Lahat ng Kabanata ng 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Kabanata 141 - Kabanata 150

212 Kabanata

第141話 榊グループ役員会

 会議室の扉が、重い音で閉まった。 廊下の人声が途切れ、空調とプロジェクターの待機音だけが残る。 長いテーブルには、榊グループの紋を入れた資料ファイルが並んでいた。 壁際には大型モニター。席ごとのマイクの赤いランプは、まだ点いていない。 私は律の隣の席札を見た。 席札には、朝霧栞、とあった。 如月でも、榊でもない。 その四文字を見た瞬間、指先の力が少し抜けた。「無理だと思ったら、途中で出ても構いません」 車椅子に座った律が、横から短く言った。「それを今言うんですか」「今だから言います」 私は席の背に手を置いたまま、律を見た。 黒い仮面は、今日も律の顔を半分隠している。その黒さが、以前より重く見えた。「途中で出るつもりはありません」 律は、退出の選択肢を残したまま一度だけ頷いた。 律はそれ以上言わなかった。 私は椅子を引き、浅く座った。資料の角を押さえる手に、少し力が入った。 高瀬さんが入口近くで出席者名簿を確認している。相良さんは壁際に控え、部屋の奥にあるサイドテーブルの水差しを整えていた。 役員会そのものは午前中に終わっている。私が呼ばれたのは、その後の拡大会議だった。情報管理と外部協力者評価に関する説明の場。そう聞かされている。 けれど、集まった人たちの目は、資料よりも先に私を見た。 知らない顔が多かった。 でも、視線の種類は知っている。 値踏みする目。 誰かが言い出すのを待っている目。 最初に口を開いた人間の後ろに隠れようとする目。 如月家の廊下で浴びたものと、よく似ていた。「榊様。本日の議題に、外部の方が同席されるとは伺っておりませんでしたが」 最初に声を上げたのは、上座から三つ離れた席の男だった。白髪を丁寧に撫でつけ、薄い眼鏡をかけている。名札には、常務取締役・片山とあった。 律はマイクを使わなかった。「関連資料の作成協力者です。情報管理上、必要な範囲で同席します」「作成協力者、ですか
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第142話 自動照合の提案

 自分の声が、思っていたより平らに出た。 プロジェクターのファンが回り、白い資料の端がかすかに震えていた。 片山常務の眉が上がる。「実データは見ていない、と?」「私が見たのは、個人名と金額が伏せられた取引ログのサンプル、承認フローの一覧、外部ストレージ接続の履歴項目だけです。実データじゃなく、監査用に加工されたものです」 高瀬さんが静かに頷いた。「法務で加工しています」 片山常務は、高瀬さんを一瞥したあと、また私に視線を戻した。「では、その程度の資料で何が分かると?」 丁寧な口調のまま、「あなたに何ができる」と問われていた。 指先の冷えを感じながら、許可された端末を開いた。 高瀬さんがログインし、私の作業用画面だけがモニターに映る。 黒い画面ではなく、表計算の白い表が出た。 何人かが、想像していたものと違うという顔をした。「まず、今回の不正接続の件です。ただ、問題は端末だけじゃないと思います。ゲストWi-Fi、入館QR、外部ストレージの接続履歴。全部、別々に管理されています。照合すれば見えるのに、別々だから見えにくい」 カーソルを動かし、三つの列を並べる。「たとえば、入館が十一時二分、ゲストWi-Fiが十一時六分、外部ストレージが十一時九分。同じ臨時スタッフの記録なら、一枚に並べるだけでも違和感が見えます。今は部署が分かれていて、誰かが気づくまで待つ形になっている」 片山常務の隣に座っていた若い役員が、身を乗り出した。「自動で突合できますか」「できます。全部の個人情報を一か所へ集めなくても、同じ利用者だと分かる番号だけ合わせればいい。異常が出た時に、別々の部署へ記録を探しに行かなくて済む形にはできます」 説明を続けるうち、最初の緊張で声が少し掠れた。 専門家ではない。 大学も途中で止まったままだ。 それでも、この三年で似たログは何度も見た。夜勤のあと、眠い目でコードを書いた時間まで無駄にする気はなかった。 私は次の表を開いた。 カーソルが少し震えた。「も
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第143話 記録が潔白を作るのか

 相手の眉が、少しだけ動く。「臨時スタッフ、外部委託、共有端末利用者。この三つだけでいいと思います。正社員全員にやれば現場は止まります。対象を絞れば、二クリック増える程度です」 どこかで紙をめくる音がした。 役員たちの視線が、少しずつ画面へ移っていた。 私は次のセルへカーソルを移した。 手は少し震えたが、止めなかった。「ずいぶんと詳しいですね」 片山常務の声が、少し硬くなった。「本当に、加工資料だけで?」 片山常務の問いに、画面へ向いていた役員たちの視線が再び私へ戻った。私は画面を閉じず、片山常務を見返した。「私が見た範囲は、閲覧記録に残っています」「記録があれば潔白だと?」「潔白だと言い張るためじゃありません。後で見返せる形にするだけです」 マイクの赤いランプが、ふいに点いた。 いつの間にか、律が自分の前のボタンを押していた。「片山常務」 低い声が、卓上スピーカーを通って部屋に響いた。「質問は、彼女の提案内容についてお願いします」「出自を確認することも、リスク管理の一部です」 片山常務は引かなかった。「三年前に実家から追放され、現在は榊家に入られた。世間はそこを見ています。外部からは、榊グループが私情で人を起用したようにも映る」 机の下で、膝が一度だけ動いた。 出自。 また、その言葉だ。 如月家でも、社交界でも、病院でも、私より先に家の名前が歩いていく。 私は資料の角から指を離した。「私情に見えるなら、成果物で判断してください」 片山常務が目を細める。「成果物?」「私の過去じゃなく、提出した改善案に穴があるかを見てください。穴があれば直します。採用に値しなければ下げてください」 一度口を閉じてから、続けた。 でも、声は切れなかった。「ただ、私がどこの家にいたかで資料の中身が変わるなら、その時は先に教えてください。私はそこを直せません」 数秒、誰も話さなかった。
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第144話 九条へ返す回答

 役員たちの視線が画面へ戻り、ようやく次の質問が出た。 人ではなく、提案の中身を見てもらえている。 それだけで、言葉を続けやすくなった。 片山常務だけは資料を閉じたままだった。 口を挟まず、こちらを見ている。 高瀬さんが次の検証項目を読み上げ、会議は先へ進んだ。 会議が終わったのは、予定より二十分遅れてからだった。 役員たちが席を立ち、資料を閉じていく。何人かは高瀬さんに質問し、情報システム部の担当者は私の画面をもう一度見せてほしいと言った。「後ほど、加工済みファイルだけ共有します」 私が答えると、担当者は素直に頷いた。「助かります。あのフォーム案、現場向けの文言も見てもらえますか。たぶん、うちが作ると固くなるので」「現場向けの文言なら、利用者の目線で見ます」 返事をしてから、少し遅れて「次の作業」という言葉に気づいた。 次があるらしい。 私は資料を閉じた。 会議室の人が半分ほど減った頃、律が車椅子を動かした。「今は、休憩が必要ですか」「はい。かなり」 律は私の顔を見た。「休んでから戻りましょう」「その前に、一つだけ」 私は資料を閉じる手を止めた。「さっき、助けてくれませんでしたね」「必要になれば入るつもりでした」「結局、入らなかった」「入るタイミングを逃しました」 思わず律を見た。「……それ、本当ですか」「半分は」「半分?」「あなたが自分で返していたので、余計な口を挟むと怒られそうでした」 思わず笑いそうになった。 資料ファイルの背に指を添えた。 律の手が、肘掛けの上で止まる。「最近、あなたに何を言うと怒られるか、少し分かってきました」「今さらですか」「遅いですね」「練習してください」「します」 今度は本当に笑った。 その時、入口付近から片山常務の声が聞こえた
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第145話 あなたを誇りに思う

 高瀬さんが先に会議室へ戻り、扉を閉めた。 私は片山常務が消えた廊下を見たまま、椅子の背に手を置いていた。 律も、すぐには口を開かなかった。 けれど、さっきの言葉だけは耳に残っていた。 片山常務が誰に報告していたのか、その呼び名だけが耳に残った。 高瀬さんは、開いたノートパソコンへ目を落とした。 通話を録音したわけではない。半開きの扉から偶然聞こえた発言だった。「今の件は、記録に残せますか」 私が訊くと、高瀬さんは顔を上げた。「事実としてなら残せます。何時何分、誰が、どの場所で、どのような発言をした可能性があるか。ただし、通話相手を断定する資料にはなりません」「九条様、と言ってました」「ただ、九条家の誰か、という以上の断定は避けるべきです」 高瀬さんの声は、いつも通りだった。 私は一度だけ息を吐いた。 私は頷いた。膝の上で指を組むと、爪の先が少し白くなっていた。「では、そう記録してください。聞こえたことだけを」 律がこちらを見た。「追いますか」「今は、追いません」「怒っているのに?」「怒ってるから。今行ったら、たぶん余計なこと言います」 律は一度だけ頷いた。 質問は山ほどあった。 九条とは何ですか。 あなたは誰に頼まれたのですか。 なぜ、如月側を使うと言ったのですか。 でも、今ここで投げても答えは返ってこない気がした。「だから、今はいいです」 言ったら、少し口が渇いた。 三年前なら、怒鳴るか、黙るかのどちらかだった。 今日はどちらもしたくなかった。 指先は冷たい。 腹も立っている。 それでも、片山を追いかける足は動かなかった。 録音機材の赤いランプが消え、会議室は急に広く見えた。「片山常務の発言については、会議後の偶発的な聞き取りとして社内監査へ共有します。榊さん、よろしいですね」「お願いします」 律は短く答えた。
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第146話 逃げ道のない称賛

 律は、まだ車椅子に座っている。 この姿を見ると、まだ感覚が追いつかない。周囲の社員は自然に道を空ける。その中に、好奇心も、畏れも、計算も混じっている。律はそれを見ないふりで受け流していた。 エレベーター前まで来たところで、律が操作パネルへ手を伸ばした。 私は反射的に手を出しかけたが、律の指は迷わずボタンに届いた。 その代わり、膝掛けの端が車輪へ寄っているのが見えた。 私は裾をつまみ、車輪から外した。「引っかかりそうでした」「ありがとう」 あっさり礼を言われ、私は手を離した。「勝手に触りました」「危ない時は、先に動いて構いません」「次からは、ためらいません」 答えながらも、それでも気になった。 エレベーターの到着音が鳴った。 扉が開き、中にいた若い社員が慌てて頭を下げた。 律は軽く会釈を返し、私に先に乗るよう視線で示した。 エレベーターの中は、冷えた金属の匂いがした。 下りの数字が一つずつ変わる。「……今日の資料、よかったです」 律が言った。 私は、思わず律の方を見た。 その一言に、返事が一拍遅れた。 褒められると、先に身構える癖がある。次に何を求められるのか、と考えてしまう。 すぐに喜べない自分が、嫌になった。「婚約者として、ですか」 口にしてから、自分でも意地が悪いと思った。 律はエレベーターの表示へ一度目をやり、首を横に振った。 エレベーターの表示が、二十一階から二十階へ落ちる。 否定は早かった。「婚約者として、じゃありません」 数字がまた一つ下がる。「自分で直して、質問にも自分で答えていた。途中から、私が口を挟むところがなくなりました」 律はそこで、言葉を探すように止まった。 エレベーターの数字だけが減っていく。「……それが、よかった」 私はドアの隙間を見た。 鏡面仕上げの
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第147話 今ここで食べること

「それも、少し落ち着きません」  律は一度だけ目を細めた。 「では、嬉しいというところだけ受け取ります」  私は黙って頷いた。  エレベーターの表示が一階を示した。  扉が開く直前、口元が緩むのを止められなかった。  律が気づいた。  私はすぐに正面を向いた。 「見ないでください」 「見ていません」  明らかな嘘だった。 「今、見てました」 「……訂正します。見ました」  謝られると、今度はこちらが困った。  扉が開く。  ロビーのざわめきが流れ込んできた。  人の声、靴音、受付端末の電子音。  短い会話はそこで終わった。  律は何もなかったように車椅子を進めた。  私はその隣を歩いた。  手は触れない。  さっきより歩幅を合わせやすかった。  榊の車に乗り込むと、窓の外は薄く曇っていた。  雨が降るほどではなく、ビルのガラスに雲の白がぼやけて映っている。  後部座席の中央に、小さな紙袋が置かれていた。  シートベルトを締めてから気づいた。 「何ですか、これ」 「役員会の帰りに食べるよう、宮野が持たせたものです」 「榊さんが?」 「いえ。あなたに」  紙袋を開くと、薄い包み紙にくるまれた小さなサンドイッチが入っていた。具は卵とハム。派手ではない。むしろ、会議室の料理よりずっと気が抜ける。 「会議中、ほとんど食べていなかったでしょう」 「気づいてたんですね」 「同じテーブルでしたから」  言われてみればその通りで、私は包み紙へ目を戻した。 「食べられる分だけで構いません」  私は包み紙を少しだけ開いた。  卵の匂いがした。コンビニの廃棄前のサンドイッチとは違う、やわらかい匂いだった。  ひと口食べる。  ひと口飲み込むと、空腹だったことを身体が思い出した。 「おいしいです」 「宮野が喜びます」 「榊さんは食べないんですか」 「……食べるのを忘れていました」 「今、食べればいいのに」  言ってから、少しだけ気まずくなる。  世話を焼いたつもりはない。ただ、目の前で誰かが食べないのを見ると、自分だけが受け取っているようで落ち着かなかった。  律は紙袋からもう一つ包みを取り出した。 「では、半分だけ」  包み紙を開きながら、律は言った。 「医師にも同じことを言われました。仕事
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第148話 今だけ許した距離

 律は包み紙を膝に置いた。  律の声が少し低くなった。 「今日、役員会で、私の名前を一度も使いませんでしたね」  何の話か分からず、律を見る。 「榊の名前です。私を盾にしなかった」 「使った方が楽だったかもしれません」 「そうですね」  律は包み紙を折り直した。 「でも、使わずに答えてました」  窓の外で信号が赤に変わる。車が静かに止まった。  私はサンドイッチの端を見た。 「……それ、褒めてますか」 「一応」 「分かりにくいです」 「すみません」  思わず鼻で笑い、もうひと口かじった。  卵の味が、少し戻った気がした。  肩の力も少し抜けた。  スマートフォンがバッグの中で震えた。  一度目は気づかなかった。  二度目で、ようやく画面を見る。  病院の番号だった。  包み紙を膝へ置き、通話ボタンに指を伸ばした。  指がすぐには動かなかった。  律がこちらを見る。 「病院からなら、出た方がいい」  私は頷いた。  通話ボタンを押す。 「朝霧です」  声が小さくなった。  受話口の向こうで看護師が名乗った。  何度か病室で会った田辺さんだった。 『朝霧さん。突然すみません。お祖母様のことで――』  田辺さんが言葉を選ぶ間に、膝の上の包み紙を握っていた。  普段の落ち着いた声より、言葉の間が短かった。 『先ほど、血圧と呼吸状態が急に悪くなりました。主治医が対応しています。可能でしたら、すぐ病院へ来ていただけますか』  周囲の音は聞こえているのに、意味が頭へ入ってこなかった。  手の中のサンドイッチが、包み紙ごと潰れていた。  私はようやく返事をした。 「……行きます」  声を出すのに、何度か息を継いだ。  通話を切る前に、田辺さんがもう一度、急がなくていいと言った。足元に気をつけて、とも言った。  ただ、電話が切れた瞬間、私はバッグの金具を掴んでいた。 「病院ですか」  律の声が、すぐそばで聞こえる。  私は頷いたが、声は出なかった。  律は運転席の相良さんに短く告げた。 「中央医療センターへ。救急入口側に回ってください」 「救急入口ですね。回します」  車が車線を変える。  身体が少し傾いた。律の手が一瞬だけ伸びかけて、止まる。触れていいか迷ったのだと分かった。  私
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第149話 祖母の最期

 救急入口の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いが肺の奥まで入ってきた。 白い床に、靴音が薄く跳ねる。 車を降りる時、膝の上に落ちていた包み紙が床へ滑った。拾おうとした指が、うまく動かなかった。「そのままで」 律が短く言った。 私は返事をしないまま、バッグだけを掴んだ。相良さんが後ろで何かを拾う気配がしたけれど、振り返れなかった。 受付の横にいた看護師が、こちらを見るなり歩み寄ってきた。「朝霧さんですね。田辺です」 何度も祖母の病室で見た人だった。いつもは少し柔らかい声をしているのに、今日はその柔らかさを仕事の顔で抑えている。「主治医から説明があります。こちらへ」「祖母は」 言葉が先に出た。 田辺さんは足を止めなかった。「今は、処置のあとで落ち着いています。ただ、かなり厳しい状態です」 落ち着いている。 厳しい。 二つの言葉が並んでも、意味がうまくつながらない。 廊下の角を曲がる。自動販売機の低い音が聞こえた。誰かのスリッパが床を擦る音もする。病院はいつも通り動いているのに、私の足だけが遅れていた。 律は、少し後ろを来ていた。 車椅子の車輪の音はしない。 振り返りそうになって、やめた。 今それを見てしまったら、祖母のこと以外まで考えてしまう。 説明室の前で、主治医が待っていた。 眼鏡の奥の目に、寝不足の色がある。祖母の病状説明を何度もしてくれた医師だ。淡々としているけれど、事務的ではない。「朝霧さん。お祖母様ですが、先ほど急に血圧が下がり、呼吸も浅くなりました。酸素と点滴で一度持ち直しています」 持ち直している。 私はその言葉だけにすがろうとして、医師の次の間で手を離された。「ただ、もともとのご病状と体力を考えると、今後また同じ状態になった時、積極的な延命処置で回復が見込める可能性は高くありません。ご本人からも、苦しい処置は望まないという意思表示を以前からいただいています」 椅子の背もたれに、背中が当たった。 いつ座った
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第150話 祖母の声

 祖母は、窓側のベッドにいた。  顔が小さくなっていた。酸素のチューブが頬を横切り、薄い布団の下で胸がゆっくり上下している。モニターの緑色の線が、規則正しく揺れていた。  モニターの小さな音だけが、病室の白さの中で妙にはっきりしていた。  その規則正しさが、かえって怖かった。 「……おばあさま」  声をかけると、祖母のまぶたが少し動いた。  すぐには開かない。  私はベッド脇の椅子へ座った。祖母に何から伝えるべきか迷い、バッグの金具に指をかけたまま止まった。  祖母の指が、シーツの上でかすかに動く。  私はその手を取った。  軽かった。  昔、私の髪を結んでくれた手だ。熱を出した夜に、額へ濡れタオルを当ててくれた手だ。階段事件のあと、誰も私の話を聞かなかった家で、最後まで私を見てくれた手だ。  その手が、今は私の指に引っかかるだけだった。 「栞……」  かすれた声が、酸素の音に混ざった。 「来ました」 「寒く、ない?」  祖母の指を握る手に、力が入った。  こんな時まで、祖母は私のことを聞く。 「寒くありません。……嘘です。少し寒いです。でも、手を握ってたら大丈夫です」  大丈夫、と言った自分の声が、ひどく頼りなかった。  祖母の目がゆっくり開く。焦点が合うまで時間がかかった。それでも、私を見つけると目が少し和らいだ。 「……きれいに、なったね」 「やめてください。今、それを言うなら、おばあさまの方です」  笑おうとしたのに、口元が震えた。  祖母も笑おうとして、息を吸い損ねた。田辺さんがそっと近づき、酸素の位置を直す。  私は慌てて手を離しかけた。 「いいの」  祖母の指が、かすかに私を止めた。 「持っていて」 「……はい」  私はもう一度、指を包んだ。  少し間が空いた。  窓の外は曇っていた。光が白くて、病室のものを全部薄くしている。花瓶の水も、ベッド脇の時計も、祖
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