All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話 守り袋の紙片

 葬儀場の裏口を出た瞬間、線香の匂いが薄くなった。  車輪が厚い敷物を押し、かすかな軋みだけを残した。  代わりに、濡れたアスファルトの匂いがした。夕方から細い雨が降っていたらしい。屋根の端から水滴が落ち、黒い石畳に小さな輪を作っている。  私は喪服の袖口を押さえた。九条康生の目を思い出すと、袖口をつまむ指に力が入った。  あなたは、ここにいるべき人ではなかった。  あの言葉は、葬儀場の音の中に紛れなかった。焼香の鈴の音よりも、親族のすすり泣きよりも、ずっとはっきり残っている。  ここ、とはどこなのか。  如月家なのか。  祖母の葬儀の場なのか。  それとも、私の人生そのものなのか。  車寄せに榊家の車が停まっていた。相良さんが後部座席の扉を開け、律は車椅子のまま私を見上げる位置にいた。 「このまま、榊邸へ戻れますか」  短い問いだった。  大丈夫です、と言いそうになって、やめた。 「帰るしか、ありません」 「では、今は戻りましょう」  律は康生の話を続けなかった。私も口を開けないまま、膝の保全袋の端を指でなぞった。  車が動き出すと、窓の外で葬儀場の白い灯りが遠ざかった。膝の上の小さな保全袋が、雨の光を受けて曇って見える。  守り袋。  祖母が、私に残したもの。  蔵の暗がりから取り戻した、古びた布の重さが、今さら膝に沈んでくる。 「今日、ここで開ける必要はありません」  律が言った。  私は返事をしなかった。  開けたくない。けれど、開けなければならない。祖母はもういない。聞き返す相手は、どこにもいない。 「……開けるのが怖いです」  律は保全袋へ目を落とした。 「今、開けなくてもいい」 「でも」 「戻ってからでも、遅くない」  私は横を見た。  律の顔は、車内の薄暗さと黒い仮面で半分だけ影になっていた。左側の頬に手をやる癖だけが、仮面の縁の上に残っている。隠している時間の長さは、そう簡単には消えないのだろう。 「ずいぶん簡単に言いますね」  律の指が仮面の縁で止まった。 「……そう聞こえましたか」 「聞こえました」  そう言ってから気まずくなり、窓の外へ目を向けた。  その瞬間、膝の上の保全袋がまた目に入った。  律との会話で紛れていた不安が、保全袋を見た途端によみがえった。 「戻り
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第162話 祖母を嘘つきにしない

「形見なら、大げさなくらいでいい」  返す言葉を探したが、どれも今の気持ちには合わなかった。  窓の外で、信号の赤い光が雨粒に割れている。私は保全袋を抱えるように、両手を重ねた。  赤い信号が消えても、保全袋から手を離せなかった。  祖母。  祖母を責める考えが浮かび、すぐに打ち消した。それでも、問いは残った。  榊邸に戻ると、玄関ホールはいつもより静かだった。  葬儀から戻った私に、使用人たちは深く頭を下げた。誰も大げさに声をかけない。黒い喪服の裾が、磨かれた床に淡く映っている。  書斎にはすでに高瀬さんがいた。机の上には白い布、薄い手袋、透明の保全袋、撮影用の小型ライトが並べられている。宮野さんも少し離れた場所に立ち、裁縫箱ではなく、細いピンセットと糸切りばさみを用意していた。 「朝霧様」  高瀬さんが立ち上がる。 「作業前に確認します。これから見るのは、守り袋の外側と、縫い込み部分です。できるだけ布を傷めないよう進めます。全工程を動画で残し、取り出した紙片は別の保全袋へ。……よろしいですか」  言葉だけ聞くと、祖母の形見ではなく、事件の証拠みたいだった。  ただ、中身を確かめる以上、その手順を踏まなければならないのも分かっていた。すぐには返事が出なかった。  私は守り袋を見たまま、どうにか頷いた。  頷いたはずなのに、喉の奥はまだ固く閉じていた。  律が横から口を挟んだ。 「始めたあとでも、あなたの一言で止めます」 「止めたら、祖母が隠したものも、そのままになります」 「隠したのか、守ったのかは、まだ分からない」  その区切りに、少し救われた。  祖母が嘘をついていた、と決めるのは早い。  でも、何も知らなかった、と信じるには、守り袋は重すぎる。  私は椅子に座り、保全袋から守り袋を取り出した。  生成りの布地は、端の方が少し色褪せている。布は古く、赤い紐のそばには、手で縫った曲がった縫い目が残っていた。内側には細かな綿のふくらみがある。裏側の縫い目だけが少し不自然だった。  宮野さんがライトを当てると、縫い目の下に、紙の影のようなものが浮かんだ。 「縫い目の下に、紙があります」  声は淡々としていた。けれど、宮野さんの手は動かない。 「朝霧様ご自身で開きますか。難しければ、私が糸を切ります」  私は手
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第163話 抑えなくていい怒り

 取り出された紙片は、指二本分ほどの幅しかなかった。端は黒ずみ、折り目のところが白く割れている。  高瀬さんがライトを寄せた。  紙には、青いインクで短い文字が書かれていた。 『白桐産院 旧棟』 『五月十七日 深夜』 『看護師長 狭山』 『葛城へ』  たった、それだけだった。  日付を読んだところで、目が止まった。  五月十七日。  私の誕生日。  頭では分かっていた。識別バンドにも、葛城から送られた写真にも、その日付はあった。  それでも、祖母の守り袋の内側から同じ日付が出てくると、別の重さになる。 「……どうして」  声が、紙片の上に落ちた。  高瀬さんも律も、答えるまでに間があった。分からないことを分からないままにしているのだと、頭では理解できた。  それでも、今はその慎重さが痛かった。 「祖母は、これを知ってたんですね」  私は紙片から目を離せないまま言った。 「少なくとも、これを守り袋に縫い込ませるか、縫い込まれたことを知る立場にはいた可能性があります」  高瀬さんの言葉は慎重だった。 「可能性」 「断定できる段階じゃありません」 「分かってます」  言ったものの、語尾は自分でも分かるくらい硬かった。  祖母は私に、あなたは誰かの代わりじゃない、と言った。  なら、どうしてもっと早く言ってくれなかったのだろう。  あなたがどこから来た子なのか。誰が隠したのか。誰が私を如月家に置いたのか。  聞きたかった。  もう聞けない。  手袋越しの手が、紙片に触れる寸前で止まった。 「狭山という姓に、心当たりはありますか」  律が高瀬さんに尋ねる。 「現時点では、ありません。ただ、白桐産院の旧棟は二十年以上前に閉鎖されています。その後、白桐記念クリニック、白桐メディカルセンターと名称が変わっている。KMSホールディングスの傘下に入った時期と、重なるかもしれません」 「葛城へ、っていうのは」  私が聞くと、高瀬さんは紙片の端を見た。 「文脈上は、葛城静司、または葛城家の誰かに渡すべきもの。そう読めます。ただし、これも断定できません」 「また断定できない」  自分でも、少し刺のある声だと思った。  高瀬さんは表情を変えずに頭を下げた。 「申し訳ありません。ただ、ここで断定すると、後で崩されます
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第164話 康生には知らせない

「手順の線引きは、高瀬に任せましょう」 「私を止める役まで、榊さんが引き受けないでください」  言い方がきつくなった。  律は一度、視線を落とした。 「……口を出しすぎました」 「必要なら、こちらから言います」  律は、今度は言葉を足さずに頷いた。  律は肘掛けの端を指で一度なぞった。その手を見ているうちに、言い方がきつかったと気になり始めた。 「……今のは、少し八つ当たりでした」  律はかすかに首を振った。言い返されなかったことが、かえって胸に残った。  紙片の文字へ視線を戻す。  白桐産院。五月十七日。狭山。葛城へ。  紙片に記されているのは、わずかな言葉だけだ。それでも産院の文字を見つめていると、白い壁や薬品の匂い、口元を押さえて泣く誰かの姿まで思い浮かんでしまう。あの夜、誰がそこを出入りし、何を決めたのだろう。  祖母は、この紙をどこまで理解して残したのだろう。全部を知っていたのか、断片だけを拾って、私へ渡そうとしたのか。聞けない問いばかりが増えていく。守り袋は、祖母の愛の形だったはずなのに、今は刃物の鞘にも見えた。  祖母を亡くしたことも、まだ受け止めきれていない。そのうちに、今度は自分の生まれた日のことを尋ねて回ろうとしている。  高瀬さんが紙片を保全袋に入れ、封緘した。管理番号を書き、時刻を読み上げる。宮野さんが守り袋を別の柔らかい布の上へ戻し、切った糸の写真を撮った。 「葛城静司へ、正式に照会します」  高瀬さんが言った。 「先方からの接触を待つより、こちらから?」 「既に一度、封筒を送ってきています。接触の意思はあると見ていいでしょう。ただ、面会場所と同席者はこちらで指定します」 「私も行きます」  私が言うと、律はすぐには頷かなかった。  また止められるのかと思った。  けれど、律は少し間を置いてから言った。 「行く前提で、条件を詰めましょう」 「分かりました」  私は紙片へ視線を戻した。  高瀬さんの端末に通知音が鳴った。  端末に表示された差出人を、全員が見た。  高瀬さんが画面を確認し、眉を寄せた。 「葛城静司からです」  私の手が、膝の上で止まった。  律の車椅子のブレーキが、小さく鳴る。 「待ち構えていたようですね」 「件名は、『紙片を見つけた頃だと思います』」  先
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第165話 観察者は笑う

 午後の白い光が窓に残り、誰も手をつけない湯呑みの茶は冷めていた。  榊グループ別館の小会議室は広すぎない。長机が一つ、椅子が六脚。  机の中央には、高瀬さんが用意した記録用のレコーダーが置かれていた。赤いランプは、まだ点いていない。  私はそのランプを見ていた。  赤く光れば、ここで交わされる言葉は記録になる。  でも、記録になったからといって、すべてが真実になるわけではない。  三年前、私はそれを嫌というほど知った。 「今から断っても構いません」  隣から律の声がした。  今日も黒い仮面をつけている。車椅子に座り、膝にはいつもの薄いブランケットをかけている。外から見れば、以前と同じ榊律だ。けれど私は、あの仮面のことを聞いてしまったあとで、同じ姿を以前のようには見られなかった。  黒い仮面の下に、噂とは違う顔があること。  隠していた理由。  隠されていた時間。  それを許せたわけではない。けれど今、私の前にある問題は、それよりずっと古い。 「来てもらった以上、会います」  自分の声は、思ったより乾いていた。  律は視線を下げ、言い返さずに机の端に置かれた封筒へ目を向けた。  葛城静司から届いた面会の申し入れ。  高瀬さんが、書類を確認しながら言った。 「本日の面談は、榊側法務同席、録音あり、葛城氏持参資料についてはその場で原本確認のみ。受領する場合は、受領書を作成します。朝霧さん、途中退席も可能です」 「進めてください」 「葛城氏には、質問への回答義務はありません。ただし、虚偽説明が確認された場合、今後の協議は打ち切ると伝えています」  高瀬さんの言葉は淡々としている。だから助かった。今、優しい声で大丈夫ですかと聞かれたら、たぶん立っていられなかった。  ドアの外で、控えめなノックがした。  相良さんが扉を開ける。  入ってきた男は、写真で見た印象より少し細かった。  五十代ほど。背筋は伸びているが、肩に力はない。濃い灰色のスーツに、古い革の書類鞄。目元は穏やかで、笑っているようにも、何も感じていないようにも見えた。  葛城静司。  その名前を、私はもう何度も画面上で見ている。KMSホールディングス。白桐産院の旧職員。九条家の元家庭医の息子。葛城の封筒。守り袋の紙片。  でも、目の前の男は、そのどの情報と
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第166話 九条康生を追う理由

「録音を開始します」  高瀬さんがレコーダーのボタンを押した。  赤いランプが点く。  葛城はそれを一度見て、軽く頷いた。 「構いません。私がここへ来たことも、記録に残していただいて結構です」 「では、まず確認します。葛城静司さんご本人ですね」 「葛城静司です」 「本日持参された資料について、入手経路と保管状況を説明してください」  高瀬さんが事務的に進める。  葛城は鞄の持ち手に指を置いたまま、ゆっくり話し始めた。 「白桐産院旧棟の閉鎖時、廃棄に回るはずだった事務記録の控えです。原本じゃありません。父が関係していたので、私が一部を持っていた。正規の保管ではありません。……だから、これだけで法的な決定打にはならない」  自分に不利なことを、先に言った。  その慎重さが、かえって気持ち悪かった。 「それでも、持ってきた理由は」  高瀬さんが聞く。 「もう、隠しても意味がないからです」  葛城はそう言って、私を見た。  目が合う。  穏やかな目だった。けれどそこには、会えて嬉しいという温度がうっすら残っていた。  私は膝の上で手を重ねた。 「……私の人生を、見てたんですか」  葛城は一度だけ視線を落とした。 「見ていました」  あまりに短い返事で、かえって腹が立った。  律の手が、車椅子の肘掛けの上で止まる。  葛城は続けた。 「二十四年前、私はあなたの存在を知りました。白桐産院で何が起きたのかも、完全じゃないにせよ、早い段階で知ってました。その後、あなたが如月家に引き取られたことも、三年前に家を出されたことも」  その先の説明が、一瞬、耳に入らなくなった。  知っていた。  私がコンビニで深夜に立っていたことも、祖母の病室へ行けずにいたことも、三年前に電話を切られたことも。  どこまで。  問いを口にしかけたが、声になる前に息だけが漏れた。 「結局、何もしなかったんですね」  代わりに出た言葉は、それだった。  葛城は目を逸らさなかった。 「何もしませんでした」 「……なぜですか」 「恐れてました」  あまりに簡単に言われて、腹の底が熱くなった。 「九条康生を?」 「それもあります。ただ、それだけじゃありません」  葛城は指先で封筒の角を押さえた。紙が小さく鳴る。 「私が、いつ出すか決
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第167話 九条葵という名

「……そう言われると思っていました」 「それも嫌です。分かった顔をしないでください」  葛城の指が、ぴくりと動いた。  言い切ったあと、口の中が乾いた。  レコーダーの赤いランプだけが、点いたままだった。  律がこちらを見る気配がした。でも、何も言わない。  よかった。  今、代わりに怒られたら、私はたぶん何も言えなくなる。  葛城は深く息を逃がした。 「……すみません。今のは、余計でした」  私は答えず、封筒を見た。 「中身を見せてください」  葛城は高瀬さんへ視線を移す。高瀬さんが頷き、手袋をしたまま封筒の状態を撮影した。封緘部分、署名、日付、折れ、汚れ。ひとつひとつ記録してから、開封用のペーパーナイフを入れる。  中から出てきたのは、薄い紙の束だった。  コピー用紙ではない。もっと古い、少し黄ばんだ感熱紙のようなものと、台帳を撮影した写真のプリント。  高瀬さんが一枚目を机の上に置く。  白桐産院 旧棟 入退院事務控え。  文字はかすれていた。けれど、日付だけは読めた。  その日付は、守り袋に縫い込まれていた紙片と一致していた。 「これは、正式な診療録じゃありません」  葛城が言う。 「診療録の原本は、閉院後の移管先が不明瞭です。私が保管していたのは、事務側の控えと、父のメモの一部だけです。だから、今ここで断定はできない」 「断定できない資料を、なぜ今出すんですか」 「あなたが、紙片を見つけたからです」  先回りされていたことが、また一つ増えた。 「つまり、私がここまで来るのを待ってたんですね」 「待ってた、というより……」  葛城はそこで初めて言葉を探した。 「こちらから押しつけていいものじゃないと思ってました」  呆れて、息が漏れた。 「それを決めたのも、あなたですよね」  葛城は返事をしなかった。  誰もすぐには口を開かなかった。  高瀬さんが、二枚目の紙をそっとずらした。  母体名の欄。  そこには名前を隠した跡があった。古いコピーの上から、後で別の紙を貼って複写したような、不自然な白い四角がある。  その横に、手書きのメモ。  K.A。  九条葵。  そう読めたのは、もう私がその名前を知っているからだろうか。 「母親の名前は、原本では塗り潰されていた」  葛城の声が遠く
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第168話 白く塗り潰された欄

 生きている。  母かもしれない人が、生きている。  会議室の時計は進んでいるのに、私は同じ言葉の前にいた。 「ただし、現在どこにいるか、私が直接管理してるわけじゃありません。数年前までの所在は知っています。今もそこにいるとは限らない」 「なぜ、そんな言い方をするんですか」  返事は、すぐには来なかった。先に聞こえたのは、椅子の脚が床を擦る音だった。 「九条康生が動いてるからです」  葛城は、古い紙の端を指で押さえながら言った。 「あなたが葵さんに似てきた。だから三年前、如月家で偽令嬢騒動が起きた。少なくとも、私はそう見ています」  律の手が、肘掛けの上で止まった。  私は葛城から目を離さなかった。 「見てるだけなら、何とでも言えます」 「証拠もあります」 「その証拠を見せてください」  葛城は二冊目の封筒へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。  そして、こちらを見た。 「すべては、まだ渡せません」  律の声が低くなった。 「渡せない理由を、具体的に」 「渡せば、九条康生に私が持っている範囲を読まれます。彼は、証拠そのものより先に、証人を消します」  高瀬さんが、ペンを止めた。 「消される可能性がある証人は、誰ですか」 「当時の看護師長です。狭山という姓で記録に残っている女性」  守り袋の紙片にあった姓。  私は紙片の「狭山」という文字を見た。 「生きてるんですね」 「おそらく」 「会って確かめたわけじゃないんですね」 「十年前に一度、居場所を変えています。私が接触すると、康生に気づかれる可能性が高い」 「便利ですね」  問い返す声が強くなった。  葛城がこちらを見る。 「危険だから渡せない。危険だから会えない。そう言えば、あなたはずっと持ってる側でいられる」  誰も動かなかった。  律は口を挟まず、私を見ていた。  私は机の上の紙を見た。  生まれた日の記録。  母親の名らしきイニシャル。  死んだことにされたかもしれない赤ん坊。  そこにある紙は、私を助けるために差し出されたようでいて、私をまた誰かの手の中に置こうとしている。 「資料は使わせてもらいます」  ゆっくり言った。 「でも、あなたの言う通りに動くつもりはありません」  革の鞄の金具が、葛城の膝に当たって小さく鳴った。  
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第169話 二人の赤ん坊

 滲んだ赤い判を見たまま、私はしばらく瞬きができなかった。 冷めた茶の色が、湯呑みの内側に濃く残っている。 紙の上の文字は少ない。 日付。産院名。女児。処置欄。 資料の端を押さえる指が、動かなくなった。 私の誕生日と同じ日付に、生まれて、死んだことにされた赤ん坊がいる。 二つの記録が、頭の中でうまく重ならなかった。「朝霧さん」 高瀬さんの声がした。 淡々としている。けれど、さっきより一瞬だけ低い。「次の紙へ進みます。止める時は、いつでも言ってください」 止めることもできる。 そう言われて、握っていた指が少し緩んだ。 握っていた手を開き、机の上へ置いた。「見ます」 声は、かすれていた。 高瀬さんは頷き、薄い紙束の中からもう一枚を抜き出した。手袋越しの手の先が、紙の角を慎重に整える。 古い事務控え。 こちらも同じ日付だった。 母体名欄には、白い四角はない。 掠れてはいるが、読めた。 如月琴美。「如月琴美」の文字を、二度読み直した。 隣で、律の指が肘掛けを強く押さえた。 私は紙から目を逸らせなかった。 新生児欄。 女児。 出生時刻。 処置欄。 そこにも、赤い判があった。 死亡確認済。 ただし、こちらには確認者署名があった。 読みにくい崩し字で、医師らしい名前が入っている。「同じ日に、二枚あるんですね」 声が、思ったより遠く聞こえた。 葛城は、机の向こうで視線を落とした。「日付も産院も一致しています」「同じ旧棟ですか」「同じ旧棟です。正確には、分娩室の記録だけ別管理でした」「これは事務側の控えにすぎません」 高瀬さんが、すぐに補う。「現時点では、この二枚だけで親子関係や生死を断定することはできません。正式な診療録、出生届、死亡届、埋火葬関係の記録、当時の台帳との照合が必要です」
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第170話 如月家の本物ではなかった

「当時、如月家の実子は亡くなったと見ています」  葛城の声は、乾いていた。 「一方で、九条葵さんの子は死産として処理された。なのに、その記録には確認者署名がない。識別バンドの写真、看護師長の姓、父のメモ。合わせると……少なくとも一人の赤ん坊は、記録上の死と実際の所在をずらされた可能性が高い」  説明はそこで終わったのに、会議室の時間だけが止まったままだった。紙の上では「死産」「死亡」「保管」と短く片づけられている。その一語一語の裏に、赤ん坊の体温や、誰かの腕から離された重さがある。私はそこを想像しないようにして、失敗した。 「可能性」  その言葉が、今日は妙に腹立たしかった。  窓際のカーテンが空調で揺れ、すぐに戻った。 「私が、その子だと?」 「断定はできません」 「でも、そう言いに来たんでしょう」  葛城は答える前に、視線を落とした。  高瀬さんがこちらを見た。止めるべきか、迷っている顔だった。  律は黙っている。  私は水のグラスへ手を伸ばしたが、爪が側面に当たって音を立てた。  飲めなかった。 「琴美さんは、知ってたんですか」  葛城は目を上げた。 「おそらく、知らなかった」 「おそらく」 「如月琴美さんの署名は、こちらの写しには残っていません。保護者同意欄、退院関連の控え、後日の連絡先。どれも、如月隆一氏の名前が中心です」  隆一。  その名前だけで、紙の匂いまで変わったように感じられた。  父だった人。  私を追い出した人。  会社を守るために私を榊家へ差し出した人。  そして、二十四年前にも、何かを選んだかもしれない人。 「隆一さんは、知ってたんですね」 「少なくとも、何も知らなかったとは考えにくい」 「考えにくい」  乾いた笑いが出かけたが、声にはならなかった。 「どうして、そんなに薄い言葉ばかりなんですか」  葛城の顔が、歪んだ。 「……断言できる資料がないんです。曖昧なまま伝えれば傷つけると分かっていて、結局ここまで遅れました」 「それを、今、あなたが言うんですか」  声が少し上がった。  自分でも分かった。もう怒りだけでは支えられない。足元から別のものが崩れていく。  頭の中に、知らない赤ん坊と琴美さんの顔が同時に浮かんだ。どちらを見ても、息が浅くなった。  椅子の背が、
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