音が、はっきり聞こえた気がした。 
last updateLast Updated : 2026-06-11
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