All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話 すがりついた手

 瀬里奈も悠真も黙っていた。莉々花が見回しても、目を合わせる人はいなかった。「違うの。私は、ただ」 莉々花の声が上ずる。「俺に近づけなかったから、有馬悠真さんを選んだのか」 悠真の顔が強張った。 莉々花は振り返らない。「何もしなかったら、私には何も来なかったんだもの。お姉様は最初から持ってた。指輪も、名前も、あなたの記憶も」 久我山がペンを置いた。 録音機の秒表示だけが進む。 莉々花はもう一歩近づき、征臣の袖を掴んだ。整えられた爪が黒い布へ食い込む。 征臣は布を掴む指を外し、腕を下ろした。「俺が好きなのは澪だ。君の望む返事はできない」 涙が落ちた。 父、瀬里奈、悠真へ順に目を向けても、誰も動かない。 昔の癖が胸の奥で動いた。 助けなければ。私が引かなければ。 その前に、一歩だけ後ろへ下がる。 掌へ爪が当たり、白い跡が四つ残った。 莉々花は反射的に悠真の袖へすがる。「悠真さん、違うの。選ばれたかっただけで」 悠真は、掴まれた布を見下ろした。「征臣様」 もう一度呼ぶ。 征臣は振り向かず、出口を見たままだった。 数秒後、低い声が落ちる。「悠真さんの袖を掴んだまま、俺に何を言わせたい」 莉々花の指がさらに強く布を歪ませた。「そんな言い方、ひどい」 会場スタッフが水を持って近づいたが、莉々花は腕を振って拒んだ。紙コップが傾き、水が床へ細くこぼれる。誰かがすぐ拭こうとし、久我山が録音を一時停止すると告げた。 録音の赤い表示が消えても、莉々花の泣き声は変わらなかった。濡れた袖を握ったまま、誰かが口を開くのを待っている。「お姉様なら、分かるでしょう」 私へ向けた声が小さくなる。「分かるよ」 答えた自分の声に、昔の癖が混じっていた。「でも、だからって……私がまた代わるのは違う」 喉が痛んだ。もう一度慰めれば、莉々花は少し泣きやむかもしれな
last updateLast Updated : 2026-10-06
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第202話 振り向かなかった男

「ひどいと言うなら、その手を離せ」 征臣は莉々花の手元を見たまま、私の前へは出なかった。「お姉様のせいよ」 今度は私を見る。「お姉様がいたから、私はずっと――」 言葉を探す口だけが動く。空調の音が、急に近くなった。 征臣は代わりに否定しない。 私は椅子の縁から手を離し、自分の声が出るまで一拍待った。「今の言い方、嫌いです」 床には、莉々花が落とした白いハンカチがある。端にファンデーションの色がついていた。踏まないよう足をずらし、そのまま彼女の前で止まる。「泣かれても、今は黙りません」 濡れた目が揺れた。「でも、家族なのに」「家族って言うなら、私が嫌だって言った時に一度くらい止まってほしかった」 莉々花は首を振る。「お姉様は何も言わない顔で、大事なものを持ってる。私が少し欲しがると、全部私が悪いって」「少し?」「少しよ!」 声が会場の奥まで飛んだ。「最初から分けてくれれば、こんなことにならなかったのに」 叫び終えた肩が上下する。 莉々花は父を見た。瀬里奈を見た。いつもならそこで、私に譲れと言う声がした。今日は、誰も口を開かなかった。 私はハンカチを跨ぎ、莉々花へ手が届かないところで立ち止まった。「もう、あなたが泣いた後を片づけるのはやめます」 莉々花のまつ毛が震えた。「今、慰めるつもりもないし、ずっと責め続けるつもりもないです」 征臣は振り向かなかった。 久我山が休憩を告げた。職員が床のハンカチを拾いかけ、莉々花に声をかける。彼女は答えず、椅子へ座り込んで肩を震わせていた。「私が拾います」と瀬里奈が言いかけたが、手は動かなかった。娘を抱くより先に、周囲のカメラを見た。その視線を莉々花も見てしまった。 悠真は濡れた袖をハンカチで押さえながら、私へ一歩近づいた。「澪、今まで本当に」「今、私へ言わないでください」 足が止まる。「言うなら、録音が再開されてからにしてください。今だけ
last updateLast Updated : 2026-10-06
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第203話 妹が泣き崩れた夜①

「最初から少し分けてくれれば」 莉々花の叫びが消えたあと、会場は妙に静かだった。 母の部屋。指輪。婚約者。「家族でしょう」のあとに、いくつ手放したか数えかけ、やめた。「家族って言えば、何を取ってもいいの?」 莉々花の唇が何度か動く。「お姉様が悪いのに。お姉様がいなければ、私が最初から――」 言葉が最後まで形にならないまま、膝が折れた。 白い床へ崩れ、両手で顔を覆う。 喉の奥から引きちぎれるような泣き声だった。可哀想に見せる角度も、甘い語尾も残っていない。「征臣様……悠真さん……お母様」 呼ばれた誰も、すぐには動かなかった。 清隆は記者席のレンズを見て口を閉じる。瀬里奈は一歩出かけたが、久我山の「録音中です」という声で足を止めた。 悠真は半歩下がった。 その動きを見た瞬間、助けなければ、という古い感覚が胸の奥に浮かぶ。 足は動かなかった。 足の裏だけが、白い床へ貼りついたように重かった。「莉々花さん。私は、もう戻りません」 口にすると膝の奥が震えた。 久我山が聴聞の終了を告げる。椅子を引く音や紙をまとめる音に、立ち去る人たちの足音が重なった。 私は自分のファイルだけを抱えた。 廊下へ出ても泣き声は扉越しに聞こえる。 ファイルを抱え、閉まりかけた扉へ一度だけ目をやった。 扉が閉まる前、職員が毛布を運んでくるのが見えた。莉々花は「いらない」と肩を振り、毛布が床へ落ちる。私はファイルを抱え直した。 拾い上げたのは、職員だった。 出口では、父が追加通知への受領署名を求められていた。瀬里奈は端末を耳へ当て、莉々花から離れていく。「誰もいない」 閉まりかけた扉の向こうで、莉々花の声がした。 足が止まりそうになった。職員がそばにいる。水も、毛布もある。そう数えている自分を冷たいと思ったが、扉へは戻らなかった。 そばを通る職員を呼び止めた。「呼吸が苦しそうなら、医師をお
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第204話 妹が泣き崩れた夜②

 中には征臣が立っていた。白い封筒を握り、角だけが曲がっている。「そこにいたんですね」「ああ。君の顔を見てから帰りたくて」「……もう少し、近くに来てください」 征臣は私のそばへ来て、腕を支えた。触れられると、張りつめていた膝が急に頼りなくなる。「座ろう」 ソファまで一緒に歩いてもらった。資料を置いた途端、彼の袖を掴んでいたことに気づく。「離さなくていい」 征臣は私の前へ片膝をついた。「顔を見せてくれ」 顔を上げると、彼もひどく疲れて見えた。あの夜は契約書を差し出された。今は、空いた手で私の頬に触れている。「戻らずに、来られました」「来てくれてよかった。今日は、もう二人で休もう」 唇が震えた。私は頬にある手へ自分の手を重ね、ようやく息を吐いた。 廊下の向こうで莉々花が何か叫ぶ。征臣が扉を閉めて戻ってくると、隣の席を手で示した。 彼は腰を下ろし、握っていた封筒を差し出した。私はそれを受け取った。 中には誓約書が二枚あった。 私の予定を本人不在で決めない。断られた時、別の言い方で同じ答えを迫らない。「守るため」を情報を隠す理由にしない。 紙に並ぶと、征臣が覚えていた失敗の一覧に見えた。「これ、返事が欲しくて書いたんですか」「……それだけじゃない」 答えだけは早い。「俺がまた勝手にやった時、君がこれを突きつけられるように」 整った書式の余白にだけ、征臣の筆跡で訂正が残っている。 封筒の角は白く毛羽立っていた。指で撫でても戻らない。渡すまで、征臣がどれだけここを握っていたのかと思った。 征臣は二枚目の下端を見た。「記憶が戻り始めた頃に書いたんだ」 テーブルの縁へ指を置き、すぐ離す。「また同じことをするかもしれないって……そればかり考えた」 征臣が紙から手を離した。指先に残った折り目の跡を見ていると、胸が詰まった。「お水、取ってもらえま
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第205話 白紙の封筒

 誓約書には、私を縛る条件がなかった。 婚姻、財産、住む場所、肩書き。書かれていそうな言葉の代わりに、広い余白がある。 二枚目は財産保護確認書だった。 母の帳簿、遺品、基金設立資産、返還される白鳥家関連資産を、鷹宮家や婚姻関係から切り離して守る。 結婚しても、しなくても、効力は変わらない。 その行を何度も読んだ。「……ここ、好きです」 指で条文を押さえてから、耳が熱くなる。「これを考えてくれたことも、嬉しいです」 征臣の視線が上がった。「ただ、今日はちゃんと読めそうにありません」「今日は疲れただろう。持って帰って、落ち着いてから読んでくれ」 私は頷いた。膝の上の紙を揃える手に、ようやく力が戻ってきた。 曲がった封筒の角を指で直す。 征臣は返事を求めなかった。私の手が止まるまで待って、口を開いた。 扉には、白鳥澪様、と印字した紙が貼られている。「結婚しなくても、証言は続ける。必要なら何度でも」 征臣は私を見ていた。返事を待つ時の、あの張りつめた顔ではなかった。「ありがとうございます」 誓約書を膝へ置いた。まだ結婚の返事はできない。それでも、次に会う約束ならしたかった。「証言が終わっても、会いに来てくださいね」「そのつもりだ」「用事がなくても」「用事ならある。君に会いたい」 顔が熱くなって、私は紙へ目を落とした。 財産保護確認書には、管理口座の名義、監査人の選任方法、鷹宮側が支出へ拒否権を持たないことまで書かれていた。征臣の会社が手続きを支援しても、決裁者にはならない。「相沢と外部の弁護士に相談した。ただ、この修正版はまだ見せていない。まず君へ、と言われた」 相沢の顔が浮かび、少し笑った。いつもなら完成してから渡される書類に、今日はまだ、鉛筆で書き込める余白があった。「私が読んでから、相沢さんにも見てもらいます」 征臣が頷いた。 反論されるつもりでいたので、頷かれるとかえって戸惑った
last updateLast Updated : 2026-10-08
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第206話 夫でなくても隣に

 代理人から書類を受け取った旨の短い返信が届き、私はそこで初めて書類から手を離した。 私はまだ白い余白を見た。 結婚の返事より先に、伝えておきたいことがある。紙を膝へ置き、征臣へ向き直った。 白紙の多い紙を見ていると、少し落ち着いた。 まだ書かれていない場所を、急いで埋めたくない。「好きです。征臣さんのこと」 改めて言うと、彼がこちらを向いた。「それと、今すぐ結婚を決められるかは、まだ別で」 紙を持つ指に力が入った。好きなら迷うなと言われたことを、身体が覚えている。「……嬉しいよ。今の言葉は」 征臣は私の手へ触れた。「返事は待つ。俺も、君が好きだ」 私は頷いた。「先に、始めたいことがあるんです。聞いてもらえますか」「聞かせてくれ」 白い封筒の横へ、母のファイルを置いた。「母の基金を始めたいんです」 さっきまで父や莉々花の話をしていた部屋で、明日の話だけが少し場違いに響く。「母の案を、証拠袋に入れたまま終わらせたくないんです」 ファイルの透明な表紙へ照明が白く映る。「でも、白鳥家のために使うのも違う。鷹宮の名前をつけるのも……違うと思う」 征臣の手が内ポケットへ動きかける。 私はその手を見る。 彼は止まった。「資料がある」「見せてください。……今度は、私から頼みたいです」 薄いファイルの一ページ目には、母が生前作っていた奨学制度の草案が複写されていた。支援対象の欄は途中で途切れ、予算額には鉛筆の計算が重なっている。完成した計画ではない。母も迷いながら書いていた。「これは、どこから」「神谷の保管資料にあった。君へ見せるかは、久我山と相談した」 ファイルの角に、付箋の端が覗いていた。 ページの間から、小さな付箋が落ちる。支援は金だけでは足りない。相談できる場所を。母の字だった。 短い一行の先には何もなかった。続きを書こ
last updateLast Updated : 2026-10-08
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第207話 母の名で始める基金

 ファイルには支援対象、奨学金の上限、相談窓口、寄付金の監査方法まで整えられていた。 母の鉛筆書きの次に、きれいな活字が続く。見慣れた鷹宮側の書式に、私はページをめくる手を遅くした。「鷹宮の名前は目立たない位置にした」「消してください」 征臣の指にわずかに力が入る。「母の名前で始めます。代表者は私です」 設立届の欄は空白だった。 誰の名前も先に入っていない。 ペンを持つと、手が震えた。聴聞が終わったという実感は、まだなかった。「見ないでください」 征臣が一歩下がる。 紙へ自分の字を書く。 白鳥澪。 代表欄の中央に自分の名前がある。それだけなのに、胸の奥が少し熱くなった。 達成感は来なかった。代わりに、長く息を吐けた。「基金名は、白鳥菜月女性教育基金」「長いな」「変えません」 支援対象には、進学を断念しかけた女性だけでなく、榊原系列施設で同意のない投薬を受けた患者と家族も加える。 彩花や蓮には、まだ頼んでいない。「まずは二人に、君の考えを聞いてもらおう」 署名のインクが乾くまで、紙を持ち上げなかった。 征臣も触れない。 机の端には、返事をしていない白い封筒がある。 予算欄へ数字を入れる前に、初年度の支援人数を三通り書き出した。五人、十人、十五人。人数を増やせば一人あたりの支援が薄くなる。少なければ、選ばれなかった人へ理由を説明しなければならない。 征臣は人数の案と人員表を見比べた。面談と個人情報管理を担う人数が足りないため、十人で始め、途中の追加は避けた方がいいという。 私は人員表を手元へ寄せ、担当欄を一つずつ見直した。「十人で始めます。でも、急ぐ相談が来たら……二件だけ、別に取っておけませんか」 鉛筆で欄を分ける。 監査は鷹宮系列以外の法人へ依頼し、寄付者は受給者の氏名へアクセスできない。広報写真への参加を支援条件にしない。母の構想にはなかった項目を、今の私が足していく。 署名の
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第208話 基金の設立届

 控室の扉が叩かれ、秘書がタブレットを持って入った。 基金への支援申し出。 金額は大きく、社会貢献や母の志への共感が、読みやすい言葉で並んでいる。 条件欄で、指が冷えた。 基金名には鷹宮家を前面に。白鳥澪の名は協力者欄へ。 さっき署名したばかりの名前を、また端へ戻す条件だった。「この条件では、受けられないと思う」 征臣が画面を見て言った。「私もそう思います。最後まで読んでから返事をします」 彼は頷き、端末を私の方へ向けた。 差出人は長岡コーポレーション。父に頭を下げ、瀬里奈へ花を贈り、母の話題では目を逸らした会社。 オンライン通話をつなぐ。 長岡は、白鳥の名だけでは信用力が弱い、と柔らかく言った。視線は画面の端にいる征臣へ向いている。 征臣の指が腕時計へ触れる。 机の縁で掌を小さく上げた。 今は私が話す、という合図。「母の名を利用する支援は受けられません」「利用ではありません。ただ、白鳥の名だけでは」「今回は辞退します」 自分の声で告げて、通話を切った。 画面が暗くなった途端、断った金額が現実味を持った。初年度予算の何割分だったか、計算しなくても分かる。 端末へ手を伸ばしかけ、設立届の母の名を見た。呼び戻せば、あの人はきっと同じ条件を出す。私は資金繰り表を引き寄せた。 私は資金繰り表を開き、長岡の寄付がなくても何か月運営できるかを秘書と確認した。数字で確かめると、ようやく呼吸が戻った。 通話を切ったあと、秘書が長岡側の提案書を回収しようとした。「残してください」 断った条件も、理事会の記録に残す。「拒否理由は、どう書きますか」 担当者が尋ねる。「名称と代表権への介入。それから、受給者情報を広報へ使える条項です」 提案書の末尾には、奨学生の取材協力を「可能な範囲で求める」と小さく記されていた。私はそこにも線を引いた。 征臣が長岡の過去取引資料を画面へ出そうとする。「相手の会社を調べるのは止めません
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第209話 旧取引先の条件

「白鳥の名だけでは弱い」 その言葉が耳に残り、手元の紙コップを持ち上げては置いた。水はほとんど減っていなかった。「長岡との取引は、別件として確認する」 征臣が言った。「調査担当からの報告は、私にもお願いします」「分かった」 その返事を聞いて、資金繰り表を閉じた。 秘書の端末へ新しいメールが届いた。 奨学生候補辞退のご相談。 母子家庭で、看護系大学を目指している高校三年生の保護者だった。 基金の候補者は白鳥澪の宣伝に使われる、とSNSへ書かれている。学校にも匿名の問い合わせが来た。本人が進学を諦めようとしている。 その下には、本人は看護師になりたいと言っています、とだけ追記されていた。騒動のせいで進学先を変えることまで考えているらしい。 すぐに、大丈夫ですと返したかった。けれど、名前が出るのを怖がっている子へ、こちらの安心だけを押しつけてはいけない。返信欄へ置いた指を止めた。 最後の一文を二度読む。 娘は悪いことをしていないのに、名前が出るのが怖いと言っています。 長岡の言葉が頭から消えた。「私が返します」「澪、水を飲んでからにしよう」 差し出されたコップを受け取った。縁を唇へ当ててから、自分がひどく浅い息をしていたことに気づいた。 返信欄へ、辞退を受け付けました、と打ちかけて全部消した。 メールには、学校名も少女の氏名も書かれていなかった。候補者番号だけ。それでも送信元の地域と進学先の学部を組み合わせれば、探そうとする人は見つけられる。「学校へこちらから連絡すると、本人がもっと目立つ可能性があります」 秘書が指摘する。 すぐ守ると約束したくなる気持ちを抑え、選択肢を書き出した。基金名を出さず弁護士から匿名問い合わせへ警告する。学校には本人の同意後に連絡する。SNSの投稿は記録だけ保全し、今は反論しない。「先に本人へ聞きます。学校へ連絡していいかも含めて」 征臣が頷く。「返事が来るまでは、学校には連絡しない」 対応表の〈学校連絡〉へ、保留と入力
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第210話 辞退しかけた少女

 返信は一行ずつ打った。 名前は外へ出さない。学校への匿名連絡にも、本人と相談して対応する。今すぐ辞退を決めなくていい。話せる時には、面談の場を用意する。 末尾に「守ります」と書きかけ、消した。 四文字だけが、画面の上で妙に大きく見えた。 返事は急がなくて大丈夫です。話したくなった時に連絡してください。 自分の名前を入れて送信する。 数日後に控えた会見の前夜、想定質問は三十七項目まで増えた。鷹宮家の資金、白鳥家との関係、母の病状、莉々花の戸籍、私の婚約。基金の支援内容より、家族の騒動を聞く質問の方が多い。「この五つは答えません」 候補者の地域、学校、家族構成へつながる項目を黒く塗る。 広報担当は、答えを拒むと隠している印象になると言った。「隠します。本人の情報なので」 言い切ると、担当者は想定文を修正した。 会見当日、演台には水が二本置かれていた。一本は常温、一本は冷たい。スタッフが両方用意したと聞いて、常温を取る。 保護者からは、会見を見てから再応募を判断したいと連絡があった。そのメールを印刷した紙を、資料の一番下へ挟んだ。原稿をめくるたび、端が少し覗いていた。 会見直前、保護者から追加のメールが届いた。娘は画面を見ないと言っています。私は見るつもりです。 画面を見ないという少女へも、いつか今日の言葉が届くかもしれない。「支援します」と書いたところを消し、相談できること、選べることをもう一度読み直した。 原稿を閉じ、演台へ向かう前に候補者番号だけを見た。黒く塗った五つの項目を、もう一度指でなぞる。 水を一口飲み、原稿を反対の手へ持ち替えた。紙の角が手汗で少し柔らかくなっていた。 水を飲んでも、口の中は乾いていた。マイクが少し高い。自分で下げてみると、ようやく前の席の人の顔が見えた。 記者会見が始まった。 入口には仮の看板。 白鳥菜月女性教育基金。代表、白鳥澪。 征臣は演台の隣ではなく、一歩後ろに立つ。スタッフに位置を直されても、半歩下がった場所へ戻った。 私は基金の目的、個人情報の保護、
last updateLast Updated : 2026-10-10
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