All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話 奪う手を、今度は払う

 未央の指先は、守り袋の紐に届く寸前で止まった。 蔵の外で、風が扉の金具を小さく鳴らした。 正確には、私の手袋に押し返されて止まった。 爪の跡は薄いのに、三年前の感触が重なった。 三年前も、最初は小さな接触だった。 肩がぶつかった。腕を掴まれた。階段の上で、未央が泣きそうな声を出した。 そのあと、誰も私の手元を見なかった。「どいてよ」 未央が低く言った。 さっきまで客間で使っていた甘い声ではない。如月家の廊下の奥で、使用人がいなくなった隙に聞いた声だった。「撮影が終わるまで、触らないでください」「だから、ちょっと見るだけって言ってるでしょう」「見るなら、立会人の前で。手袋をして。記録を取ってからです」 薄紙の端が、作業台の上で乾いた音を立てた。「なにそれ。榊家に入った途端、偉そうに」 未央の唇が歪む。 蔵の空気は重かった。乾いた木と埃の匂い。古い箱から出した薄紙。高瀬さんのタブレットに残る、撮影済みの画像。守り袋は、その全部の真ん中にあった。 赤い紐が、少しだけねじれている。 私は、そのねじれを直したい衝動を抑えた。 今、勝手に触れば、未央と同じになる。「未央」 隆一が低い声で名前を呼んだ。 止めるための声ではなかった。外へ漏れるな、と言う声だった。 未央は父の方を見なかった。「お父様だって困るでしょう。そんな古い袋一つで、栞がまた大騒ぎするの」「大騒ぎではありません。保全手続きです」 高瀬さんが、書類の端を揃えながら言った。「今は、保全する物の確認です。中には産院名らしき文字と、家紋に似た刺繍があります。誰の物で、どうここに残ったのか。まず確認させてください」「部外者が口を挟まないで」「榊家法務として同席しています。先ほど如月様からも、立会いを承諾いただいております」 高瀬さんの声は、冷たいわけではない。ただ、動かない。 未央の頬が赤くなった。「栞って、ほんとそういうところ変わらな
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第122話 未央を呼ぶ母の声

 けれど、守り袋の上で聞くと、違った。 守り袋の赤い紐が、作業台の上で細く揺れた。 赤ん坊の頃から私のそばにあったかもしれない物の前で、未央はまた、その言葉を選んだ。「それを壊したら、困るのは誰ですか」 声は低くなった。 未央が一瞬、瞬きをした。「……何?」「守り袋を壊したら、困るのは誰ですか。私ですか。あなたですか。それとも、お父様ですか」 未央の視線が隆一へ飛んだ。 ほんの一瞬だった。それでも、見間違えるには早すぎるほど、迷いのない動きだった。 「知らないわよ、そんなの」 「じゃあ、触らないで」。 「命令しないで」。 「高瀬さんの確認が終わるまでです」。 未央の肩が揺れた。 次の動きは、ほとんど反射だった。 未央の右手が、守り袋ではなく私の手首へ伸びる。三年前、階段の上で腕を掴まれた時と同じ角度だった。 私は半歩だけ身を引き、未央の手を払った。 音は軽かった。 けれど、蔵の中ではひどく大きく響いた。 未央の指先が空を切る。 私は、守り袋の前に立ったまま、手を下ろさなかった。「触らないで」「……叩いた」 未央が呟く。 声が、急に細くなった。「今、私を叩いたわよね」。「手首を掴まれそうになったから、払ったの」。「同じことじゃない」。「同じにしないで」 私は即答した。 心臓が速い。舌が乾く。それでも、口は動いた。「あなたが保全中の物に触ろうとし、私の手首を掴もうとしたから、払いました。高瀬さん、今の記録は残っていますか」「映像と音声、双方に残っています」 高瀬さんが答える。 未央の顔から、色が少し引いた。「録ってるの?」「玄関でお伝えしました。蔵の確認中は、記録を取ると」「そんなの、脅しじゃない」「記録です」 私の返事に、未央の眉が寄っ
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第123話 奪えなかった守り袋

 肺の奥まで、埃の匂いが入った。「三年前も」 声は掠れたが、聞き直さなかった。 逃げなかった。「そうやって、決めてたんですか」「違う」 未央の声が跳ねる。「今のは、そういう意味じゃ――」「今のは、どういう意味ですか」「言葉のあやよ。あなたが私を叩いたから、腹が立って」「手を払った理由は、今、説明しました」 未央は隆一を見た。 今度は、はっきりと。 隆一の顔は白かった。 会社の代表でも、父親でもない。蔵の暗い空気の中で、古い棚の前に立つ一人の男に見えた。「今の記録は、持ち出させない」 隆一が言った。 高瀬さんがタブレットを胸元へ引いた。「申し訳ありませんが、それには応じられません」「ここは如月家の敷地だ」「承知しております。だからこそ、事前に録音・撮影の同意を確認しました。今の発言は、保全対象物の確認中に発生したものです。削除には応じられません」「家庭内の言い争いだ」「三年前の傷害疑惑に関わる発言です」 傷害。 その二文字が落ちた瞬間、琴美が口元を押さえた。 未央は首を振った。「やめてよ。大げさにしないで。私はただ、栞が勝手なことをするから」「勝手なこと?」 私は未央を見る。「私が自分の持ち物かもしれない物を確認することが、勝手なことですか」「だって、それは如月家の蔵にあったのよ」「だから、立会いをお願いしました」「あなたはもう如月家の人間じゃないでしょう」「ええ」 私は頷いた。 その事実は、もう私を黙らせる言葉にはならなかった。「だから、ここにある私に関わる物は、きちんと返していただきます」 未央の顔が歪む。 空っぽなものを見るような目で、私を見ていた。 違う。 見ているのは、私ではない。 未央の視線が、守り袋から隆一、琴美へせわしなく動いた。「高瀬さん」
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第124話 怖かったと認めるまで

「……知らん」「では、調べます」「栞」 隆一は私の名を呼んだきり、続きを言わなかった。「止める理由があるなら、理由を出してください。家族だったから、会社のためだから、昔のことだから。そういう言葉じゃなくて」 隆一は黙った。 私は保全袋に視線を戻す。 守り袋は、もう高瀬さんの手元にあった。 高窓の光が、保全袋のビニールに白く反射していた。 透明な保全袋の中で、赤い紐だけが動かない。 私は保全袋から目を上げた。 蔵を出る時、未央が後ろから呟いた。「……そんな袋一つで、本物になれると思わないで」 私は振り返らなかった。 敷居を越える前に、足を止める。「本物になりたいのは、私じゃありません」 背後で、誰かが息を呑んだ。 外の光は白かった。蔵の暗さに慣れた目には、少し痛い。 門の向こう、車のそばに律がいた。 黒い仮面越しに、こちらを見ている。 私は保全袋を抱えた高瀬さんの隣を歩いた。 律は、車椅子の肘掛けに片手を置いたまま、何も言わなかった。 今は、言葉を足されない方がよかった。 ここで「よくやった」と言われたら、たぶん私は怒っていた。褒められるために払った手ではない。強くなった姿を見せるためでもない。 私は膝の上で両手を握った。「怪我は」 律が短く聞く。「手袋の上から爪が当たっただけです」「見せてください」「あとで」 自分でも少しきつい返し方だと思った。けれど律は、引き下がった。「傷だけは、あとで確認させてください」 余計な言葉は続かなかった。 高瀬さんが保全袋を助手席側の専用ケースに入れる。ケースの蓋が閉まる音がして、ようやく肩から少し力が抜けた。 律の視線が、私の右手に落ちる。「怖かったですか」 大丈夫か、と聞かれると思っていた。「怖かったです。腹も立ちました」
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第125話 三年前の嘘、最初の亀裂

 スマートフォンの画面には、先ほどの一文が表示されたままだった。 車のエンジン音が、低く足元に続いていた。 文字は小さいのに、目を逸らせなかった。 未央の声を思い出しても、文字は冷たいままだった。 そこには、脅しも焦りも映らない。 ただ、発言として並んでいる。 黒い文字を追ううちに、三年前の階段の感触が背中へ戻ってきた。 あの日、私はこの一文を持っていなかった。 録音も、立会人も、時刻も、誰かに見せられる記録も。 持っていたのは、頬の熱と、誰にも届かなかった言葉だけだった。「朝霧さん」 高瀬さんの声で、私は画面から目を離した。 車は如月本家の門を出て、細い坂道を下っていた。後部座席の足元には、守り袋を入れた保全ケースが置かれている。蓋の上には、管理番号を書いた白いラベルが貼られていた。「この文字起こしは、あくまで補助です。証拠として扱うのは、元の音声データと、録音開始前の通知、立会人、保全までの流れになります」 私は画面を伏せないまま、ひとつ頷いた。「すぐに外へ出すものじゃありません」 外へ、という言い方に、画面を持つ手が止まった。 世の中へ晒す、という意味だろう。 未央が私にしてきたことと同じように。「分かってます」 声は、思ったより低く出た。「あの人と同じことはしたくありません」 言ったあと、私は一度口を閉じた。 そう言いながら、未央の声が外へ出るところを見たい気持ちは消えなかった。 三年前のことがひっくり返り、「栞は悪くなかった」と誰かに言ってほしい気持ちもある。 その考えに、自分で少し嫌になる。 未央が踏みにじろうとした守り袋の金色の紐を思い出す。 祖母が残したものまで、誰かの見世物にしたくはなかった。 隣に座る律は、何も言わなかった。 私が返事を探している間、ただ窓の外を見ている。黒い仮面越しの横顔は、まだ見慣れない。けれど、その黙り方だけは、最初に会った時から変わらなかった。「保全だけしておきま
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第126話 全部、残してください

「まずは、三年前の件について、如月家と桐生家へ照会します。階段事故の発生日、受診先、搬送手段、診療費の支払い記録、屋敷内の当時の勤務記録。今残っているものを確認します」「病院の記録も、すぐ取れるんですか」「本人の同意がなければ、診療内容の取得はできません。そこは手続きを踏みます。ただ、病院名、支払者、当時の車両記録、同席者の記憶。周辺から確認できるものはあります」 高瀬さんの言葉は、冷静だった。 冷静であることに、少し救われた。 タブレットの画面に、記録項目が一つずつ並んでいく。 三年前、私の言葉は感情としてしか扱われなかった。 違います。やっていません。私は突き落としていません。 どれだけ言っても、泣き声や弁明や言い訳として片づけられた。 けれど今は、違う。 時刻。場所。音声。立会人。診療費。車両記録。 人の声では届かなかったところに、細い糸が一本ずつ伸びていく。 榊邸へ戻ると、書斎ではなく、隣の小さな会議室に通された。 長机の上には、録音機器、ノートパソコン、保全ケース、白い手袋が並べられている。相良さんは入り口近くに立ったまま、こちらへ一礼した。「お疲れさまでございました」「……疲れました」 思わず本音が出た。 相良さんは、少しだけ視線を落とした。「まずは、お休みください」「今日は、そうさせてください」 ようやく、素直に返せた。 それ以上話す余裕はなかった。 高瀬さんはすぐに作業へ入った。音声ファイルの原本を複製し、複製側を文字起こしにかけ、原本は書き込み不可の保管媒体へ移す。説明されても半分しか分からなかったが、手順を飛ばしていないことだけは分かった。 画面に波形が表示される。 青い線が細かく上下し、未央の声がスピーカーから流れた。『返して。そんなもの、栞には似合わないわ』 上着の内側で、肩が少し縮こまった。『また私が突き落とされたことにしてもいいのよ』 その一文で、高瀬さんの手が止まる。
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第127話 立たないという選択

「私が手を払ったところも、その前に通知したところも、未央さんが何を言ったかも。私に不利に見えるところがあっても、残してください」 律の視線が、横から静かに届いた。 会議室のブラインドに、午後の光が細く引っかかっていた。「都合の悪い部分まで残すのは、怖くないんですか」 私が聞くと、律は少し間を置いた。「怖いですよ。都合の悪いところだけ、あとで外したくなるのが」「榊さんも?」 聞いてから、踏み込みすぎたと思った。 律は答える前に、窓の方へわずかに視線を逃がした。黒い仮面の奥の目に、窓の光が薄くかかっている。「……怖いです」 意外なほど、普通の声だった。「その時は正しいと思っても、あとで……違って見えることがある」 それ以上は言わなかった。 私も聞かなかった。 会議室のプリンターが動き出した。 申入書の下書きが、白い紙になって吐き出される。高瀬さんがそれを取り上げ、机の上に置いた。「朝霧さんの意向を一文入れる場合は、ここです」 指で示された欄には、空白があった。 そこだけ、妙に広く見える。 私はボールペンを持った。 手袋越しではない、自分の指で。『三年前の件について、事実確認を求めます』 最初は、そう書こうとした。 でも、それだけでは足りなかった。 ペン先を一度止める。 律も高瀬さんも、急かさない。 私は、もう一度書き直した。『私は、三年前に貼られた名前を、事実で確認し直したいです』 うまい文章ではない。 法務文書としても、きっと少し感情が混じっている。 けれど、それでよかった。「このままで」 高瀬さんは一度だけ読み、静かに頷いた。「この文面で進めます」 会議室を出る前に、守り袋の保全ケースを見た。 中身は見えない。透明な蓋の下に、白い袋と管理ラベルだけがある。 それなのに、蔵の黴っぽい
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第128話 消された通知

 言ってから、窓に映る自分を見た。 廊下の床の継ぎ目で、車輪が小さく鳴った。「信じてほしかった、ではなく?」 律が聞き返した。 私は首を振った。「それもです。でも、その前に確かめてほしかった」 律は黙って待った。「私が嘘をついてるかだけじゃなく、未央さんたちの話も。本当にそうだったのかって」 言い終えると、喉が少し乾いた。「誰も、そこまでしてくれなかったので」 律の手が、車椅子の肘掛けに置かれた。 手の先がわずかに曲がる。「今からでも、私が確かめます」 短い返事だった。私はすぐには頷けなかった。 嬉しいより先に、少し怖かった。 だから、しばらく窓の外を見た。 その夜、桐生司から榊家法務宛に返信が来た。 高瀬さんが、食後の小さな打ち合わせでそれを読み上げる。「桐生家としては、事実確認に協力する。ただし、公式見解は社内調査後。司様個人からは、三年前の移動記録と当時の連絡履歴を確認したい、とのことです」「司さんが?」 自分の声が、少し遅れて出た。 高瀬さんは頷いた。「未央さんへは、当時の受診先確認と診療情報開示への同意を求めるそうです」 皿の縁に置いた指が止まった。 三年前、私の電話を切った人。 今さら遅い。そう思う。 そう思うのに、椅子の脚が床を擦る音だけが妙に耳についた。 司を許したわけではない。期待する気にもなれない。 それでも、記録が動き始めたことだけは分かった。 三年前の日付が、初めて紙の上でつながり始めた。 同じ頃、都内の桐生邸では、司が机の上に古い手帳を開いていた。 三年前のページ。 雨の日の午後。 如月邸、未央、病院。 汚い字で書かれた短いメモの横に、折れた映画の半券が挟まっている。 栞に渡すつもりだった指輪を買った日付の、翌週だった。 司はしばらくその半券を見ていた。 スマートフォンが鳴る。 未央から
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第129話 桐生司の遅い一歩

 朝の桐生邸は、音が少なかった。 磨かれた廊下を歩く靴音も、食器の触れ合う音も、厚い絨毯と壁に吸われていく。窓の外では庭師が植え込みを整えていたが、ガラス越しでは鋏の音までは届かない。 書斎には、昨夜から残った冷えた茶の匂いがあった。 司は書斎の机に置かれた封筒を見ていた。 昨夜、秘書に送ったメールの返信が、朝一番で届いていた。三年前の車両使用記録、桐生家の運転手の日報、当時のカード利用明細。どれも、いままで見ようと思えば見られたものだった。 見なかった。 それだけのことが、指先を重くした。「司様。こちらが、ご依頼の資料です」 秘書の柴田は、いつもと同じ声で言った。四十代半ばの男で、桐生家の事情に深入りしすぎない距離を知っている。だからこそ、机に資料を置く手つきも事務的だった。「未央さんには」「まだ何も。診療情報の開示には、ご本人の同意が必要です。こちらで用意できるのは、司様が同席された範囲の移動記録と、桐生側で支払った費用の控えまでです」「分かってる」 返した声が、自分の耳に薄く響いた。 分かっている。そんな顔をして、三年前も何も分かっていなかった。 封筒から最初に出てきたのは、黒塗りの多い車両日報だった。日付は三年前の六月。雨の多い週だった。 桐生邸発、十八時二十分。 如月邸着、十八時五十八分。 如月邸発、十九時十二分。 市内の整形外科クリニック着、十九時二十九分。 司は、そこで目を止めた。「……如月邸を出たのが、十九時十二分?」 柴田が小さく頷く。「運転手の日報上はそうなっています」「でも、未央が階段から落ちたって騒ぎになったのは」 司は言葉を切った。 思い出そうとすると、頭の中に雨の匂いが戻ってくる。廊下を走る足音。未央の泣き声。隆一の怒鳴り声。栞の青ざめた顔。 それから、自分が切った電話。 あのとき、栞は何を言おうとしていたのか。「如月家側の事故報告書は、手元にはありません。ただ、当時、司様の
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第130話 未央を疑うということ

 診療費。画像検査料。処置料。 未央は、階段から落ちた直後に泣いていたはずだった。 机の上には、朝の光が細く差していた。 司は、それを見たと思っていた。 けれど、あの記憶のどこからが、自分で見たものだったのか。どこからが、周りの怒鳴り声と未央の涙で埋められたものだったのか。 分からない。 分からないまま、栞を切った。「司様」 柴田が声を落とした。「この件、桐生会長には」「まだ言うな」 返事は、考える前に出た。 柴田が眉を上げた。 父に知られれば、話はすぐ家と会社の問題になる。桐生家の信用、如月家との関係、榊家への対応。そういう言葉で、また誰かの痛みが畳まれていく。 三年前と同じになる。「まず、俺が確認する」 柴田は一瞬だけ司を見た。 その視線には、わずかな意外さがあった。責めるでもなく、喜ぶでもなく、ただ、珍しいものを見るような静かな目だった。「……会長には、まだ伏せておきます」 扉が閉まる。 司は一人になった。 机の引き出しを開ける。奥に、小さな紺色の箱がある。三年前から、一度も捨てられなかったものだった。 指輪。 栞に渡すつもりだった。 その予定だけを大切に抱えたまま、彼女の電話を切った。 箱を開けると、細い銀色の輪が朝の光を拾った。新品のまま、誰の指にも触れていない。綺麗なままでいることが、今はひどく薄情に見えた。「……何を残してるんだ、俺は」 声は、自分でも聞き取りにくかった。 スマートフォンが震えた。 未央からのメッセージが、画面に並ぶ。『昨日はごめんね』『でも、栞が怖いの』『司くんだけは信じてくれるよね?』 信じる。 その言葉に、胃の奥が沈んだ。 信じることを、確認しない言い訳にしてきた。 司は返信しなかった。代わりに、柴田へ短いメールを打つ。『未央さん宛に
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