Semua Bab 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Bab 121 - Bab 130

304 Bab

第121話 奪う手を、今度は払う

 未央の指先は、守り袋の紐に届く寸前で止まった。  蔵の外で、風が扉の金具を小さく鳴らした。  正確には、私の手袋に押し返されて止まった。  爪の跡は薄いのに、三年前の感触が重なった。  三年前も、最初は小さな接触だった。  肩がぶつかった。腕を掴まれた。階段の上で、未央が泣きそうな声を出した。  そのあと、誰も私の手元を見なかった。 「どいてよ」  未央が低く言った。  さっきまで玄関で使っていた甘い声ではない。如月家の廊下の奥で、使用人がいなくなった隙に聞いた声だった。 「撮影が終わるまで、触らないでください」 「だから、ちょっと見るだけって言ってるでしょう」 「見るなら、立会人の前で。手袋をして。記録を取ってからです」  薄紙の端が、作業台の上で乾いた音を立てた。 「なにそれ。榊家に入った途端、偉そうに」  未央の唇が歪む。  蔵の空気は重かった。乾いた木と埃の匂い。古い箱から出した薄紙。高瀬さんのタブレットに残る、撮影済みの画像。守り袋は、その全部の真ん中にあった。  赤い紐が、少しだけねじれている。  私は、そのねじれを直したい衝動を抑えた。  今、勝手に触れば、未央と同じになる。 「未央」  隆一が低い声で名前を呼んだ。  止めるための声ではなかった。外へ漏れるな、と言う声だった。  未央は父の方を見なかった。 「お父様だって困るでしょう。そんな古い袋一つで、栞がまた大騒ぎするの」 「大騒ぎではありません。保全手続きです」  高瀬さんが、書類の端を揃えながら言った。 「今は、保全する物の確認です。中には産院名らしき文字と、家紋に似た刺繍があります。誰の物で、どうここに残ったのか。まず確認させてください」 「部外者が口を挟まないで」 「榊家法務として同席しています。先ほど如月様からも、立会いを承諾いただいております」  高瀬さんの声は穏やかだったが、未央が声を荒らげても、その調子は変わらなかった。  未央の頬が赤くなった。 「栞って、ほんとそういうところ変わらない」  未央が近づくのを見て、私は足の位置を変えた。  未央は一歩、私に近づいた。 「昔からそう。何でも自分のものみたいな顔して。おばあさまも、お父様も、お母様も、司さんも」 「司さんはあなたの隣にいるでしょう」 「そういう意
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第122話 未央を呼ぶ母の声

 けれど、守り袋の上で聞くと、違った。  守り袋の赤い紐が、作業台の上で細く揺れた。  赤ん坊の頃から私のそばにあったかもしれない物の前で、未央はまた、その言葉を選んだ。 「それを壊したら、困るのは誰ですか」  声は低くなった。  未央が一瞬、瞬きをした。 「……何?」 「守り袋を壊したら、困るのは誰ですか。私ですか。あなたですか。それとも、お父様ですか」  未央の視線が隆一へ飛んだ。  早い。  私は何も言わず、未央の視線の先を見た。 「知らないわよ、そんなの」 「なら、触らないでください」 「命令しないで」 「お願いじゃないです」  未央の肩が揺れた。  次の動きは、ほとんど反射だった。  未央の右手が、守り袋ではなく私の手首へ伸びる。三年前、階段の上で腕を掴まれた時と同じ角度だった。  私は半歩だけ身を引き、未央の手を払った。  音は軽かった。  けれど、蔵の中ではひどく大きく響いた。  未央の指先が空を切る。  私は、守り袋の前に立ったまま、手を下ろさなかった。 「触らないで」 「……叩いた」  未央が呟く。  声が、急に細くなった。 「今、叩いたわよね」 「手を払いました」 「同じことじゃない」 「同じにしないで」  私は即答した。  心臓が速い。舌が乾く。それでも、口は動いた。 「未央さんが守り袋に手を伸ばして、私の手首を掴もうとしたからです。高瀬さん、今の様子は撮れていますか」 「映像と音声、双方に残っています」  高瀬さんが答える。  未央の顔から、色が少し引いた。 「録ってるの?」 「玄関でお伝えしました。蔵の確認中は、記録を取ると」 「そんなの、脅しじゃない」 「記録です」  私の返事に、未央の眉が寄った。口元だけが小さく震え、言い返す言葉はすぐに出てこなかった。  未央の視線が私から琴美、隆一へ流れる。  その仕草に、階段の上の記憶が重なった。  未央は一歩下がった。  後ろには、蔵の入口へ続く敷居がある。段差は低い。けれど、足元を見ないで下がれば躓く。 「危ないです」  反射的に言ってしまった。  未央が笑った。 「優しいふり?」 「怪我をされたら困ります」 「私が怪我したら、またあなたのせいになるものね」  琴美も隆一も、口を開かなかった
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第123話 奪えなかった守り袋

 肺の奥まで、埃の匂いが入った。 「三年前も」  声は掠れた。それでも、同じ言葉を言い直すことはしなかった。  逃げなかった。 「そうやって、決めてたんですか」 「違う」  未央の声が跳ねる。 「今のは、そういう意味じゃ――」 「今のは、どういう意味ですか」 「言葉のあやよ。あなたが私を叩いたから、腹が立って」 「手を払った理由は、今、説明しました」  未央は隆一を見た。  今度は、はっきりと。  隆一の顔は白かった。  会社の代表でも、父親でもない。蔵の暗い空気の中で、古い棚の前に立つ一人の男に見えた。 「今の記録は、持ち出させない」  隆一が言った。  高瀬さんがタブレットを胸元へ引いた。 「申し訳ありませんが、それには応じられません」 「ここは如月家の敷地だ」 「承知しております。だからこそ、事前に録音・撮影の同意を確認しました。今の発言は、保全対象物の確認中に発生したものです。削除には応じられません」 「家庭内の言い争いだ」 「三年前の傷害疑惑に関わる発言です」  傷害。  その二文字が落ちた瞬間、琴美が口元を押さえた。  未央は首を振った。 「やめてよ。大げさにしないで。私はただ、栞が勝手なことをするから」 「勝手なこと?」  私は未央を見る。 「私が自分の持ち物かもしれない物を確認することが、勝手なことですか」 「だって、それは如月家の蔵にあったのよ」 「だから、立会いをお願いしました」 「あなたはもう如月家の人間じゃないでしょう」 「ええ」  私は頷いた。  その事実は、もう私を黙らせる言葉にはならなかった。 「だから、ここにある私に関わる物は、きちんと返していただきます」  未央の顔が歪む。  空っぽなものを見るような目で、私を見ていた。  違う。  見ているのは、私ではない。  未央の視線が、守り袋から隆一、琴美へせわしなく動いた。 「高瀬さん」  私は守り袋から手を離し、少し横へ退いた。 「保全をお願いします。これ以上ここで持っていたくありません」 「こちらで引き取ります。朝霧様は、もう手を離して大丈夫です」  高瀬さんが手袋を替え、薄紙ごと守り袋を保全袋へ移す。透明な袋の上に管理番号のシールが貼られていく。  赤い紐が、ビニール越しにわずかに曲がって見
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第124話 怖かったと認めるまで

「……知らん」 「では、調べます」 「栞」  隆一は私の名を呼んだきり、続きを言わなかった。 「止めたいなら、何が起きるのか言ってください。『家族だから』とか『会社のため』じゃなくて」  隆一は黙った。  私は保全袋に視線を戻す。  守り袋は、もう高瀬さんの手元にあった。  高窓の光が、保全袋のビニールに白く反射していた。  透明な保全袋の中で、赤い紐だけが動かない。  私は保全袋から目を上げた。  蔵を出る時、未央が後ろから呟いた。 「……そんな袋一つで、本物になれると思わないで」  私は振り返らなかった。  敷居を越える前に、足を止める。 「誰が本物かなんて、もうどうでもいいです」  背後で、誰かが息を呑んだ。  外の光は白かった。蔵の暗さに慣れた目には、少し痛い。  門の向こう、車のそばに律がいた。  黒い仮面越しに、こちらを見ている。  私は保全袋を抱えた高瀬さんの隣を歩いた。  律は、車椅子の肘掛けに片手を置いたまま、何も言わなかった。  今は、言葉を足されない方がよかった。  ここで「よくやった」と言われたら、たぶん私は怒っていた。褒められるために払った手ではない。強くなった姿を見せるためでもない。  車内では、膝の上で両手を握らずにいられなかった。 「怪我は」  律が短く聞く。 「手袋の上から爪が当たっただけです」 「見せてください」 「あとで」  自分でも少しきつい返し方だと思った。けれど律は、引き下がった。 「傷だけは、あとで確認させてください」  余計な言葉は続かなかった。  高瀬さんが保全袋を助手席側の専用ケースに入れる。ケースの蓋が閉まる音がして、ようやく肩から少し力が抜けた。  律の視線が、私の右手に落ちる。 「怖かったですか」  大丈夫か、と聞かれると思っていた。 「怖かったです。腹も立ちました」  律は小さく頷いた。 「記録は、高瀬に任せます」 「お願いします」  自分の声がまだ硬いことに気づいた。  言い直す気力はなかった。  声を出す前に、もう一度唇を湿らせた。  車の窓に映った自分の顔は、思ったよりひどくなかった。泣いていない。崩れてもいない。  ただ、指先だけがまだ少し震えていた。  私はその震えを、袖の中に隠した。律は気づいた顔をしたが
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第125話 三年前の嘘、最初の亀裂

 スマートフォンの画面には、先ほどの一文が表示されたままだった。  車のエンジン音が、低く足元に続いていた。  文字は小さいのに、目を逸らせなかった。  未央の声を思い出しても、文字は冷たいままだった。  そこには、脅しも焦りも映らない。  ただ、発言として並んでいる。  黒い文字を追ううちに、三年前の階段の感触が背中へ戻ってきた。  あの日、私はこの一文を持っていなかった。  録音も、立会人も、時刻も、誰かに見せられる記録も。  持っていたのは、頬の熱と、誰にも届かなかった言葉だけだった。 「朝霧さん」  高瀬さんの声で、私は画面から目を離した。  車は如月本家の門を出て、細い坂道を下っていた。助手席側には、守り袋を入れた専用の保全ケースが置かれている。蓋の上には、管理番号を書いた白いラベルが貼られていた。 「この文字起こしは、あくまで補助です。証拠として扱うのは、元の音声データと、録音開始前の通知、立会人、保全までの流れになります」  私は画面を伏せないまま、ひとつ頷いた。 「すぐに外へ出すものじゃありません」  外へ、という言い方に、画面を持つ手が止まった。  世の中へ晒す、という意味だろう。  未央が私にしてきたことと同じように。 「分かってます」  声は、思ったより低く出た。 「あの人と同じことはしたくありません」  言ったあと、私は一度口を閉じた。  そう言いながら、未央の発言が公になってほしい気持ちは消えなかった。  三年前のことがひっくり返り、「栞は悪くなかった」と誰かに言ってほしい気持ちもある。  その考えに、自分で少し嫌になる。  未央が踏みにじろうとした守り袋に結ばれていた赤い紐を思い出す。  祖母が残したものまで、誰かの見世物にしたくはなかった。  隣に座る律は、何も言わなかった。  私が返事を探している間、ただ窓の外を見ている。黒い仮面越しの横顔は、まだ見慣れない。けれど、その黙り方だけは、最初に会った時から変わらなかった。 「保全だけしておきます。使うかは、あとで」  律はそれだけ言った。 「使わないまま、置いておくことも?」 「できます」  私は画面を伏せた。 「決めてください」と言えば、たぶん楽だった。  喉まで出た言葉を飲み込んだ。  律は何も付け足さなかった
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第126話 全部、残してください

「まずは、三年前の件について、如月家と桐生家へ照会します。階段事故の発生日、受診先、搬送手段、診療費の支払い記録、屋敷内の当時の勤務記録。今残っているものを確認します」 「病院の記録も、すぐ取れるんですか」 「本人の同意がなければ、診療内容の取得はできません。そこは手続きを踏みます。ただ、病院名、支払者、当時の車両記録、同席者の記憶。周辺から確認できるものはあります」  高瀬さんの言葉は、冷静だった。  冷静であることに、少し救われた。  タブレットの画面に、記録項目が一つずつ並んでいく。  三年前、私の言葉は感情としてしか扱われなかった。  違います。やっていません。私は突き落としていません。  どれだけ言っても、泣き声や弁明や言い訳として片づけられた。  けれど今は、違う。  時刻。場所。音声。立会人。診療費。車両記録。  人の声では届かなかったところに、細い糸が一本ずつ伸びていく。  榊邸へ戻ると、書斎ではなく、隣の小さな会議室に通された。  長机の上には、録音機器、ノートパソコン、保全ケース、白い手袋が並べられている。相良さんは入り口近くに立ったまま、こちらへ一礼した。 「お疲れさまでございました」 「……疲れました」  思わず本音が出た。  相良さんは、少しだけ視線を落とした。 「まずは、お休みください」 「今日は、そうさせてください」  ようやく、素直に返せた。  それ以上話す余裕はなかった。  高瀬さんはすぐに作業へ入った。音声ファイルの原本を複製し、複製側を文字起こしにかけ、原本は書き込み不可の保管媒体へ移す。説明されても半分しか分からなかったが、手順を飛ばしていないことだけは分かった。  画面に波形が表示される。  青い線が細かく上下し、未央の声がスピーカーから流れた。 『返して。そんなもの、栞には似合わないわ』  上着の内側で、肩が少し縮こまった。 『また私が突き落とされたことにしてもいいのよ』  その一文で、高瀬さんの手が止まる。  律は机の端の紙コップを私の方へ寄せた。私はまだ手を伸ばせなかった。 「ここは、切り出しません」  高瀬さんが言った。 「前後の文脈を含めて保存します。単独で出すと、恣意的な編集と見られる可能性があります」  私は、画面の波形を見たまま頷いた。  未
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第127話 立たないという選択

「私が手を払ったところも、その前に通知したところも、未央さんが何を言ったかも。私に不利に見えるところがあっても、残してください」  律の視線が、横から静かに届いた。  会議室のブラインドに、午後の光が細く引っかかっていた。 「都合の悪い部分まで残すのは、怖くないんですか」  私が聞くと、律は少し間を置いた。 「怖いですよ。都合の悪いところだけ、あとで外したくなるのが」  律は窓の方へわずかに視線を逃がした。黒い仮面の奥の目に、窓の光が薄くかかっている。 「その時は正しいと思っても、あとで……違って見えることがある」  意外なほど、普通の声だった。  それ以上は言わなかった。  私も聞かなかった。  会議室のプリンターが動き出した。  申入書の下書きが、白い紙になって吐き出される。高瀬さんがそれを取り上げ、机の上に置いた。 「朝霧さんの意向を一文入れる場合は、ここです」  指で示された欄には、空白があった。  そこだけ、妙に広く見える。  私はボールペンを持った。  手袋越しではない、自分の指で。 『三年前の件について、事実確認を求めます』  最初は、そう書こうとした。  でも、それだけでは足りなかった。  ペン先を一度止める。  律も高瀬さんも、急かさない。  私は、もう一度書き直した。 『私は、三年前に貼られた名前を、事実で確認し直したいです』  書き終えると、「名前を貼られた」のところだけ字が濃くなっていた。思った以上に力が入っていたらしい。  書き直そうかとペンを持ち直したが、どう言い換えても、あの夜のことを他人の事件のように書く気にはなれなかった。  私はペン先を上げ、乾かない文字に触れないよう紙を高瀬さんの方へ向けた。彼の反応を見るのが、少し怖かった。 「このままで」  高瀬さんは一度だけ読み、静かに頷いた。 「この文面で進めます」  会議室を出る前に、守り袋の保全ケースを見た。  中身は見えない。透明な蓋の下に、白い袋と管理ラベルだけがある。  それなのに、蔵の黴っぽい空気と、未央の爪が手袋に引っかかった感触が戻ってくる。  私は一度息を吐いた。  廊下に出ると、律が少し後ろにいた。  車輪が床の継ぎ目を越え、小さく鳴る。 「部屋まで送ります」 「……今日は、歩かないんですか」
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第128話 消された通知

 言ってから、窓に映る自分を見た。  廊下の床の継ぎ目で、車輪が小さく鳴った。  信じてほしかった。それは今も変わらない。けれど、あの時してほしかったことを、もう少しだけ伝えたかった。 「私を信じられなくても、確かめるくらいはしてほしかったんです」  律は黙って待った。 「私が嘘をついてるかだけじゃなく、未央さんたちの話も。本当にそうだったのかって」  言い終えると、喉が少し乾いた。 「誰も、そこまでしてくれなかったので」  律の手が、車椅子の肘掛けに置かれた。  手の先がわずかに曲がる。 「今からでも、私が確かめます」  短い返事だった。私はすぐには頷けなかった。  今からでも、という言葉に縋りたくなった。期待すれば、もう一度待つことになるのが怖かった。  だから、しばらく窓の外を見た。  その夜、桐生司から榊家法務宛に返信が来た。  高瀬さんが、食後の小さな打ち合わせでそれを読み上げる。 「桐生家としては、事実確認に協力する。ただし、公式見解は社内調査後。司様個人からは、三年前の移動記録と当時の連絡履歴を確認したい、とのことです」 「司さんが?」  自分の声が、少し遅れて出た。  高瀬さんは頷いた。 「未央さんへは、当時の受診先確認と診療情報開示への同意を求めるそうです」  皿の縁に置いた指が止まった。  三年前、私の電話を切った人。  今さら遅い。そう思う。  そう思うのに、椅子の脚が床を擦る音だけが妙に耳についた。  司を許したわけではない。期待する気にもなれない。  それでも、記録が動き始めたことだけは分かった。  三年前の日付が、初めて紙の上でつながり始めた。◇ 同じ頃、都内の桐生邸では、司が机の上に古い手帳を開いていた。  三年前のページ。  雨の日の午後。  如月邸、未央、病院。  汚い字で書かれた短いメモの横に、折れた映画の半券が挟まっている。  栞に渡すつもりだった指輪を買った日付の、翌週だった。  司はしばらくその半券を見ていた。  スマートフォンが鳴る。  未央からだった。 『司くん、私、怖いの。栞がまた私を悪者にしようとしてる』  以前なら、すぐに電話をかけていた。  大丈夫だよ、と言った。君は悪くない、と言った。  その言葉で、自分も安心していた。  司は
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第129話 桐生司の遅い一歩

 朝の桐生邸は、音が少なかった。  磨かれた廊下を歩く靴音も、食器の触れ合う音も、厚い絨毯と壁に吸われていく。窓の外では庭師が植え込みを整えていたが、ガラス越しでは鋏の音までは届かない。  書斎には、昨夜から残った冷えた茶の匂いがあった。  司は書斎の机に置かれた封筒を見ていた。  昨夜、秘書に送ったメールの返信が、朝一番で届いていた。三年前の車両使用記録、桐生家の運転手の日報、当時のカード利用明細。どれも、いままで見ようと思えば見られたものだった。  見なかった。  それだけのことが、指先を重くした。 「司様。こちらが、ご依頼の資料です」  秘書の柴田は、いつもと同じ声で言った。四十代半ばの男で、桐生家の事情に深入りしすぎない距離を知っている。だからこそ、机に資料を置く手つきも事務的だった。 「未央さんには」 「まだ何も。診療情報の開示には、ご本人の同意が必要です。こちらで用意できるのは、司様が同席された範囲の移動記録と、桐生側で支払った費用の控えまでです」 「分かってる」  返した声は、自分でも頼りなく聞こえた。  分かっている。そんな顔をして、三年前も何も分かっていなかった。  封筒から最初に出てきたのは、黒塗りの多い車両日報だった。日付は三年前の六月。雨の多い週だった。  桐生邸発、十八時二十分。  如月邸着、十八時五十八分。  如月邸発、十九時十二分。  市内の整形外科クリニック着、十九時二十九分。  司は、そこで目を止めた。 「……如月邸を出たのが、十九時十二分?」  柴田が小さく頷く。 「運転手の日報上はそうなっています」 「でも、未央が階段から落ちたって騒ぎになったのは」  司は言葉を切った。  思い出そうとすると、頭の中に雨の匂いが戻ってくる。廊下を走る足音。未央の泣き声。隆一の怒鳴り声。栞の青ざめた顔。  それから、自分が切った電話。  あのとき、栞は何を言おうとしていたのか。 「如月家側の事故報告書は、手元にはありません。ただ、当時、司様のスマートフォンに残っていた通話履歴では、十九時四十一分に如月隆一様から着信。十九時四十三分には如月栞様からの着信が記録されています」  司はもう一度、時刻を見比べた。  十九時十二分に屋敷を出ている。  十九時二十九分には病院に着いている。  そ
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第130話 未央を疑うということ

 診療費。画像検査料。処置料。 未央は、階段から落ちた直後に泣いていたはずだった。 机の上には、朝の光が細く差していた。 司は、それを見たと思っていた。 けれど、あの記憶のどこからが、自分で見たものだったのか。どこからが、周りの怒鳴り声と未央の涙で埋められたものだったのか。 分からない。 分からないまま、栞を切った。「司様」 柴田が声を落とした。「この件、桐生会長には」「まだ言うな」 返事は、考える前に出た。 柴田が眉を上げた。 父に知られれば、話はすぐ家と会社の問題になる。桐生家の信用、如月家との関係、榊家への対応。そういう言葉で、また誰かの痛みが畳まれていく。 三年前と同じになる。「まず、俺が確認する」 柴田は一瞬だけ司を見た。 その視線には、わずかな意外さがあった。責めるでもなく、喜ぶでもなく、ただ、珍しいものを見るような静かな目だった。「……会長には、まだ伏せておきます」 扉が閉まる。 司は一人になった。 机の引き出しを開ける。奥に、小さな紺色の箱がある。三年前から、一度も捨てられなかったものだった。 指輪。 栞に渡すつもりだった。 その予定だけを大切に抱えたまま、彼女の電話を切った。 箱を開けると、細い銀色の輪が朝の光を拾った。新品のまま、誰の指にも触れていない。綺麗なままでいることが、今はひどく薄情に見えた。「……何を残してるんだ、俺は」 声は、自分でも聞き取りにくかった。 スマートフォンが震えた。 未央からのメッセージが、画面に並ぶ。『昨日はごめんね』『でも、栞が怖いの』『司くんだけは信じてくれるよね?』 信じる。 その言葉に、胃の奥が沈んだ。 信じることを、確認しない言い訳にしてきた。 司は返信しなかった。代わりに、柴田へ短いメールを打つ。『未央さん宛に
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