All Chapters of 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話 指輪の店

 左手の薬指にある母の指輪が、夕方の光を受けて細く光っていた。  今夜は征臣と、婚約指輪を選びに行く。昨日の夕方、古い事務室で「俺と結婚してほしい」と言ってくれた人。今朝は焼けたパンを、二人で半分ずつ分け合った。その人と一緒に指輪を選ぶのだと思うと、仕事中にも鞄に入れた店の案内状が気になって仕方がなかった。  それだけのことなのに、事務室の鍵を閉める指先が少しだけ震えていた。  胸元で銀鈴が小さく鳴った。私は扉の取っ手をもう一度引いて、ちゃんと鍵がかかっていることを確かめた。鞄に鍵をしまうと、今度こそ振り返らずに廊下へ向かった。  四階建ての古いビルを出ると、四月下旬の風が少し冷たく頬を撫でた。  通りの向こう側に、黒いセダンが停まっている。運転席ではなく、歩道に近い場所で鷹宮征臣が立っていた。チャコールグレーのスーツの上に薄いコートを羽織り、腕時計を見るでもなく、建物の入口へ視線を向けている。  私の姿を見つけると、彼の目元がわずかに緩んだ。 「待たせましたか」  歩み寄って尋ねると、征臣は首を横に振った。 「今来たところだ。仕事は片づいたか」 「はい。今日の分は、全部棚へ入れて鍵をかけました」  鞄の内ポケットにしまった事務室の鍵を、指先で一度だけ押さえる。明日も、ここへ戻ってくる。そのために自分で鍵をかけた。  征臣は私の歩幅に合わせて歩き出し、車のドアを開ける前に一度だけ私の手元を見た。 「店の予約は六時にしてある。少し時間があるが、まっすぐ向かっていいか」 「はい。……少し緊張していますけど」  正直に言うと、征臣はドアに添えていた手を止め、真顔で私を見た。 「俺もだ」  真顔でそう言われるとは思わず、私は笑ってしまった。助手席へ乗り込もうとしていた足も、思わず止まる。 「副社長でも、指輪のお店は緊張するんですか」 「そういう店に、誰かと一緒に行くのは初めてだ」  先日、銀鈴のペンダントを選ぶために一人で何度も店へ足を運んだと話してくれた時の横顔を思い出す。売り場のガラスケースの前で、眉間に皺を寄せて立ち尽くしていた姿を想像すると、指先に入っていた余計な
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第232話 小さな青

 私がスタッフではなく隣の征臣を見て言うと、彼は迷わず頷いた。「ああ。菜月さんの指輪を外させるつもりはない。別の指につけてもいいし、重ねてもいい。結婚指輪は、式の前にまた二人で選ぼう」「では、今日選ぶのは、あなたと約束したしるしですね」 口にしてから、耳の奥がじんわり熱くなった。 征臣は何も言わず、トレイの一番左にあるデザインへ視線を落とした。試着用のリングがいくつも並ぶ中で、私が最初に目を留めたのは、プラチナの細い腕に小さな石が一粒だけ留められた、引っかかりのない形だった。華やかすぎる装飾はなく、けれど地金の曲線が指に馴染むように柔らかく絞られている。「……これが、綺麗です」 私が小さく指差すと、スタッフが白い手袋でそれを取り上げ、私の前へ差し出した。 征臣が手を出さずに見守っている。私は自分でそのリングを受け取り、左手の薬指へ通してみた。母の指輪を右手の薬指へ移してから通すと、少しだけ緩い。「もう一つ下のサイズもございますよ」 スタッフが半号小さいサイズを出してくれる。今度は関節をすっと通り、根元でぴたりと収まった。冷たい金属が、数秒で肌の温度に馴染んでいく。「どうですか」 手を傾けて見せると、征臣は指輪をじっと見た。難しい契約書を読む時にも、ここまで真剣な顔をしていただろうか。「似合う」 一拍置いて、彼はトレイの真ん中にある別のリングを指先で示した。そちらは、中央の石の脇に、ごく小さな青い石が一つだけ添えられたデザインだった。「こっちも、君に似合うと思う」 私の返事を待ちながらも、彼の視線は青い石へ戻っていく。「青、ですか」「ああ。……ただ、少し青が明るすぎるか。君が持っている青は、もう少し深い色だろう」 母の図案帳の糸や、青い手袋、私が好んで選ぶブラウスの色を思い浮かべているらしかった。宝石店のスタッフを前にして、色の彩度について監査報告のような口調で検討している彼がおかしくて、私は唇の端を押さえた。「何だ」「いえ、すごく真剣に考えてくださっているなと思って」
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第233話 約束の翌朝

 言い終えて、征臣を見た。彼は私が選んだ指輪を、もう一度確かめるように眺めている。 征臣の表情が和らいだ。「それにしよう。サイズも、さっきの号数でいいか」「はい。このサイズでお願いします」 注文書に仕様が書き込まれていく。完成までには通常六週間ほど、工房の枠の空き具合によってはもう少し早く仕上がることもあるという。今すぐ持ち帰れないことが少しだけ名残惜しくて、私は試着用のリングをゆっくり外し、右手に移していた母の指輪を元の左手の薬指へそっと戻した。 会計を済ませ、控えの封筒を二人で受け取って店を出ると、外はすっかり夜の匂いになっていた。 舗道を並んで歩きながら、私はバッグの中の注文控えを確かめるように抱えた。「届くまで、少し時間がありますね」「ああ。だが、待つ時間があるのも悪くない」 征臣が歩道の内側へ私を誘導しながら、ふと前を向いたまま言った。「指輪が届く頃には、季節が変わる。……式の日取りを考えるのも、楽しみだ」 征臣が先に式の話をするとは思わなかった。私は繋いだ手を少し握り直した。彼がその日を楽しみにしてくれているのが嬉しかった。店を出てからずっと、彼は注文控えの入った封筒を気にしていた。今も私の手を握りながら、ときどき嬉しそうに口元を緩める。仕事中にはあまり見ない表情だった。「私もです。式のこと、これからゆっくり相談したいです」 繋いだ手のひらに、彼の温かい指の力が返ってきた。 翌朝、白鳥菜月女性教育基金の事務室へ行くと、古い複合機がウォーミングアップの音を立てていた。 机は三つ。奥の耐火棚には、支援記録が増えている。「おはようございます、澪さん。今日もそのプリンター、ご機嫌斜めよ」 先に来ていた宮野彩花さんが紙束の角を揃えて顔を上げた。机には、昨日の面談記録と、まだ飲んでいないコーヒーが並んでいる。「おはようございます、彩花さん。昨日は三枚目まで機嫌よく動いてくれたんですけど」「三枚で褒めてたら事務室が回らないわよ。ほら、これが今期の奨学生十人の入金確認と、榊原系列の施設で被害に遭った家族からの
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第234話 厳しい眼差し

「おはようございます。白鳥さん、宮野さん」 入ってきたのは、今年の一月に理事会を立ち上げた際、独立理事をお願いした佐伯真紀さんだった。 四十八歳になる彼女は、長年、奨学金や支援団体の監査に携わってきた専門家で、濃紺のジャケットに飾り気のない眼鏡をかけている。久我山さんの推薦候補の中から、どの会社ともしがらみのない人として私がお迎えした理事の一人だ。「おはようございます、佐伯さん。お忙しいところ、ありがとうございます」 椅子を勧めると、佐伯さんは軽く会釈して腰を下ろし、鞄から確認用のチェックシートを取り出した。「朝の短い時間で構いません。春までの活動報告と、これからの外部との連携について、事務室の体制を見ておきたくて」 佐伯さんの声は静かで、無駄がない。私を若い代表として見下すこともなければ、甘やかすこともない。必要な数字を確かめるまで、佐伯さんは次のページへ進まなかった。「こちらが、外へお出ししている支援実績のまとめです。学校名や地域はすべて伏せて、人数と分野の内訳だけを載せています」 私が用意していた用紙を渡すと、佐伯さんは眼鏡の奥の目を細めて一行ずつ確かめた。「結構です。個人の身の上話を出さずに全体の数字だけで報告する形は、この基金の約束とも合っていますね。ただ、白鳥さん」 佐伯さんが紙から目を上げ、まっすぐに私を見た。「相談件数が先月の倍近くになっていますね。今の人数で、面談記録の管理も外部との連絡も回せていますか。善意だけでは、支援を必要としている人を守りきれませんよ」 静かな指摘に、背筋がすっと伸びた。「はい。今月から事務の専任スタッフを一人増やしました。外へ出す書類には、必ず私か監査の先生の確認を入れるように整えています」「実際にその手順が回っているか、来月の確認でも見せてくださいね」 佐伯さんはチェック欄に正確な字で日付を書き込み、余計な雑談をせずに席を立った。扉が閉まったあと、彩花が小さく息を吐く。「相変わらず手厳しいわね。でも、ああいう人が理事にいてくれる方が、変な寄付者に絡まれた時には助かるわ」「ええ。耳が痛いことも全部、正しいですから」
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第235話 届いた提案

「差し入れ。医療被害の家族面談、今日のお昼過ぎにも一件入ってるだろ。昼飯を抜くと彩花さんの機嫌が悪くなるから」「私のせいにしないでちょうだい。事実だけど」 彩花が苦笑してコーヒーを淹れに立つ。蓮は私の向かいのパイプ椅子に座ると、封筒から法的照会の控えを出した。「榊原の旧病棟にいた患者さんの家族から、また相談が来た。カルテの開示は俺が引き受ける。澪ちゃん、生活面の相談まで一人で抱え込むなよ」「分かっています。面談の同席はしますけど、医療面の整理は彩花さん、法的な手続きは蓮さんにお願いします」 私が役割表にペンで印をつけていると、机の上の郵便受けトレイに置かれていた一通の封書に目が留まった。 差出人は、教育支援事業団体「明日灯ネットワーク」。代表・柏木志穂という名前と、共同支援事業に関するご提案、という添え状が同封されている。 封筒の厚みからして、単なる挨拶状ではなかった。私はペーパーナイフを手に取り、新しい紙の端を静かに切った。 三日後の午後、柏木志穂は約束の時刻の五分前に基金の事務室を訪れた。 四十一歳になるという彼女は、明るいベージュのパンツスーツを機能的に着こなし、髪を後ろでひとつにまとめていた。久我山さんのような威圧感はないものの、現場を何年も動かしてきた人特有の、迷いのない歩調で室内へ入ってくる。「お時間をいただきありがとうございます、白鳥代表。明日灯ネットワークの柏木志穂です」 差し出された名刺を両手で受け取る。企業寄付の仲介や大学との連携支援で十年以上の実績がある団体だということは、事前に相沢さんや彩花から聞いていた。「白鳥菜月女性教育基金の白鳥澪です。先日は丁寧なご提案書をありがとうございました」 パイプ椅子に腰を下ろした柏木さんは、中古の机や古い複合機を見回しても、少しも侮るような顔をしなかった。むしろ、限られた予算で実務を回している現場を見る目つきで、手元のタブレットと印刷資料を机に広げた。「率直にお話ししますね。私たちが運営している『明日灯ネットワーク』では、現在三十二社の協賛企業と連携して、進学支援や学生向けの住居相談、医療・福祉系のインターンシップ紹介を行っています」
last updateLast Updated : 2026-10-29
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第236話 匿名の実例

 隣で同席していた彩花の眉が、わずかに動いた。 一千二百万円。大きな額だった。それに、地方から進学してきた学生の住まいや研修先を紹介してもらえることも魅力だった。「とてもありがたいご提案です」 私は資料のページをめくりながら、一番気になっていた項目へ指を置いた。「ただ、提案書の六ページ目にある『寄付者向け活動報告』について、確認させてください。私たちの基金では、受給者の氏名を寄付者へ渡さないこと、写真や感謝の手紙を支援条件にしないことを原則にしています」 柏木さんは驚いた様子もなく、端的に頷いた。「承知しています。あの公開聴聞での経緯も、白鳥代表の会見も拝見しました。私どもも、氏名の公開や顔写真の提出を強制するつもりは一切ありません」 彼女は別の小冊子を取り出し、私の前へ開いた。明日灯ネットワークが昨年度に発行したという年次報告書だった。「ただ、白鳥さん。支援を一年で終わらせず、十年続けるためには、お金を出す企業や個人に『確かに支援が届いている』と示す数字と報告が不可欠です」 柏木さんは小冊子のページを指先で軽く示した。「名前も写真も出さない代わりに、こうして匿名化した活動の実例を載せることは、どの支援団体でも行っている標準的な手続きですよ」 小冊子には、十九歳の医療系学生が支援を受けるまでの経緯が、写真のない短い文章で紹介されていた。年齢と学部は書かれていても、名前は伏せられている。私はページの端に指を置いた。 名前がなくても、地域と学部と家族構成を組み合わせれば、知っている人には分かってしまう。私はあの辞退相談のメールを思い出した。「……成果を報告する大切さは分かります。でも、属性の組み合わせだけで、身近な人に特定されてしまう危険があります」 私が言うと、柏木さんはペン先をとめて私を見た。皮肉や苛立ちはなく、あくまで実務上の優先順位を説く穏やかな声だった。「そのリスクは理解しています。ですから、個人が特定されないよう抽象化して加工します。ただ、白鳥代表。リスクをゼロにしようとして報告の道を閉じれば、来年の予算はつきません。支援を止めるリスクも、同じ重さ
last updateLast Updated : 2026-10-29
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第237話 二人だけの夜

 その週末は、婚約を承諾してから初めて迎える、予定のない休日だった。 土曜日の夕方、私は征臣と一緒にスーパーへ寄り、鷹宮邸のキッチンではなく、彼が都心に持っているマンションの部屋で夕食を作った。高層階にあるその部屋は、白鳥邸や鷹宮の本邸のように使用人の気配がなく、二人だけで過ごす時に使うようになっていた。「鶏肉のトマト煮込みと、サラダでいいですか」 エプロンを結んで尋ねると、シャツの袖を捲った征臣がまな板の前に立った。「ああ。野菜はどのくらいの大きさに切る」「一口大でお願いします。……前より包丁の手つき、慣れましたね」「君の横で何度も見ていれば、少しは覚える」 鍋の中でトマトソースが小さく煮立つ匂いと、オリーブオイルの香りがキッチンに広がる。食事を終えて食器を片づけたあと、私たちはリビングのソファへ並んで腰を下ろした。 テーブルの上には、甘くない温かい紅茶が二つ。 いつもなら、どちらからともなく翌週のスケジュールや基金の書類の話が出るところだった。現に、征臣がスマートフォンに届いた通知を一瞥し、何か言いかけて口を開きかけた。「今日は、仕事の話をしない約束ですよ」 私が先に言うと、征臣の指が止まった。「……そうだったな。悪い、癖だ」 彼は端末の画面を伏せ、テーブルの端へ置いた。それからソファの背もたれに肩を預け、少し照れたように自分の首元へ手をやる。自宅に戻ってからネクタイは外していたものの、白いシャツの第一ボタンはまだ留まったままだった。 カップを置いた私は、少しだけ迷ってから、ソファの上で膝をずらして彼の隣へ距離を詰めた。「征臣さん」「何だ」 彼がこちらを向いた瞬間、私は右手を伸ばし、彼のシャツの襟元に触れた。 指先が鎖骨の上の布地に触れ、そのまま一番上のボタンへかかる。征臣の呼吸が、ぴたりと止まった。 火傷の跡が気になって、触れられるだけで身構えていた頃もあった。そんな自分が今は、彼のシャツのボタンに手をかけている。征臣がこちらを見つめているのに、指を離したくなかった。
last updateLast Updated : 2026-10-30
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第238話 翌朝の約束

 最初のキスは、確かめるように柔らかかった。けれど、私が彼の肩口の布を軽く握ると、彼の息が深くなり、もう一度重なった唇に熱がこもった。唇の端から頬へ、それから耳の下へと彼の唇が移動するたび、胸元の銀鈴が二人の間でちり、と小さく鳴る。 うなじに回された彼の大きな手のひらが熱く、指先が髪の生え際をゆっくりと撫でた。「……くすぐったいです」 息の合間に漏らすと、征臣が私の耳元で低く息を吐いた。「君が先にボタンを外したんだろう」「一つだけです」「一つでも、俺には十分だ」 耳たぶのすぐ下に唇が触れ、背中を甘い緊張が駆け上がる。彼の襟元へ差し込んだ私の指先にも、普段の冷静な顔からは想像できないほど速い鼓動が伝わってきた。自分だけが緊張しているのではないと分かると、胸の奥がじんわりと温かくなる。 もう一度、さっきより長いキスを交わしたあと、征臣が少しだけ顔を離して私の目を見た。「寝室へ行こうか」 同意を求める静かな声に、私は言葉の代わりに頷き、彼のシャツの袖口を軽く引いた。 並んで立ち上がり、廊下の灯りを消して寝室へ入る。ベッドサイドの小さなランプだけが、白いシーツに淡い琥珀色の影を落としていた。 彼の腕が再び私の背中を包み、シーツの上へゆっくりと重なる。 冷たい場所などどこにもないみたいに、彼の指先が私の頬から肩へ滑り、外されたボタンの隙間から互いの体温が混じり合っていく。 ランプの灯りがスイッチの音とともに落ち、暗がりの中で重なる呼吸と、肌に触れる確かな熱だけが、夜の静けさの中へ溶けていった。 翌朝、カーテンの隙間から差し込む白い光で目を覚ますと、隣で征臣がすでに目を開けていた。 掛け布団の下で、彼の指が私の髪先をそっと弄んでいる。目が合うと、彼は一瞬だけ気まずそうに視線を逸らし、すぐに私の額へ短く口づけた。「おはよう。……よく眠れたか」「おはようございます。はい、すごく」 起き上がろうとして、自分の肩口から彼の大きめのシャツが滑り落ちそうになり、慌てて布団を押さえる。昨夜、
last updateLast Updated : 2026-10-30
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第239話 まだない鍵

 月曜日の朝、基金の事務室には新しい机が一つ増え、新しく採用した事務局員の藤崎結衣さんが着任した。 二十七歳になる藤崎さんは、以前は中規模の財団で助成金の精算や報告書作成を担当していた実務経験者で、黒髪をきっちりと束ねた仕事のできそうな女性だった。「本日よりお世話になります、藤崎結衣です。報告書の整理や外部との連絡を担当いたします。よろしくお願いいたします、白鳥代表」「よろしくお願いします、藤崎さん。わからないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」「代表」と改まって呼ばれることに、私はまだ少しだけ気恥ずかしさを感じていた。それでも、山積みになった申請書類や外とのやり取りを前にすれば、彼女の存在は本当に心強い。 藤崎さんは初日から驚くほどの速さで仕事を覚えていった。少し早口でテキパキと書類を仕分け、昼過ぎには早速、明日灯ネットワークとの連携手順で気になる点をメモにして私の机へ持ってきた。「代表、明日灯ネットワーク様との共同事業について、一つ確認してもよろしいでしょうか」 藤崎さんは手元の手順書を指差した。「外向けの活動報告を出す際、うちの基金と先方の両方が画面上でOKを出さない限り配信できない『二重ロック』の仕組みが、まだ完成していないんです」 藤崎さんが示したのは、先方の配信システムと私たちの事務室のやり取りをまとめた図だった。「システムの工事が終わるのを待つと、連携を始められるのが夏以降になってしまいます。そうすると、この春に入学したばかりの奨学生への住居相談や研修紹介もすべて遅れてしまいますが、どういたしましょうか」「夏まで待つと、今住まいやアルバイトで困っている子たちの相談に間に合いませんね……」 私は手順書と、手元の奨学生たちの面談予定表を見比べた。 地方から出てきたばかりの学生たちにとって、安全な学生マンションや病院実習の窓口は今すぐ必要な助けになる。けれど同時に、佐伯さんから言われた「手続きのほころび」という言葉も胸の奥に引っかかっていた。「藤崎さん。その二重ロックが六月末に完成するまでの間、仮のルールとして、外へ出す原稿は必ず事前にメールと書面でこちら
last updateLast Updated : 2026-10-31
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第240話 母への想い

 私は決裁用紙を引き寄せ、システムが整うまでの仮の手順と六月末の期限、そして万が一危ない原稿が来た時は私の判断で差し戻すことを自分の字で書き込んだ。今すぐ助けが必要な子たちの手を離さないために、書面で二重の歯止めをかけておくしかなかった。「承知いたしました。柏木代表のところは実績も豊富ですし、書面で指示を出せばきちんと対応してくださるはずです。私の方で送付フローを整えておきますね」 藤崎さんは頼もしく頷き、書類を抱えて自分のデスクへ戻っていった。 その週の木曜日、午後の面談室で奨学生を待っていると、控えめなノックの音がした。 入ってきたのは小宮遥さんだった。春から看護系大学に通い始めた十八歳。まだ高校生だった頃、面談室で制服の袖をいじっていた姿を覚えている。「こんにちは、白鳥さん。お時間いただいてすみません」「こんにちは、小宮さん。どうぞ、好きな方の椅子に座ってくださいね。大学の授業は、少し慣れましたか」 私が温かい麦茶のカップを置くと、遥さんは入口に近い椅子に腰を下ろし、少しだけ肩の力を抜いて微笑んだ。「はい。解剖学の教科書がすごく重くてびっくりしましたけど、毎日楽しいです。基金の奨学金のおかげで、教材も全部揃えられました」 基金の正式な支援台帳には、小宮遥さんの氏名と連絡先を記録している。今回、提携先へ渡すのは管理番号を付けた仮名の実務票だけだ。その票に載せる内容も、遥さんに確認してもらう。本人が同意したからといって、何でも渡していいわけではない。「今日は、明日灯ネットワークとの連携で使える、学生向けの住居・生活相談と病院実習の情報について、小宮さんの希望を聞いておきたかったんです」 私が説明用の用紙を広げると、遥さんの指先が、無意識にカーディガンの袖口へ触れた。高校生の頃からの緊張した時の癖だけれど、以前よりは動きが小さい。「お母様からも連絡がありました。大学生活を心配なさっているようですが、面談内容はお伝えしていません。小宮さんは、今後の連絡をどうしたいですか」 遥さんの母親――小宮美和さんは、進学前に基金へ『奨学生候補辞退のご相談』というメールを送ってきた保護者その人だった。 母子
last updateLast Updated : 2026-10-31
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