All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 221 - Chapter 230

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第220話:スーツとマッチョ

正人が来ると分かってから、私は落ち着かなかった。落ち着かないのに、席を立つこともできない。さやかは完全に楽しくなっていて、隣のスタッフに肩の鍛え方を聞いている。「肩ってどう鍛えるの!? 私、肩ほしい!」「肩ほしいって何」私は思わず突っ込む。「だって肩あると強そうじゃん」「何と戦うの」「人生」「急に重い」さやかは笑っている。手には、さっきから“マッスル注射”という意味不明な名前のドリンク。細長い試験管みたいなグラス。色が派手。赤い。さっきは青かった気がする。なぜ増えている。「それ何杯目?」「これは二本目」「本数で数えるな」「愛子も飲む?」「飲まない」「マーケットリサーチなのに?」「飲まなくても観察はできる」「真面目か」真面目だ。こうでもしていないと、この場所にいる理由が自分の中で処理できない。向かいの若いトレーナーは、私が完全に乗り気ではないことを察したのか、少し距離を取って座っていた。それでも、話しかける時は明るい。「お姉さん、ほんと仕事っぽい顔してますね」「そういうことにしたので」「そういうことに?」「今日はマーケットリサーチです」「マッスルバーの?」「プロテインの」「真面目!」彼は素直に笑った。その笑い方に裏がないから、こちらも少し笑ってしまう。「こういうお店って、初めて来る人多いんですか?」「多いっすよ。友達に連れてこられた人とか、誕生日とか、会社の飲み会とか」「なるほど」「最初めっちゃ引く人もいるけど、だいたい最後ちょっと楽しくなって帰ります」「私はまだ引いてる」「じゃあ、まだ途中ですね」「ポジティブ」「仕事なんで」仕事。その言葉で、少し見方が変わる。彼らは、ただ筋肉を見せているわけじゃない。非日常を売っている。明るさ。勢い。身体性。ちょっとした恥ずかしさ。日常ではありえない距離感を、笑いに変える空間。なるほど。確かに、エンタメとしては成立している。私はメニューの端を指でなぞりながら、頭の中で勝手にメモを取る。プロテイン案件に直接使えるかは分からない。でも、身体づくりを“努力”だけじゃなく“楽しさ”として見せる導線はありかもしれない。継続する人たちは、ストイックに見える。でも、その中にちゃんと遊びがある。コミュニティがある。ふざけな
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第221話:営業職、なめないで

「正人ほんと来た〜!」「それ、何杯目?」「覚えてない!」「だめなやつだ」小さく眉を寄せる。でも、声音は穏やかだった。怒るというより、もう回収する側の人の空気。私はようやく声を出した。「……ごめん、さやかが」気まずい。目も合わせられない。正人が私を見る。ほんの少しだけ。それだけで、たぶん全部伝わった。無理やり連れてこられたこと。断れなかったこと。今、ものすごく気まずいこと。そして、少しだけ安心してしまったことまで。全部。「分かってる」短い言葉。それだけだった。説明を求めない。問い詰めない。深掘りもしない。それが余計に、胸に残る。そのまま、正人は自然に若いトレーナーへ目線を向けた。「すみません、お邪魔しました」綺麗な会釈。嫌味がない。圧もない。なのに、自然と空気を持っていく。若いトレーナーが少し止まった。たぶん、普通に見てしまったのだろう。スーツ姿。高い身長。しかも、ちゃんと身体がある。視線が、腕まくりされた前腕へ落ちる。「あの」少し迷ってから、彼が言った。「お兄さん、スポーツとかやってます?」正人が少しだけ笑った。「いやー」軽く肩をすくめる。「普通に営業です」即答。でも、そこで終わらない。ちゃんと相手へボールを返す。「みんなみたいな本格派じゃないよ」やわらかい声。壁を作らない。若いトレーナーがすぐ乗る。「え、でも絶対ジム行ってますよね?」「あー、まあ一応」正人が少し笑う。「営業って会食多いし。三十代入ると、胃と身体どっちも鍛えないと地味につらいんだよね」自然に笑いへ落とす。場が少し和む。隣のスタッフまで乗っかる。「いやでも、これ普通じゃないっすよ」正人の腕を見る。「肩、絶対強いですよ」「ここで働けますって」悪ノリっぽく笑う。正人が少し困った顔になる。でも、引かない。ちゃんと乗る。「え、俺、マッスル注射売る側?」場が少し笑う。「似合いますよ!」「いやー」少し考えたふりをして。「営業はもう平日で十分かな」自然に返す。空気が綺麗に笑いへ変わる。誰も白けない。主役を奪わない。でも、ちゃんと場を整える。この感じ。正人、本当に上手い。仕事ができる人の会話だ。相手に恥をかかせない。こちらも下げない。その場のノリを否定
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第222話:見送る人

結局、さやかは一人で歩ける状態ではなかった。「私はまだ飲める〜」と言いながら、足元はふらふらしている。まっすぐ歩けていない。しかも、なぜか片手には、空になったショットグラスを持っている。「それ返して」正人が呆れた顔で言う。「記念品〜」「何の記念」「筋肉」「返して」会話が完全に保護者だった。私は少しだけ笑ってしまう。正人はスタッフに謝りながら、さやかの手からショットグラスを回収した。その手つきも自然だった。酔っ払いの扱いに慣れている。「すみません」「いえいえ、楽しんでもらえたなら!」スタッフが明るく笑う。若いトレーナーも手を振ってくれた。「お姉さん、またマーケットリサーチ来てください!」「次は普通のカフェでお願いします」「それはマッスル足りないっすね」「足りなくていいです」彼が笑う。その軽さに、私も少し笑った。さやかは正人の腕につかまりながら、完全に上機嫌だった。「正人、いい男〜」「はいはい」「愛子〜この人いいよ〜」「知ってるから」口に出してから、自分で少しだけ止まった。知ってる。自然に言ってしまった。正人がこちらを見た。一瞬だけ目が合う。でも、何も言わない。ただ、少しだけ口元を緩めた。それだけで、少し胸が詰まる。店を出ると、地下の熱気から一気に解放された。夜風が、頬に触れる。春が近い空気だった。冷たすぎない。でも、酒と熱気で緩んだ肌には、少しひんやりする。繁華街の灯りが、濡れたみたいに舗道へ滲んでいる。酔った人たちの笑い声。タクシーのライト。遠くの駅のアナウンス。さっきまでの重低音が、まだ耳の奥に少しだけ残っている。「さやか、タクシー呼ぶ?」私が聞くと、さやかは首を振った。「歩ける〜」言った直後、足が少しもつれた。正人がすぐに支える。「歩けてない」「歩けてる気持ちはある」「気持ちだけじゃ帰れない」「正人、正論しか言わない〜」「今日は言う」正人はさやかのバッグを持ち直し、少し考えるように周囲を見た。「マンション近いんだよね?」「歩いて十分くらい」私が答える。「じゃあ、送ろう」「大丈夫? 重いよ、さやか」「聞こえてる〜」さやかが不満そうに言う。正人は少し笑った。「大丈夫。妹で慣れてる」「妹さん、酔うの?」「俺の妹じゃなくて、妹の友
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第223話:プライベートの顔

「ほんとすみません」それから、眠っているさやかを見て、小さくため息をつく。でも、そのため息は呆れながらも優しかった。「でも助かりました。愛子ちゃんも正人さんも、本当にありがとうございます」夫婦の空気だった。穏やかで。ちゃんと信頼がある。さやかがどれだけ外で騒いでも、最後にはこの人が受け止めるのだろう。そう思うと、少し安心した。正人はさやかを旦那さんへ預ける時も、動きが丁寧だった。相手に負担がいかないように、ゆっくり体重を移す。「足元気をつけてください」「ありがとうございます」「水飲ませた方がいいと思います」「はい、そうします」会話があまりにも実務的で、少し笑いそうになる。でも、その実務的な優しさが正人らしかった。「じゃあ、また」旦那さんに見送られて、マンションを出る。気づけば、二人きりだった。夜が、少し静かになる。さっきまでの異様な熱気が嘘みたいだった。重低音。筋肉。マッスル注射。酔ったさやか。全部が現実感のない数時間だった。夜風が、少し気持ちいい。春が近い空気。冷たすぎない。でも、歩いていると頬が少しだけ冷えるくらい。私は小さく息を吐いた。「……なんか」言葉を探す。「色んな悩み吹っ飛ぶくらい、非日常だった」少し笑う。「マッスルバー、強烈すぎる」正人が隣で小さく吹き出した。「それは俺も思った」珍しく、本当に疲れた顔をしている。でも、どこか笑っている。「正直、一瞬意味分からなかった」「だよね……」「電話で、マッチョに絡まれてるって聞いて」正人が少し苦笑いする。「何それ、ってなった」「私も分からなかった」「しかも着いたら」少しだけ肩をすくめる。「愛子、めちゃくちゃ困ってそうだし」言いながら笑う。でも、その笑いの奥に、少しだけ本音が見えた。ちゃんと心配して来たんだ。それが、改めて分かる。「ちょっと一瞬、訳分かんなかったよね」その言い方が、責めるでもなく、茶化すだけでもなく、ただ事実として笑ってくれる感じで、少し救われた。私も肩の力を抜く。「私は、一回で十分かな……」本音が漏れる。「もう二度とマッスル注射すすめられたくない」「なにそれ」正人が笑う。「飲んでないけど、名前がもう無理」「名前が強すぎる」「そう。強すぎる」並んで歩く。繁華街の灯りが
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第224話:トレーナー

翌朝。さやかから連絡が来た。『あんま覚えてないけど、マッチョの輝きだけは覚えてる』数秒後。さらに追撃。『頭痛い』私は、朝のコーヒーを吹きそうになった。思わず笑う。昨日のさやかを思い出す。マッスル注射。妙に乙女みたいな顔。「肩ってどう鍛えるの!?」「私にはこういうトキメキないの!」と真顔で語っていた姿。そして、最後には完全に泥酔して、正人に支えられて歩いていたところまで。あの人、本当に自由だった。私はコーヒーカップを置いて、短く返す。『普通に二日酔い』すぐに既読がついた。『もう酒やめる』少し間が空いて、次のメッセージ。『って毎回言ってる』私は小さく吹き出した。確かに。さやかの「もう酒やめる」は、季節の挨拶みたいなものだ。真剣に受け取る方が負ける。スマホを伏せる。その瞬間、昨日のことが少しだけ蘇った。マッスルバー。正人。腕まくりされたシャツ。迎えに来た姿。場違いなはずの空間に、妙に自然に立っていた背中。酔ったさやかを当たり前みたいに回収して、店の人たちと軽口まで交わして、最後には私を駅まで送ろうとしてくれたこと。思い出すと、胸の奥に小さな熱が戻ってくる。翔太の時とは違う。一瞬で呼吸を乱されるような熱ではない。もっとゆっくり、後から効いてくるような温度。あの人は迎えに来る。必要だと思ったら、ちゃんと動く。意味の分からない場所でも、面倒な状況でも、空気を壊さずに入ってきて、誰も傷つけない形で場を整える。そういう正人の強さを、昨日の夜は妙にはっきり見てしまった。私はカップを持ったまま、少しだけ視線を落とす。でも、考えない。今日は。考えたら、また同じところへ戻ってしまう。正人に返事をしなきゃいけないこと。翔太と距離を置いていること。自分の中にまだ残っている、言えないもの。そういうものを、朝から全部取り出したら、また動けなくなる。私はコーヒーを飲み切って、カップを流しへ置いた。実家へ帰れば、楓が相変わらずうるさかった。「姉ちゃん、マリカやろ」リビングのソファで足を広げながら、当然みたいに言う。「今?」「今」「いや、疲れてるんだけど」「一回だけ」絶対一回じゃ終わらないやつだった。分かっていた。それでも、私はなぜかコントローラーを受け取っていた。そして、普通に三
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第225話:……マブ?

「ここは、まずクライアントが社内で説明しやすい形にした方がいい」「社内説明用っすね」「そう。意思決定者が見る資料と、現場が見る資料は少し違うから」「なるほど……。愛子さん、今の一言、メモっていいですか?」「いいけど、そんな名言ではない」「いや、刺さりました」「刺さらなくていい。理解して」「理解します!」やっぱり若い。元気がある。その元気が、今の私には少し眩しい。ふと、私は思った。……あれ?私の周り、なんかガタイ良い人しかいなくない?昨日のマッチョたち。正人。翔太。しかも、なぜか全員、肩幅が広い。気づけば近くにいる人たちが、妙に大きい。そこへ突然現れた、茶髪の、少し華奢寄りな子犬。なんというか、毛色が違う。私は一人、少し苦笑いした。いや、なんで今そこ比較した?仕事中に何を考えているんだろう。私はPC画面へ視線を戻した。けれど、青木くんが隣で真剣に資料を読んでいる姿を見ると、少しだけ気持ちが軽くなる。恋愛の気配がまったくない。変な緊張もない。ただ、若手の面倒を見る。仕事を教える。質問に答える。その関係性の分かりやすさに、少し救われた。気づけば、仕事はあっという間に夜だった。オフィスの照明が少し落ち着いた色に見える時間。チャットの通知も少し減り、人の声もまばらになっていく。青木くんがPCを閉じながら、こちらを見た。「愛子さん」「何?」「飯行きません?」あまりにまっすぐだった。疲れた顔。でも、少し嬉しそう。「腹減って死にそうっす」若い。分かりやすい。少し笑ってしまう。「死なれると困るから、いいよ」「やった」「どこ行きたい?」即答だった。「居酒屋!」元気。迷いがない。半年は密に関わる。距離感作りも大事だ。それに、今日かなり詰め込んだので、少し雑談する時間があってもいい。そう思った。「じゃあ、軽くね」「軽くの定義って何ですか?」「一時間半」「短っ」「若手指導は業務時間外まで無限延長しません」「厳しい」「優しい方です」そんな話をしながら、会社を出る準備をした。エレベーターへ向かう途中だった。「あ、正人さん」青木くんが急に言った。私は顔を上げる。正人がいた。媒体の打ち合わせが長引いたのだろう。少し疲れた顔で、スマホを見ながら誰かとテキストし
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第226話:帰り道の温度

青木くんとの居酒屋は、思っていたより普通に仕事の延長だった。最初こそ、「愛子さんって新人の頃から怖かったんですか?」とか、「会議で刺さる一言ってどうやって出すんですか?」とか、質問の方向が少し独特で、私は何度か焼き鳥を吹きそうになった。でも、話しているうちに分かった。青木くんは、距離が近い。言葉も軽い。勢いだけで人の懐へ入ってくるところがある。けれど、仕事に対してはちゃんと真面目だった。分からないことを分からないままにしない。褒められると素直に喜ぶ。注意されても、必要以上に落ち込まない。その軽さは、若さであると同時に、強さでもあるのだと思った。「今日、愛子さんに言われたやつ、めっちゃ分かりました」青木くんは烏龍茶のグラスを持ったまま、前のめりに言った。「クライアントが社内で説明しやすい形ってやつ」「うん」「俺、企画を面白くすることばっか考えてたんですけど、それを通す人のことまで考えてなかったなって」「そこに気づけるなら大丈夫」「ほんとですか?」「うん。伸びると思う」そう言うと、青木くんは分かりやすく嬉しそうな顔をした。子犬みたいだな、と思う。嬉しい時に、全身で嬉しそうにする。正人なら、たぶん少し目を伏せて、口元だけ緩める。翔太なら、ふっと笑って、少し皮肉っぽいことを返す。そこまで考えて、私は箸を止めた。また比較している。すぐに、誰かを思い出す。何を見ても、何を聞いても、心が勝手に二方向へ枝分かれしてしまう。私は慌てて水を飲んだ。「愛子さん?」「ううん。続けて」「はい!」青木くんは気づかない。その鈍さに少し救われる。一時間半、と言ったのに、店を出る頃には二時間が過ぎていた。青木くんは最後まで元気だった。「今日ありがとうございました!」「うん。明日、今日の話まとめておいて」「え、宿題あるんすか」「あるよ。飲んだだけで終わらせない」「厳しい」「優しい方です」「それ、今日二回聞きました」「大事なことだから」駅前で別れる時も、青木くんは深く頭を下げた。「マブ候補として、明日も頑張ります!」「だから会社でマブって言うのやめようか」「じゃあ、信頼構築フェーズで」「急にビジネスっぽくした」「こっちの方がいいですか?」「どっちも微妙」青木くんは笑って、違う路線の改札へ走っていった。
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第227話:今、結構見てたけど

ふと横を見る。街灯に照らされた横顔。高い鼻筋。少し疲れているのに、崩れない輪郭。仕事終わりの気怠さがあるのに、整っている。綺麗だな、と思った。その瞬間、ふと頭によぎる。この人が、自分の彼氏になる。少しだけ、恥ずかしくなる。まだ、ちゃんとは想像できない。でも、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、そのうち慣れる気がした。この距離も。隣を歩く感じも。仕事終わりに、他愛もない話をして帰る時間も。少しずつ、馴染んでいくんだろう。無理なく。ゆっくり。そう思えた。熱ではなくて、安心。胸が締めつけられるような感情ではない。でも、静かに心が落ち着く。心地いい。その感覚が、自分の気持ちを、少しずつ固めていく。優しくて。誠実で。ちゃんと言葉にして。でも、押しつけない。丁寧に距離を作ってくれる。尊敬する。人として。たぶん、社会人になってから、一番。そんなことを考えていたら、正人が少しだけ覗き込んだ。「……何?」「え?」「どうしたの?」私は慌てて視線を逸らす。「なんでもない」「今、結構見てたけど」「見てない」「見てたよ」「見てないってば」正人が少し笑う。「そっか」そのまま、またゆっくり歩く。会社の話。最近の案件。青木くんのマブ制度。さやかの酒癖。たわいもない話。でも、心地よかった。正人は、青木くんの話を必要以上に掘らなかった。どこで飲んだのか。何を話したのか。楽しかったのか。そういうことを聞いてもよかったはずなのに、聞かなかった。ただ、青木くんが仕事に前向きならよかったね、と言っただけだった。その一言で、私はまた少し胸が痛くなる。この人は、聞きすぎない。でも、見ていないわけじゃない。たぶん、ちゃんと気にしている。気にしているのに、私が苦しくならない場所に言葉を置く。そのことが、今の私にはあまりにも優しかった。気づけば、実家の最寄り駅に着いていた。駅から少し歩くと、住宅街へ入る。いつもの自分のマンションとは違う道。低い建物。古い植え込み。夜でも明るいコンビニの灯り。少しだけ懐かしい匂いがする。実家の近くまで来ていた。私は小さく立ち止まる。少しだけ迷って、でも、決める。「……正人」「ん?」「明日、時間ある?」声に出した瞬間、心臓が少しだけ速くなった
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第228話:引いてくれる人

正人の姿が、街灯の向こうで小さくなっていく。私はしばらく、その場に立ったまま見送っていた。帰っていいのに。もう実家はすぐそこなのに。正人は、私が角を曲がるまで見送るつもりなのだろう。昨日の改札でもそうだった。ちゃんと、最後まで見ている。押しつけがましくない。でも、こちらが振り返れば、そこにいる。その距離の取り方が、正人らしくて、胸の奥が静かに温かくなる。この人の期待に、ちゃんと応えたい。そう思った。思ったはずなのに。同時に、その期待に応えるためには、自分の中に残っているものを見ないふりできないことも、もう分かっていた。私は小さく手を振り返して、正人に背を向ける。角を曲がると、正人の姿は見えなくなった。見えなくなった瞬間、胸の奥にあった緊張が少しだけほどける。ほっとした。でも、そのほっとした自分に、また少しだけ後ろめたさを覚える。「で?」隣から声がした。楓だった。コンビニ袋を片手に、私の顔を覗き込んでくる。「彼氏?」早い。雑。でも核心。私は思わず視線を逸らした。「……まあ、そんな感じ」正確には、まだ違う。まだ返事はしていない。明日、ちゃんと話すつもりでいるだけだ。でも、たぶん。きっと。そうなるのだと思っている。だから、その言い方でいい気がした。楓は少し考える顔をする。「ふーん」コンビニ袋の中で、ペットボトルが小さく音を立てた。私は少しだけ身構える。楓はこういう時、遠慮がない。悪気もない。でも、身内だからこそ、言葉が変な角度から刺さってくることがある。「いい人っぽいじゃん」楓が言った。「ちゃんとしてるし」「うん」「イケメンだし」「そこ?」「大事でしょ」「まあ……」「あと、愛子のことめっちゃ好きそう」足が少しだけ止まりそうになる。正人の「あけるよ」という声が蘇る。待っていた人の声。仕事終わりに駅で待っていてくれたこと。青木くんのことを心配しながらも、責めずに笑ってくれたこと。楓の前でも自然に挨拶してくれたこと。全部が、静かに胸の中に戻ってくる。「……そうかな」「いや、そうでしょ」楓は当たり前みたいに言う。「見れば分かるじゃん」「見ればって」「愛子を見る時、空気が違った」言われた瞬間、少しだけ顔が熱くなる。楓のくせに。変なところを見ている。
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第229話:遠く聞こえる言葉

実家へ戻ると、玄関の明かりがついていた。珍しい。楓が靴を脱ぎながら、「母さんいるっぽい」と言った。その言い方が、家族というより、たまたま同じ建物にいる自由人を発見した時のようで、少しだけ笑いそうになる。リビングへ入ると、母はダイニングテーブルではなく、窓際の大きな作業台に向かっていた。薄い黒のニット。髪はざっくりまとめられていて、耳元には大きめのシルバーのピアス。テーブルの上には、布のスワッチ、色見本、薄い紙のラフ画、開いたノートパソコン、飲みかけの炭酸水。家庭というより、仮設のアトリエみたいだった。昔から、この人のいる場所は少しだけ生活から浮いている。食事の匂いより、紙と布と香水の気配がする。「あ、おかえり」母が顔を上げる。でも、完全にはこちらを見ていない。片手でタブレットの画面を拡大しながら、もう片方の手でペンを持っている。「楓、それ、コンビニ?」「うん」「アイスある?」「あるけど俺の」「一口」「一口で終わらないじゃん」「信用ないな」「ない」母はふっと笑って、また画面へ視線を戻した。自由だ。相変わらず。昔からこうだった。家にいる時でも、どこか半分だけ別の世界にいる。デザインのこと。色のこと。人の服のライン。街で見かけた看板のバランス。そういうものに意識が行っていて、こちらの生活の細かいことには急に鈍くなる。でも、そのくせ時々、何の前触れもなく、こちらの内側に踏み込んでくる。「あ、そういえば」母が、思い出したように顔を上げた。「愛子、今日の人、誰?」私は一瞬、動きが止まった。楓が冷蔵庫の方で「早」と呟く。「見てたの?」私が聞くと、母は肩をすくめた。「窓から。背が高い人いたから」「普通に覗かないで」「覗いてない。視界に入っただけ」そう言いながら、母はペン先を唇の下に軽く当てた。「綺麗な立ち方する人ね」私は言葉に詰まる。母はそういうところを見る。顔がいいとか、職業がどうとか、そういうことより先に、立ち方や肩の線や服の馴染み方を見る。デザイナーらしいと言えば、そうなのかもしれない。「彼氏?」楓が吹き出した。「母さんもそれ聞く?」「だって気になるじゃない」「愛子さっきも俺に聞かれてた」「で、何て答えたの?」母が面白そうにこちらを見る。私は少し視線を逸らした。
last updateLast Updated : 2026-09-21
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