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All Chapters of サトラレメイド: Chapter 31 - Chapter 40

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3章 入地鈴子の本気 1

 あの後、俺はできうる限りのサトラレ征伐を敢行してみるも、たった一日でどうにかなるわけもなく、いたずらに時間だけがすぎていった。 結局の所、七岸さんのサトラレはそのままだ。いや、かなり薄くなってはいるものの、それだけ。治るには至らない。 「やはり、一日では治しきれなかったか……」 俺は自室にこもり、机に突っ伏しながら嘆く事しか出来ない。 「あと少し、本当にあと少しだったのに……無念だ」 もうじき夜が明ける。全てを終わらせる破滅の朝だ。 「七岸さん……」 顔を上げると、窓の外には鉛色で覆われた灰色の空が漂っていて、カタカタと強い風が寂しげな音を立てていた。 そんな寂寥とした世界の中、俺は悲鳴のように独りごちる。 「とはいえ、両親と暮らせるならそれに超したことはない。それ自体はめでたいんだ。祝福してあげないと」 笑いたい。笑顔で彼女の自由を出迎えたい。でも、出来ない。 「でも! まだサトラレは治っていない! もう少しなのに!」 俺は努力で出来ないことなどないと信じていた。 でも、違った。この世には不可能はどうしてもあって、いくら頑張っても無理なものは無理なのだと痛感させられる。 「逆境だ……この逆境が俺を燃え上がらせる……しかし、今回ばかりは」 俺は頭をかかえ、涙を落とす。 ぽたりと、小さな雫が机にしみこんでいく。 「この事情では、いかにミスター完璧超人をめざす俺でも止めようがないじゃないか!」 もはやどうにもならない。 全ては終わってしまったのだ。 結局出来たのは泣くことだけ。灰色の空の下、俺は彼女の帰省を見送ることになった。 「誠二様」 トランク一つに着物姿の七岸さん。頭につけた赤いリボンがなんとも可愛らしい雰囲気を醸し出している。 三つ編みに結った長髪、きりりとした顔立ち。できればもっと見ていたかった。ずっとずっと見ていたかった。 でも、それはもう叶わない。 「あ、七岸さん……行くんだ」
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3章 2

 誰も居ない庭先。開かれた門から入ってくるのは凍てつくような北風のみ。   俺はどんっと地面を殴りつける。 「七岸さん……俺は、俺はどうしたら、どうしたらいいんだ! このはち切れんばかりの思いを! 七岸さんへの愛を! このまま潰えさせていいのか!?」   諦めろだと? そんなことできるか!   でも、どうしようもないのだ。七岸さんは帰るしかないし、俺には俺の問題がある。 「鈴子さん……。遠距離恋愛を許すほどの猶予は……おそらくなかろう。俺はすぐにでも助けないといけなかったのに!」   悠長にサトラレ征伐なんかしないでとっとと告白すればよかった。   しかし後悔先に立たず。もう全て手遅れである。 「俺は、俺は……っ! 一体、どうすればいいんだ!」   果てしない絶望が俺の胸を締め付ける。ぎゅうぎゅうとして、押しつぶされそう。 「兄者」   その時、背中からどこか冷たさのある声が、ちくりと突き刺さった。   身を起こし、振り返る。そこには寝間着姿の聖子の姿があった。 着替えていないのか、はしたないと普段なら叱っただろうが、今はとてもそんな気分になれず、 「聖子……」   とだけ答えた。   彼女の足下にはうりっちの姿もあり、彼もまた、俺に睥睨を向けている。   すると聖子がすっと手を差し伸べてきた。掴めというのか。   俺は黙って彼女の手を取ると、ぐいっと引き寄せながら力強い言葉をぶつけてくる。 「兄者、あたしは兄者は素晴らしい人間だと思う。まさにグロリアス・レジェンド・シュプリーム・ナイスガイ。非の打ち所がない完全なる存在だと信じてる」 「は? いきなり何を……」 「頭もよく、運動神経は抜群で、顔も美しい。その上心根が綺麗で、しかも不屈の精神を持っている。自慢にして崇高の兄者だよ。うりっちもそう思ってる。ね?」 「にぃー!」 「そ、そりゃどうも……」   褒められるということ。それ自体は悪い気はしない。   ただ、どうして今なのか、それがわからなかった。   俺は黙って聖子の言葉に耳を傾ける。 「
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3章 3

 さて、藤高であるが、やつは執事室にて帳簿の整理をしている最中であった。執事室は洋間で、椅子に腰掛け、老眼鏡をつけ、両切り煙草をくゆらす姿は妙に格好がいい。   紫煙の香りと煙漂う部屋の中、藤高はぎゅっと吸っていた煙草を灰皿に押しつけ、やれやれとばかりに首を振る。 「誠二様。誠二様はもうご婚約された身。今更辞めた女中の」 「黙れっっっっっっ!」   俺は間髪入れずに怒鳴った。壁がビリビリと痺れるほどの大音声で、何事かとばかりに他の使用人たちが部屋に顔を出してくる。 「……っ!」   藤高は目を見開き、ぽかんと口を開けていた。珍しい顔だ。  さて、使用人たちもいるなら丁度良い、俺は退路を自ら断つべく、自分の気持ちをあらん限り言の葉に乗せ、皆にぶつけてみせる。 「俺は七岸さんを愛している! こんなにも愛している! 何が婚約だ。そんなの鈴子さんが一方的に決めたことだ。知ったことか!」   俺の後ろにいる使用人たちからざわめきが走る。でもそれはどちらかというと黄色い声というか賛同の意を示すタイプのもので、好感が持てる。まあ若い娘が多いからな。   だが一方で藤高は眉間にしわをよせ、薄桃色のパッケージが可愛らしい煙草の箱を手に取ると、そこから一本の両切り煙草を取り出す。彼は口に咥え、マッチに火を灯した。 「誠二様。ご自分が何をおっしゃっているかおわかりになっていますか?」   重い口調だった。藤高は今年で齢六十を重ねる老人。江戸時代からの生き証人だ。この屋敷においてはもっとも封建的な価値観が残っている。   だけど負けるわけにはいかない。何が封建だ。徳川の世は五十六年も前に終わった。これからは自由と権利を謳歌する民本主義の時代!  家柄で結婚なんてナンセンスだ。   それに家柄というなら、実は俺には何の問題もない理由がある。つかつかと藤高の前まで歩み、ばんっと机を叩きつける。 「ああ、わかるとも、わかるともさ! それに市川家は幸いなことに平民だ! 市川電機という会社を経営しているが、平民だ! 俺には自由恋愛を謳歌する権利がある!」   そう、市川家は明治時代になって電球の製造・販売を初めて電機産業に携わ
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3章 4

 藤高のメモを元に早速俺と聖子は山口県へと向かった。   学校? 休みだ休み。そんなところ行っていられるか。てか今日は日曜だ。   山口駅を下りた俺たちの前に広がるのは、なんともにぎやかな光景。山口町は中々に発展している。山口駅は八年前に出来たばかりということもあって真新しく、こういう新しい雰囲気は俺を十分に満足させるものだった。新しい物好きだからな。 「ここか」 「長旅だったねえ。こ、腰痛い……」   セーラー服をまとう聖子が腰を押さえながら猫背になる。はしたないからやめなさい。   とはいえ、俺も腰が痛い。ケチって二等車に乗ったのは失敗だった。こんなに痛い思いをするなら遠慮無く一等車の切符を買うべきだった。三等車なんかに乗っていたら今頃どうなっていたのだろう。恐ろしいことだ。 「学校も休んでしまった。汽車に揺られて……一日がかりだったな」 「汽車って凄いよねえ。江戸時代だったら何週間もかけて行く道のりだよ」   ボーッとけたたましい音と煙をまき散らしながら突き進む汽車を眺める。真っ黒い蛇が高速で動く様は圧巻の一言と言えよう。 「お伊勢参りが一生に一度出来るかどうかだもんな。科学文明の進歩には憧憬を禁じ得ないな。ところで聖子、お前顔黒い。そこで洗え」 「兄者も。隧道で窓開けてたでしょお。煤が入ってきちゃったんだよ。せっかくビシッと学生服着てるのに。顔もマント色じゃ締まらないよ」 「はは、じゃ、一緒に洗うか」 「うん!」   俺たちは水飲み場へと向かい、バシャバシャと顔を洗った。そこには多くの人がごった返しており、まあみんな一様に顔が黒い。 「あ、聖子、セーラー服のベルトがほどけかかってるぞ」 「あ、ほんとだ」   聖子は恥ずかしそうに顔を赤らめながら腰に巻いたベルトを締め直す。   俺は布巾で顔を拭きながら厳しく躾る。 「身だしなみはちゃんとしとけ。これからお父様とお母様にご挨拶するんだから」   いくら自由な時代といえどそういうところはちゃんとしないとな。向こうの家に失礼というもの。 「わかった! 勝負時だもんね! 兄者も学帽ちゃんと被ってよ?」
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3章 5

「と、言うわけでして、七岸さん……さつきさんのサトラレがもう少しで治癒しそうなんです。勿論そんな長い間ではありません。いえ、年内には解決させてみせます! ですからお父さんお母さん、どうか僕にさつきさんを任せていただけませんか?」   俺はお父様お母様にお会いするときちんと正座をして畳の上に手をつきながらハッキリと自分の言いたいことを告げた。余す所なく全てだ。サトラレについても、俺が七岸さんを愛していることも。何一つ包み隠さない。   ひとしきり話を聞いた七岸夫妻はしばし黙っていたが、やがてテーブルの上に置かれたお茶を手に取ると、ずずっと音を立ててすする。 「お話は大変よくわかりました。しかし私どもはあの子が幼少の頃より様々なお医者様や霊媒師の方々におすがりしても、ついぞ治せなかったのですよ? 失礼ながら市川様にご奉公して数日で、治せるというのは少々信じがたいものがございますが」 「治せます! 僕を信じてください! あと一歩なんです!」   俺はぐいっと身を乗り出す。はしたないだろうが、やむを得ない。それくらい俺は本気なのである。だがお父様は渋い顔で朝日と書かれた煙草を取り出すと、鞘を縦横一回ずつ折って葉っぱが口に入らないようにしてから咥え、マッチに火を灯した。 「それに、七岸家には男子がおりません。七岸家を絶やさないために養子を迎えねばなりません。しかし失礼ながら、市川家におかれましても、男子は……」 「はい、僕だけです。市川の跡取りです。ですが七岸家のことは留意しております。聖子、あれを出せ」   俺がアゴをしゃくると聖子は手提げから一冊のアルバムを取り出し、テーブルに置く。 「うん! 七岸さん、養子については市川電機の社員からとびきり優秀な男子をお迎えする用意があります。候補は沢山あります。勿論全員次男坊、三男坊、四男坊です。長男は一人もいません。そこはどうかご安心ください」   聖子の声は楽しそうに弾んでいる。   彼らは今日のために、というより七岸さんと結ばれたいと思ってから密かに用意していたのだ。市川電機の支社には小学校上がりの、俺より年下な子供たちも働いている。家が貧しく学校に通えない子供たちだ。彼らは長男ではないから家を継ぐことも出来ず、
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3章 6

「「…………」」 あんぐりと、お父様とお母様があんこうみたいに口を開いた。   と、廊下からも声が。 「は、はあ!? 何言ってるんですか誠二様!? 頭オカしいんじゃないですか!? (ひ、ひえええええ! わ、私……え、ええええええっ!?)   心の声つきだ。つまり間違いなく、七岸さん。   俺は早速とばかりに手招きする。 「あ、七岸さん。聞いていたの。ささ、こっちに来て」   ふすまが開かれ、ひょこっと顔を出す七岸さん。しかし即座にお父様がたしなめる。 「こらさつき! 下がっていなさい!」   だが、そんなの俺が許さない! 「あ、待ってください。七岸さん。本当は君のサトラレを治したら言うつもりだったんだよ。でもこの期に及んでは仕方ないね。今言おう。俺は、市川誠二は、七岸さつきさんを妻に迎えたい! 入地鈴子さんではなく、君を嫁にしたい!」 (え、え……えええええっ!? わ、私……えええええ!? な、何言ってんの!?)   七岸さんの愉快な反応は置いといて、俺は改めてお父様お母様と向き合う。 「お父様お母様、僕は七岸さつきさんを愛しているのです!」 「日本人ならそう愛してる愛している言うモノではありませんが……」   お母様の旧態依然な突っ込み。   俺は頭を抱えながら叫ぶ! 「ナンセンス! そんな明治時代の脳みそをしていたらこの大正の世は駆け抜けられません! 月が綺麗ですね、とでも言えばいいと言うのですか!? ありえません! 日本は今や五大国の一員! 世界に名を轟かす列強! 脳みそ明治時代では笑われますよ」   夏目漱石みたいな明治の価値観に拘泥した保守的な人間の意見など、このご時世において何の役にも立たん!   俺はどんっと自身の胸を叩き、高らかに告げる。 「西洋ではこうしてハッキリ愛を告げるのが主流なのです。これからの日本もそうなるべきなんです。常に進歩していかねば! 明治時代のカビの生えた常識など通用しない」   お父様は震える手で湯飲みを取り、ずずーっとかなり酷い音を立てながらすする。相当緊張しているらしい。 「なるほど
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3章 7

 その後、さつきさんは矢絣模様の袴に着替え、一緒に外へ出ることになった。   パナマ帽を被り、ブーツを鳴らす様は普段の彼女とはまた違った魅力を醸しだしている。女学生的というか。   ちょっと興奮してきた。 「で、どうするんです? 今回は女中の仕事ではないんですよ?」   七岸さんは後ろを見ながらそう言ってきた。後ろにはお父様、お母様、聖子の三人がいて、心配そうにこちらを見つめている。うりっちもいるな、一応。何故か付いてきた。   俺は前髪をふぁさっと掻き上げ、歯をきらめかせながら答える。 「やることは同じだよ。七岸さん、いや、さつきさんが一定時間何も考えなければいいわけだから。だからこれからやるのはランデブーさ」 「ら、ランデブー?」 「そう、最近じゃ逢瀬のことをそう言うのが流行ってるんだよ? デートとも言う」 「………………は?」   七岸さん――さつきさんの足が止まった。   しかし俺は構わず彼女の手と取ると、思い切り灰色の空に掲げ、高らかに叫ぶ。 「さあ、俺たちの圧倒的なランデブーを見せつけるんだ! 勿論サトラレ征伐はしながら、ね。覚悟しておいた方がいいよ?」   しかしさつきさんは俺の手を振り払い、顔を真っ赤にしながら叫び返してくる。 「自分から煽っておいて何言っているんですか! 頭オカしいんじゃないですか!? だいたい逢瀬って普通人気の無い木陰でそっと手を繋いだりとか、誰も居ない夕方の海を一緒に眺めたりとか……」 「古い古い。そんなの明治時代のランデブーだよ。アメリカじゃ自動車でドライブした後ダンス・ホールで踊り明かし、最高級のレストランでディナーを楽しむそうだよ」 「は、はしたない……っ!」   さつきさんはうつむいてしまった。奥ゆかしい子である――と、思いきや。 (でも、なんか楽しそう……。ワクワクする)   なんだい、本音ではやりたがってるじゃないか。俺はぱちんとウインクを一つし、親指を立てる。アメリカンスタイルだ。 「そうこなくっちゃ! それにしても私服のさつきさん、綺麗だよ」 「ふ、ふん世辞者が! 歯の浮くようなことを言ってもダメです
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3章 8

 取り敢えずここら辺一体は工場地帯で、あるのは工場と労働者たちの借家、長屋くらいしかない。これではつまらないのでにぎやかな町へと繰り出そう。   そう思って人力車を探していた、その時だった。 「……ん? なんだ、な、なんだ!?」  ぞろぞろとカメラを持ったスーツ姿の一行が俺たちの元へ駆け出してきた。 「え? こ、これは……きゃあ!」   彼らはさつきさんを取り囲み、俺をはじき出してしまう。 「産水新聞の者です」「月刊文鳥の者です」「ちょっと質問いいですか?」「君、市川誠二くんだよね? 市川電機の御曹司の」「その娘について聞きたいことが」 「な、なんだこいつら!?」  こいつら報道関係者か!?  でもどうして!? 「ど、どうして!? え、な、なんで!?」 (し、新聞社って、ええ!?)   さつきさんも困惑している。そりゃそうだ。全く理解できない――直後。「いとオホホ!」     今回は牛車ではなく人力車ではあったが、やはりというか十二単をまとっており、非常に座りにくそうだった。口元に手を添えて高笑いしているが、バランスを維持するのが大変らしく、体がしきりに揺れている。 「す、鈴子さん……」 「ま、またあの格好……」   俺は慣れたものだが、さつきさんの瞳にはありありと軽蔑の色が含まれていた。   いや、俺もね、山口くんだりまであの格好でやってきたことにかなり思うことはある。 「十二単を着て……。なんであの子はああなんだ? てか、なんでいるんだ?」 「……おかしすぎますよ、あれ。本人恥ずかしくないんでしょうか?」 (凄く歩きにくそう……お付きの人も大変そうだなあ)   なるほど鈴子さんの後ろにはお付きと思われるスーツ姿の集団が走っており、なんというか、非常にシュールであった。 「多分平気なんだろうね。俺は恥ずかしい」   俺がそんなことをこぼすと彼女は停車し、ひょいっと飛ぶように地面に降り立った。 「ダメよ誠二さん。あんまりおいたしちゃ」   おいた
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3章 9

 さつきさんが顔を真っ赤にして鈴子さんを怒鳴りつけた。   かつて俺がやられたこと。彼女は非常に誇り高く、尊厳を傷つけられるのを何より嫌う大和撫子だ。金を恵んだところで喜びなどしない。そんな軽い女性ではない。   だが、それは当然鈴子さんにもわかっていた。 「別に乞食だなんて、お金をあげたわけじゃないわ。お仕事をあげたのよ。雇用よ雇用。別にタダでお金をあげたりなんかしてない。七岸家の尊厳は傷つけてなくてよ?」 「…………」 「七岸さん、私をナメないで。ちゃんとそういうとこ、知ってるんだから」   にやりと笑う鈴子さん。どうやら彼女の方が一枚上手だったようだ。ぐうの音も出ない手口にやり込められたさつきさんは泣きそうな顔で俺の腕にしがみついてくる。 「こ、この人は……せ、誠二様……」 (こ、怖い……この人、怖いよぅ……)   気持ちはわかる。入地鈴子という女性は怖い。彼女を怒らせると日本では生きていけない。それをありありと証明するかのような強引なやり方。俺は戦慄を禁じ得なかった。   さらに鈴子さんは語る。 「そしてここに住まわせたのも理由があってね、七岸さんのサトラレ、ここが発祥なのでしょう? ここに研究機関を建て、七岸さんの治療を万全に出来るようにとの配慮よ。最初は北樺太で働いて貰おうかなとも思ったけど、政府の秘密情報によると、どうも北樺太購入は出来そうにないのよね。今多くの山師が北樺太は日本領になるんだーって先行投資してるけど、あれは失敗するわ。だからこの地を選んだの」 「……な!」 「ただし、条件がたった一つだけある。それは誠二さん、七岸さんのことを諦めていただけないかしら? そうすれば新聞社の連中を下がらせるわ」   彼女は本当に全てを知っていたのだ。どこで入手した情報だ、なんて聞くのは野暮。彼女に知らないことなどない。日本全てが入地家の庭も同然だからだ。   俺はもう呆れ果てることしか出来ない。 「君はなんでも出来るんだな」 「ええ、出来るわ。なんでも。勿論北樺太を日本領にしろとか、赤軍を倒して親日政権を樹立させ、シベリア出兵を終わらせろとか、そういうことは無理だけど、少なくともこれく
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3章 10

 かくして、俺とさつきさんの逢瀬、デート、即ちランデブーが始まった。   勿論本来の目的はサトラレ征伐。つまり心の声を出させずにやりきれば俺たちの勝ち、途中でサトラレを発症させ、征伐が失敗に終われば鈴子さんの勝ちだ。   シンプルでいて、それでいてディープ。   俺は深呼吸を一つするとさつきさんを見つめ、力強く宣言する。「よし、ランデブーについては俺に任せてくれ」 「だ、大丈夫ですか?」 「考えない! 考えそうになったらくすぐるから」 「ええええええ!」   何を驚くさつきさん。当たり前じゃないですか。 「ほら行くよ。あ、人力車乗るからパナマ帽をしっかり被ってね」   俺はそう言って先に人力車に乗り込み、さっと手を差し伸べた。   さつきさんは俺の手を取り、席についてからしっかりとパナマ帽を被り直す。 「あ、はい。ありがとうございます」 「うん、かわいい」 「え、えへへ……」   いい笑顔だ。そうでなくっちゃ。 「で、どこに行くんです?」 「活動写真を見よう。来る途中見かけたんだ」   流石にここは工場地帯。こんな所で遊ぶ場所などないからな。にぎやかな所に行かないと。するとさつきさんは目をきらきらと宝石のように輝かせ、声を弾ませる。 「活動写真ですか。私、見たこと無いんですよ」 「お! そりゃ丁度良い。じゃあ活動写真童貞を捨てよう! ん? 女だから処女か」 「そういう言い方しないでください!」   おっと失敗だった。デリカシーが無かったかな。でもお陰で余計なことを考えさせずに済んだからよしとしよう。   俺たちは人力車から降り、わいわいと人の波をかき分けながら小屋の中へと入っていく。まあ小屋といっても結構デカイ建物なのだけど、便宜上な。   壁にかけられているポスターを見て、俺は腕を組みながらふむ、とこぼす。 「さて、演目は……生の輝きか。ちょいと古いな」 「ご存知なんですか?」 「確か二年前に封切りされたもので、日本初の女優を使った演し物なんだよ」 「へえ、女優……。婦人もキネマトグ
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