《身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

16 章節

第1話 捨てた父が、深夜のレジに立つ

 午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。「……何の御用ですか」「話がある」 相変わらず、命令に近い言い方だった。 この人は昔からそうだ。会社でも家でも、自分が口を開けば周りが従うと思っている。三年前、自分の手で私を切り捨てたあとでも、その立場だけはまだ残っているつもりらしい。 笑ってしまいそうになった。「私は、もう如月家の人間ではありません。あなたがそう言ったんでしょう」 隆一の眉がかすかに動く。 その表情を見た瞬間、忘れたはずの景色が、喉の奥までせり上がってきた。 三年前。 父は一人の少女を連れて帰ってきた。 如月未央。「こちらが、本当の実の娘だ」 その日から、家の空気は少しずつ変わった。 両親は、表向きは今まで通りに接してくれた。けれど、食卓で私の話を聞く時間は短くなり、母の笑顔は薄くなり、父は私を見るたびに、何かを測るような目をした。 未央だけは違った。「お姉ちゃん」と無邪気に呼んで、私の服を真似し、同じ紅茶を選び、同じ本を読もうとした。 私は、それを本気で慕われているのだと思った。 血が繋がっていないと分かった途端に、失われていくものばかりだった。だから、妹ができたと思えばいい。そう自分に言い聞かせていた。 けれど、あの日。 未央は父の前に、大量の写真と一通の封筒を置いた。「お姉ちゃん、こういう場所に出入りしていたの。ホストばかりいるような、下品なお店に。それだけじゃないわ。会社の資料まで、外の人に渡していたみたい」 写真には、私に似た女の横顔が写っていた。 封筒には、如月グループの内部資料らしきものが入っていた。 どれも、身に覚えがない。「違う。これは何? 未央、誰に頼まれたの」 私は彼女の手首を掴んだ。 問い詰めるつもりだった。痛めつけるつもりなんてなかった
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第2話 家を救うため、私を差し出すそうです

 病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。  ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。  頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」  名前を呼ぶと、まぶたが震えた。  ゆっくり開いた目が、私を捉える。  濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。  骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。  私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。  驚くほど冷たい。  それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り……」  声にはならない。  空気が漏れるような、かすかな音だった。  それでも分かった。  名前を呼ばれたのだと。  幼い頃、夜会で失敗して泣いた私に、静江さんは膝掛けをかけながら言った。  ――家の名前で立つんじゃないよ。自分の足で立ちなさい。そうすれば、どこに行っても栞は栞でいられる。  皆が私を見る目を変えていったあとも、静江さんだけは変わらなかった。  私が家を追い出された時も、最後まで「この子がそんなことをするはずがない」と言ってくれたらしい。  けれど、その直後に容体が悪化した。  高級療養施設に移されたあと、私は面会すら許されなかった。  三年分の言葉が喉につかえて、何も出てこない。  涙だけが落ちた。 「来ました。ちゃんと、会いに来ました」  静江さんのまぶたが、わずかに緩んだ。  そのまま彼女は、私の手を握ったまま、深い眠りに落ちた。  一時間後、病室を出ると、廊下には隆一が立っていた。 「本家に来てくれ。祖母の件で、話がある」  その一言で、体の中に残っていた熱がすっと引いた。  やはり、そういうことか。  病院へ呼んだのは、静江さんのためだけではなかったのだ。  黒い車に乗せられ、三年間一度も近づかなかった如月本家へ向かった。  門をくぐった瞬間、肩がこわばる。  追い出された夜と同じ石畳。同じ玄関。同じ、古い木の匂い。  もう傷ついていないと思っていたのに、床板を踏むたび、濡れた靴下の冷たさまで思い出した。  客間には、養母の琴美と未央がいた。  琴美は私を見るなり肩を揺らし、すぐに視線を膝の上のハ
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第3話 三年前に終わった話

 司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。「栞、俺は……」「その名前で呼ばないでください」 冷たく言い切った。 そうしなければ、ほんの少しだけ残っている昔の自分が、この男の声に振り返ってしまいそうで嫌だった。「三年前に終わった話です。今さら廊下で拾い直すつもりはありません」 司はそれ以上、何も言えなかった。 私は彼の横を通り過ぎ、かつて自分に与えられていた部屋へ向かった。 部屋の調度品は、何一つ変わっていなかった。 ベッドも、机も、窓辺の薄いカーテンも、追い出された日のままだ。 まるで、私だけが三年分汚れて戻ってきたみたいだった。 胸の奥が冷える。 ここは私の部屋だった場所で、もう私の帰る場所ではない。 そう言い聞かせながら、最低限必要な荷物をまとめていると、ドアが強く叩かれた。 開けると、未央が立っていた。 客間で見せていた上品な笑みは消えている。唇は怒りで薄く歪み、目だけがぎらついていた。「さっき司さんに会ったんでしょう? また何か話したの?」 私はドアノブから手を離さなかった。 廊下の明かりが、未央の横顔を白く照らしている。「何を話したかなんて、あなたに説明する必要はないでしょう」「司さんは今、私のものよ。あなたがどんなに平気なふりをしたって、もう戻らないんだから」 彼女は声を潜め、楽しそうに続けた。「あの不気味な車椅子の男と、一生暗い部屋で暮らせばいいわ」 胸の奥が、ほんの一瞬だけ刺されたように痛んだ。 司を取られたことではない。 三年前、誰にも選ばれなかった自分を、また見せつけられた気がしたからだ。 けれど、その痛みを未央に渡す必要はない。「何度も同じことを言わせないで」 私はゆっくり息を吐いた。「三
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第4話 黒い仮面の当主が、私を見ていた

「律様、お時間です」  低い声が、扉の外から響いた。  広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。  机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。  その一番上に、朝霧栞の写真があった。  コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。  律は写真の端に指を置いた。  三年前の豪雨の夜。  高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。  名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。  ただ傘を差し出した。  そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけた」  小さく呟いて、律はゆっくりと身を起こした。  噂の中の男は、事故で足を失った怪物ということになっている。  けれど、鏡の中の彼は、その噂と完全に同じ姿をしてはいなかった。  何が真実で、何が榊律という名を守るための仮面なのか。  傍らに置かれた黒い仮面を手に取る。  鏡の中の自分を一瞥し、顔の上半分へ影を落とすように装着した。  それを、今ここで世間に正しく見せる必要はない。  恐れられている方が、守れるものもある。近づけさせないことで、守れる傷もある。 「行こう」  その声に応じて、扉が静かに開いた。  婚約当日。  如月本家の大広間には、親族や関係者が集まり、異様な熱気に包まれていた。  金屏風の前に、黒振袖を纏って座る。  背筋を伸ばし、膝の上で指先を揃えた。  着付け係が褒めた髪飾りも、重たい絹の感触も、自分のものではない気がする。  これは如月家が用意した、身代わりのための衣装だ。  周囲から、ひそひそ声が降ってくる。 「本当に、実の娘じゃない方が嫁ぐのね」 「榊家の当主って、顔に酷い傷があって、まともに歩くこともできないらしいわよ」 「如月家も、会社を救うために必死ねえ」  どの声も、こちらに届くように少しだけ大きい。  私は表情を変えなかった。  数メートル離れた席では、未央が司の腕に寄り添っている。  勝ち誇った笑みを浮かべ、こちらへ小さく口を動かした。  ――お姉ちゃん、ちゃんと尽くしてね。これはあなたが家に負った借りよ。  借り。  その言葉を、心の中で冷たく転がす。  二十四年間の私の人生を
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第5話 朝霧栞を迎えに来た①

 低く、静かな声だった。 それなのに、その一言だけで、広間の誰かが椅子を引く音まで遠くなった。 車椅子の車輪がカーペットに沈み、金具が一度だけ小さく鳴った。 スマートフォンを掲げていた親族たちの手が、少しずつ下がっていく。未央の肩が小さく跳ね、隆一の唇が強張った。 黒い仮面の奥で、榊律の目だけがこちらを向いている。「その動画で彼女を貶められると思ったなら、相手を間違えている。――私は、朝霧栞を迎えに来た」 朝霧栞。 その名を聞いた瞬間、会場のざわめきが遠くなった。 如月栞ではない。 偽令嬢でも、身代わりの花嫁でもない。 三年前の雨の夜、誰にも守られなかった名前だった。 どうして、この人が知っているのだろう。 疑問は喉元まで上がった。けれど、声にならなかった。 律の車椅子が、私の前で止まる。「朝霧さん」 呼び方は、驚くほど静かだった。 命令でも、甘い救いでもない。ただ、私が自分で立つまで待つ声だった。「来られますか」 膝の上で握っていた指先から、少しだけ力が抜けた。 黒振袖の裾は重い。立ち上がろうとした足袋の先に、絹が引っかかる。近くの着付け係が手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。 どちらの味方にも見えたくないのだろう。 律の後ろに控えていた灰色のスーツの男が、一歩前へ出た。「お手を」「相良」 律が短く制した。 男は止まる。差し出されかけた手が、空中で下りた。 律は私を見上げたまま、低く言った。「必要なら、言ってください」 それだけだった。 助けるとも、支えるとも言わない。 私は一度だけ息を吸い、裾を自分で捌いた。床についた手のひらが冷たい。袖の中で、爪の先が小さく震えている。 それでも立った。 律の視線は、私の足元ではなく、私の顔にあった。倒れないか見張る目ではなく、私がどちらへ歩くのかを待つ目だった。 髪飾りの鈴が、小さく鳴った。「待ってよ、お姉ちゃん」 未央の声が、すぐ後ろから追ってきた。 人前でだけ使う、甘く湿った声。「誤解なの。私、びっくりして……あんな動画が回ってきたら、誰だって心配するでしょう?」「心配」 口の中で、同じ言葉を転がした。 形だけが甘く、触れると崩れる言葉だった。「本当に私を心配したなら、最初に本人へ確認するはずです」「そんな言い方……」「しないと思いまし
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第6話 朝霧栞を迎えに来た②

「……俺が、引き止めました」 司の声は掠れていた。「栞は拒んでいた。腕を掴んだのも、引き寄せたのも俺です」 言葉が一つ落ちるたび、視線の向きが変わっていく。 湯呑みの底に残った茶葉が、わずかに揺れて止まった。 さっきまで私を責めていた人たちが、目を逸らし始めた。伏せられたスマートフォンの画面が、畳の上で黒く沈む。 遅すぎる。 それでも、三年前には聞けなかった一言だった。 未央が司の袖を掴んだ。「でも、司さんは私の婚約者でしょう。まだその人に未練があるから、そんなふうに――」「未央」 司は、初めて彼女の手を外した。 乱暴ではなかった。だからこそ、未央の顔が傷ついたように歪む。「庇っているんじゃない。俺がやったことを言っている」 隆一が、重く息を吐いた。「もういい。この場で騒いでも仕方がない。榊様、見苦しいところをお見せしました。栞にはこちらから厳しく――」「厳しく?」 律が遮った。 声量は変わらない。けれど、隆一の言葉だけが薄い紙のように止まった。「如月代表。あなたは今、どなたの処遇について話していますか」「それは……栞のことです。いや、朝霧、ですが」「如月家とは絶縁済みだと聞いています」 隆一の目が、一瞬だけ私へ向く。 責めるような目だった。 約束を破ったのは、私ではないのに。 私は一歩前へ出た。「隆一さん」 父とは呼ばなかった。 琴美が、膝の上のハンカチを握ったまま顔を上げる。「誓約書の控えをください」「今、この場でか」「今、この場でです」 自分の声が、妙にはっきり聞こえた。「私は、如月家の代役として榊家へ行くわけではありません。あなたが会社を救うために差し出した娘でもない。朝霧栞として、私自身が選んだ縁談です」 未央が、泣きそうな顔で笑った。「選んだ、ですって? お姉ちゃん、自分がどんな立場か分かってるの?」「分かっています」 声を出す前に、舌の先が苦くなった。「だから、その呼び方も今日までにして」「……お姉ちゃん?」「私は、あなたの姉ではありません」 鈴が、髪の横で鳴った。 言った瞬間、胸の奥が痛んだ。 十五年分の家族ごっこが、簡単に消えるわけではない。未央と同じ紅茶を飲んだ日も、並んで靴を選んだ日も、全部が嘘だったと切り捨てられたら、どれほど楽だろう。 けれど、ここで飲
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第7話 朝霧栞を迎えに来た③

 声が掠れた。 律は慰めなかった。ただ、封筒を持つ私の手が落ちないように見ていた。 隆一が口を開く。「栞、いや、朝霧。お前は誤解している。こちらも苦渋の判断で――」 相手は答えを探すように、机の端へ視線を落とした。「苦渋の判断で、人は二度も売れるんですね」 広間が低く沈んだ。 琴美が息を呑む。隆一の顔から、経営者の整った色が少しだけ剥がれた。 言い過ぎたかもしれない。 でも、取り消せなかった。 ◇ 誰かが小声で「本当に絶縁していたのか」と言った。 その声に、別の誰かが「では如月家は何を披露しているんだ」と返す。 囁きはすぐに消えた。けれど、消えた場所には、もう昨日までの私だけが悪いという空気は残っていなかった。 琴美が、何かを言いかけて私を見た。 唇だけが「栞ちゃん」の形になる。けれど声は出ない。 その沈黙を、私は三年前にも見た。泣きそうな顔で、でも何も決めない人の沈黙。 胸の下にまだ柔らかい部分が残っていて、そこが小さく痛んだ。 それでも、手を差し出されなかった記憶は消えない。 律が相良さんへ視線を向ける。「会場内での動画の再送信は、ここで止めてください。すでに外部へ出たものは、法務で確認します」「承知しました」「ただし、これは朝霧さんのためだけではありません。加工された映像で榊家との婚約を揺さぶろうとした者がいるなら、如月家にとっても損害になる」 未央の目が泳いだ。 律は、誰が仕組んだとは言っていない。 それだけで十分だった。 相良さんは会場の係員へ低く何かを伝えた。スマートフォンを取り上げるような強引なことはしない。ただ、動画をさらに転送しないこと、榊側から後ほど正式に確認が入ることを、順に告げていく。 その手続きの地味さに、少しだけ現実味が戻った。 魔法みたいに動画が消えるわけではない。出たものは、残る。 けれど、残ったものをそのまま私の罪にされる夜では、もうなかった。 だからこそ、律が強引に消さなかったことも分かった。私の代わりに終わらせるのではなく、私が終わらせるための記録を残している。「確認します」 私は言った。「動画の件は、私自身も確認します。昨日、司さんに腕を掴まれたのは事実です。でも、私は拒みました。誰かが前後を切って流したなら、その理由を知りたい」 未央が唇を噛む。「あなた
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第8話 朝霧栞を迎えに来た④

 振り向きはしなかった。「……ごめん」 三年分遅れて届いた言葉は、私の背中までしか来なかった。「未央さんを見てあげてください」 私は言った。「今のあなたが選んだ人でしょう」 司は返事をしなかった。 廊下へ出ると、広間の熱気が嘘のように薄れた。古い木の匂いと、夜の冷えた空気が混ざっている。 車寄せには、榊家の黒い車が待っていた。 車寄せまでの短い距離で、黒振袖の裾が何度も足首に絡んだ。 歩きにくい。 それなのに、不思議と戻りたいとは思わなかった。 背中の向こうで、まだ未央が何かを言っている。琴美の泣き声らしきものも混じった。隆一の低い叱責が、それを押さえ込む。 その全部が、閉じた扉の向こうの音になっていく。 玄関の段差の前で、律の車椅子が止まる。相良さんが先に外へ出て、携帯用のスロープを手際よく置いた。 用意がいい。 そう思ってから、自分がまだ律を「車椅子の人」として見ていることに気づく。「寒いですか」「平気です」 反射で答えてから、足袋の先が冷えていることに気づいた。 律は追及しなかった。相良さんが、車内から薄いショールを取り出して私に差し出す。「不要なら、置いていけばいい」 律の言い方は、わずかにずるかった。 断る自由まで先に渡されると、拒む理由が弱くなる。「……お借りします」 車内は革の匂いがした。扉が閉まると、外のざわめきが一枚遠くなる。 律は斜め前に車椅子ごと固定された。近すぎない位置だった。「榊様」「律で構いません」「では、......榊さん」 仮面の奥で、目元がほんの少しだけ動いた。「名前の理由を、聞いてもいいですか」 車が静かに動き出す。如月家の門が、窓の外で遠ざかる。 律はすぐには答えなかった。「今夜、すべてを話すと、あなたが休めなくなる」「それも、あなたが決めるんですか」 自分の声が尖る。 律の指が、車椅子の肘掛けで一度止まった。「……明日、話します」「明日?」「約束します」 約束。その二文字は、婚約の誓いより先に、私の胸に残った。 窓の外で、街灯が一つ流れていく。 私は封筒の端を握った。紙が少ししなる。「私は、逃げたいだけなのかもしれません」「逃げることが悪いと、誰が決めたのですか」 答えられなかった。 車は高い塀に沿って速度を落とし、榊の表札が門灯に
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第9話 仮面の下の契約書①

 榊邸の玄関には、花の匂いがなかった。  磨かれた石の床と、低く抑えられた照明。古い洋館なのに埃っぽさはない。むしろ、何かを隠すように隅々まで整えられている。  黒振袖の裾を踏まないように一歩入ると、足袋の裏に石の冷たさが染みた。  奥から、白髪の女性が歩いてきた。六十前後だろうか。背筋が伸びていて、婚約披露の衣装のままの私を見ても目を丸くしなかった。 「お帰りなさいませ、律様」 「遅くなりました」  律の声は、如月家にいた時より少し低かった。  ここが彼の家だからだろう。車椅子に座ったままでも、この家の空気は彼を中心に静かに動いている。  女性が私に向き直る。 「朝霧様。今夜のお部屋は整えております。お着替えも、未使用のものをご用意しておりますが、必要なければ明日あらためてお選びいただけます」  朝霧様。  呼ばれ慣れない響きに、返事が一拍遅れた。  如月の家を出てから、自分でそう名乗ってきた。履歴書にも、タイムカードの名札にも、その名前を書いてきた。  それなのに、誰かに丁寧に呼ばれると、胸の奥が少しこわばる。 「……ありがとうございます」  頭を下げると、袖の重みで肩が落ちた。  着替えも、歯ブラシも、充電器も、何もない。持っているのは、誓約書の写しと、借り物のショールだけだった。  白髪の女性は、榊家の家政を預かる水瀬と名乗った。  名前を聞いても、すぐにはうまく返せなかった。ここでは誰も私を「お嬢様」とは呼ばない。呼ばれないことに安堵しているのに、呼ばれないことで足元が少し浮く。  私は、どの場所でも何かの名札を貼られてきた。  ここでは、その名札を剥がされたまま立たされている。 「先に休まれますか」  相良さんが控えめに尋ねた。  私は首を横に振る。 「いえ。契約の話を、先に聞かせてください」  榊家のベッドより先に、私は紙を読みたかった。甘い扱いよりも、署名欄の方がずっと信用できる。そんなふうに思ってしまう自分が、少しだけ嫌だった。  自分でも硬い声だった。  でも、今夜だけは曖昧にしたくなかった。優しい布団に寝かされて、朝になって、何もかも決まっていた。そんな形は嫌だった。  律が私を見る。  黒い仮面のせいで表情は半分しか分からない。けれど、急かす気配はなかった。 「では、書斎へ」  
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第10話 仮面の下の契約書②

 目の前の紙は、少なくとも読ませるために置かれている。 その違いに気づくことすら、悔しかった。 ありがたいと思った瞬間、また何かを差し出してしまいそうで。「これは、婚姻届ではありません」 律は、書類の一番上をこちらへ滑らせた。「婚姻に関する合意書の草案です。今夜署名する必要はありません。専門家に見せても構わない。理解できるまで、何日かけてもいい」「……何日でも?」「撤回したいなら、それも含めて」 すぐ返されると、かえって疑いたくなる。 私は椅子に浅く腰を下ろした。帯が背もたれに当たり、黒い袖が膝の上で重なる。 条項は、思ったより短かった。 婚姻届の提出は、朝霧栞本人の明確な同意後に限ること。 如月家および如月グループの債務や保証を、朝霧栞に負わせないこと。 如月家からの直接連絡は、本人の希望がない限り榊側窓口を通すこと。 居室は別室とし、私的空間を尊重すること。 身体的接触、夫婦としての関係は、朝霧栞の明確な同意なしに求めないこと。 そこまで読んで、指が止まった。 紙の端を押さえていた爪の先が、少し白くなる。「……ずいぶん、都合のいい書類ですね」「あなたにとって、ですか」「あなたにとっても、でしょう。その方が、都合がいいから――」 失礼だとは思った。 けれど、これくらい言わなければ、私はまた差し出されたものを黙って受け取ってしまう。 律は怒らなかった。「そう見えるなら、そう受け取ってください」「否定しないんですか」「否定しても、あなたが信じる理由にはならない」 正論なのに、押しつける響きがない。 それがまた、扱いに困る。「祖母のことは」 口にした瞬間、胸が詰まった。 静江さんの細い手。酸素マスクの下で動いた唇。私の名前を呼ぼうとした、声にならない音。 相良さんが、別の薄い書類を机に置く。「如月静江氏について、榊側で費用保証を入れる準備があります。ただし治療方針に介入するものではありません。こちらができるのは、費用面で不利な転院や面会制限が起きないよう調整することです」 事務的な説明だった。 けれど、奇跡を約束されるより、ずっとましだった。「私が榊家に入るから、静江さんを助けたんですか」 律はすぐには答えなかった。「あなたがここに来なくても、手配はしました」「どうして」「如月静江氏は、あ
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