遥さんは袖口から指を離し、机の上で自分の手をぎゅっと握った。「本当は、家を出たかったんです。お母さんは優しいけど、食事も行き先も、就職先まで一緒に決めたがるから……苦しくて」 あの日、進学前の面談室で、彼女が私だけに打ち明けた秘密だった。『本当は、家を出たいんです』『お母さんには言わないで』。その言葉は今も、私の鍵つき棚にある面談票に『本人の希望により詳細非公開』という一行だけで守られている。「あの面談の時、白鳥さんに『お母さんには言わないで』ってお願いしましたよね。今も、お母さんは私が看護師になるためにやむを得ず県外へ出たと思っています。自分が嫌がられて家を出たなんて知ったら、お母さん、絶対に傷つくから」「はい。あの時の話は、お母様にも、ほかの方にも伝えていません。面談票にも、詳しい理由は書いていません」 私はまっすぐに遥さんの目を見て答え、手元の仮名ケース票の見本を彼女の前へ開いた。「明日灯ネットワークには、住居の相談や研修先の紹介をお願いする予定です。先方が手続きを進められるよう、管理番号を付けた実務票を渡してもいいでしょうか」 私は実務票と同意書を並べ、項目を一つずつ示した。母親から問い合わせがあった場合の扱いが、ほかの学生と少し違う。勝手に支援を取り消されたり、居場所を答えられたりしては困る。そのための注意書きも、どこまで先方へ伝えるべきか迷っていた。「大学と住まいの調整には、進学先の分野と転居の状況が必要です。それから、お母様から支援を止めてほしいと連絡があっても、あなたに確認せず手続きを変えないよう、以前の辞退相談と継続の経緯を担当者にだけ伝えたいんです。これは連絡方法を間違えないためで、広報には使わせません。どう思いますか」 保護者への対応という目的を超えて、細かな家庭事情まで渡すつもりはなかった。それでも、本人が望まないなら別の運用を考える。私は用紙から手を離し、遥さんが読み終えるのを待った。 遥さんは用紙を真剣に読み返し、頷いた。「住まいの手続きをする人には、そこまで伝えて大丈夫です。お母さんから勝手に取り消されるのも困りますし。でも、ほかの人に見せないでください。私がお母さんから
Última actualización : 2026-11-01 Leer más