All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話 鍵を置く場所

 翌朝、基金準備室へ戻ると、机の上には応募書類の束が積み上がっていた。  黄色い付箋が何枚も突き出している。逆さに貼られた一枚だけが妙に気になって、私はまずそれを直した。  一番上に置かれていたのは、一度は辞退しかけたあの少女の申請書だった。前より少し強い筆圧で、最後までしっかりと名前が書かれている。  その下にはスタッフのメモが添えられていた。 『再応募希望。本人確認済み。保護者同席不可の可能性あり』  さらに赤いペンで、学校への匿名問い合わせについて追記されていた。私の騒動は、もう私個人の枠を超えて、周りにも影響を及ぼし始めている。  電話番号を確認する。最後の二桁を読み違えてしまい、もう一度最初から目で追った。  ふと、入口で気配がした。  振り向くと、征臣が立っている。 「座らないんですか?」 「考え事をしているようだったから、邪魔にならないようにと思って」 「立って待たれる方が、かえって落ち着きませんよ」  少し迷ったあと、彼は向かいの椅子を引いて座った。  私は申請書の赤いメモを指でそっと押さえた。 「名前だけ元に戻して、それで終わりにはしたくないんです」  口にしてから、ずいぶん大きなことを言ってしまった気がした。けれど、紙の上の少女の名前を見ていると、その先でまた彼女の手が止まる瞬間まで想像してしまうのだ。  家で無理だと言われた時。学校へ知られた時。そして、一度失敗した時。 「……そういう時に、もう一度だけでも書き直せる場所にしたいんです」  掌の中で、準備室の鍵を裏返した。冷たい金属の感触が指の腹に当たる。 「続けたいです。怖いですけど……」  そこで言葉が途切れた。征臣はあえて続きを促そうとはしなかった。  隣のプリンターが低く唸り、一枚の紙を吐き出した。その日常的な音のおかげで、少しだけ呼吸が深くなる。  私はまず面談日を決めた。赤いメモは捨てず、今後のために最後のページへ回しておく。  申請書の家族構成欄には空白があった。スタッフは記入漏れとして赤線を引いていたが、私は規程を開いて確認した。 『所得確認には必要。ただし事情がある場合は、面談で代替できる』  赤線を消し、代わりに黄色い付箋を貼った。保護者の同意書はまだ届いていない。弁護士と学校の相談員へ連絡し、学校側へ直接確認を入れる前に、も
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第222話 面談室の椅子

 最初の面談は、予定より十五分早く始まった。  少女は入口に近い方の椅子を選んで座った。制服の袖にできた毛玉を、落ち着かない様子で爪の先で何度も触っている。母親の姿はない。学校の教師が、「本人だけで話したいそうです」と廊下で申し訳なそうに頭を下げた。  静かに扉が閉まる。 「この前は、すみません。辞退するとか言っちゃって」 「私も、お返事を送るまで何度も手が止まりましたから、お気になさらないで」  申請書の角を揃えながら穏やかに答えると、少女が少しだけ顔を上げた。 「ネットに……私のことも出ちゃうんじゃないかって、不安で」 「名前は絶対に出しません。外部から問い合わせが来ても、まずここでしっかり止めますから」  言い切ってから、少し語気が強すぎたかもしれないと反省した。けれど、少女の口元がほんの少しだけ緩んだのが見えた。 「白鳥さんも、怖かったですか」  指先が、また袖の毛玉を探る。  私は申請書をそっと伏せた。 「ええ、怖かったですよ」  それだけ言って、小さく息を吸い込んだ。 「正直に言うと、今もその怖さが完全になくなったわけじゃないんです」  少女が不思議そうにこちらを見る。 「でも、今日は少しだけましです。あなたがこうして来てくれたので」  その言葉に、毛玉から指が離れた。  しばらくして、少女がぽつりと言う。 「怖いまま、書いてもいいですか」 「はい、もちろん」  ペンを一本、机の中央へ向けて滑らせた。 「急がなくていいですからね」  廊下から、スタッフの対応する声が聞こえてきた。匿名電話を毅然と断っている声だ。白鳥家、妹、騒動を利用した基金……棘のある言葉の切れ端だけが、扉の隙間から滑り込んでくる。  少女の顔色が一瞬で青ざめた。 「私のせいで――」 「あれは、こちらの仕事ですから気にしないで」  自分でも驚くほど、静かで落ち着いた声が出た。 「あの電話は、優秀なスタッフに任せておきましょう」  私は立ち上がり、半開きになっていた扉をしっかりと閉めた。席に戻ってからも、すぐには続きを促さず、彼女がペンを持ち直すのをじっと待った。 「……続き、聞かせてもらってもいいですか」  小さく頷いてから、彼女のペン先がようやく紙へ触れた。  ガラスの向こうで征臣の影が動くのが見えたが、扉は開かなかった。
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第223話 白紙の端

 面談が終わり、大切な申請書を金庫へしまった。  分厚い扉を閉めると、鍵の回る音が静かな室内に小さく響いた。机の端には、公開聴聞のあとに受け取った白い封筒がまだ残っている。  入口で、征臣の足音が止まった。 「今、あの続きを書こうと思います」  引き出しから誓約書を取り出す。彼の署名の下には、まだ広すぎるほどの余白が白く残っていた。征臣が静かに椅子を引く。 「そのための余白だからな」  私はペンを取り、最初の一行を書いた。 『仮の段階でも、私に関わる予定は隠さないこと』  少し右へ傾いた字になってしまったが、直そうとしてやめた。今の自分のありのままの字でいい。  二つ目を書く。 『一人で考えたいと言った時は待つこと。助けてほしいと言った時は、遠慮しないこと』  書いているうちに、なんだか自分がひどく面倒で我が儘な人間に思えてきた。 「……こんなにたくさん条件を書かせて、面倒じゃありませんか?」  征臣はすぐには答えず、書かれた文字を上から一つずつ丁寧に読み直しているようだった。 「少し、堪えるな」 「え?」 「これほど書かせるようなことを、俺はしてしまったんだと、今さらながら痛感している」  私のペン先が止まった。てっきり呆れられるか、軽く謝られるだけだと思っていたから、返す言葉が見つからなかった。  気を取り直して、三つ目を書く。 『妻だから。白鳥家だから。そんな理由で、私の返事を飛ばさないこと』  書き終えると、部屋が妙に静かになった。 「……やっぱり、嫌になりました?」 「違う」  征臣は紙から目を上げないまま、静かに首を振った。 「ちゃんと読んでいるだけだ」  それから彼は私の手からペンを取り、追記欄へ一文だけ書き加えた。 『破った場合、澪はいつでもこの約束を白紙に戻せる』  それを見た瞬間、胸の奥が少しざらついた。「白紙」という言葉には、これまでの経験からまだどこか怖さがある。 「俺からは、これを足しておきたい」  彼が言った。もう一度、机に指輪を置いて関係を終わらせる日を想像したくはなかった。自分から終わらせられると分かっていても、私は征臣と別れたいわけではない。すぐには頷けず、書かれた一文へ指を置いた。  紙は薄い。この一枚で何かが絶対的に守られるわけではないと分かっている。それでも。 「…
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第224話 帰る場所の条件

「実は、まだあるんです」  誓約書を閉じようとした彼を遮って言うと、征臣は黙ってもう一度ペンを握った。 『泊まる場所や帰る時間を、勝手に先に決めないこと。迷っている時に、何度も急かして答えを聞かないこと』  口に出して言ってみると、どちらもずいぶん子どもっぽくて恥ずかしい気がした。けれど、実際に書かれた文字を見ると、心の底から少しだけ安心できた。 「これ、私がいつか本当に白紙にすると言ったら、どうします?」  聞いたあとで、すぐに後悔した。まるで彼の気持ちを試すような、ずるい聞き方だったからだ。  征臣は静かにペンを置いた。 「嫌だよ、それは」  予想以上に早くて、まっすぐな返事だった。 「……でも、君がそう決めたのなら、受け止める」  私は紙を見つめたまま、しばらく顔を上げられなかった。 「俺が黙っていたら、君は、俺が忘れたと思うか」 「少しは、そう思うかもしれません」  正直に答えると、彼は小さく息を吐いた。 「だから、あなたからもきちんと言葉にして話してください」  そのあとに続く言葉は、口にするのが少し難しかった。 「私も……ちゃんと聞きますから」  征臣の口元が、安堵したようにわずかに緩んだ。  その時、机の上の端末が震え、静寂を破った。相沢弁護士からの連絡だ。  送られてきたのは、瀬里奈側が発表しようとしている声明案だった。一連の問題を「家族間の些細な誤解」と片付け、私が白鳥家の名を利用して騒ぎ立てているという内容だ。画面を見た瞬間、無意識に奥歯を強く噛み締めていた。 「一緒に見てください」  私が言うと、征臣は椅子を私の隣へ寄せた。 「……でも、返事は私が自分で書きます」 「分かった」  誓約書の隣へ、冷酷な声明案を並べて置く。家族間の誤解。感情的な対立。善意の行き違い。使われている言葉は柔らかいのに、読み進めるほどに「誰が何をしたのか」という事実が曖昧にぼやかされていく。  私はキーボードを叩き、最初の一文だけを打った。 『これは誤解ではありません。記録で確認された事実です』  そこで手が止まってしまった。画面の白さが、急にまぶしく感じられる。 「続きは、明日にします」  下書き保存のボタンを押す。作成者欄に「白鳥澪」と表示されているのを確かめてから、画面を静かに閉じた。  征臣は椅子を戻さ
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第225話 返事の前に

 発表の会場として、あの最初の婚約披露宴が行われたホテルをもう一度見に行くことにした。  車の中で、右手の親指で母の指輪を静かになぞる。傷の多い、小さな銀の輪。光が当たるたび、見落としていた知らない傷がまだ浮かび上がってくる。 「怖ければ戻るぞ」 「怖いです」  私の即答に、征臣の肩がわずかに動いた。彼は言葉を返す代わりに、停まった車のドアへスッと手を伸ばす。彼の指が一度滑ったのを見て、私は「大丈夫です」と彼を制し、自分でドアを開けた。  到着する少し前、会場の担当者から確認の電話が来ていた。瀬里奈の秘書を名乗る人物から、イベントの名称を『白鳥家復興記念レセプション』へ変更するよう執拗な要求があったという。  その言葉を聞いた瞬間、喉の奥がヒヤリと冷えた。白鳥家。復興。記念。どれも、私が望んだ言葉ではない。 「……でも、変更はしません」  スマートフォンを握る手に、ぎゅっと力がこもる。 「『白鳥菜月女性教育基金設立準備会』のままでお願いします」  通話を切った後も、手の震えが収まらず、しばらく端末を下ろせなかった。  ホテルのエントランスに足を踏み入れると、あの夜とまったく同じ香りがした。大きすぎる装花。磨き上げられた大理石の床。靴音を吸い込む分厚い絨毯。視覚よりも先に、記憶のほうが身体へ生々しく戻ってくるようで、足取りが少し遅れた。 「澪」 「大丈夫じゃないです」  正直に口にすると、それだけで少しだけ気持ちが楽になった。 「……でも、大丈夫です。行けます」  自分でも矛盾した変な言葉だと思ったが、征臣は聞き返さなかった。ドアノブから手を離し、私が自分のペースで歩き出すのをただ静かに待ってくれている。今の私には、彼のその無言の支えが十分だった。  指輪から手を離し、長い廊下を進むと、やがて案内板が見えてきた。 『代表発起人 白鳥澪』  一文字ずつ、ゆっくりと目で追う。誤字はない。私が頼んだ通りの、私の名前だった。 「名前は、頼んだとおりになっているか」  征臣が優しく尋ねる。 「ええ。そこですか?」 「こういう時に、もっと気の利いたことが言えればいいんだがな」  困ったような彼の横顔を見て、張り詰めていた息が少し抜けた。 「……何も言わなくていいです」  少し考えてから、付け足す。 「今はただ、そこにいてくださ
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第226話 席次表にある名前

「代表発起人席は中央でございます。右隣を鷹宮様のご同伴席として――」  説明するスタッフの語尾が、途中で柔らかく濁った。  私は隣の征臣を見た。彼は何も言わず、私の決断を待っている。 「ご同伴席ではなく、『運営協力者席』でお願いします」  スタッフのペンがバインダーの紙を素早く走った。その事務的な音を聞いているだけで、少しだけ肩の荷が下りる気がした。誰かの一存で私の席が勝手に動かされるのではなく、私が頼んで、私の意志で書き直される音だからだ。  別の紙が差し出された。白鳥家関係者を名乗る人物から、「鷹宮の席を上座へ、白鳥澪は隣の控え席へ移すように」と執拗な連絡があったという。  控え席。  胸の奥で、あの忌まわしい古い席次表が開く。端へと追いやられた自分の名前。消された婚約者の文字。私だけが知らされていなかったあの紙。  征臣の顔からスッと温度が消えたのが分かった。それでも、彼は口を挟まなかった。 「その連絡は無効です」  私は修正欄へ、力強く自分の名前を書いた。 「席次は、代表である私が決めます」  会場はまだ設営作業の途中だった。椅子のカバーは半分外れ、白いクロスはテーブルの上に畳まれたままだ。照明もすべては点いていない。華やかに完成していない状態の方が、今の私にはかえって心地よかった。 「こちらの会場、披露宴会場としてもご利用いただけますよ」  スタッフが何気なく営業の言葉を口にした。その瞬間、私の指先が硬直する。 「披露宴には使いません」  少しだけ声がかすれたが、言い直すことはしなかった。 「ここは、最初の奨学生を迎えるための場所です」  まだ何もない空の壇上を見つめる。マイクの位置も、すべて自分で決める。中央に基金代表である私。その左右に、奨学生代表と外部監査人。鷹宮家の役員と寄付者は、一列後ろの席へ配置する。 「寄付額の大きい順に前列へ、というご要望も届いておりますが」  スタッフが別のメモを取り出した。私は思わず乾いた笑いを漏らしそうになった。やはり、そういう面子を気にする人たちはどこにでもいる。 「支援を受ける学生を見せ物にする会ではありません」  私はそのメモの角をピシャリと押さえた。 「運営に責任を持つ人間を、前列へお願いします」  スタッフが納得したように頷き、バインダーの留め具がカチンと鳴る。
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第227話 披露宴ではなく

 会場スタッフが、前回の披露宴の席札を保管したクリアファイルを持ってきた。  一番上に、二つの名前が並んでいる。  有馬悠真。白鳥莉々花。  紙束を開いた拍子に、折りたたまれた小さなメモが床へひらりと落ちた。拾い上げて開く。 『主役変更済。澪様へは当日説明。混乱時は「姉の配慮」として処理』  しばらくの間、その文字の意味が頭に入ってこなかった。  配慮。  あの家で、何度も聞かされた言葉だった。譲ることも。理不尽に黙ることも。邪魔にならないよういなくなることも。いつの間にか全部、私の「美しい配慮」ということにされていたのだ。 「それ、先に私に見せてください」  征臣は手を出さず、私が読み終えるのを待ってから言った。私は自分で最後までその残酷なメモを読み切る。 「このメモも、重要な資料として残してください」  スタッフが、用済みとなった古い席札の処分について尋ねてきた。私は手に取ってみる。思っていたより、ずっとペラペラで普通の紙だった。厚くもない。重くもない。こんなただの紙切れ一枚で、あの夜の私の居場所は決められ、奪われていたのかと思うと虚しさがこみ上げた。 「一枚、いただけますか」  私は未使用の席札とペンを受け取った。  白鳥澪。  書き慣れたはずの自分の名前なのに、最後の一画が怒りで震えてしまった。それが悔しくて、もう一枚新しい紙をもらって書き直す。 「一枚目は、捨てるのか」 「……残します」  私は震えた字の方を見つめながら答えた。 「使うのはきれいに書けた二枚目ですけど」  スタッフが、完成した新しい席次図を広げて見せてくれた。中央の席が、私のためにぽっかりと空けられている。少し考えてから言った。 「端の席でもいいです」  スタッフが驚いたように顔を上げる。 「ただ、私の名前を、私の知らないところで勝手に動かさないでください」  差し替える時は、必ず私本人に確認すること。電話の指示だけでは絶対に変更しないこと。その条件が議事録に書き留められていくのを見ながら、私は新しい席札の角を指で丁寧に伸ばした。それを、古い席札の上にそっと重ねて置く。 「元の場所に戻ってきた、というのとは少し違うんです」  征臣が黙って私の言葉を待つ。 「あの夜の華やかな場所を取り返したいわけじゃないんです」  うまく言葉が見つから
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第228話 贈り物を開く

 封筒から少し覗いていた席札を、奥へと押し込んだ。震えた一枚目の文字は外からは見えなくなる。それでも、この中にあると分かっているだけで心が引き締まる。  会場の確認が終わる頃には、窓の外の光はかなり西へ傾いていた。装飾が何もないがらんどうの会場は、昼間よりもずっと広く見える。壁際の養生テープだけが、端を少し浮かせている。  ふと見ると、征臣が小さな箱を持って立っていた。  ドクン、と胸が変な音を立てた。 「それ……私にですか?」 「ああ」 「今日?」 「今日、渡したかったんだ」  征臣の膝が、わずかに床へ沈みかける。私は反射的に手を出した。 「待って」  彼が動きを止める。 「跪かないでください」  一瞬、征臣の顔に困惑の色が浮かんだ。私は彼の腕へそっと手を添える。 「顔が遠くなってしまうので」  言ってから、自分がずいぶん恥ずかしいことを口にしたと気づいた。 「ここで、見せてください」  征臣はゆっくりと背を伸ばした。最初にこの会場で彼の手を取った夜、私はその返事の先に何が待っているのか全く知らなかった。今もすべてが分かるわけではない。それでも、その小さな箱の中身は早く見たかった。それくらいの欲求は、もう隠さなくてもいい気がしたのだ。  スタッフへ、少しだけ席を外してほしいと頼む。重い扉が閉まり、廊下を台車が通るガラガラという音が遠ざかっていく。 「結婚の正式なお返事は、まだちゃんと考えたいです」  先に釘を刺すように言うと、征臣は素直に頷いた。 「ああ」  それだけだった。 「今日は、ただ君に渡したかっただけだ」  箱を持つ彼の親指が、ベルベットの縁を何度もなぞっている。 「店で見つけて……どうしても君につけてほしいと思ったんだ」  少し間が空いた。 「何度か、見に行った」 「何度か?」 「一度では決められなかったからな」  高級な売り場で、無言のままショーケースを睨み続ける征臣の姿を想像した。自然と頬が緩む。 「見せてください」 「気に入ってくれるといいんだが」  珍しく、少し自信がなさそうな声だった。  私は席札の入った封筒を机へ置いた。二人で、同じ高さから箱の中を覗き込む。  パカッ、と蓋を開ける。  指輪は入っていなかった。  細く繊細な銀の鎖。その先に、小さな鈴のモチーフが揺れてい
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第229話 明日の朝も

 征臣の少し不器用な指が、留め具を探す。直接肌に触れないように気遣っているのが分かるせいで、かえって彼との近さを意識してしまった。 「近いですね」 「近づかないと、うまく留められないからな」  少し間を置いてから、彼は小さな声で尋ねた。 「……嫌か?」 「そういう意味じゃないです」  答えた途端、自分の顔がカッと熱くなるのが分かった。背を向けたまま、髪をもう少し持ち上げる。首筋へ彼の指が一瞬だけ触れ、留め具がカチリと小さく鳴った。 「できたぞ」  壁の鏡の中で、彼と目が合った。私は胸元の銀鈴へそっと触れた。 「似合ってますか?」 「ああ、よく似合う」  今度は、征臣が目を逸らさなかった。 「君が身につけている方が、店でショーケース越しに見た時よりずっといい」  思わず鏡から振り返り、本人へ向き直る。 「そういう歯の浮くようなことも言えるんですね」 「少しは、うまくなっただろう」 「自分で言いますか、それ」  私がクスクス笑うと、征臣もつられて少し笑った。その柔らかな顔を見たら、さっきまでひどく気にしていた会場の雰囲気も、過去の席札の因縁も、一瞬だけ遠い世界のことのように感じられた。  彼の手が私の頬へ近づき、途中で止まる。今度は、私の方からそのわずかな距離をなくした。  唇が重なった瞬間、胸元で銀鈴がチリッと小さく鳴った。離れると、征臣も穏やかに笑っていた。どちらからともなく、もう一度だけ顔を近づけた。  ホテルを出ると、夜の空気はひんやりと冷たかった。車の行き交う音。遠くの笑い声。濡れた舗道を踏む靴音。歩くたび、胸の鈴がコートの内側へ触れる。音はほとんど聞こえない。それでも、胸元には確かな小さな重みがあった。 「帰ろう」  征臣の言葉に、私の足が止まった。  帰る。その言葉を聞くたび、以前の私は場所のことばかり考えていた。白鳥邸か。鷹宮邸か。それとも自分一人の部屋か。今夜泊まる場所は、もう自分の中で決めている。それでも、言葉にして伝えたいことがあった。  車寄せの端で、見知らぬ男がスマートフォンをこちらへ向けているのに気づいた。征臣の足が鋭く前へ出る。 「待って」  私が腕を掴むと、彼はピタリと止まった。明日には、またネット上に都合のいい見出しが躍るかもしれない。何かを奪った女。御曹司へ取り入った女。家族を捨てた
last updateLast Updated : 2026-10-20
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第230話 銀鈴は未来に鳴る

 劇的な大きな出来事よりも、名前のつかないような穏やかな時間の方が増えた。  朝食のトーストを半分ずつ交換した。仕事帰りに待ち合わせて、観る映画を選ぶだけで一時間も使ってしまった。結局どちらの映画も見ずにソファで眠ってしまい、翌朝、つけっぱなしのテレビ画面を征臣が苦笑しながら消した。  約束していた二人の写真も撮った。征臣がカメラのレンズばかり真剣に見つめているので私が笑ったら、つられて彼まで吹き出してしまった。シャッターが切られたのは、ちょうどその瞬間だった。  その写真は基金の机には置いていない。私の部屋の、朝起きると一番最初に目に入る場所に飾ってある。  ある夕方、最後の相談者を笑顔で見送ると、征臣が事務室へやって来た。 「今日は、随分早く終わったな」 「はい。帰りに少し寄りたいところがあるんです」 「どこへ?」 「あとで言います」  彼は向かいの椅子へ腰を下ろした。いつもと同じパイプ椅子なのに、なぜか今日の彼は背筋がピンとまっすぐだった。 「その前に、少し話してもいいか」  私は片付けていた鞄を机へ戻した。 「どうぞ」  征臣は膝の上で手を組み直した。一度。また一度。指だけが落ち着きなく動いている。それを見ているうちに、私のほうまで自然と姿勢を正していた。  やがて、征臣が深く息を吸い込んだ。 「澪」 「はい」 「俺と結婚してほしい」  その言葉を、私は自分が思っていたよりずっと静かな気持ちで聞いた。もっと胸が高鳴ってパニックになると思っていた。もっと何か、ドラマチックで特別な音がすると思っていたのだ。  実際には、窓の外を路線バスが通り過ぎ、プリンターの冷却ファンがブォンと止まっただけだった。  返事をしようと口を開くと、言葉より先にふふっと笑ってしまった。同時に目の奥がツンと熱くなる。征臣の顔が涙で少し滲んだ。 「……はい」  声にした途端、涙が頬へ一粒落ちた。拭う前に、また笑いがこみ上げる。 「私も」  少し息を整える。 「あなたと結婚したいです」  力強く頷いた拍子に、胸元の銀鈴がチリッと鳴った。とても小さな音だった。  征臣はしばらく無言で私を見つめていた。それから立ち上がり、両手で私の手をすっぽりと包み込む。いつもより少しだけ力が強い。 「……よかった」  その安堵の一言で、彼もひどく怖か
last updateLast Updated : 2026-10-20
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