All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話 消えない怒り

「……もっと早く、ここまで話すべきでした」  短い返事だった。あの時途中で終わった話が、ようやく繋がった。それでも、すぐに気持ちが追いつくわけではなかった。  私は湯呑みを持ち上げた。茶は苦く、冷えた磁器が掌へ張りつく。 「怒られた方が楽ですか」  律は自分の右手を見た。署名をし、車輪を動かし、私へ触れる前にはいつも止まる手だった。 「……少しは」  その短さが、かえって腹立たしかった。 「ずるいですね」  律の指がわずかに曲がった。何か言いかける。 「今、謝らないでください」  律は口を閉じた。  本当に黙るので、今度は少しだけ拍子抜けした。  私は笑えなかったが、呼吸は少し戻った。 「事故のことを聞いたら、腹が立ってるのに、放っておけないって思ってしまって。……それが、また腹立つんです」  律の眉間に力が入る。哀れまれることへの拒絶が一瞬だけ出たが、彼は飲み込んだ。  律は何か言いかけ、湯呑みへ視線を落とした。 「……嬉しいと思ってしまいました。あなたが、放っておけないと言ってくれて」  律は苦しそうに口元を歪めた。 「でも、それに甘えて許されたことにはしたくありません」  言い切ったあと、律は湯呑みを少し遠ざけた。 「まだ怒っています」 「逃げません」  今度の返事には、反省の説明も将来の約束もつかなかった。  机の上に置かれた律の右手は、指を開いたままだった。差し出しているのではない。ただ、引っ込めずにそこにあった。  私はその手を見た。怒りが消えたわけではない。それでも、手を引っ込められる前に触れてみたいと思った自分を、今度は否定しなかった。 「手を、見せてください」  律は一瞬だけまばたきをし、テーブルに出していた右手をこちらへ少し寄せた。事故の時についた細い傷が、手の甲から親指の付け根へ薄く走っている。書類の上では知り得なかった凹凸だった。  私は触れる直前で指を止めた。律は促さず、掌を返すこともしない。私が距離を詰めるまで、その形のまま待っていた。  指先に冷えた皮膚が触れる。傷の表面は思っていたより硬く、掌には車輪を握ることでできた厚みがあった。 「痛かったですか」 「当時は。今は、別のことで困っています」  途中で言葉を切ったので、私は手を離さずに待った。 「嬉しいのに、あなたの手ま
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第212話 療養院への訪問

 怒りは消えていない。それでも、手を離す気にはならなかった。傷の上に置いた指の温度だけが、今は確かだった。  テーブルの端末が震えた。  青嶺療養院からの正式回答。面会拒否理由は、本人意思ではなく『家族側管理方針』。  白い画面を見た瞬間、手の温度が遠のきそうになる。私は反射的に律の指を少し強く握った。  律は画面を覗き込まず、私が読むのを待った。  家族側、という文字を読んでも、誰を指すのかは分からなかった。白い画面の上にあるのは、葵さんの返事ではない。  家族側管理方針。  私はその文字から目を離せなかった。それでも、今度は一人でこの返事を受け取ってはいなかった。律の手の温度が、まだ指先に残っている。  本人の意思を確かめたとは、どこにも書かれていない。会わせないと決めたのは、誰なのだろう。文面には、誰の名前もなかった。  律の手に触れていた指先から、少しずつ力が抜けていった。離そうとすると、今度は逆に、触れていたことの方が急に恥ずかしくなる。けれど、律は何も言わなかった。私の指が自然に離れるまで、ただ待っていた。 「……行きます」  自分の声は、思ったより乾いていた。  高瀬さんからのメッセージには、青嶺療養院の正式回答が添付されている。面会不可。理由は、家族側管理方針により、外部者との接触制限を継続中。施設としては、管理者の指示に従う。  差出人の個人名すら省かれた無機質な通知が、かえって九条康生の焦りを物語っていた。 「今夜じゃありません」  律が言った。 「今夜は動きません」 「本当に?」  少しだけ責めるように聞こえた。私は顔を上げる。 「侵入したりしません」  律の目が、揺れた。  たぶん、彼が言いたかったことを先に言ったからだ。 「母かもしれない人を、最初に見る方法が、盗み見や押しかけになるのは嫌です」  口にしたあと、胸の内側が痛んだ。  母かもしれない人。  まだ、そうとしか呼べない。 「でも、行きます。正式に」 「明朝、高瀬に同行させます」 「榊さんも?」 「あなたが望むなら」  私は少し迷った。 「……来てください。でも、前には出ないで」 「あなたより前には出ません」 「明日の朝、動きます」 「今度は、努力しますじゃないんですね」 「ここで努力と言ったら、あなたが行かせて
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第213話 帰るにはまだ早い

「名前を出さないんですね」 「今は出しません。出すことで相手に閉じる理由を与える場合があります」  閉じる理由。  その言葉を聞いた途端、胸の奥まで冷たくなった。こちらが一つ間違えれば、葵さんを記録の奥へ隠す口実にされる。私はバッグの持ち手を握り直した。  車が信号で止まり、前方のブレーキランプが窓に赤く映った。  私は面会申入書の一枚目を見直した。 「会わせてください、とは言わない方がいいですか」 「言っても構いません。ただ、相手は医療機関です。感情に応じて面会を認めることはできません」 「感情だけでは通りませんよね」 「でも、本人の意思を確認してください、とは言えます」  私は顔を上げた。  高瀬さんは、そこで初めてわずかに表情を和らげた。 「そこが大事です。誰かが会わせないと言ってるのか。本人が望まないのか。医療上、本当に会えないのか。……全部、別の話です」  律は、隣で黙って聞いていた。  車椅子には座っている。いつものように膝には薄いブランケットがかかっている。昨日、私はその手に触れた。傷跡の凹凸も、温度も、まだ指先が覚えている。  そのせいか、車椅子の肘掛けに置かれた律の手へ、目が行った。  青嶺療養院は、街の外れにあった。  高い建物ではない。白い外壁と広い駐車場、入口には季節の花が整えられている。病院というより、静かなホテルに近い。けれど、門の前に立つ警備員の姿が、ここが簡単に入れる場所ではないことを示していた。  相良さんが先に降り、受付に事前連絡の件を伝える。  身分証の確認。同行者の名簿照合。録音機器の申告。持ち込み資料の封筒確認。  ここまでは、九条本邸と似ていた。  でも、療養院の空気は違う。  奥の廊下から、車輪の音が聞こえた。誰かが小さく咳をする。消毒液の匂いに、柔らかい洗剤の匂いが混ざっている。私はそちらを見た。  応接室に通されると、施設長だという女性と、事務責任者の男性が入ってきた。どちらも丁寧だった。丁寧で、遠かった。 「本日は、事前の照会に対するご説明のみとなります」  施設長は最初にそう言った。  拒否の形が、すでに整っている。  高瀬さんが名刺を出し、手続きを確認する。録音の同意。書面回答の範囲。医療情報を求めるものではないこと。本人の意思確認を求めること。  私はそ
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第214話 初めて呼ばれた名前

「承知しています」  高瀬さんはすぐに頷く。 「では、質問を変えます。貴院では、外部者からの面会申入れについて、利用者本人の意思確認を行う手続きがありますか」  施設長の指が、膝の上で小さく動いた。  紙コップを持つ手に、薄い水滴だけが残った。 「一般論としては、あります」 「今回、実施されましたか」 「個別の件については」 「実施の有無だけで構いません。対象者名を明示しない回答でも結構です」  施設長は、事務責任者を見た。  その視線の短さで、答えは分かった気がした。 「今回は、家族側管理方針に基づき、本人への確認は行っておりません」  その言葉の重みが、腹のあたりまで落ちていった。  本人に確認していない。  やはり、葵さんの声は、どこにもなかった。 「その家族側とは、どなたですか」  私が初めて口を開くと、施設長の表情がほんの少し硬くなった。 「お答えできません」 「では、その方は、本人の意思を代弁する法的権限をお持ちですか」  事務責任者の視線が、書類へ落ちる。 「管理上の取り決めに基づいております」 「法的権限じゃなく、取り決めですか」  高瀬さんは、手元のメモから顔を上げなかった。 「朝霧さん」  施設長が、私の名前を初めて呼んだ。 「お気持ちは理解します。ただ、当院にも守秘義務があります。突然来られた方に、利用者様の情報をお伝えすることはできません」  突然。  その言葉が、胸に引っかかった。 「突然来たのかもしれません」  私は言った。 「でも、本人に何も確認しないまま、突然来た人だから会わせないと決めたのは、私じゃありません」  施設長の唇が止まる。 「会わせてくださいとは、今は言いません。本人が会いたくないなら、帰ります。でも、会いたくないと言ったのが本当に本人なのか。……それだけは確認してください」  言い終えてから、自分の手が震えていないことに気づいた。  施設長はしばらく黙っていた。  やがて、事務責任者へ小さく頷く。 「本日のご要望は、書面で受領します。施設内で確認し、回答いたします」 「いつまでに」  高瀬さんがすぐに聞いた。 「三営業日以内に」 「今日中に、受領書だけは発行してください」 「それは可能です」  会えるわけではない。  何も残らないより
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第215話 療養棟の向こうの声

 本当に、行くつもりはなかった。  でも、足が動かなかった。  廊下の先には、白い扉がある。小さな窓には曇りガラスがはめ込まれていて、向こう側は見えない。声だけが、細くこちらへ届いている。  遠くで金属の棚が揺れる音がして、廊下には消毒液と洗剤の匂いが漂っていた。  葵さんかどうかは分からない。  分からないのに、足裏が床に貼りついたようだった。 「帰りましょう」  律が言った。  私は一度だけ白い扉を見て、頷いた。  外に出ると、空気が少し冷たく感じた。  車のドアに手をかけたところで、私は一度だけ振り返った。さっき歌声が聞こえた廊下は、もう入口からは見えなかった。  車に乗り込む前、高瀬さんの端末が鳴った。  療養院からの受領書が、もうメールで届いていた。 「早いですね」  相良さんが言う。  高瀬さんは添付ファイルを開き、眉を寄せた。 「朝霧さん。少し確認してもらえますか」  私は端末を受け取った。  PDFの受領書。  差出人は青嶺療養院事務局。  内容そのものは普通だった。受領日時、受付担当者、回答予定日。問題は、文書情報の欄だった。  作成者。  KMS_KJ.  更新時刻は、私たちが施設に到着する三十分前。  受領前に作られていた。  私は画面を見たまま、端末を持つ手を止めた。 「……これ、療養院が今作った書類じゃありません」  律の視線が、こちらへ向く。 「それ、どういう意味ですか」 「私たちが来る前から、拒否後の受領書が用意されてました」  言い切った途端、高瀬さんが端末を取り戻し、画面を拡大した。 「作成者欄の記録だけではまだ本人とまでは言い切れませんが、九条側のひな形が使われたことは確かです」 「そこまでは分かります」 「ただ、受領前に受領書が作られていたこと。作成者名にKMS側の識別子が残っていること。この二つは記録できます」 「……その二つは、必ず残してください」  私は画面のKMS_KJをもう一度見た。 「これも、母を見つける証拠になるんでしょうか」  自分で言ってから、少し嫌な言い方だったと思った。  律が、短く答えた。 「会いに行く手がかりにはなる」 「証拠じゃなく?」 「今は、手がかりです」  手がかり、と言われる方が、今はありがたかった。  画面
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第216話 未央と司の破局

 如月未央は、桐生家の応接室で待たされていた。  使用人が置いた湯呑みから、湯気が細く上がっていた。  時計の針が動く音が、妙に耳につく。  以前なら、この部屋に通されるだけで少し誇らしかった。桐生家の応接室は、如月本家の客間とは違う。新しい家具、控えめな照明、壁に掛けられた海外の風景画。司の家の匂いがした。  ここへ来ると、自分は選ばれた人間なのだと思えた。  如月家の本物の娘。  桐生司の婚約者。  その肩書きが、やわらかなソファの背にまで染みている気がしていた。  けれど今日は、使用人が茶を置いたあと、目を合わせなかった。  この家に来れば、婚約者として迎えられるはずだった。まだ何も言われていないのに、席を外され始めている気がした。  未央はスマートフォンを伏せた。  九条康生からの返信は、まだない。  昨夜から何度も送った。  私は本物なんですよね。  如月家の娘なんですよね。  司さんとの婚約は守られますよね。  どれにも、答えはない。  既読だけがつく。  既読が増えるたび、爪がスマートフォンの縁に食い込んだ。  扉が開いた。  入ってきたのは、司ひとりではなかった。  司の父、桐生会長。その後ろに、顧問弁護士らしい男がいる。  未央はすぐに立ち上がった。 「お義父様」  いつもの声を出そうとした。  少し高く、少し柔らかく。可愛げがあって、失礼にはならない声。  桐生会長の顔を見た瞬間、その声は途中で細くなった。 「まだ、その呼び方は早い」  その一言に、未央は返事ができなかった。  司が少し顔を歪める。 「父さん」 「座りなさい」  未央は腰を下ろした。  膝の上で指を重ねる。指輪が光る。婚約指輪ではない。司が最近贈ってくれたものだ。細いダイヤが並ぶ、上品で、誰に見せても恥ずかしくない指輪。  でも今、それは急に軽く見えた。 「結論から言います」  桐生会長は、弁護士から受け取った書面をテーブルへ置いた。 「婚約発表は延期します」  未央の耳の奥で、音が一瞬消えた。 「延期……?」 「正式には、婚約関係の再確認が終わるまで、発表を見合わせる」 「再確認って、何を」 「如月家の説明、三年前の件、あなたと如月家の関係。そして、桐生家が発表に使うべき根拠です」  桐生会長
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第217話 許されるとは思っていない

 弁護士が、初めて口を開いた。 「ただし、発表をすれば、桐生家がその内容を保証したと受け取られます。現時点では、出せません」  出せません。  たったそれだけの言葉で、未央の足元から、柔らかな絨毯が剥がされた気がした。  未央は司を見る。  司は目を合わせなかった。  その仕草だけで、腹の底が冷えた。 「司さん」 「未央」  司の声は疲れていた。  それが、余計に腹立たしかった。  疲れた顔をしたいのは、こちらだ。 「説明して。何の再確認? 私たち、もう式場も」 「式場には、仮押さえの解除を連絡した」  未央の指が止まる。 「誰が」 「俺が」  司は、ようやくこちらを見た。  その目に、以前の曖昧な優しさはなかった。けれど、強さとも違う。何かを失ったあとの、諦めに近い色だった。 「勝手に?」 「勝手に進めてたのは、俺たちの方だ」 「俺たち?」  未央の声が低くなる。 「私が、いつ勝手にしたの。私は、司さんと結婚するって、ずっと」 「未央」 「ずっと待ってたのよ」  最後の音が揺れた。  泣け。  体のどこかが命じる。  泣けば、司は困る。困れば、こちらを見る。昔はそうだった。困ったように眉を下げて、未央を傷つけない言葉を探してくれた。  ただ、司は視線を逸らさなかった。 「栞にしたことを、確認してる」  栞。  その名前を聞いた途端、未央はもう黙っていられなくなった。 「また、その名前」 「避けてきた名前だ」  司は、言い訳を飲み込むように言った。 「俺が」  未央は笑った。  笑えた、と思った。 「立派ね。今さら反省して、いい人になったつもり?」 「いい人にはなれない」 「じゃあ何? 栞に許してもらうために、私を捨てるの?」 「許されるとは思ってない」  司の返事は、いちいち未央の欲しいところを外してくる。  優しくない。  優しくない司なんて、意味がない。 「父から、如月家との取引資料を一部見せられた」  司は続けた。 「三年前の調査書、君が持ち込んだ写真、内部資料の流出疑惑。桐生側も、十分に確認しないまま乗った。俺も、確認しなかった」 「私は悪くない」  反射的に出た言葉だった。  桐生会長の眉が、かすかに動く。  司は、悲しそうな顔をした。  その顔が
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第218話 如月家の娘でしょう

「間違いだったかどうかより」  司が、唇を噛んだ。 「俺、君を選ぶことで、栞を黙らせた」  未央は言葉を失った。  そんな言い方をされたことはなかった。  清潔に保たれた廊下の匂いが、かえって閉じ込められた部屋の湿気を際立たせていた。  司が未央を選んだ。それだけは、ずっと疑ったことがなかった。 「やめて」  未央は低く言った。 「そんなふうに、私たちのことを汚さないで」 「汚れてたものを、見ないようにしてただけだと思う」  司の声は、言葉の合間ごとにかすかに震えていた。  震えているのに、逃げない。  未央は、急に怖くなった。  司は、いつも逃げる人だった。曖昧に笑い、家のせいにし、未央が泣けば黙った。だから扱いやすかった。  なのに今日は、逃げない。  逃げない司は、未央の知っている司ではなかった。 「私、本物なの」  気づけば、その言葉が口から出ていた。  桐生会長が目を細める。  司も黙った。 「如月家の娘なの。だから、司さんの隣にいていいの。そう言われたの。そうじゃなかったら、私、何なの」  声が崩れた。  今度は、本当に涙が出た。  けれど、司は立ち上がらなかった。  桐生会長が、弁護士へ目配せする。 「如月家との婚姻話は、法的確認が終わるまで白紙です。未央さん、今日はお帰りください」 「白紙」  未央は、その言葉を繰り返した。  白紙。  未央は、テーブルに並んだ「如月未央」の文字を見た。今、その文字まで薄くなっていく気がした。 「司さん」  最後に、彼を呼んだ。  司は目を閉じた。  引き止めるつもりなら、目を閉じたりしない。もう名前を呼ぶだけでは、この人を動かせないのだ。  未央は立ち上がった。  テーブルの上の茶には、一口も手をつけていない。湯気はもう消えている。  部屋を出る時、指輪がドアの縁に軽く当たった。  乾いた音がした。  車に乗り込むと、涙は止まっていた。  代わりに、肋骨の下がすうっと冷えていく。  スマートフォンを見る。  九条康生から、ようやく返信が来ていた。  短い文だった。  ――役割を失いたくないなら、証明するしかありません。  未央は画面を睨んだ。  すぐに通話ボタンを押した。  今度は、三コール目で繋がる。 『未央さん』
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第219話 二人の偽物

「見せる?」 『本物かどうかを決めるのは、血だけじゃありません。信じさせた方が勝つ』  電話を耳に当てたまま、未央は息を詰めた。  その言葉は、優しくなかった。  でも、未央の胸にはするりと入ってきた。  信じさせた方が勝つ。  三年前、その言葉を知らなくても、未央は同じことをしていた。 「栞を、また悪者にしろってことですか」 『私は何も命じていません』  康生は、わずかに笑ったようだった。 『ただ、人は一度刷り込まれた印象を信じやすい。被害者がまた同じ相手に傷つけられたとなれば、周囲は理由を探すでしょう』 「……ひどい人」 『そう思うなら、切ってください』  切れなかった。  康生はそれも分かっている。  未央は奥歯を噛んだ。 『場所は送ります。来るかどうかは、あなたが決めることです』  通話が切れた。  未央はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。  証明。  何を。  自分が本物だということを。  栞が危険な女だということを。  司が間違っているということを。  全部、証明しなければならない。  続けて、もう一通届いた。  日時と場所だけが書かれている。  榊グループ主催の医療支援報告会。  会場には、青嶺療養院の関係者も招かれる予定。  続けて送られてきた添付画像には、会場の案内図があった。  二階へ上がる広い階段。  踊り場。  来賓控室。  報道用の撮影位置。  どこに人が立てば、どこから見えるのかまで、赤い線で印がついている。  未央はその画像を拡大した。  栞はきっと来る。  葵という女の名前を出されれば、あの人は逃げない。逃げないくせに、きれいな顔で正しい手続きを踏む。そういうところが、昔から気に入らなかった。  案内図の赤い線を見ていると、喉の奥が少し乾いた。  古い階段の縁を踏み外した瞬間が、足首によみがえった。あの夜は本当に痛かった。泣き声の全部が芝居だったわけじゃない。けれど、倒れたあと誰を指差したかまで忘れたふりをするほど、未央は鈍くなれなかった。怖いと思ったのは一瞬だけだった。  使える。  そう思った自分に、もう驚かなかった。◇ 未央は唇を噛んだ。  人前。  階段のある会場。  栞が逃げられない場所。  三年前の光景が、頭の奥でゆっくり形
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第220話 階段のある報告会

 榊グループ主催の医療支援報告会は、翌々日の午後に開かれる予定だった。  私は手元の会場資料から目を離せずにいた。  会場は、都内のホテルに併設されたイベントホール。二階へ上がる広い階段と、吹き抜けのロビーがある。青嶺療養院の関係者も招かれていると聞いた時、私は資料の端を指で押さえたまま、しばらく目を上げられなかった。  葵さんにつながるかもしれない場所。  同時に、未央が何かを仕掛けてくるかもしれない場所。  その二つが、同じ紙の上に並んでいる。 「行かない選択もあります」  高瀬さんが言った。  榊邸の会議室には、律、相良さん、高瀬さん、それから情報管理部の主任がいた。机の上には、会場平面図、招待者リスト、警備計画の写し、報道受付の動線が並んでいる。  私の前に置かれているのは、未央の手元へ届いた可能性のある案内図の印刷だった。  赤い線。  階段。  踊り場。  撮影位置。  赤い線の上で、目が止まった。 「行きます」  返事は、自分で思ったより早かった。  律がこちらを見る。 「理由を聞いても?」 「逃げたら、また私のいないところで話が作られます」 「危険を承知で、ですか」 「危険だから、準備します」  言い切ったあと、膝の上の手を開いた。指先は冷たかった。 「ただし、条件があります」  律は平面図から顔を上げた。 「またですか」 「嫌そうですね」 「いえ。慣れてきました」  相良さんが、かすかに口元を伏せた。笑ったのかもしれない。  私は平面図へ視線を戻す。 「まず、私は一人で階段付近へ行きません。移動は相良さんか会場スタッフに同行してもらう。未央さんに呼び止められても、個室や階段横の死角には行かない」  平面図の階段横に、赤いペンで小さく印をつけた。そこだけ、紙の白さが妙に目立つ。 「それから、ロビーと階段の映像は、会場側の公式記録として残してください。私のためだけじゃなく、安全管理として」 「妥当です」  高瀬さんが、すぐに頷いた。 「警備計画として通ります。個人を監視する名目じゃなく、来賓導線の安全確保と報道対応記録にします」 「あと」  私は一度、律を見た。 「榊さんが、私の前に出すぎないこと」  律は、すぐには返さず、平面図の階段を見た。 「出すぎる、とは」 「何か
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