บททั้งหมดของ 感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜: บทที่ 11 - บทที่ 20

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第一章 第11話 王城の噴水①

 王城へ戻った頃には、太陽は高く昇っていた。昨夜の雨を吸った白い石壁は昼前の光を受けて明るく、馬車止めの石畳には、まだ車輪の跡に水が残っている。 城内では、すでに噂が広がっていた。貴族街の噴水広場で見つかった伯爵と、王立学院の中庭で死んだ教師。どちらも水辺で、血を失い、笑っていた。その話に誰かが水鏡の魔女という名を与えたらしく、使用人たちはルシアンの姿に気づくたび口を閉ざした。 ルシアンは執務室へ入るなり、扉を背後で閉めた。廊下の靴音と小声が少し遠くなり、室内には机に積まれた報告書の紙とインクの匂いが残る。「最悪だな」 机の上には、学院側の報告、騎士団の聞き取り、王都警備隊からの連絡が重なっていた。怪談めいた目撃証言まで混じっているのを見て、ルシアンは眉間を押さえる。「怪異だの亡霊だの、好き勝手言いやがって」 向かいでは、セレネが静かに外套を脱いでいた。黒いドレスの裾には、女子寮で付いた白い埃が少し残っている。「フィンは?」「授業へ戻しました」 セレネは淡々と答えた。「これ以上、現場へ置くべきではありません」「まあ、正解だな」 ルシアンは椅子へ腰を下ろした。フィンはまだ十五だ。貴族の子息として学院にいる以上、いずれ王都の醜い部分を見る日も来るだろう。だが、血を抜かれた死体と怪談の中心に立たせておくには若すぎる。 その時、執務室の扉が叩かれた。「殿下」 入ってきたのは、ルシアン直属の騎士だった。三十代前半ほどの男で、短く整えた茶髪に、乱れのない制服を身につけている。手にした書類の角が少し折れていた。「調べさせていた件、まとまりました」 ルシアンは目を細める。「リリア・セインの件か」「はい」 騎士は一度、報告書へ視線を落とした。「……あまり良い家庭環境ではなかったようです」 窓から差し込む昼の日差しが、机の上の紙束を白く照らしていた。セレネは何も言わず、外套を椅子の背に掛けて、静かに続きを待つ。「セイン伯爵はかなり厳格な人物で、娘へ強い成績要求をしていたようです。学院内の順位にも執着しており、成績が下がった際は、長期間外出を禁じられることもあったとか」「母親は」「社交を優先される方で、娘との関わりは薄かったようです」 騎士がページをめくる。紙の音が、室内に小さく響いた。「使用人の証言では、リリア嬢は幼少期から叱責を
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第一章 第12話 王城の噴水②

「……ローディア?」 ローディア公爵家。王家と並ぶほど古い血筋を持ち、政治、軍、教会のどこにも影響力を持つ巨大貴族。ただの生徒の名前として扱うわけにはいかない。扱いを誤れば、王城と公爵家の問題になる。 セレネは静かに目を伏せた。「なるほど」 小さな呟きだった。 ルシアンはその横顔を見る。「……お前、何か知ってるな」 セレネはすぐには答えなかった。窓から入る光が黒髪を照らし、彼女の白い横顔を浮かび上がらせている。表情はいつもとほとんど変わらない。だが、ルシアンには、いつもより近寄りがたく見えた。「ローディア公爵家は、昔から王立学院へ強い影響力を持っています」「それは知ってる」「特に、図書塔です」 ルシアンは目を細める。「図書塔?」「学院内でも、古い記録が集められている場所ですから」 セレネはそこで言葉を切った。短い答えだった。それ以上を言わないことが、かえって引っかかった。 騎士が補うように報告書をめくる。「実際、アルバート教師は最近、古い資料を調べていたそうです。禁書庫に近い区域への立ち入り申請も増えていました」「どんな資料だ」「詳細はまだ確認中です。ただ、歴史学の授業で使う範囲を越えている、と学院側の司書が話しています」 ルシアンは報告書の文字を睨んだ。 王立学院の図書塔には、一般の生徒が触れられない古文書がある。怪異譚や古い宗教記録、王国成立以前の資料まで、扱いを誤れば面倒になる文書が保管されている。「……偶然にしては、並びすぎだな」 セレネは返事をしなかった。ただ、机の上に置かれた報告書の一点を見ている。「王都の連続殺人。水鏡の魔女。図書塔。ローディア家」 ルシアンは、並んだ名を頭の中で辿った。「問題は、どこまでが人間で、どこからが噂かだ」 セレネの指先が、報告書の端から離れた。「殿下」「何だ」「噂は、誰かに使われている気がします」 それだけ言って、彼女は口を閉じた。 昼の鐘が、遠くで鳴り始めた。王城の中庭では、使用人たちがその音に合わせて歩き出し、洗いたての布を抱えた侍女が、濡れた敷石を避けて回廊へ入っていく。いつも通りの昼だった。皿の触れ合う音も、庭師の鋏が枝を切る音も、どこかの部屋で笑う若い侍女の声もある。 その中で、ルシアンはもう一度、ローディアの名が記された報告書へ目を落とした。 執
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第一章 第13話 王城の悲鳴

 王城の外から響いた悲鳴が、執務室の静寂を切り裂いた。 張り詰めていた空気が一瞬で変わる。 ルシアンは反射的に立ち上がった。「場所は!」 だが、報告を待つより早くセレネが動いていた。 黒いドレスの裾を翻し、そのまま迷いなく扉へ向かう。横顔は驚くほど冷静だったが、海色の瞳だけが鋭く研ぎ澄まされている。 ルシアンもすぐ後を追った。 廊下へ出た途端、周囲の使用人たちがざわついているのが見える。「今の悲鳴……!」 「中庭からだ!」 中庭からだと聞いた瞬間、ルシアンの脳裏に噴水が浮かんだ。胸の奥へ重たい不安が沈み込み、嫌な予感が現実へ変わり始めているのを感じる。 石造りの廊下へ靴音が鋭く響く。窓から差し込む昼の陽射しは眩しいほど白いのに、なぜか空気だけが妙に冷たかった。 やがて中庭へ飛び出した瞬間、騒然とした光景が目へ飛び込んできた。怯えた使用人たちの悲鳴が飛び交い、騎士たちは人々を押し戻しながら慌ただしく走り回っている。 中央噴水の前には、大きな人だかりができていた。「下がれ!!」 騎士たちが使用人たちを押し戻している。 ルシアンはその人垣を押し分けた。「何があった!」 振り返った騎士の顔は青ざめていた。「じょ、女官が一人……!」 その瞬間、セレネの視線が噴水脇へ向く。 石畳の上に、一人の女が倒れていた。 まだ若い。灰色の制服から王城勤めの女官だと分かる。だが、その顔色は死人のように白かった。乾いた唇が小刻みに震え、浅い呼吸を繰り返している。 まるで全身から血の気だけが抜け落ちてしまったようだった。「生きているのか」 ルシアンが低く問う。「は、はい……! ですが意識が混乱していて……」 騎士の声もわずかに震えていた。 セレネはすでに女官の傍へしゃがみ込んでいる。白い指先が静かに首筋へ触れた。「脈はあります」 落ち着いた声だった。 しかし次の瞬間、セレネの目がわずかに細められる。 女官の手首には、小さな針穴のような痕が残っていた。皮膚の周囲には微量の血が滲み、近づくと微かに鉄臭い匂いまで感じられる。 ルシアンの表情が険しくなる。「……同じか」「ええ」 その短いやり取りを聞いた途端、周囲にいた使用人たちの顔色が変わった。ざわついていた中庭から徐々に声が消えていき、誰もが噴水の方を怯えたように見つめ始める。
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第一章 第14話 青のドレス①

 回廊に残った騎士たちは、誰もすぐには動かなかった。 黒い女。長い黒髪。水鏡の魔女。口に出せばただの噂に聞こえるはずの言葉が、今この場ではセレネの姿へ重なりかけている。ルシアンは、騎士たちの視線が一瞬だけ彼女へ流れたのを見た。 面倒なことになった。 王都は噂で動く。一度広がった怪談は、証言の細部など簡単に飲み込んで、都合のいい形だけを残す。ここで余計な印象を与えれば、黒い女という話はすぐに黒髪の侯爵令嬢へ変わるだろう。 ルシアンは小さく舌打ちした。「お前ら、今ここで見たものを外で軽々しく話すな」 低い声に、騎士たちが姿勢を正す。「はっ」「特に黒い女の件だ。庭師と使用人の証言は記録に残せ。ただし、噂話として広げるな。誰かが面白がって余計な尾をつけたら、俺が直接締める」「承知しました」 返事は揃った。だが、完全には止められない。使用人、庭師、警備兵。すでに何人もが黒い女を見たと口にしている。ならば、これ以上セレネの姿をそこへ重ねさせない方がいい。 ルシアンは彼女へ視線を向けた。長い黒髪に、黒いドレス。昼の光の中でも、今の彼女は噂が求める姿に近すぎる。「セレネ」「何でしょう」「しばらく黒はやめろ」 近くにいた若い騎士が、わずかに目を瞬かせた。今それを言うのか、という顔だった。ルシアンは構わず続ける。「今のお前は、証言の特徴に寄りすぎてる。黒い服は避けろ。青でも白でもいい。とにかく、魔女だの何だのと結びつけられる隙を減らす」 セレネは一度だけ、自分の袖へ視線を落とした。黒い布地の上に、回廊の光が細く乗っている。「承知しました」 あまりに素直な返事だったので、ルシアンの方が一瞬詰まった。「……こういう時だけ妙に早いな」「合理的ですので」「可愛げのない返事だな」「今は必要ありません」 いつもの調子だった。そのやり取りで、騎士たちの肩がほんの少し下がる。だが、ルシアンはすぐに表情を戻した。「執務室へ戻るぞ。ここは人目が多すぎる」 セレネは小さく頷き、手の中の髪束を騎士へ渡す前に、赤いリボンの結び目だけをもう一度見た。結び方、長さ、髪の切り口。彼女は何も言わなかったが、ルシアンには、その沈黙ごと持ち帰るつもりなのだと分かった。 執務室へ戻る頃には、窓の外の光が少し傾いていた。 中庭では騎士たちがまだ動いている。噴水周辺には縄
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第一章 第15話 青のドレス②

「では、整理しましょう」 セレネが椅子へ腰を下ろすと、袖口の銀糸が昼の光を拾った。窓の外では、王城中庭の噴水がいつも通りに水を跳ねさせている。騎士たちが縄を張り、使用人を一人ずつ呼び止めている様子も見えたが、ここまで声は届かない。机の上には、三つの現場に関する報告書が並んでいる。 ルシアンは椅子へ深く腰掛け、机の上へ肘を置いた。「被害は三件。正確には二件と未遂一件です」 セレネが静かに口を開いた。「一件目は王都西区の噴水広場。被害者は商人カイル・オルディス。二件目は王立学院中庭。歴史学教師アルバート・レイン。そして三件目が王城中庭の女官です」「全部、水辺だな」「ええ。さらに、全ての現場で黒い女の目撃証言があります」 ルシアンは腕を組んだ。「足を引きずっている件も一致してる」「フィンの証言。リリア様の証言。そして王城回廊の濡れた跡。どれも右足に偏りがあります」「偶然とは思えねぇな」「はい」 セレネは、深い赤のリボンで結ばれた黒髪の束を机に置いた。白い机の上では、黒と赤がはっきり目立つ。見つけさせるために置かれた、と言われれば、そう見える位置と色だった。「そして、これです」「染めた髪か」「おそらく」 セレネは髪束へ視線を落とした。「完全な地毛ではないと思います。黒に寄せている」「つまり犯人は、わざわざ黒髪を用意してるってことか」「はい」 短い肯定だった。「長い黒髪。黒い服。水辺。怪談。犯人は、水鏡の魔女という存在を、人が想像しやすい形に整えています」 ルシアンは小さく舌打ちした。「趣味の悪い話だ」「ですが、効果は出ています」 王都ではすでに噂が広がり始めている。夜の噴水へ近づくな。水鏡の魔女に連れて行かれる。血を抜かれる。どこまでが証言で、どこからが作り話なのか、今となっては聞き分ける方が難しい。「問題は目的だな」 ルシアンは低く呟いた。「ただ殺したいだけなら、もっと目立たずにやれる。なのに、わざわざ噂を広げてる」 セレネは目を伏せた。しばらく報告書を見ていたが、やがて手元の紙を一枚だけずらす。「恐怖を広げたいのか」「あるいは?」 ルシアンが促すと、セレネの海色の瞳が上がった。「誰かへ罪を被せるため」 ルシアンの視線が細くなる。 黒髪の女。長い髪。黒いドレス。水辺に立つ影。証言の形だけを都合よく並
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第一章 16話 赤いリボン

 扉が二度、控えめに叩かれた。「殿下。失礼します」 入ってきたのは、銀縁眼鏡をかけた細身の男だった。焦げ茶色の髪を後ろへ撫でつけ、制服の襟元も袖口も乱れがない。派手さはないが、手にした書類の角まで揃えられているあたり、仕事の仕方は分かりやすかった。 ルシアンは軽く顎をしゃくる。「紹介してなかったな。エドガー・ベルンだ。俺付きの補佐官で、王都側の情報整理と近衛との連携を任せてる」 エドガーは静かに一礼した。「初めまして、セレネ様」「……初めまして」 セレネも小さく会釈する。エドガーの視線が、ほんの一瞬だけ彼女のドレスへ向いた。深い海色から裾へ向かって淡くなり、端に金に近い橙を含む布地。それから長い黒髪。だが彼は何も言わず、すぐに書類を机へ置いた。「王都側の聞き取り結果をお持ちしました」 ルシアンは椅子へ座り直す。「何か出たか」「複数の証言が一致しました。第一事件の前夜、王都西区の噴水広場付近で、黒い女を見た者がいます」 セレネの海色の瞳が、わずかに細められる。「特徴は」「長い黒髪。黒いドレス。右足を引きずる歩き方だったそうです」「また同じか」 ルシアンは舌打ちした。「他には」「目撃者によれば、女は噴水の前で何かを水へ落としていたとのことです」「何を落とした」「距離があり、そこまでは確認できていません。ただ、その場にいた者の一人が水鏡の魔女だと騒ぎ始め、噂が広がったようです」 エドガーの声は終始淡々としていた。王都ではすでに怪談として広がっている事件だというのに、余計な感情を挟まない。数か月前にルシアン付きとなったばかりだが、こういう時の正確さは信用できる。真面目で、堅物で、面白みはない。だが、報告の順番を間違えない男だった。「学院側は」「アルバート教師についても調べました」 エドガーは書類を一枚抜き出し、机の中央へ置いた。「死亡前、彼は図書塔の禁書区域へ頻繁に出入りしていたようです」 セレネの視線が、その書類へ落ちる。「許可は」「正式なものがあります。学院長直筆です」 ルシアンは眉を寄せた。「何を調べていた」「古い民間信仰についてです。特に、水へ捧げる儀式に関する記録を探していたと、司書が証言しています」 ルシアンの瞳の奥で、夕日の金が少し強くなる。「……随分と都合のいい時期だな」「ええ」 セレ
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第一章 17話 歌声

 執務室の空気が、一瞬で張り詰めた。ルシアンが即座に立ち上がる。「目を覚ましたのか」「はい! まだ完全ではありませんが、受け答えは可能だと」「行くぞ」 短く告げ、ルシアンはそのまま執務室を出た。セレネも静かに続き、その後ろをエドガーが乱れない足取りで追う。 王城の廊下は、昼を過ぎたというのに妙に静かだった。普段なら使用人たちの話し声や足音が響いている時間だ。だが今は違う。すれ違う侍女たちは皆どこか怯えた顔をしている。小声で囁き合い、こちらへ気づくと慌てて頭を下げた。 王城で怪異が起きた。 その噂は、もう完全に広がっている。ルシアンは小さく息を吐いた。「最悪だな」「ええ」 セレネは静かに答える。「王都の怪談では終わらなくなりました」 海色の瞳はまっすぐ前を向いていた。感情の読めない横顔。だがルシアンは知っている。セレネは考えている時ほど、表情が消える。 やがて医務室前へ辿り着く。扉の前には近衛騎士が二名立っていた。「殿下」「中は」「医師が一人。女官はかなり怯えております」 ルシアンは短く頷き、扉を開いた。 医務室の中には、濃い薬草の匂いが満ちていた。窓際では白いカーテンが静かに揺れている。昼の陽射しは柔らかい。なのに、空気だけが妙に冷えていた。 奥のベッドへ横たわる女官は、まだ顔色が悪い。唇から血色が消え、腕には包帯が巻かれている。細い肩は毛布の下でも小さく震えていた。 扉が開く音に、女官がびくりと身体を強張らせる。「だ、大丈夫だ」 ルシアンが低い声で言った。「少し話を聞かせてほしい」 女官は怯えたまま、小さく頷く。セレネは静かにベッドの傍へ近づいた。「無理に思い出さなくて構いません。覚えている範囲で――」 その時だった。女官の視線が、ふとセレネへ向く。長い黒髪。海色の瞳。深い青のドレス。その瞬間、女官の顔色がさっと変わった。「ひっ……!」 掠れた悲鳴だった。ベッドの上で身体が大きく震える。「お、おい!」 医師が慌てて女官を支える。ルシアンが眉を寄せた。「落ち着け。こいつは犯人じゃない」 だが女官は、まだ怯えた目でセレネを見ていた。まるで、何か恐ろしいものを見るみたいに。 医務室の空気が重く沈む。セレネは静かに視線を伏せた。「……失礼しました」 淡々とした声だった。彼女は一歩後ろへ下がる。その仕草
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第一章 18話 禁書区域①

 医務室を出た頃には、外はすっかり夜へ沈み始めていた。 窓の外に見える王城中庭は、昼間とは別の場所みたいに静まり返っている。あれほど騎士や使用人が行き交っていた噴水前も、今は暗い影の中に沈んでいた。 噴水は止まっている。水の流れる音は、どこにもない。なのに、ルシアンの耳には、まだ女官の震える声が残っていた。 歌ってたんです。 長い廊下を歩きながら、ルシアンは小さく息を吐いた。「……気味悪ぃな」「ええ」 隣を歩くセレネが、静かに頷く。「歌声だけ、浮いています」ルシアンは横目で彼女を見た。「浮いてる?」「水鏡の魔女の記録に、歌の話はほとんどありません。今回の事件で初めて出てきた証言です」「つまり犯人が、後から付け加えた可能性があるってことか」「ええ。あるいは、元の伝承を誤解しているか」セレネの声は淡々としていた。だが、その横顔はどこか考え込んでいる。ルシアンは、その顔をよく知っていた。セレネが違和感を掴んでいる時の顔だ。答えにはまだ届いていない。だが、何かが引っかかっている。「だからこそ、元の伝承を確認する必要があります」「……図書塔か」ルシアンの声が、露骨に沈んだ。セレネが視線を向ける。「何か問題が?」「いや。たぶんいる」「?」「第二王子殿下ですか」 後ろを歩くエドガーが、さらりと言った。ルシアンは即座に嫌そうな顔をする。「お前、空気読め」「失礼しました」 全く悪びれていない声だった。セレネが小さく瞬きをする。「フェリクス殿下が?」「夜の図書塔っていったら、大体いる」ルシアンは深いため息を吐いた。「絶対また面白がられる」セレネは不思議そうに首を傾げる。その反応に、ルシアンは眉を寄せた。「お前、兄上たちとまともに関わらねぇもんな」「必要最低限です」「通常それを関わってないって言うんだよ」エドガーが静かに口を開いた。「第二王子殿下は、現在も王立自然学研究院との共同研究を進めておられます。最近は地下設備の調査にも関わっているとか」「ほら来た」ルシアンが嫌そうに呟く。「絶対話長い」「研究熱心でいらっしゃいますから」「他人事みたいに言うな。毎回巻き込まれるの俺なんだよ」セレネの海色の瞳が、わずかに細められた。「……地下設備」 小さな呟きだった。ルシアンが視線を向ける。「何か気になるか」
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第一章 19話 禁書区域②

「やあ。遅かったね、ルシアン」 軽い声だった。 灯りの向こうで、大量の本を抱えた男が楽しそうに笑っていた。柔らかな金髪。王家特有の、蒼と金橙が混ざる夕空の瞳。だがルシアンよりも柔らかく、どこか掴みどころのない雰囲気をしている。 白衣にも似た長衣の袖は少し捲られ、指先にはインクの汚れまで付いていた。王族らしからぬ姿だ。それなのに、不思議と気品だけは隠れない。「……兄上」「そんな嫌そうな顔しなくてもいいだろう?」フェリクス・アルヴェリア。アルヴェリア王国第二王子。そして王立自然学研究院の中心人物でもある男だった。フェリクスは抱えていた本を片腕に寄せ、まずセレネへ視線を向ける。「へぇ。君まで来るってことは、かなり厄介な事件みたいだね」セレネは静かに一礼した。「ご無沙汰しております、フェリクス殿下」「相変わらず硬いなぁ。学院時代から思ってたけど」ルシアンは即座に口を挟む。「絡むな」「別に絡んでないよ。ただ、君がわざわざ夜の図書塔に来るってことは、本気で気になってるんだろうなと思って」フェリクスは楽しそうに笑った。ルシアンは、その笑い方が昔から苦手だった。軽い。適当そう。何も考えていなさそう。なのに実際は、誰より人の反応を見ている。フェリクスはそういう男だ。その視線が、ふと後ろへ向く。「……ああ」 少し意外そうな声だった。「君が最近ルシアンについた補佐官か」エドガーは静かに一礼した。「エドガー・ベルンです」「へぇ」フェリクスは面白そうに目を細める。「静かな人だね」「よく言われます」「何考えてるか分からないタイプだ」「兄上」ルシアンが低く止める。「初対面で失礼だぞ」「褒めてるつもりなんだけどな」フェリクスは悪びれもせず肩を竦めた。そう言いながら、彼は図書塔の奥へ歩き出す。「それで? 水鏡の魔女の記録を見に来たんだろう?」ルシアンは眉を寄せた。「なんで知ってる」「王城の噴水で騒ぎがあった。女官が倒れた。しかも君がセレネ嬢を連れて夜の図書塔に来た。ここまで揃えば、だいたい分かるよ」「本当に可愛げねぇな」フェリクスはくすりと笑う。「兄に可愛げを求める年齢でもないだろう?」 図書塔の中は、古い紙と革の匂いがした。壁一面に本棚がそびえ、上階へ続く螺旋階段が暗がりの中へ伸びている。高窓から差し込む月明かりと
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第一章 20話 古い記録

 禁書区域の扉が閉まる。 重い音が響いた瞬間、外の空気が完全に切り離された気がした。ルシアンは思わず眉を寄せる。 冷たい。 石壁に囲まれた空間は、まるで地下墓地みたいだった。高い棚がいくつも並び、古書や記録書が隙間なく収められている。革の匂い。古い紙の匂い。微かな埃っぽさ。ここだけ時間が止まっているみたいだった。「……相変わらず空気悪ぃな」「保存のためだよ。湿度も温度も調整してる」フェリクスは慣れた様子で奥へ進む。ルシアンは隣のセレネをちらりと見た。 彼女はいつも通り静かだった。黒髪を揺らしながら、本棚をゆっくり見上げている。 学院時代からそうだ。本を読んでいる時だけ、セレネは少し空気が変わる。周囲への警戒が薄れるというか、目の前の文字へ意識が沈む。本人は気づいていないだろうが。「こっち」フェリクスが机へ数冊の古書を置いた。分厚い本だった。どれも革表紙が黒ずみ、題名も擦れて読めない。「水鏡の魔女に関する原典記録。地方伝承も混ざってるけど、一番古い系統はこれだね」フェリクスは慣れた手つきで頁を開く。古い文字が並んでいた。ルシアンには正直読みづらい。「兄上、よく読めんなこんなの」「慣れ」「雑だな説明」フェリクスは楽しそうに笑った。「アルヴェリア暦523年。今がアルヴェリア暦726年だから、二百年以上前の記録だね」アルヴェリア暦。アルヴェリア王国建国を起点に数えられる、王国共通の年代記だ。つまり、この記録が書かれた頃には、今の王城もまだ増築途中だったはずだ。ルシアンは小さく眉を寄せた。「そんな昔からある話なのか」「王国中期には、すでに水鏡の魔女の名前が存在してたみたいだね」フェリクスは文字を指先でなぞる。「共通点は多い。水辺。黒髪の女。失血。そして鏡」「鏡?」ルシアンが眉を寄せる。フェリクスは頷いた。「水面を鏡として扱ってる記述が多いんだ。覗き込んだ者は連れていかれるってね」「怪談そのままだな」「民間伝承なんてそんなものだよ」そう言いながら頁をめくる。古い挿絵が目に入った。 水辺に立つ長髪の女。細い指。笑っているようにも見える顔。ルシアンは無意識に眉を寄せた。嫌な絵だった。「でも、やっぱり歌は出てこない」フェリクスの声に、ルシアンは顔を上げる。「やっぱりか」「少なくとも原典にはないね。後世の記録にな
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