登入拓哉の横顔から、表情が消えました。道路の向こうで、聖も拓哉を見ています。麻里亜はガラス扉の内側にいました。まだ二人が向かい合ったことには気づいていません。愛梨沙は息を抑えながらスマホを構えます。〈夫が聖さんに気づきました〉瑠璃子から、ようやく返事が届きました。〈夫の様子を見ていてください〉〈近づかないで〉愛梨沙は返事を打ちませんでした。拓哉から目を離せなかったのです。拓哉は右手に銀色の鍵を持っています。左肩には黒い鞄。中には赤い布。麻里亜を二人きりの部屋へ呼び、裏手から鍵を受け取り、人目を避けて現れました。それだけなら、妻へ知られたくない男の行動として説明できます。けれど、赤い布だけが分かりません。書類でもありません。贈り物なら、なぜ透明な袋へ入れているのでしょう。捨てるものなら、なぜ麻里亜と会う日に持ってきたのでしょう。(何をするつもりだったの?麻里亜さんと二人になって鍵を閉めてその赤い布を見せるの?首に巻いてあげる?口へ触れさせる?拓哉さんの手であの赤が女の肌へ重なるところ見てみたい怖い顔も泣く顔も拓哉さんが作ったものなら全部きれい)拓哉が鞄の位置を直しました。ほんのわずかに口が開きます。透明な袋の中の赤が、街灯を受けました。その布の端には、小さなほつれがありました。新品ではありません。誰かが使っていたものです。拓哉は聖を見たまま、鞄の口を閉じました。聖は缶コーヒーを路面へ下ろしました。両手を空けています。いつでも拓哉へ近づけるように。拓哉の口元が、ほんの少し動きました。笑ったようにも見えました。けれど、目は笑っていません。二人の間を車が通り過ぎます。赤い尾灯が、拓哉の頬を一瞬だけ染めました。愛梨沙のスマホが震えます。瑠璃子からでした。〈鞄の中のものを、もう少し詳しく見られますか〉愛梨沙は画面へ指を滑らせました。〈赤い布です。透明な袋に入っています。新品ではないと思います〉〈形は?〉愛梨沙は拓哉の鞄を見ました。〈細長い布です〉しばらく既読がつきませんでした。その間に、拓哉が道路の向こうにいる聖へ向かって口を開きました。「何しに来た」車の音に削られて、声までははっきり届きません。それでも、口の形だけは分かりました。聖も何かを返しました。拓哉
午後7時46分。麻里亜が姿を見せました。駅の方から早足で歩いてきます。薄い色のコート。肩へ掛けた鞄。歩きながら何度も後ろを振り返っていました。聖に気づくと、足を止めます。二人の間には道路がありました。麻里亜はスマホを取り出しました。聖のポケットが震えます。聖は画面へ目を落としました。愛梨沙の場所から内容は見えません。けれど、聖の表情がさらに険しくなったことは分かりました。麻里亜はビルの入口へ向かいます。聖が道路を渡ろうとしました。麻里亜は首を横へ振ります。来ないで。声にしなくても、そう言っているのが伝わりました。聖は足を止めました。麻里亜はガラス扉を開け、中へ入りました。階段の方へは進まず、入口付近で待っています。愛梨沙は瑠璃子へ送りました。〈麻里亜さんが着きました。聖さんも近くにいます〉〈夫は少し前に会社を出ました〉〈こちらまで何分ですか?〉〈車なら10分ほどです〉愛梨沙は時刻を確認しました。7時49分。拓哉は20時を指定しています。時間どおりに来るつもりなら、そろそろ近くまで来ていてもおかしくありません。それでも愛梨沙の胸には、別の予感がありました。拓哉は正面から来ない。理由は分かりません。けれど、ビルの入口を見つめながら、そう思いました。誰にも言わずに来てほしい。外では落ち着いて話せない。二人だけの部屋。拓哉は麻里亜へ見つけてもらうためではなく、他の誰にも見られないために、この場所を選んだのではないでしょうか。愛梨沙はビルの側面へ視線を向けました。細い通路の先は暗く、正面から奥までは見えません。〈建物の裏手も確認します〉瑠璃子へ送ると、すぐに返事が来ました。〈夫へ気づかれないでください〉愛梨沙は自動販売機の陰を離れました。道路を回り込み、ビルの横にある細い通路へ近づきます。奥には金属製の外階段がありました。壁には数字の並んだ黒い箱があります。レンタルスペースの鍵を受け取るキーボックスでしょう。蓋は閉じています。通路の壁が視界を遮り、ここからは正面の道路までは見渡せません。愛梨沙は通路へ入りすぎず、角から奥を見ました。数分が過ぎました。午後7時57分。遠くで車のドアが閉まる音がしました。足音が近づきます。正面の道路からではありません。裏の路地からです
午後4時17分。拓哉から連絡が届きました。〈20時〉続いて、地図の共有画面が送られてきます。駅から少し離れた古い雑居ビル。3階にある時間貸しのレンタルスペースでした。〈ここで待ってる〉麻里亜は地図を開きました。飲食店ではありません。人の多い場所でもない。貸会議室という名前になっていますが、掲載されている室内写真には、小さなテーブルと椅子が二脚しかありませんでした。白い壁。細長い窓。鍵を使って入る個室。麻里亜は画面を閉じ、もう一度開きました。〈どうしてここなの?〉拓哉からは、しばらく返事がありませんでした。5分後。〈外だと落ち着いて話せないから〉〈誰にも言わずに来て〉麻里亜は胸の奥に広がる違和感を、言葉にできませんでした。拓哉は人目を避けたいだけなのかもしれない。妻に知られたくないのだから当然です。昨日のように感情的にならず、二人だけで話したいのでしょう。そう考えれば、不自然ではありません。けれど、その説明を信じようとするほど、指先が冷えていきました。麻里亜は共有された地図の画面を撮り、瑠璃子へ送りました。〈20時にここです〉瑠璃子からは、すぐに返事が届きました。〈ありがとうございます〉〈聖さんには?〉麻里亜は少し迷いました。〈場所だけ送ります〉〈分かりました。夫には、聖さんへ伝えたことを知られないでください〉麻里亜は聖との画面を開きました。地図を送ります。〈20時。会って話したら帰る〉今度は、すぐに既読がつきました。〈行くな〉〈もう決めた〉〈俺も行く〉〈来ないで〉〈無理〉麻里亜は画面を閉じました。同じ頃、瑠璃子から愛梨沙へ住所が送られていました。〈20時です。夫より先に着いてください〉愛梨沙は地図を確認しました。自宅から車で30分ほどです。建物の正面には狭い道路。隣にコインパーキング。裏手には細い通路があります。正面から見張れば、入口へ向かう人間は確認できそうでした。〈分かりました〉〈聖さんも来る可能性があります〉愛梨沙は画面を見つめました。〈麻里亜さんが呼んだのですか?〉〈場所を伝えたようです〉〈夫は知っていますか?〉〈知りません〉愛梨沙は小さく笑いました。拓哉は麻里亜と二人きりになるつもりです。麻里亜は聖へ場所を教えています。瑠璃子は愛梨
店を出てからも、瑠璃子の言葉が耳の奥に残っていました。「明日、夫が誰にも見せないつもりの姿を、私の代わりに見てきてください」夫。その呼び方だけが、胸の奥へ細く刺さります。拓哉は瑠璃子の夫です。法律にも、名字にも、家の鍵にも守られた人。愛梨沙がどれほど拓哉を見つめても、その事実だけは変わりません。それでも瑠璃子は、自分ではなく愛梨沙に頼みました。拓哉が麻里亜と会う姿を、自分の代わりに見てほしいと。愛梨沙は自宅へ戻ると、明かりもつけずにベッドへ腰を下ろしました。鞄の中からスマホを出します。連絡先には、先ほど登録したばかりの瑠璃子の名前がありました。まだ一度も文章を交わしていません。それなのに、その名前はずっと前から画面にあったように見えました。(妻なのに自分では見に行かないんだね怖いの?それとも私の目なら汚れてもいいと思ってる?いいよ拓哉さんが誰を見てどんな嘘をついてどんな指で女に触れるのか全部、私の中へ入れてあげる)スマホが震えました。瑠璃子から初めての連絡です。〈先ほどお願いしたことですが、夫には絶対に知られないでください〉愛梨沙は画面へ指を滑らせました。〈はい〉〈麻里亜さんにも話しかけないでください〉〈分かっています〉〈何か起きても、すぐには間へ入らないで〉愛梨沙の指が止まりました。何か起きても。店では口にしなかった言葉です。他の文章よりも、その一文だけが黒く見えました。〈何か起きると思っているのですか?〉既読はつきました。けれど、返事は届きません。数分後、瑠璃子から送られてきたのは、問いへの答えではありませんでした。〈場所が分かり次第、連絡します〉愛梨沙はスマホを伏せました。瑠璃子は、何かを考えています。麻里亜から聞いたことだけではない。拓哉が明日、どんな顔で麻里亜へ会うのか。その先に何が起きる可能性があるのか。少なくとも、愛梨沙より深く先を見ています。胸の奥が、ゆっくり熱を帯びました。瑠璃子は妻です。それなのに、拓哉を愛梨沙の視線へ差し出そうとしています。(あなたの夫を私に見せてくれるんだね知らない拓哉さんを妻しか見てはいけないところまで私に覗かせてくれる優しい人それとも私を使うつもり?どちらでもいいよ拓哉さんに近づけるならあなたの指先にな
愛梨沙は手袋の内側へ爪を食い込ませました。(知ってたんだ私が拓哉さんを見てること同じ道を歩いた足も同じ店で吸った息も拓哉さんが振り返る前に柱の陰へ隠れた身体も全部妻の目の中に入ってた見つかってたんだ恥ずかしいうれしい拓哉さんの奥さんに私の愛を見られてたこの人は私が拓哉さんを欲しがる姿を何度も写真で見たんだもっと見て白い布を剥がして指の先から胸の奥まで開いてあなたより深いところに拓哉さんがいるって妻の指で確かめて)「知っていたのに、どうして今まで何も言わなかったんですか?」「少なくとも、報告の中であなたが夫へ話しかける場面はありませんでした」瑠璃子の視線が、愛梨沙の白い手袋へ下りました。「夫を見ているだけなのか、近づく機会を待っているのか、それとも傷つけるつもりなのか、判断できなかったんです」「傷つけると思ったなら、警察へ話せばよかったでしょう?」「夫の近くに同じ女性が何度かいたというだけでは、何も起きていませんから」「拓哉さんには?」「話していません」愛梨沙の唇が、わずかに開きました。「どうしてですか?」「夫があなたを知らないのなら、わざわざ教える必要はありません。知っているのに隠しているのなら、尋ねても正直には答えないでしょう」瑠璃子は結婚指輪へ親指を添えました。「どちらにしても、私から名前を教える理由はありませんでした」「今夜までは?」「ええ。今夜までは」愛梨沙は瑠璃子の目を見ました。怒りも怯えもありません。けれど、何も感じていない目ではありませんでした。愛梨沙がどこまで知っているのか。どこまで夫を追っているのか。その奥に何が潜んでいるのか。瑠璃子もまた、愛梨沙を測っています。「私がここにいることも、最初から分かっていたんですか?」「店に入った時は気づきませんでした。窓へ同じ姿が何度か映ったので、顔を確認しました」「写真の私を覚えていたんですね」「何度も見ましたから」その言葉が、愛梨沙の胸の内側を撫でました。(何度も私を見たんだ拓哉さんを見ている私を妻が見ていた拓哉さんの背中を挟んで私たちずっと向かい合ってたんだねあなたは夫の先から私は夫の後ろから同じ人を見てた近いね思ってたよりずっと近い)「私が麻里亜さんを追ってきたとも思っているんで
「聖さんには、明日会うことだけでも伝えてください」「この画面を送ったら、絶対に来ます」「画面を送る必要はありません。場所が分かったら知らせると、それだけ伝えればいいでしょう」「それでも怒ります」「怒られることと、知られないまま会うことのどちらが怖いですか?」麻里亜は画面を見つめました。やがて連絡先を開き、短い文章を打ち込みます。「明日会うことになった。場所が分かったら送るって書きました」「もう送ったんですか?」「今、送りました」麻里亜はスマホを伏せました。「全部、奥さんに言わされた気がする」「送らないこともできました」「そういうところが、ずるいんです」「そうかもしれませんね」麻里亜はアイスコーヒーを飲み干しました。「奥さんには、この画面も送った方がいいですか?」「送ってもらえるなら、保存します」「拓哉さんには見せないでください」「見せません」「聖の名前も、奥さんからは出さないで」「私から夫に、聖さんの名前は出しません」麻里亜は少し迷ったあと、瑠璃子へ画像を送りました。瑠璃子のスマホが一度だけ震えました。画面を確認すると、すぐに伏せます。「明日、場所が分かったら連絡してください」「奥さんも来るつもりですか?」「行きません。私が近くにいれば、夫は気づくかもしれません」「じゃあ、何をするんですか?」「あなたからの連絡を待ちます」麻里亜は椅子から立ち上がりました。「もう帰ります」「今日は来てくれて、ありがとうございました」「お礼を言われるようなことじゃありません」「それでも、来てもらえなければ話せませんでした」麻里亜は鞄を肩へかけました。「奥さんのこと、まだ信じてませんから」「分かっています」「拓哉さんに奥さんと別れてほしいって気持ちも、変わってません」「それも分かっています」「明日会ったら、拓哉さんが私を選ぶかもしれない」瑠璃子は麻里亜を見ました。「その時は、言葉ではなく、夫が何をするのか見てください」麻里亜は返事をせず、店の出口へ向かいました。ガラス扉が開き、その姿が夜の暗がりへ消えました。愛梨沙はメニューを閉じませんでした。瑠璃子が席を立つまで、動くつもりはありません。けれど瑠璃子は帰りませんでした。紅茶のカップへ目を向けたまま、静かに座っています。1分が過ぎました。