正人が来ると分かってから、私は落ち着かなかった。落ち着かないのに、席を立つこともできない。さやかは完全に楽しくなっていて、隣のスタッフに肩の鍛え方を聞いている。「肩ってどう鍛えるの!? 私、肩ほしい!」「肩ほしいって何」私は思わず突っ込む。「だって肩あると強そうじゃん」「何と戦うの」「人生」「急に重い」さやかは笑っている。手には、さっきから“マッスル注射”という意味不明な名前のドリンク。細長い試験管みたいなグラス。色が派手。赤い。さっきは青かった気がする。なぜ増えている。「それ何杯目?」「これは二本目」「本数で数えるな」「愛子も飲む?」「飲まない」「マーケットリサーチなのに?」「飲まなくても観察はできる」「真面目か」真面目だ。こうでもしていないと、この場所にいる理由が自分の中で処理できない。向かいの若いトレーナーは、私が完全に乗り気ではないことを察したのか、少し距離を取って座っていた。それでも、話しかける時は明るい。「お姉さん、ほんと仕事っぽい顔してますね」「そういうことにしたので」「そういうことに?」「今日はマーケットリサーチです」「マッスルバーの?」「プロテインの」「真面目!」彼は素直に笑った。その笑い方に裏がないから、こちらも少し笑ってしまう。「こういうお店って、初めて来る人多いんですか?」「多いっすよ。友達に連れてこられた人とか、誕生日とか、会社の飲み会とか」「なるほど」「最初めっちゃ引く人もいるけど、だいたい最後ちょっと楽しくなって帰ります」「私はまだ引いてる」「じゃあ、まだ途中ですね」「ポジティブ」「仕事なんで」仕事。その言葉で、少し見方が変わる。彼らは、ただ筋肉を見せているわけじゃない。非日常を売っている。明るさ。勢い。身体性。ちょっとした恥ずかしさ。日常ではありえない距離感を、笑いに変える空間。なるほど。確かに、エンタメとしては成立している。私はメニューの端を指でなぞりながら、頭の中で勝手にメモを取る。プロテイン案件に直接使えるかは分からない。でも、身体づくりを“努力”だけじゃなく“楽しさ”として見せる導線はありかもしれない。継続する人たちは、ストイックに見える。でも、その中にちゃんと遊びがある。コミュニティがある。ふざけな
Last Updated : 2026-08-31 Read more