LOGIN王都アルヴェリアで噂される、夜の水辺に現れる怪異。血を失い、笑みを浮かべた死体。不自然に残された足跡。 そして黒髪の女を思わせる手がかり。王国の治安を担う第三王子ルシアンは、婚約者である侯爵令嬢セレネと共に調査へ乗り出す。誰もが怯える怪異を前にしても、感情を表に出さないセレネは取り乱さない。事件を追うほど、ルシアンは怪異の名を借りた人の悪意と、人の理では説明できない存在に近づいていく。感情を閉ざした令嬢と、彼女を理解したい王子が真実を暴く、異世界ミステリー×怪異ホラー×不器用な溺愛ストーリー。
View More雨が降っていた。
王都アルヴェリアの石畳を濡らす夜の雨は、音もなく細く、肌に触れるたび冷たい湿りだけを残していく。風はほとんどなかった。煙突から立つはずの煙も、低く家並みの屋根に貼りついて動かない。街の輪郭が、ぼんやりと水に溶けていた。
ルシアン・アルヴェリアは黒い外套を翻しながら、騎士たちに囲まれた噴水広場へ足を踏み入れた。革靴の下で、雨水を含んだ石畳が一度だけ低く軋んだ。提げられたランタンの油の匂い、馬の汗、湿った石、それから誰かの上着の毛織物に染み込んだ煙草の残り香が、雨の中に薄く層を成している。深夜だというのに、人が集まりすぎている。貴族街で死体が見つかったからだろう。その報せだけで、これだけの人間を呼び寄せるには十分だった。広場の周囲では、夜会帰りの貴族たちの馬車が動けずに停まり、御者たちが手綱を握ったまま、騎士の差し向ける手の動きを目で追っていた。誰も、口を開かず静まり返り、雨音だけが、街全体の代わりに、ひそかに呼吸を続けていた。
「第三王子殿下」
若い騎士が慌てた様子で駆け寄ってくる。顔色が悪い。
「現場は」
「こちらです……」
妙に歯切れが悪い。ルシアンは眉を寄せた。殺人事件など珍しくはない。王都の治安を預かる以上、死体を見ることにも慣れている。だが、今夜の空気は妙だった。誰もが怯えている。古参の騎士までが、視線を地面に落としたまま、こちらをまっすぐ見ようとしない。普段なら冗談の一つも飛ばす男だった。その男の口元が、今は固く結ばれている。ランタンを掲げる手が、わずかに震えていた。橙色の火が水滴の落ちる角度で揺れ、地面に落ちる影の輪郭を一度だけ歪ませた。雨音ばかりが、やけに大きく石畳の上へ落ちていた。
騎士に導かれ、噴水の前へ出た瞬間、ルシアンは足を止めた。
噴水の縁に、一人の男が座るように倒れていた。年は四十前後。上質な濃紺の礼装は雨に濡れてなお高級品だと分かる仕立てで、胸元には銀糸で刺繍された家紋が刻まれている。糸の盛り上がりが、ランタンの光を受けて細かく艶めいた。指には深紅の宝石を嵌めた印章指輪、腰には儀礼用の短剣。鞘の彫り金が、雨で濡れて、いつもより重そうに光っていた。間違いなく高位貴族だ。
だが、その姿を見た瞬間、ルシアンは息を呑んだ。
男の肌には、一切の血色がなかった。青白いというより、蝋で作られた人形のようだった。雨が頬を流れても、皮膚はその水を弾かない。受け止めて、ただ濡れている。生きている人間の肌が持っているはずの、わずかな油の膜のようなものが、そこにはない。唇は死人特有の紫色を通り越し、灰色に近い。指先まで色が抜け落ち、血管の浮きもない。手の甲の細い静脈が、本来ならば青く透けるべき場所に、ただ白い皮の溝だけが残っていた。人間の身体から、本当に血だけを抜き取ればこうなるのではないか。そう思わせるほど、異様な死体だった。
なのに、男は笑っていた。
頬は不自然につり上がり、口角は、生前の癖からは想像もつかない高さまで持ち上げられている。歯のあいだから、わずかに歯列が覗いていた。雨水が口腔の中まで入り込み、舌の上で薄く溜まっている。けれど、その口元は崩れない。固まったまま、笑っている。幸福そうに。まるで死の直前、何かに魅入られていたかのように。背筋を、雨より冷たいものが伝った。
「……死因は」
「分かっておりません」
騎士が震えた声で答える。
「ですが、その……体内の血液が、ほとんど失われているようで…」
「外傷はないな」
「はい」
ルシアンは黙って死体を見下ろした。傷一つない。争った形跡もない。
ふと、鉄臭い匂いが鼻を掠める。血の匂いだ。雨に薄められた、けれど確かな、湿った金属の匂い。だが周囲には血痕一つない。死体の足下にも、噴水の縁にも、赤い染みはどこにもなかった。雨水だけが、石畳の継ぎ目を細い筋になって流れ、男の革靴の縁を撫でて、低い方へと去っていく。
「……何を怯えている」
ルシアンが低く問うと、騎士たちは顔を見合わせた。やがて一人が、恐る恐る口を開く。
「水鏡の魔女です」
広場の空気が凍りついた。
「最近、王都で噂になっている怪談です」
「どんな話だ」
「水面に本当の顔を映された者は、死ぬ、と」
くだらない。そう切り捨てるには、騎士たちの怯え方が異常だった。
「被害者は死ぬ直前まで、ずっと噴水を見ていたそうです」
「それで怪異だと」
「し、しかし殿下」
騎士は震える指で噴水を指差した。雨粒が水面を揺らしている。その中に、一瞬だけ、死体の顔が泣いているように見えた。
ルシアンは目を細める。次の瞬間には、ただの水面に戻っていた。
「……錯覚だ」
そう言ったものの、胸の奥に小さな違和感が残った。騎士たちはまだ死体に近づこうとしない。ルシアンは小さく息を吐く。
「セレネを呼べ」
その名が出た瞬間、騎士たちの表情が微かに変わった。安堵と、わずかな緊張が同時に走る。
「すでに使いを出しております」
「なら早いな」
そう言った直後だった。広場の奥から、静かな足音が聞こえた。雨音にほとんど紛れる、けれど確かに石畳を踏む音。靴の踵が、水溜まりを避けることもなく、まっすぐにこちらへ近づいてくる。騎士の一人が、息を呑んだ。別の一人が、無意識に半歩、道を譲った。
黒い外套。夜を溶かしたような長い黒髪。月明かりを浴びるたび、濡れた夜のように青く光る。前を歩く騎士のランタンの光が当たると、髪の表面に細かい雨粒が銀色に散って見えた。深い海色の瞳は、ほとんど光を映さない。静かな海底を覗き込んでいるような、冷たい色だった。
肌は驚くほど白い。雪というより、月光に近い。冷たく、触れれば消えてしまいそうな白さ。雨に濡れているはずなのに、肌の色だけは、まるで雨の方が彼女を避けて落ちているように、変わらなかった。整いすぎた顔立ちは、美しいというより人形じみていた。その完璧さが、逆に人を遠ざける。
セレネ・ヴァルキュリア。ルシアンの婚約者。
社交界では、こう囁かれている。ヴァルキュリア侯爵令嬢は、人の形をした月だ、と。
セレネは死体を一瞥し、静かに噴水へ近づく。騎士の一人が慌てて止めた。
「セ、セレネ様。危険です」
「何がです」
「水鏡の魔女が……」
「怪異なら」
セレネは静かに言った。
「もっと上手く殺します」
場が凍りつく。ルシアンは思わず苦笑した。
「相変わらず容赦ないな」
「事実です」
彼女はしゃがみ込み、死体の指先に触れる。細い指が、死人の灰色の肌をなぞった。素手だった。手袋もせず、躊躇いもしない。雨に濡れたセレネの指と、死人の指の色は、ほとんど同じ温度に見えた。海色の瞳が細くなる。
「……異常な貧血状態ですね」
「分かるのか」
「ここまで血液を失えば、通常は顔面が歪みます」
セレネは、笑ったままの死体を見下ろした。
「なのに、なぜ笑っているのでしょう」
雨音だけが、静かに広場へ落ちていく。やがて彼女は、ぽつりと言った。
「……殿下」
「何だ」
「これは呪いではありません」
セレネは水面を見つめたまま、静かに告げる。
「人間が作った死体です」
「……お会いしたかったのです、セレネ様」 その声は、水面へ落ちる雫みたいに静かだった。 ルシアンは小さく目を細める。初対面の相手へ向ける声にしては、あまりに深い。まるで長い間、胸の奥で大切にしていた名前を、ようやく口にしたみたいだった。「私に、ですか?」 セレネが少し戸惑ったように尋ねる。その瞬間、エレノアの瞳がぱっと明るくなった。「はい……!」 思わず熱が零れたような声だった。「ずっと、お会いしてみたかったんです。学院でのお話も少しだけ聞いていましたし、その……」 エレノアはそこで言葉を詰まらせる。頬が薄く赤い。細い指が落ち着かなさそうに杖を握り直した。「とても、お綺麗な方だと……」 セレネが少し困ったように瞬きをする。「ありがとうございます」「い、いえ。こちらこそありがとうございます」 何に対して礼を言っているのか分からない。フェリクスが堪えきれないように小さく笑った。 ルシアンは黙ってエレノアを見る。先ほどまでの儚げな雰囲気が、セレネを前にした途端に崩れている。分かりやすすぎた。「本当は……」 エレノアは小さく息を吸った。「お姉さまとお呼びしたいくらいで……」 部屋の空気が止まった。 セレネが固まる。フェリクスが吹き出しそうになるのを堪えるように口元を押さえた。ルシアンは無言でエレノアを見る。 エレノアは、自分が口にした言葉に遅れて気づいたらしい。みるみる顔を赤くした。「あ、いえ、その……申し訳ありません。初対面でこんなことを」「いえ……驚きましたが」 セレネが少しだけ柔らかく笑う。「嫌ではありません」 エレノアの瞳が、またぱっと明るくなった。「本当ですか?」「はい」「では、いつか本当に――」 そこまで言って、エレノアははっと口を閉じた。 ルシアンは眉を寄せる。この令嬢は、思っていたよりずっと感情が顔へ出る。少なくとも、セレネに対してだけは。 エレノアはようやくルシアンへ視線を向け、姿勢を正した。「失礼いたしました、ルシアン殿下。フェリクス殿下も、ようこそお越しくださいました」 今度の声は落ち着いていた。先ほどまでの熱は綺麗に消えている。「足の具合は?」 フェリクスが穏やかに尋ねる。「だいぶ良くなりました。まだ長く歩くのは難しいのですが」 エレノアは儚げに微笑んだ。さっきまでセレネへ向
ローディア公爵家へ向かう馬車には、ルシアン、セレネ、フェリクスの三人だけが乗っていた。 エドガーは王城へ残してある。レイモンド・グラディス伯爵の交友関係、学院事件当日の記録、ローディア家主催の夜会名簿。調べるべき資料は、まだ山ほどあった。 馬車が石畳を踏むたび、小さく揺れる。向かい側では、セレネが静かに窓の外を見ていた。 今日は珍しく髪を上げている。後ろで編み込まれた黒髪の隙間から、白い首筋が覗いていた。窓から差し込む昼の光が、淡い青銀色のドレスへ落ちるたび、水面みたいに柔らかく光る。 ルシアンは無意識に視線を止めた。 その瞬間、昨夜、指先へ触れた黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかかった。思い出した瞬間、自分で少し眉を寄せる。「……顔が怖いよ、ルシアン」 隣でフェリクスが笑った。「別に」「いや絶対、今セレネ嬢見てたでしょ」「兄上」 フェリクスは楽しそうに肩を竦める。セレネは聞こえていないふりをして窓の外を見続けていたが、耳が少しだけ赤い。 ルシアンは気づいていない。「そういえば」 フェリクスがふと思い出したように口を開いた。「ローディア家が、昔から学院へ深く関わっているのは知ってるかな?」 セレネが静かに視線を向ける。「図書塔を管理するための支援も、代々ローディア家が行っていますね」「そうそう」 フェリクスは軽く頷いた。「僕も研究者として図書塔はよく使うからね。王城にはない古い写本や地方記録も、学院側には残ってたりする」「王城にないものが?」 ルシアンが眉を寄せる。「王城は、残すべきものを管理する場所だからね。でも学院は少し違う」 フェリクスは窓の外を眺めながら笑った。「捨てきれなかったものまで抱えてる」 ルシアンは小さく目を細める。 地下礼拝堂。削られた壁画。顔を壊された女神像。黒き髪は、ノクシアの器。あれもまた、誰かが捨てきれなかったものなのかもしれない。「ローディア家は、古い知識に近い家だ」 フェリクスが続ける。「歴史、宗教、禁書、地方信仰……そういうものを代々集めてきた」「だからアルバート教師とも繋がりがあった可能性があるのか」「十分あり得るね」 セレネが静かに呟く。「知識を集める家、ですか」 ローディア公爵家は、五大公爵家の中でも特別な立場にある。 一方で、北方防衛を担うヴァルフォード
昼を少し過ぎた頃。王族区画の執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。 ルシアンは机へ肘をつきながら、エドガーが整理した資料へ視線を落としている。向かい側では、フェリクスが紅茶を片手に書類を眺めていた。そしてエドガーはというと、几帳面な性格そのままに、机の端で資料を分類している。「アストレア公爵家の令嬢が足を怪我したのは三日前です」 エドガーが静かに口を開いた。「階段から落ちたと記録されています」「偶然にしては出来すぎてるな」 ルシアンは眉を寄せる。 地下礼拝堂。杖の跡。そして公爵家の紋章入りのハンカチ。疑うには十分すぎた。だが同時に、どこか噛み合わない感覚も残っている。「本人へ直接確認するしかないだろ」「今日、公爵家へ行くの?」 フェリクスが紅茶を置きながら尋ねた。「ああ。話を聞く」「王族特務隊として?」「表向きはな」 ルシアンがそう答えた時だった。コンコン、と扉がノックされる。「失礼します。遅くなりました」 静かな声と共に扉が開いた。 セレネだった。淡い青銀色のドレス。昼の光を受けると柔らかく色が変わる、落ち着いた明るい色合いだ。装飾は控えめだが、上質な生地なのがすぐ分かる。 そして何より目を引いたのは髪だった。いつもは下ろしている長い黒髪を、今日は後ろで丁寧に編み込み、すっきりとまとめている。白い首筋が見えていた。 入室したセレネが軽く一礼する。その姿を見た瞬間、昨夜、指先へ滑った黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかくて、驚くほど軽かった。ルシアンの視線が自然と止まった。「……髪」 ぽつりと漏れた声に、セレネがきょとんと目を瞬く。「え?」「今日は上げてるんだな」 セレネが明らかに驚いた顔をする。まさかそこを指摘されると思っていなかったのだろう。「……よく気づきましたね」「いや、普通に分かるだろ」「ルシアンが女性の髪型に気づくなんて珍しいねぇ」 フェリクスが面白そうに笑う。ルシアンは露骨に眉を寄せた。「うるせぇ」「いやだって、本当に興味ないタイプじゃん?」「兄上」「昨日何かあった?」「何もねぇよ」 即答だった。だが、少しだけ返答が早すぎた。 フェリクスが楽しそうに目を細める。セレネはというと、ほんの少しだけ視線を逸らしている。白い頬が、僅かに赤い。 だがルシアンは気づいていない。「そ
地下水路を出た頃には、空が白み始めていた。 夜明け前の王城は静かだった。昼間の喧騒が嘘みたいに、人の気配が少ない。地下の湿った空気から戻ってきたせいか、石造りの回廊を流れる朝の冷気が妙に心地よく感じた。ルシアンは軽く息を吐く。 身体が重い。 王都の噴水で遺体が見つかってから、まともに眠れていない。学院での事件。王城で倒れた女官。禁書区域で見つけた古い記録。そして地下水路。気づけば、夜は明けかけていた。 隣を歩くセレネも、さすがに疲れているらしい。濡れた黒髪がまだ完全には乾いていない。地下水路の湿気をまとったまま、静かな顔で歩いている。フェリクスが小さく肩を竦めた。「今日はここまでにしようか。さすがに頭が働かない」「兄上でもそんなこと言うんだな」「失礼だなぁ。僕だって疲れるよ」そう言いながらも、フェリクスの表情はどこか楽しそうだった。「地下礼拝堂、面白かったしね」「面白いで済ませるな」「でも久々だろ? ルシアンがこんなに夢中になってるの」 ルシアンは小さく眉を寄せる。否定しようとしたが、言葉が出なかった。確かに気になっていた。王城の地下に、あんな場所が残っていたことも。誰かが今も使っている形跡があることも。全部が妙に引っかかっていた。「じゃ、僕は一度部屋へ戻るよ。また昼頃に」フェリクスは軽く手を振ると、そのまま別の回廊へ消えていった。 静けさが残る。ルシアンは隣のセレネを見る。「お前も休め」「殿下こそ」「俺はまだ執務が残ってる」セレネは少しだけ呆れたような顔をした。「少しはお休みください」「努力はする」 絶対休まない返答だった。セレネも分かっているのか、小さく息を吐いた。「……無理はなさらないでください」「お前もな」 短いやり取りの後、二人はそれぞれ別の回廊へ向かう。 婚約者であるセレネには、王城内に専用の居室が与えられていた。正式な婚姻前とはいえ、王族教育や公務補佐のため、半ば王族扱いに近い立場なのだ。ルシアンはそのまま執務室へ戻った。部屋へ入った瞬間、ようやく肩の力が抜ける。 机の上には、エドガーが整理したらしい資料が既に積み上がっていた。几帳面すぎるほど整っている。「……仕事早ぇな」ルシアンは適当に一枚手に取る。だが文字が頭へ入ってこない。視界が霞む。 限界だった。 ルシアンは低く息を吐くと、
セレネの視線は、ずっと中庭の奥のほうへ向けられていた。死体ではない。もっと奥の、別の何かを探しているような目だった。「……お前、何を見てる」 ルシアンは低く問う。 セレネはすぐには答えなかった。睫毛の動きすら惜しむように、視線だけが、ゆっくりと中庭の隅から隅へと流れていく。それから、ぽつりと言った。「まだ、分かりません。ですが、嫌な感じがします」 その時だった。「殿下」 中庭の側で待機していた男が、早足で駆け寄ってきた。エドガー。王族特務隊の隊長補佐。数か月前から隊長補佐になった男だが、普段は資料整理を任せている、几帳面で空気を読むことに長けた男だった。「現場の封鎖
王城を出た頃には、空が薄く白み始めていた。 雨は完全に上がっていた。けれど王都の石畳には、まだ昨夜の雨を吸ったままの水溜まりがあちこちに残り、灰色がかった空をぼんやりと映している。馬車の車輪が、その上を通るたびに低く軋み、轍が浅く水を弾いて、また背後に小さな水紋を作っていった。 ルシアンは窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、頭の奥には、昨夜の噴水が、まだ濃く焼き付いて離れなかった。 笑う死体。血のない身体。そして、揺れる水面に一瞬だけ映った、長い黒髪の女。 目を閉じれば、すぐに浮かぶ。瞼を上げれば、向かいの窓硝子に、湿った朝の街が、ぼんやりと映って流れていた。
一瞬、部屋が静まり返った。 暖炉の薪がぱちりと爆ぜる音だけが、やけに大きく耳に残る。窓の外はまだ夜の名残を引きずる薄青で、雨上がりの湿った匂いが、開け放たれた扉の隙間から忍び込んでいた。「……は」 ルシアンの手が、握りかけていた書類の上で止まる。「もう次が出たのか」 声に、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。「は、はい」 報告に来た騎士の顔は、ランプの光の下でも分かるほど青ざめていた。雨に濡れた外套の裾から、絨毯に小さな滴が落ちる。「最初の被害者と同じです。血液がほとんど──失われています」 言葉の最後が、掠れた。 誰かが、息を呑む音。空気が、ぴんと張り詰める。 ルシアン
王城へ戻った頃には、空が白み始めていた。 夜明け前の薄青い光が、長い廊下の窓から差し込んでいる。雨は王城に着く頃にはほとんど止んでいて、回廊の硝子窓の外では、最後の細かい霧雨が、灰色がかった青の空気の中を、まだゆっくりと落ちていた。廊下の燭台はほとんど落とされ、残った一つだけが、回廊の角で低く揺れていた。蝋の溶けた匂いが、湿気を含んだ空気の中にかすかに残っている。ルシアンは外套を脱ぎながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、胸の奥に嫌な感覚だけが残っていた。 雨に濡れた噴水の縁で、不自然に笑ったまま動かなかった死体。そして、水面に一瞬だけ映った、長い黒髪の女。どちらも、目を閉じれば瞼