All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話 自分の名で答える

「鷹宮氏の力がなければ、ここに立てなかった場面はあります」 会場のペンが一度止まった。 否定を待っていたのだと思う。「助けてもらいました。そこは事実です」 会場のペンがまた動き始める。「証拠保全も、法的対応も。私一人では無理でした」 久我山と相沢、それから調査に関わった人たちの名前も挙げた。「でも、今このマイクで何を話すかまで、彼に決めてもらってはいません」 手元に母の指輪も青い手袋もない。 言い終えても、背後は見なかった。征臣がどんな顔をしているか確かめれば、また答えを合わせたくなる気がした。 演台の名札には、白鳥澪とだけある。鷹宮の肩書きも、白鳥家の続柄もない。私は自分の名前を一度見て、原稿へ視線を戻した。 前列で広報担当が頷いた。私は原稿へ目を戻し、急ぎそうになる息を一度整えた。「基金で、私の話ばかりするつもりはありません」 言い切ったあと、少しだけ早口だったと気づいた。「進学や仕事を諦める前に……相談先が一つでもあるようにしたい。それだけです」 沈黙のあと、質問は予算と監査体制へ移った。 分からない数字には、確認後に公開すると答える。 別の記者が、基金の年間運営費と私の報酬額を尋ねた。初年度は無報酬、二年目以降は理事会と外部監査の承認を受ける予定だと答える。「今は無報酬です。でも、ずっとそうするつもりはありません。続けるなら、誰かの持ち出しにはしたくないので」 長岡の記者は、鷹宮家からの寄付額を繰り返し聞いた。「寄付は受けますが、名称、選考、広報へ関与する権利は渡しません」「婚約者だから特別扱いを?」「婚約者だから、なおさら口約束にしません」 背後で征臣が小さく息を吐いた。何も言わずに聞いていることが、顔を見なくても分かった。 会見終了の札が出たあとも、最後列の若い記者が手を挙げていた。「応募者が怖くなって辞退したら、失敗ですか」 すぐには答えられなかった。「辞退したら終わり、にはしません。戻りたくなった時
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第212話 もう一度、応募してもいいですか

 征臣が、冷めた紅茶を下げてくれた。「先に、この返事を書きます」「ああ。お茶を淹れてくる」 湯を沸かす音を聞きながら、返信欄を開いた。 湯が沸くまでにと思ったのに、最初の一文で手が止まった。消して、もう一度書く。 応募は、そのまま受け付けます。前と同じ候補者番号で大丈夫です。名前は外へ出しません。 今度は、「大丈夫です」のひと言で終わらせずに書けた。 学校のことは、こちらで勝手に進めません。必要になったら、また連絡してください。 送信すると、肩の力が抜けた。「お疲れさま」 新しいカップが手元へ来た。「あなたも」 受け取りながら顔を見ると、征臣が笑った。「帰りに、何か食べていかないか」「お腹、空きました」 言った途端に笑ってしまった。会見の最中には、空腹など感じる余裕もなかった。 征臣が時計を見る。「まだ間に合う。前に話した店へ行こう」 私は端末をしまった。今夜は彼の好きな料理を、ちゃんと覚えて帰りたかった。 数日後、基金準備室の鍵を受け取った。 都心の古いビルの四階。蛍光灯の一本だけ色が違い、扉の紙はコピー用紙をラミネートしただけだった。 白鳥菜月女性教育基金準備室。 代表 白鳥澪。 端を指で押さえると、胸へゆっくり空気が入る。「ここで本当にいいのか」 立派な応接室のない場所で、征臣の黒いスーツだけが少し居場所を失っている。「古いことも、狭いことも分かっています」 私は鍵を自分で回した。 準備室の鍵は二本あった。一本は私。もう一本は、緊急時の管理会社保管。征臣が予備を持つ案は、最初から書類に入っていない。「本当に持たないんですね」「君が決めたことだろう。来る時は、ちゃんと呼んでもらう」 掌に残った一本の鍵を握った。呼べば来てくれる。なのに、持たないと言われて寂しくなるのだから、自分でも面倒だと思う。 室内には未開封の段ボールが積まれ、窓の鍵は一箇所だけ固かった。管理会社の担当者と一緒
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第213話 奪われない机

 中古の机が三つ。椅子が五脚。調子の悪そうな複合機と、葉先の枯れた観葉植物。 完璧ではないことに、ほっとした。 白鳥邸では、机の引き出し一つにも誰かの許可が要った。ここでは傷のついた天板も、ぐらつく椅子も、誰が使うかを話して決められる。 申請書を天板へ置いてみた。端に古い傷があり、紙が少し浮く。位置をずらすと収まった。それだけのことなのに、もうここで仕事をしている気がした。 防犯計画の紙が、段ボールの上に置かれていた。人員と連絡手段だけを整え、部屋はそのまま使う。前の打ち合わせで決めた通り、まず家具を動かした。 椅子を動かすと、脚が床へ引っかかり、ぎぎ、と情けない音がした。「そちらを持ってくれ。二人なら運べる」 征臣と反対側を持ち、一緒に窓際へ運ぶ。置く時、二人の掛け声がずれて笑った。「副社長でも、こういうことをするんですね」「君の前では、よくやっている気がする」 確かに、と頷くと、征臣も少し笑った。 机へ申請書を戻す。角を揃えようとして端を折ってしまい、慌てて指で伸ばした。 複合機は一枚目から紙を噛んだ。 征臣がカバーへ手をかける。「待ってください。説明書を見ます」 指示したレバーだけを上げてもらう。 出てきた紙は端が折れていたが、初年度支援候補者一覧の文字は読めた。 再応募した少女の欄には、名前ではなく番号と「再受付済」だけがある。 机の中央に、その紙を置いた。 翌朝、彩花と蓮が段ボールを抱えて来た。医療相談の資料、患者会の連絡先、被害を公表しない人のための匿名相談票。「『基金』って名前だけで、何でも相談できると思われたら困るでしょ」 彩花は机へ資料を広げた。医療判断は医師へ、法的判断は弁護士へ、生活相談は専門員へつなぐ。澪が一人で受けないこと。最後の項目に赤い線が引かれている。「私が始める基金なのに」「だからよ。あなた一人の善意で回さないの」 言い方はきつい。けれど彩花は、役割表を私の前へ置いたままだった。 私は役割表へ自分の名前を一つだけ書いた。代表・初回面
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第214話 初日のプリンター

 プリンターは三枚目でまた止まった。  機械の奥で紙が折れる嫌な音がする。 「機械に嫌われる理由は思い当たらない」 「そういうところだと思います」  思わず笑う。征臣は本当に分からない顔をした。  詰まった紙を抜き、試し刷りの箱へ重ねた。指についた黒いインクが、こすってもなかなか落ちない。  その時、古いFAXが鳴った。  吐き出された一枚に、太い黒字がある。  ――偽物の娘が、母親の名前で金を集めるな。  紙を伏せ、二秒後に戻す。送信時刻と番号表示を確認し、透明袋へ入れた。 「相沢さんに保全を。回線記録もお願いします」  征臣の手がFAXへ伸びかけ、止まる。  私が袋の口を閉じるまで、何も言わなかった。 「今は、それだけで」  悪意の一枚に、初日の仕事を全部渡したくない。  新しい紙を入れ直したところへ、弁護士から厚い封筒が届く。  中で小さな金属が動いた。  封を切ると、白鳥邸の玄関鍵が机へ落ちた。  細い傷の位置まで覚えている。  書類には、母の私物確認のため、私と代理人の立ち入りを認めるとある。  最後の行。  白鳥澪様に返還。 「返還」とあっても、戻るのは鍵だけだった。母の部屋に何が残っているか、今度は自分で確かめられる。そのことを思うと、取り上げられた時より手が震えた。 「行くのか」 「行きます。……自分で見たいです」  征臣は車の手配も先導も口にしなかった。  FAXの送信番号は、東都商事が以前契約していた代行会社の回線だった。相沢は追跡には時間がかかると説明し、今すぐ犯人を断定しないよう念を押した。 「声明を出すか」  征臣が聞く。 「今は出しません。初日の仕事が脅迫への反論だけになるので」  保全番号を書き留め、原本は袋へ、複写と送信番号の控えは弁護士へ渡す封筒に収めた。紙一枚をしまうだけで、こんなに時間がかかる。机へ戻ると、さっきの黒いインクがまだ指に残っていた。  白鳥邸の鍵に添えられた書類には、立ち入り可能な部屋の一覧があった。母の部屋、旧書斎、地下保管庫。莉々花の私室は対象外。 「今日は母の部屋だけにします」  地下保管庫の欄には印をつけなかった。すべて見ようとすれば、父の家へまた一日を渡すことになる。  訪問時刻を管理会社へ返信し、同席者欄へ相沢の名を入れた。征臣の名は、
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第215話 白鳥邸の鍵

 鍵は指の腹へ冷たさを移した。「今日じゃなくてもいい」「……今日、行きたいです」 怖い。 廊下も階段も、父の書斎も、莉々花の声が残っていそうなリビングも見たくない。 それでも、母の部屋だけは誰かに片づけられる前に見たい。「先に入らないでください」 征臣のまぶたがわずかに動く。「私が開けます」「分かった。開けるまで、ここにいる」 鍵を封筒へ戻し、口を折った。鞄の中で落ちないよう、内ポケットの奥へ入れる。 車内で彼が話したのは、管理会社の到着時刻と建物の状態だけだった。 同行者は征臣と相沢、管理会社の担当者。人数を決めたのは私だった。警備員は門の外で待機し、屋内へは呼んだ時だけ入る。 車が白鳥邸へ近づくにつれ、道路沿いの店が一つずつ記憶へ戻った。母と寄ったパン屋は別の看板になり、花屋だけが同じ場所にある。変わった町の中で、家だけが時間を止めて待っているように見えた。 門前には報道の車が二台いた。管理会社が事前に敷地境界を示し、撮影する位置を後ろへずらしてもらう。征臣は車から先に降りかけ、私を見る。「私が先に」 扉を開け、自分で地面へ足を置いた。カメラの方向へ顔を作らず、封筒の鍵だけを確かめる。 記者が「白鳥家へ戻るのか」と叫んだ。「私物の確認です」 それ以上は答えなかった。門の開け方を管理担当者に聞き、先に足を踏み入れた。敷石の色は、出ていった日と変わっていない。 入る前に、相沢とは父たちが現れた時のことも話しておいた。必要な書類は彼が持ち、対応も任せる。征臣には、呼んだらそばへ来てほしいと頼んだ。 門を抜けたあと、振り返らなかった。報道の声は背後で続いたが、玄関鍵の重さだけを確かめて歩く。敷石の端で一度つまずき、征臣の手が浮いた。私は自分で立ち直り、必要ないと首を振った。 シャッターが鳴るたび、肩が硬くなった。玄関の窓を見上げる癖も抜けていない。誰かがこちらを見ている気がして、空の窓だと確かめてから足を進めた。 鍵はまだ、冷たいままだった。 母と帰った
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第216話 母の部屋

「征臣さんは、ここで待っていてください」 征臣は階段の途中で止まった。「下にいる」「……呼んだら、来てくれますか」「もちろん。呼んでくれれば、すぐ行く」 征臣が階下へ戻っていく。姿が見えなくなっても、床板を踏む音は聞こえた。呼べば届く距離だと分かって、ようやく扉へ向き直れた。 用もないのに、もう一度名前を呼びそうになった。 ノブへ伸ばした指が震えた。 人の目も、証拠も、言うべき台詞もない場所の方が怖い。 母の部屋の前には、管理会社が貼った封印テープがあった。番号と日付を相沢が読み上げ、私が写真へ収める。切る前に、破損がないことを確認した。 相沢が開始時刻を告げ、私は時計を見て記録票へ署名した。慣れたはずの名前が、最後の一画だけ震えた。「開けます」 今度の鍵は玄関と違い、新しく交換されていた。鍵穴へ差しても、母に教わった回し方では開かない。少し力を入れると、乾いた音がした。 扉の向こうの空気が動き、薄い青のカーテンがわずかに膨らんだ。誰も先に入らないことを確認して、私が敷居を越えた。 部屋は空だった。 ベッドも机も本棚もない。薄い青のカーテンだけが、閉め切った窓の前へ垂れている。 床に小さな傷が残っていた。 子どもの私が裁縫箱を落とした跡だ。母は「澪が急いでいた証拠」と笑った。 傷の前へしゃがみ、掌を近くへ置く。 木は冷たい。 階下で古い床が一度鳴り、それきりだった。 何かを見つけたかった。 母がここにいたと、手に取れる形で確かめたかった。 けれど部屋には、床の傷と窓辺の光しか残っていない。 午後になると、母はこの光の中で帳簿を開いた。 数字は怖くないの、と聞いた時、笑って答えた。 数字は、嘘をついた人の方をあとで困らせるの。 今なら少し分かる。 机の跡へしゃがむと、作り付け収納の下段だけが閉じていた。 固い取っ手を引く。木が軋み、埃が浮く。 中には薄紙に包んだ小さな箱があった。
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第217話 母が残した小箱

 型紙は今、持ち帰れそうになかった。壊さずに広げる自信もなく、管理表には「保留」と書いた。制服の線が見えるように、そっと元の向きへ戻した。 小箱を引き出しから取り出そうとすると、底を包んだ薄紙が木へ貼りついていた。湿気を吸った紙を無理に引けば破れる。相沢が道具を使うか尋ねたが、自分の指で少しずつ剥がした。 紙の裏から、母の石鹸に似た匂いが一瞬だけした。記憶の匂いかもしれない。それでも、その瞬間だけ部屋が空ではなくなった。 管理表の品名で手が止まった。貴金属、と書けばそれまでだった。「白鳥菜月私物・指輪」と記す。相沢が受領控えへ写す間、私は箱の小さな輪を見つめていた。 箱を持ち上げる前に、底板の状態も確認した。木にひびはなく、湿気の跡だけがある。相沢が保存用の箱を提案したが、外側だけ保護し、中の薄紙はそのまま残すことにした。 指輪の刻印も写真に残した。 布へ戻そうとした指輪が、小箱の底へうまく収まらなかった。 布の下に、まだ何か入っている。 指輪を布へ戻した時、底で軽い金属音がした。 指輪とは違う音だった。 布の一部が二重に縫い留められている。端を探ると、薄い空間があった。 めくる。 色の抜けた青いリボン。縁には、母がよく使った白い糸が一本残っている。 その先に、小さな銀鈴がついていた。私の胸元にあるものとよく似ているが、こちらの縁には細い傷があった。 指先へ触れた途端、りん、と鳴る。 温室の雨。怪我をした少年の左肩。うまく結べず母を呼んだ私。 少し遅れて、その鈴だけを欲しがった莉々花の声まで戻った。 証拠袋を探す気にはならなかった。 掌へ置いたまま、傷の位置を見る。 階下から征臣の声がした。「今すぐ話さなくていい。呼ばれるまで下にいる」 私は箱を持って立ち上がった。「来て。……少しだけ」 足音は扉の前で止まり、入ってこない。「そこで、少し待っていて」 扉の向こうで短く息を吸う音がした。 征臣にも、これを見てほしかった。でも扉を
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第218話 呼ばれて来た人

 征臣はゆっくり部屋へ入った。 箱へ近づかず、私の手元を見ている。「見てもいいか」「どうぞ」 私が持ったまま見える位置へ屈んだ。 母の指輪。青いリボン。銀鈴。「菜月さんの指輪か」「普段使いのものだと思います」 征臣が箱の縁へ目を落とす。「ずいぶん使い込んであるな」「料理の時も、つけていたから。……こんなに傷があったんですね」 母の指で見ていた時には気づかなかった。箱の中では、細い傷までよく見えた。 征臣が箱へ手を伸ばしかける。私は薄紙の端を押さえた。「今日は、まだ……」 うまく続けられずにいると、征臣は手を引き、私の持つ箱へ顔を近づけた。 二人で覗き込めば、触れずにもよく見えた。 銀鈴が指の揺れで鳴った。「これは、もう証拠にしなくていいと思います」 征臣は私の顔へ目を移した。 私は鈴を持ち上げたまま、しばらく黙っていた。 持ち帰りたい。それより先のことは、まだ浮かばなかった。 莉々花へ見せることもできる。けれど、何を言われても温室の日は変わらない。「……今は、しまっておきます」 鈴を箱へ戻す。 母が置いた形を崩したくなくて、布の折り目をそのまま残す。 征臣が床の傷をよけ、窓の方へ回った。小さな傷なのに、気づいてくれたのだと思った。「この傷、私がつけました」「裁縫箱か」 驚いて顔を上げる。「前に、君が話した」「思い出したんですか」「ああ。君が、笑って話していた」 事故のあと、戻った記憶を一つずつ確かめるのが怖かった。思い出せないものまで数えてしまうから。 でも、この話を覚えていてくれたことは、ただ嬉しかった。「母に怒られると思ったんです。こんな傷をつけて。でも、先に怪我を見られました」 征臣は床の傷を見て、少し笑った。母の部屋で、彼とこんな話をする日が来るとは思わなか
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第219話 鳴らさなくていい鈴

「今日は、この箱に戻します」 蓋へ置いた指から力が抜けた。 床の傷に目が行った。あれをつけた日の母の顔を思い出し、立ち上がるまでに少し時間がかかった。 指輪と銀鈴は持ち帰る。ただし、置き場所までは今決めない。「基金の準備室へ持って帰ります」 征臣は頷き、箱からはみ出したリボンへ目をやった。「置く場所は、着いてから考えます」 布の端を折り込もうとして、また手が止まった。「今日は、この家から出すことだけ決めたいです」「帰ってからでいい。もう、急がなくていいんだ」 私は頷き、浮いてきたリボンの端を指で押さえた。 折り目のついた古い布は、なかなか思うところへ収まらない。 こんなことに妙に時間がかかった。 蓋を閉め、胸へ抱える。「持つか」「私が持ちます」 角が腕へ食い込む。持ち方を変えると蓋がずれ、結局両腕で抱えた。 床の傷、外された棚、窓際の埃。 見始めればきりがない。 写真に残すものを一つだけ選び、床へ転がっていた画鋲はそのままにした。 立ち上がった拍子に、箱の中で銀鈴が小さく鳴った。 母の部屋を見回した。出る前に、持ち出す物を相沢と確かめなければならない。 閉じた蓋をもう一度開け、相沢と中身を確かめた。薄紙の折り方、布の縫い目、指輪と鈴の位置を撮影し、蓋を閉めて外観も残す。相沢が添えた札には、証拠番号ではなく私物整理番号と書かれていた。「事件資料へ入れなくていいんですね」「澪さんの私物として記録しました。事件との関係を確認する必要が出たら、改めてご相談します」 相沢から箱を受け取り、腕へ抱え直した。「私物」と書かれた札が、薄紙の端に触れていた。 室内の窓を一度開け、湿気を確認する。カーテンが大きく膨らみ、床の埃が細く動いた。母がいた頃、窓を開けるのはいつも午後だった。風が強い日は帳簿の上へ文鎮を置いた。 文鎮は見つからない。なくなった物の数を追い始める前に、窓を閉めた。 管理表には、型紙保留、青い傘現状維持、箱持ち出し、と記録し、その
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第220話 母の指輪をしまう場所

 箱の中で薄紙が、かさりと小さな音を立てた。  今の私が決断できたのは、これを白鳥邸から持ち出すということだけだった。 「帰りましょう」  そう口にした直後、はて、どこへ帰るのだろうと自問する。征臣はその曖昧さには触れず、「車を回す」とだけ短く答えてくれた。 「箱は私が持ちますね」  準備室へ向かい、ひとまず鍵のかかる棚へ収めることにした。ずっとそこに置き続けるかは、まだ決めていない。  玄関へ戻ると、管理会社の担当者が待っていた。私は扉を施錠し、確認のために二度ノブを引く。  返還された白鳥邸の鍵は、手元には残さず管理会社へ預けることにした。 「手元には置かないのか」 「持ち帰ってしまったら、毎晩ちゃんと閉まっているか気になって、何度も確かめたくなると思うんです」  封筒へ滑り込ませる直前まで、鍵を握る指はなかなか開かなかった。 『今後の入室は私か代理人の同席時に限ること。母の部屋に変更を加える場合は事前に連絡すること』  確認書へその条件を自分で書き足し、受領控えを鞄へしまう。鍵は確実に担当者の手へ渡った。  門を出てから、いつもの癖でコートのポケットへ手を入れる。そこにはもう、触れるべき鍵はない。それでも何度も確かめそうになっては手を引っ込め、代わりに抱えた母の箱を強く抱き直した。  管理会社へ鍵を返す際、担当者は今後の建物処分について確認してきた。売却、維持、第三者管理。取締役会の決定とは別に、母の部屋の保存期間だけは私の意見を求めるという。 「三か月間、現状のままにしてください」  永久に残すとも、すぐに処分するとも、今は決められなかった。 「その間に、型紙と書類を整理します。私が立ち会えない日は、誰も中に入れないでください」  担当者が確認書へ追記し、私へ読み上げる。口頭の約束だけで終わらせず、控えへ同じ文言が入ったことをしっかりと確かめた。  車へ戻ると、箱をそっと膝へ置く。征臣が行き先を尋ねた。 「基金の準備室へお願いします」  征臣は静かに頷き、運転手へ住所を告げた。鷹宮邸を保管場所にするつもりは、私にはまだなかった。  信号で止まるたび、箱の中からかすかな音がする。私は膝の上の箱へそっと手を添えた。窓の外の並木が、かつての白鳥邸の塀に代わってどこまでも長く続いている。  準備室には、もう誰もいなかった
last updateLast Updated : 2026-10-15
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