雨が降っていた。 王都アルヴェリアの石畳を濡らす夜の雨は、音もなく細く、肌に触れるたび冷たい湿りだけを残していく。風はほとんどなかった。煙突から立つはずの煙も、低く家並みの屋根に貼りついて動かない。街の輪郭が、ぼんやりと水に溶けていた。 ルシアン・アルヴェリアは黒い外套を翻しながら、騎士たちに囲まれた噴水広場へ足を踏み入れた。革靴の下で、雨水を含んだ石畳が一度だけ低く軋んだ。提げられたランタンの油の匂い、馬の汗、湿った石、それから誰かの上着の毛織物に染み込んだ煙草の残り香が、雨の中に薄く層を成している。深夜だというのに、人が集まりすぎている。貴族街で死体が見つかったからだろう。その報せだけで、これだけの人間を呼び寄せるには十分だった。 広場の周囲では、夜会帰りの貴族たちの馬車が動けずに停まり、御者たちが手綱を握ったまま、騎士の差し向ける手の動きを目で追っていた。誰も、口を開かず静まり返り、雨音だけが、街全体の代わりに、ひそかに呼吸を続けていた。「第三王子殿下」 若い騎士が慌てた様子で駆け寄ってくる。顔色が悪い。「現場は」「こちらです……」 妙に歯切れが悪い。ルシアンは眉を寄せた。殺人事件など珍しくはない。王都の治安を預かる以上、死体を見ることにも慣れている。だが、今夜の空気は妙だった。誰もが怯えている。古参の騎士までが、視線を地面に落としたまま、こちらをまっすぐ見ようとしない。普段なら冗談の一つも飛ばす男だった。その男の口元が、今は固く結ばれている。ランタンを掲げる手が、わずかに震えていた。橙色の火が水滴の落ちる角度で揺れ、地面に落ちる影の輪郭を一度だけ歪ませた。雨音ばかりが、やけに大きく石畳の上へ落ちていた。 騎士に導かれ、噴水の前へ出た瞬間、ルシアンは足を止めた。 噴水の縁に、一人の男が座るように倒れていた。年は四十前後。上質な濃紺の礼装は雨に濡れてなお高級品だと分かる仕立てで、胸元には銀糸で刺繍された家紋が刻まれている。糸の盛り上がりが、ランタンの光を受けて細かく艶めいた。指には深紅の宝石を嵌めた印章指輪、腰には儀礼用の短剣。鞘の彫り金が、雨で濡れて、いつもより重そうに光っていた。間違いなく高位貴族だ。 だが、その姿を見た瞬間、ルシアンは息を呑んだ。 男の肌には、一切の血色がなかった。青白いというより、蝋で作られた人形の
Last Updated : 2026-06-11 Read more