All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 251 - Chapter 254

254 Chapters

第250話:少しずつ、日常になる

付き合ってからの平日は。思ったより普通だった。劇的に。何かが変わるわけではない。朝から会議があって。期限ぎりぎりの資料に追われて。有田さんの細かいレビューを想定しながら。PPM前の資料を整える。タイ撮影まで。もう時間がない。ストーリーボードの修正。商品露出の秒数。SNS展開の見せ方。媒体フォーマットとの整合性。一つ決めれば。別のところで。また調整が必要になる。仕事は相変わらず。こちらの事情なんて気にせず。流れていく。正人とも。相変わらず仕事の話をする。クリエイティブの方向性。媒体との整合性。タイ撮影の尺感。予算の説明。仕事中の空気は。今までとほとんど変わらなかった。だからこそ。不思議だった。ちゃんと。付き合っているのに。会議室では。普通に議論する。資料の赤入れで。少し言い合う。どちらも。簡単には引かない。「そこ、媒体視点だと弱くない?」正人が。資料に目を落としたまま言う。私は。すぐに返した。「いや、でも世界観崩したくないじゃん」「世界観を残すのはいいけど、最後の想起が弱いと有田さん絶対言うよ」「分かってる。だから最後に商品寄せてる」「もう少しだけ早めてもいいと思う」「早めると急に広告っぽくなる」「そこを違和感なくやるのがクリエイティブでしょ」「正人、今日ちょっと媒体側に寄りすぎ」「愛子が世界観側に寄りすぎ」そんなやり取りをしながら。結局。二人で一番よさそうな落としどころを探す。仕事の時の正人は。やっぱり手強い。優しいけれど。甘くはない。彼氏になったからといって。私の意見を。何でも通すわけではない。むしろ。仕事では今まで通り。ちゃんと突っ込んでくる。そこが。少し安心した。もし。急に遠慮されたら。たぶん。私は困ったと思う。彼氏になっても。正人は。仕事の正人だった。でも。会議が終わる頃には。ほんの少しだけ違う。エレベーターを待ちながら。正人が。資料から目を離さないまま。小さく聞く。「昼、ちゃんと食べた?」私は。少しだけ顔を上げる。「食べたよ」「何?」「おにぎりとスープ」「野菜は?」「スープに入ってた」「それ、野菜にカウントしていいやつ?」「厳しい」正人は。少しだけ笑う。その笑い方は。仕事
last updateLast Updated : 2026-10-07
Read more

第251話:戻る場所

気づけば。付き合ってから。一週間が経っていた。日曜日。実家の部屋。床に置いた荷物。開きっぱなしのバッグ。持ってきた服。読みかけの本。母がどこかでもらってきたらしい布見本が。なぜか。机の端に置かれている。実家の自分の部屋は。居心地がいいようで。少しだけ落ち着かない。昔の自分と。今の自分が。同じ場所にいるような。変な感覚がある。そろそろ。戻ろうと思う。自分の家へ。最初は。一人でいたくなかった。隣を。考えてしまうから。翔太を。思い出してしまうから。あの部屋の空気。近すぎた距離。メモ。連絡が来ないこと。そんなものを。ひとりで受け止める自信がなかった。でも。最近は。少し違う。考える時間が。減っている。仕事をして。正人と話して。帰り道に笑って。夜。電話をして。週末の予定を聞かれて。地元の友達に。紹介したいと言われて。そういう毎日の中で。少しずつ。考える隙間が減っていた。翔太のことを。まったく考えなくなったわけではない。ふとした瞬間に。まだ。思い出す。楓と連絡を取っていること。自分には。連絡が来ないこと。あの日のこと。その全部が。消えたわけではない。でも。前みたいに。そこへ引き戻される時間は。短くなっていた。大丈夫。そう思う。もし。また翔太と会ったとしても。普通に話せる。ちゃんと。整理できている。もう。大丈夫。そう言い聞かせる。少しだけ。胸がざわつくのは。まだ。完全じゃないから。でも。前とは違う。少しずつ。前に進めている。そう思いたかった。***窓の外には。少し暖かい。春の日差しが落ちている。午後の光が。カーテン越しに。部屋へ入る。床の上のバッグの影が。薄く伸びていた。私は。荷物を詰めながら。最後に残った部屋着をたたむ。自分のマンションに戻る。その言葉だけで。胸の奥が。ほんの少しだけ緊張する。でも。前みたいに。逃げたいとは思わなかった。その時。スマホが震えた。正人だった。『明日、迎え行こうか?』短いLINE。私は画面を見て。思わず笑ってしまう。ほんと。過保護。そう思う。でも。嫌じゃない。むしろ。少しだけ。安心している自分がいた。私は。少し考えて
last updateLast Updated : 2026-10-07
Read more

第252話:知らない顔

土曜日。木場の駅を出ると。少し湿った風が吹いていた。春の終わりに近い空気。まだ夕方前なのに。運河沿いには。どこか夏の気配が混ざっている。水面には薄い光が揺れていて。橋を渡るたびに。街の音が少しだけ遠くなった。送られてきた地図を見ながら歩く。フットサル場。こういう場所へ来るのは。学生以来かもしれない。金網越しに見える人工芝。スパイクが芝を擦る音。ボールを蹴る乾いた音。男の人たちの笑い声。誰かがふざけて大きな声を出して。また笑いが起きる。少しだけ。懐かしい匂いがした。体育館やグラウンドの匂い。汗と風と。夕方の光が混ざったような空気。社会人になってから。こういう場所へ足を運ぶことは。ほとんどなくなった。そのせいか。金網の向こうの景色が。少しだけ別世界みたいに見えた。ふと。視線を上げる。すぐに分かった。正人だった。黒いTシャツ。ハーフパンツ。汗で少しだけ乱れた髪。会社では。いつも綺麗に整っているのに。今日は前髪が。無造作に落ちている。でも。その方が妙に目を引いた。仕事中の正人は。姿勢も。表情も。言葉も整っている。隙がなくて。清潔で。どこか静かな人。でも。今。コートの中にいる正人は違った。ボールを受ける。一歩で相手をかわす。顔を上げる。周りを見る。味方の位置を確認しながら。無理なくパスを散らしていく。自分が目立とうとしているわけではない。強引に抜こうとしているわけでもない。それなのに。気づけば。試合の流れが。正人を中心に動いている。「あ、そこ!」低い声が飛ぶ。「ナイス!」笑っている。誰かがミスをしても。正人は責めない。「大丈夫、大丈夫。次」そう言いながら。すぐに次の動きへ繋げる。自然と。周りが正人を見る。正人の声を聞いて。位置を変える。彼が顔を上げると。味方が走り出す。仕事と同じだと思った。全体を見て。人を動かして。誰かを置いていかない。でも。全然違う。汗で少し張り付いたTシャツ。走ったあと。肩で息をする姿。前髪を雑にかき上げる手。腕で額の汗を拭う仕草。動くたびに浮き出る肩のライン。踏み込む脚の強さ。ボールを蹴る瞬間の。身体の軸の綺麗さ。ただ。鍛えている人ではない。ちゃんと身体を使
last updateLast Updated : 2026-10-07
Read more

第253話:友達の中の正人

正人が。タオルを肩に掛けながら。こちらへ歩いてくる。少し。息が上がっていた。額に汗。前髪は乱れていて。首元にも。汗が光っている。でも。思ったより爽やかだった。近づくたび。さっきまで。コートの中にあった熱が。そのままこちらへ来るみたいだった。「ごめん、待った?」声にも。少しだけ息が混じっている。近くに立たれると。体温が近い。汗の匂いというより。柔軟剤と。少し熱を持った身体の匂い。妙に。近かった。「全然」そう言うと。正人は。少し安心した顔をした。「来てくれてありがと」その声が。さっきコートで出していたものより。ずっと柔らかい。胸が。また少し跳ねる。「かっこよかった」言ってから。自分で少し驚いた。でも。本当だった。正人が止まる。一瞬。目を少しだけ見開く。それから。照れたように視線を逸らした。「……今日、そういうの言うんだ」「言った方がいいかなと思って」そう返すと。正人が小さく笑う。「それ、俺のやつじゃん」「使ってみた」「効くね」「でしょ」正人は。タオルで軽く額を拭きながら。まだ。少し照れた顔をしていた。その顔が。さっきまで。コートの中で。周りを動かしていた人と同じだと思うと。また。少しくすぐったくなる。後ろから。声が飛んだ。「え、まじ?」振り返る。背の高い男の人が。ボトルを片手に。こちらへ歩いてくる。日に焼けた顔。人懐っこそうな笑い方。距離の詰め方に。遠慮がない。でも。嫌な感じはしなかった。「あ、紹介する」正人が。珍しく。少しだけ照れた顔をする。「海斗。地元の友達」「どうも、海斗です」海斗さんは。軽く手を上げた。それから。私と正人を交互に見る。「え、正人の彼女?」普通に驚いている。そして。悪びれもなく笑った。「いや、ずる。美人すぎない?」「うるさい」正人が即答する。でも。少しだけ照れている。その感じが珍しくて。私は。思わず笑いそうになった。会社では。絶対に見られない顔。友達の前の正人は。少し口が悪い。少し雑。でも。肩の力が抜けていて。年相応に見える。「愛子です」頭を下げる。海斗さんは。にこっと笑った。「正人から聞いてます」「え」思わず。正人を見る。
last updateLast Updated : 2026-10-07
Read more
PREV
1
...
212223242526
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status