All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話 切られた電話の先

「口答えするようになったな」 「……今まで、返さなかっただけです」  言い終えたあと、司は机の縁を握った。  壁際の時計だけが、途切れず時を刻んでいた。  父は数秒黙り、封筒の端を指で叩いた。 「桐生の名前に泥を塗る気か」  司は封筒を見た。 「もう、ついてます」  父の視線が鋭くなる。 「見ないふりをしてきただけです」  手の内側に汗が滲んだ。三年前と同じように黙りたくなったが、机から手は離さなかった。  父はそれ以上言わず、背を向けた。 「……会議には出ろ」  扉が閉まり、時計の音だけが残った。  司は伏せていたスマートフォンをもう一度取った。  榊邸では、午後の光が書斎の床に細く伸びていた。  高瀬さんが持ってきた中間報告書は、薄いファイル一冊分だった。けれど、表紙を開く前から、重さがあるのが分かった。 「桐生司様から、任意で提供できる範囲の資料が届きました」  私は椅子に座ったまま、指先を膝の上で組んだ。  守り袋は、保全袋に入れられて机の端に置かれている。透明な袋越しに、古い布の色だけが見えた。取り戻したはずなのに、まだ遠い。 「見るかどうかは、朝霧さんが決めてください」  律がそう言った。  仮面は外していない。けれど、その声は、あの夜よりも、どこか慎重だった。 「見ます」  自分でも早い返事だった。 「見ないままにしたら、また誰かの説明だけで終わります」  高瀬さんがファイルを開く。  車両日報。通話履歴。カード決済時刻。  数字を追うほど、紙を押さえる手に力が入った。  三年前、私が泣きながら電話をかけた時、司はもう、未央を病院へ連れていったあとだったのかもしれない。  私は椅子の背へ手を伸ばした。 「……これ、変ですよね」  声が、自分でも驚くほど小さくなった。  高瀬さんが頷く。 「断定はできません。記録の時刻差、入力遅れ、現場での聞き違い。確認すべき点はあります。ただ、少なくとも、当時の説明だけで片づけていい内容じゃありません」 「未央さんの同意がないと、診療内容までは見られないんですよね」 「本人同意がなければ、正式な診療情報には踏み込めません」  当たり前のことだ。  当たり前のことが、少しだけ悔しかった。  三年前は、未央が泣いたあとに誰も私へ確認しなかった。今
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第132話 未央が拾った名刺

 返事のあとも、律は黙っていた。  律は答えを促すこともせず、冷めた茶へ手を伸ばした。  肩に入っていた力が少し抜けた。  榊邸の床に、午後の光が細く伸びていた。机の上のお茶は、もうほとんど冷めている。  高瀬さんは、次の紙を机に置いた。  私は守り袋の保全袋に目を落とした。透明な袋の内側で、九条家のものに似た刺繍がかすかに歪んでいる。あれを奪おうとした未央の手。あの時、階段の話をまた利用しようとした声。  未央の爪が手袋に当たった感触が戻り、私は保全袋から目を離した。  録音も、立会人も、面倒な手順も残っている。  今は、その面倒さの方がありがたかった。 「桐生司様は、未央さん本人に診療情報開示の同意を求める意向です」  私にしてくれなかった確認を、今は未央さんにも求めるのだ。 「司さんが」  名前を口にすると、雨の夜の着信画面が浮かび、胸のどこかがまだ痛んだ。私はファイルの時刻へ目を戻す。  今は、そこを確かめる方が先だった。 「遅いですね」  そう言うと、律がこちらを見た。 「……遅いです」  私は頷き、それ以上は言わず、開かれたファイルの時刻欄へもう一度目を戻した。  律も司の話を続けなかった。  ファイルは開いたままだった。◇ 同じ頃、如月家の応接室では、未央が爪先で床を叩いていた。  スマートフォンには、司からのメッセージが残っている。 『三年前の受診記録について、確認したいことがある。診療情報開示への同意書を送る。話がしたい』  短い文だった。  優しくない。  いつもの司なら、まず「大丈夫?」と聞いたはずだった。怖かったね、と言ったはずだった。栞がひどい、とはっきり言わなくても、未央のほしい方へ少しだけ体を傾けてくれた。  その傾きが、ない。 「何を調べてるの……」  声にした途端、語尾が細かく震えた。  琴美は隣で何か言いかけたが、未央は見なかった。今、母の弱い声を聞いたら、余計に腹が立つ。  通知音が鳴る。  桐生家秘書から、メールが届いた。  件名は事務的だった。  ――三年前の受診記録確認に関する同意書のご案内。  未央は、画面を見たまま動けなくなった。  栞が守り袋を取り戻した。  録音も残った。  司まで、あの日のことを調べ始めた。  未央はスマートフォンを握り
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第133話 社交界の噂が反転する

 朝食の席に、新聞は置かれていなかった。  焼き魚の皿の端に、箸の影が細く落ちていた。  代わりに、相良さんが薄いファイルを一冊、白い皿の横へ滑らせた。表紙には何も書かれていない。角だけがきっちり揃っていて、それだけで中身が軽いものではないと分かる。  私は箸を持ったまま、そこを見た。 「食事の後で構いません」  相良さんの声はいつも通りだった。丁寧で、硬い。 「急ぎですか」 「急ぎじゃありません。ただ、知らないまま外へ出るのはおすすめしません」  湯気の立つ味噌汁の向こうで、律が顔を上げた。今日も黒い仮面をつけている。見えない部分があることには、まだ慣れない。  慣れない、というより。  黒い仮面を見るたび、そこに傷を想像していた自分を思い出す。  勝手に傷を思い描き、その奥にある表情まで、自分の中だけで怖いものだと決めつけていた。けれど、いま目の前にいる人は、ただ静かに箸を置くだけだった。 「私も見た方がいいものですか」 「君の名前が出ています」  それだけで、箸先が止まった。  名前。  他人の口に乗った瞬間、私のものではなくなる言葉。  食べかけの焼き魚の身が、白い皿の上で崩れている。私は一度、息を整えてからファイルを開いた。  中には、社交界向けの非公開掲示板や招待制サロンの投稿が印刷されていた。高瀬さんの付箋が貼られている。公開範囲、投稿日、確認者。感想ではなく、資料として整理されていた。  ――榊家の晩餐会での扱いを見る限り、朝霧さんは冷遇されていない。  ――如月未央さん、少し焦っていたように見えた。  ――三年前の話、あれ本当に未央さんの言う通りだったの?  文字は小さい。  でも、刺すには十分だった。 「……今度は、逆向きなんですね」  声は平らに出たが、自分のものではないように聞こえた。  律は返事を急がなかった。湯呑みを持ち上げ、口をつけずに戻す。 「逆向きでも、噂は噂です」  私は、噂の印刷された紙を見たまま頷いた。  律がわずかに車椅子を動かし、床に短い音が落ちた。  三年前も、こういう「らしい」が増えていった。私は紙の端を親指でこすった。  今度は、その矢印が未央へ向いただけだ。  紙をめくる指が、少し乾いている。 「嬉しそうじゃありませんね」  相良さんが小さく言った
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第134話 財団へ伝える真実

 律の視線が、短く私の手元へ落ちた。  食堂の窓に、曇った朝の光が薄く滲んでいた。 「放っておきますか。それとも、訂正を出しますか」 「ほかには?」 「出席して、その場で聞かれた分だけ答える方法もあります」 「表に出るのは、未央さんが望んでいることでは」  ファイルの最後に、一枚の招待状の写しが挟まれていた。  薄いクリーム色の紙。金の縁取り。表題は、霞ヶ丘女性文化財団主催の小さな茶会。母と娘をテーマにした寄付企画、と説明が添えられている。  招待者欄には、如月未央の名前。  その下に、小さく、朝霧栞様にもご出席をお願いできれば、とあった。 「未央さんから?」 「財団の事務局経由です」  相良さんが答える。 「ただし、最初に問い合わせを入れたのは如月家の秘書です。『誤解を解きたい姉妹がいる』という説明で」  姉妹。  その二文字を見て、紙の端が指で少し曲がった。 「便利ですね。捨てる時は偽物で、並べたい時は姉妹ですか」  律がこちらを見た。  律の指が肘掛けの上で止まったが、口は挟まなかった。  私は招待状を閉じる。 「行きません」  返事をしたあと、招待状を閉じた手が止まった。  逃げたように見えるかもしれない。  そう考えた。  紙を見比べた。欠席を選べば逃げたと書かれる。出れば、また見世物になる。どちらも気分が悪かった。 「理由を伺っても?」  相良さんが訊いた。 「行っても、話を聞いてもらえる気がしません」  招待状の金の縁を指でなぞり、すぐに離した。 「泣くところか、仲直りするところを見たいだけでしょう」 「それを財団に伝えますか」 「欠席します。三年前の件は確認中で、公開の場では話さない、とだけ」  高瀬さんならもっと正確な文章にするだろう。  けれど、私の言いたいことはそれだった。  私は見世物になりたくない。  未央の救済劇の背景にも、断罪劇の主役にも、なりたくない。  律がかすかに息を逃がした。 「では、欠席で進めます。返答文は高瀬に確認させます」 「お願いします」  律は、方針を確定するように短く頷いた。  律が反対しなかったことに、私は少しだけ戸惑った。  けれど、止めてほしかったわけではない。  私は冷めかけた味噌汁へ箸を戻した。  相良さんはファイルを閉じ
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第135話 和解を求める噂

「強い文面にすると、こちらが攻撃的に見えます。弱すぎると、黙認と受け取られます」  高瀬さんは淡々と言った。  私は二枚目と三枚目の間で指を止めた。  書斎の床で、車輪がわずかに向きを変えた。 「主催者に伝えてください。記録を残してほしい、と。公開の場で私個人の過去や家族関係を扱うなら、事前に議題として明示してほしい、と」 「先方に、そのまま伝えます」  私は申入れ文案の端へ目を落とした。 「それから、欠席はします。でも、逃げたと言われても反論しません」  高瀬さんが顔を上げた。 「よろしいですか」 「全部に反応してたら、私の一日が未央さんのために使われます」  言ってから、自分の声の冷たさに気づいた。  けれど、取り消さなかった。  反論したい気持ちはある。でも、届くたび全部返していたら、本当に未央のための一日になる。私は伏せたスマートフォンへ手を伸ばさなかった。  机の端で、私のスマートフォンが震えた。  画面には、見覚えのある名前が表示されている。三年前、如月家の誕生日会で私に笑いかけ、翌週には連絡先を消した人だった。 『お久しぶりです。いろいろ誤解があったようで、心配しています』  短い文面の最後に、かわいい絵文字がついていた。  私は画面を伏せた。 「返事は?」  律が訊いた。その声を聞いても、私はスマートフォンに手を戻さなかった。 「しません。心配してる人は、三年前にも一度くらい連絡できたはずです」  三年前なら、その短い文面だけでも嬉しかったかもしれない。今は、最後の絵文字に返す気にもなれなかった。  高瀬さんは何も言わず、文案の三枚目に赤い線を引いた。律も黙っていた。  私はスマートフォンを裏返したままにした。◇ 同じ朝、未央は鏡の前で口紅を引き直していた。  色はいつもより薄い。けれど、何度重ねても顔色の悪さが消えない。  鏡の隅に映るスマートフォンが、また震えた。 『先日の件、皆さん心配されています』 『朝霧さんとは本当に和解されるんですか?』 『三年前の件、桐生さんが調べているという話は本当ですか』  どれも、心配そうな言葉だった。  未央は画面を見て、奥歯を噛んだ。  昨日まで返事もしなかった人たちだ。  昨日まで既読だけで返ってこなかった相手からも、急に花のスタンプが届い
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第136話 本物の令嬢という檻

 昨日まで、みんな栞を見下していた。かわいそうね、でも仕方ないわよね。偽物だったのでしょう、と未央の隣で笑っていた。  鏡台の上で、口紅のキャップが転がった。  今朝は、その誰もが距離を測っている。  栞が榊家で冷遇されていないこと。  司が三年前を調べ始めたこと。  それだけで、向けられる目が変わった。  昨日まで寄ってきた人たちが、今朝は返事の時間まで測るようになった。  未央にも覚えがある。自分がそうしてきたからだ。  ただ、自分が外される側になるとは思っていなかった。  扉が控えめに叩かれた。 「未央さん」  琴美の声だった。 「入らないで」  返事は強すぎた。  扉の向こうで、息を飲む気配がする。 「お茶会の件、事務局から……栞さんは、欠席されるそうよ」  未央の指が止まった。 「欠席?」 「ええ。公開の場で個別に語る予定はない、と」  欠席。未央はその二文字を頭の中で繰り返した。  用意していた質問は、相手が来なければ使えない。  そのことが、ひどく腹立たしかった。  栞はまた、未央の思った通りには動かなかった。 「……何でよ」  声が低く落ちた。  琴美は何も答えない。 「何で、いつもそうやって」  栞は昔から、こちらの用意した通りに動かなかった。  泣けば済むところで泣かず、謝れば終わるところで黙る。  未央には、それが昔から気に入らなかった。  今は、気に入らないだけでは済まない。  胸の奥がざわつく。  何をされるか分からない、と初めて思った。 「未央さん、もうやめましょう。三年前のことは、きちんと確認して……」 「お母様まで?」  扉の向こうの声が止まった。 「お母様まで、栞の方を信じるの?」 「栞さんを信じるかではなく、あの日を確かめたいの」 「じゃあ、どういうこと?」  未央は扉を開けた。  琴美は廊下に立っていた。顔色が悪い。手には白い封筒を持っている。財団からの返答だろう。  頼りない母の姿を見て、未央の苛立ちはさらに強くなった。  この人は、昔からこうだ。  泣く。  迷う。  結局、あの日も黙って立っていただけだった。 「茶会には、私一人でも行きます」 「未央さん」 「栞が来ないなら、来るようにすればいいだけでしょう」  琴美の瞳に、は
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第137話 九条康生の囁き

 受話口の声は低く、感情の起伏がなかった。  廊下の照明が、スマートフォンの黒い画面に細く映った。  未央は、廊下の壁に肩を寄せたまま、動けなかった。  琴美はすぐそばにいる。泣いたあとの目元を押さえ、何か言いたそうにこちらを見ている。けれど未央は、母の視線より、耳元に落ちてくる男の声の方を選んだ。 「……九条様、どうして私の番号を」 「困ってる人の連絡先は、探さなくても自然とこちらへ集まるものです」  答えになっていないと未央にも分かった。男は、番号を知った経緯をそれ以上説明しなかった。  未央は聞き返せないまま、スマートフォンを握り直した。 「あなたは今、ずいぶん不安定な場所に立たされてる。三年前のことを掘り返され、社交界では噂が返り始め、桐生司さんも迷ってる」  未央の指が、スマートフォンの縁をきつく掴んだ。 「司さんは関係ありません」 「そうでしょうか」  康生は、一拍置いた。  その短い間だけで、見透かされたようだった。 「本物という席はね、如月さん。座ってるだけでは守れません。周囲に、そこがあなたの席だと思わせ続けなければならない」 「私は……本物です」 「ええ。そうあるべきです」  肯定されたのに、未央は安心できなかった。ずっとそう言ってほしかったはずなのに、康生の「そうあるべき」という言い方が胸に引っかかっていた。 「明日の午前、使いの者に資料を届けさせます。榊グループの役員会で、朝霧栞さんの扱いに疑義を投げるための材料です」 「役員会……?」 「彼女は、榊家に入ってまだ日が浅い。けれど既に、業務資料に触れ、法務の席に同席し、如月家や桐生家の調査に関与している。見る人が見れば、危うい話です」  未央は唇を噛んだ。  それは、少し前まで自分が欲しかった話だった。  栞は危険だ。榊家に取り入った。よく分からない力で、周りを動かしている。そう言ってしまえば、未央はまた被害者の席に戻れる。 「でも、証拠は……」 「証拠は事実だけでできているわけじゃない。人が信じやすい順に並べれば、それらしく見える」  低い声だった。  優しい言葉ではない。  でも、その考え方は未央の内側に、ひどくすんなり入ってきた。 「あなたが直接動く必要はありません。疑問を投げるだけでいい。『偽令嬢と呼ばれた女性が、なぜ榊家の機密
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第138話 未央へ会いに行く男

「何もしないことです。誰かが動くように、置く」  その一言を残して、通話は切れた。  未央はスマートフォンを耳に当てたまま、動けなかった。  画面が暗くなっても、腕は下がらない。  柱時計の秒針だけが、廊下に響いていた。  廊下の奥で、琴美が小さく名前を呼んだ。 「未央……今の方は」 「お父様には言わないで」 「でも」 「言わないでって言ってるの」  声がわずかに高くなった。  琴美が怯えたように肩を揺らす。その反応に、未央は一瞬だけ、自分がひどい顔をしていることに気づいた。  未央は、琴美から目を逸らした。  守り袋は奪えなかった。  司は自分を疑い始めている。  社交界の噂は、ゆっくり向きを変えている。  ならば、別の場所を燃やすしかない。  手元のスマートフォンは、画面が暗くなったままだった。  未央の顔だけが、黒い画面に細く映っていた。  桐生司がその動きを知ったのは、二時間ほど後だった。  父の秘書から渡された封筒には、翌日の榊グループ役員会に関する非公式な質問案が入っていた。桐生家として出すものではない。ただ、榊側の一部役員から「意見を求められている」という形になっている。  司は、紙面の中央にある一文で手を止めた。  ――朝霧栞氏の榊グループ関連資料への関与について、利益相反と情報管理上の懸念を確認すべきである。  整った文面だった。  整いすぎていた。  誰かが、栞を疑うための質問を先に用意している。 「父さん、これは誰から」 「聞くな」  桐生会長は短く言った。応接室の灯りはまだついているのに、机の上だけが妙に暗く見えた。 「榊家の内輪の話だ。こちらは踏み込みすぎない方がいい」 「でも、この書き方だと、また彼女だけが矢面に立つ」 「彼女じゃなく、榊律の判断が問われる」 「栞が矢面に立つなら、同じことです」  思ったより強い声が出た。  父が眉を寄せる。  司は封筒を握り直し、角を折った。三年前も、誰かに渡された紙をそのまま信じた。今度は中身を自分で確かめるしかない。 「未央に会ってくる」 「余計なことはするな」 「余計なことをしなかった結果が、今です」  三年前にもそう言えたはずだった。今、父へ言い返せることが、あの夜に黙った自分をいっそう情けなくした。  父は何も返さ
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第139話 消えない恐怖

 考えるほど、口の中が乾いた。  保全袋の管理ラベルが、卓上の光を鈍く返していた。 「今日の保全作業は、ここで区切りましょう」  高瀬さんがペンを置いた。 「産院名と紋の確認は、明日以降、正式な照会文を作成します。古い施設ですので、記録が残っていたとしても時間はかかります」  返事を探しながら、机の端へ目を落とした。 「時間がかかるのは、覚悟します」  声は少し遠く聞こえた。  律は、少し離れた窓際にいた。車椅子の肘掛けに手を置き、こちらを見ている。仮面は外していない。けれど、その下に世間で噂されるような大火傷はないと、本人の口から聞いている。  一度聞いてしまえば、以前と同じ気持ちでその仮面を見ることはできなかった。 「朝霧さん」  高瀬さんが封筒を一枚、机の端に置いた。 「九条康生について、公開情報の範囲でまとめたものです。今すぐ読む必要はありません」  九条康生。  未央に接触したという名前。  医療法人とKMSホールディングスの周辺に見え隠れする名前。  そして、私の知らない過去へつながっているらしい家の名前。 「これ、今見た方がいいですか」 「急ぎではありません」  律の返事はすぐだった。  以前なら、先に説明を始めていたかもしれない。 「……読みます。今」  私は封筒へ手を伸ばした。 「顔色が悪くなったら、止めます」 「それは困ります。閉じるなら自分で閉じます」  律はそれ以上止めなかった。  高瀬さんも黙って資料をこちらへ寄せた。  封筒の角が指に当たった。  紙の中には、私の知らない名前が並んでいる。  封筒を机に置いたままにする方が、落ち着かなかった。  私は封を開いた。  中には、簡素な人物略歴と関連法人図が入っていた。  九条康生、五十八歳。  九条グループ副社長。  医療・介護・投資部門を長く見てきた人物。  文字を追うだけで、会ったことのない相手が少しずつ近づいてくるようだった。 「この人が未央さんに何か渡すとしたら、私を危険人物に見せる材料でしょうか」 「その可能性は高いでしょう。榊家の内部に、あなたへの疑いを広げるつもりだと思います」  律は一度言葉を切った。 「あなたが業務資料に触れたこと、如月家関連のデータを扱ったこと、私が三年前から支援窓口を通じてあなた
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第140話 葵に似すぎた娘

「今度も、説明するんですね」 「出るなら、そうなります」 「私が話します。先に止めないでください」  律は少しだけ間を置いた。  私は封筒を机へ戻した。 「場を整えるのは手伝ってください。でも、収拾がつかなくなるまでは黙っていて」 「……分かりました」  返事は短かった。  今は、それで十分だった。  高瀬さんが小さく咳払いをして、書類を整える。 「明日の榊グループ役員会では、朝霧さんへの質問が出る可能性があります。法務としては、参加を見合わせる選択も提示します」 「逃げたら、また何か言われますね」 「出席しても、言われます」  高瀬さんは淡々としていた。  逃げても出ても何か言われる。私は資料の端を指で叩いた。 「では、出ます」  律の指が肘掛けの上で止まった。 「怖くはありませんか」 「怖いです」  すぐに答えた。さっき出席すると決めたばかりなのに、怖さまでなくなったわけではない。  それを隠して平気なふりをする方が、余計に疲れると思った。 「でも、欠席したら……たぶん、あとで悔しくなる」  書斎の時計が、低く一つ鳴った。  その音が消えたあとも、律は私を見ていた。 「明日は、私の隣に席を用意します」 「それ、婚約者の席ですか」 「今回は作業者の席です」 「……なら、座ります」  律はほんの少しだけ口元を緩めた。  作業者。私はその言葉を頭の中で一度だけ繰り返した。  名札でも、元令嬢でもない。  少なくとも明日は、資料を持って座ればいい。  それなら、少しだけ楽だった。  相良さんが退出する時、車椅子の位置を直そうとして一瞬だけ手を止めた。律の足元に視線を落とし、何も言わずに角度を変える。  私は見なかったふりをした。  問い詰めるには、まだ早い。けれど、見なかったことにするには、もう遅かった。  相良さんはそのまま部屋を出た。  私は律の足元から目を外した。  書斎の扉が閉まる音がして、机の上の黒塗り資料だけが残った。◇ 同じ頃、都心の会員制ラウンジで、康生は一枚の写真を眺めていた。  榊家の晩餐会で撮られたものだった。  黒いドレスを着た栞が、席札に指を添えている。横顔だけなのに、まぶたの線と顎の角度が、古い記憶をひどく正確になぞっていた。  向かいの席で、未央が落ち着か
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