香港料理屋を出た頃には、外の空気が少しだけ冷たくなっていた。店の中にいた時の熱が、頬にまだ残っている。紹興酒のほのかな甘さ。小籠包の湯気。油とにんにくの香ばしさ。さっきまでテーブルの上にあったものが、身体の奥にまだ少しだけ残っている気がした。お腹も満たされている。仕事の疲れも、少しほどけている。それなのに。まだ、帰りたくなかった。たぶん、正人も同じだった。言葉にはしていない。でも、店を出てすぐに駅の方へ歩き出すには、二人とも少しだけ足が遅かった。神保町の夜。古本屋の灯りはほとんど消えていて、昼間の本の匂いも、夜の冷たい空気に薄く溶けている。仕事終わりの人たちも、少しずつ減っていた。閉店準備をする喫茶店。看板の明かりが落ちた路地。遠くの交差点だけが、まだ白く明るい。静かな街だった。並んで歩く。少しだけ近い距離。肩は触れない。でも、さっき会社を出た時よりは、たしかに近い。そのことに気づいて、少しだけ胸がくすぐったくなる。さっきまで、親友だった。今は、彼氏。その変化に、心がまだ少し追いついていない。でも、嫌じゃない。むしろ、思っていたよりずっと安心している。正人の歩幅が、私に合っている。いつも通りのようで、少し違う。彼は時々、こちらを見ている。私が寒くないか。疲れていないか。帰りたいと言い出さないか。そういうことを確認するみたいに。でも、目が合うと少しだけ笑って、すぐに視線を戻す。そのぎこちなさが、少し可笑しい。正人でも、こんなふうになるんだ。そう思うと、胸の奥が温かくなった。ふと、正人が少し笑った。「もう一軒、寄る?」私は顔を上げる。「まだ大丈夫?」聞いたのは私なのに、声が少し弾んでいた。正人は少しだけ視線を逸らした。珍しく、すぐには答えなかった。街灯の下で、横顔に薄い影が落ちる。「……明日休みだし」それから、少し照れたように笑う。「もうちょい話したい」その言い方が、少しだけぎこちない。でも、妙に嬉しかった。彼氏になった途端に大胆になるわけではない。でも、帰りたくないと言う代わりに、もうちょい話したいと言う。正人らしい。私は小さく笑った。「行く」正人が、少しだけ安心したみたいに笑った。その目元が柔らかくなる。さっきから、正人は時々こういう顔をする。
ปรับปรุงล่าสุด : 2026-09-27 อ่านเพิ่มเติม