All Chapters of 余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる: Chapter 11 - Chapter 20

25 Chapters

11.赤い手袋と雪だるま

 特務軍本部の重厚な扉を抜けると、帝都・白嶺は眩しいほどの一面の銀世界に包まれていた。 瓦屋根も、赤レンガの西洋建築も、ガス灯の笠も、すべてが真っ白な雪化粧を施されている。吐く息は真っ白に染まるが、緋依の心は弾んでいた。 二人は手を繋いだまま、雪を踏みしめるキュッ、キュッという心地よい音を響かせながら、近くの広々とした公園へと向かった。 公園にはすでに何人かの近所の子供たちが集まっており、元気な声を上げて雪合戦に興じていた。 緋依はわぁっと目を輝かせると、白玖の手を離して雪の中へしゃがみ込んだ。冷たい雪を両手で掬い上げ、きゅっと丸め始める。久しぶりに触れる雪の冷たい感触が、孤児院での温かい記憶を呼び起こし、緋依の顔に自然と笑みがこぼれた。「お姉ちゃん、雪だるま作ってるの?」 ふいに、横から可愛らしい声が聞こえた。 見上げると、茶色い柔らかな髪を持った小さな男の子が立っていた。年齢は六つか七つくらいだろうか。どんぐりのように丸い瞳で、緋依の素手を見つめている。「手袋がないと冷たいよ! はい! ぼくの貸してあげる!」 男の子はそう言うと、自分の手にはめていた小さな赤い手袋を外し、緋依に差し出してきた。 子供用のサイズだったが、毛糸で編まれていて伸縮性があるうえに、緋依自身の手も小さかったため、無理なくすっぽりと収まった。「わあ……ありがとう。でも、今度はあなたの手が冷たくはありませんか?」 緋依が心配そうに眉を下げると、男の子はえっへんと得意げに胸を張った。「ぼくは子供だから大丈夫!」 その背伸びをした可愛らしい優しさに感激し、緋依はふにゃりと愛おしそうに微笑んだ。 しかし、二人がすっかり打ち解けている様子を、後方から見ていた白玖は面白くなさそうに眉根を寄せていた。「……ちょいちょーい。君たち、僕のこと忘れてない?」 不満げな声とともに、長身の白玖が背後に影を落とす。見知らぬ青年の凄みに男の子が少しだけ肩をすくめたのを見て、緋依は慌てて間に入った。「ごめんなさい。私は緋依。こっちの機嫌が悪いお兄ちゃんは、白玖。あなたのお名前は?」「ぼく、弥太郎!」 白玖の白い軍服と、首に巻かれた青いマフラーを見上げながら、弥太郎は元気よく名乗った。そして、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべる。「緋依お姉ちゃん、白玖お兄ちゃん! こっち
last updateLast Updated : 2026-07-14
Read more

12.惨劇

 あの日から数日が経った、冬特有の星が凍てつくように美しい夜。 風呂上がり、緋依はいつものように長椅子でだらけている白玖の白い髪をタオルでわしわしと拭いていた。あの雪の日から、何度か二人で公園周辺を散策してはみたものの、なかなか赤い手袋の持ち主である弥太郎には会えずにいた。「最近平和だねぇ。暇だし、そろそろ戦わないと鈍っちゃうよ」 暖炉の前の椅子に腰を下ろした白玖が、緋依を手招きしながらあくび交じりに言った。「ぶ、物騒なこと言わないでくださいよ。平和が一番じゃないですか」 緋依が苦笑しながら歩み寄ると、白玖はその腕を引いて自分の膝の上に座らせた。そして、背後から緋依の首筋に冷たい顔を埋める。「……平和だから忘れちゃうかもしれないけど」 耳元で囁くその声は、ひどく静かで、どこか警告めいていた。「この世界は残酷だよ。――あまり他の人間に、情を抱かないことだ」 「え……?」 真意を尋ねようと緋依が振り返る前に、白玖は「さて、そろそろ眠ろうか〜」とあっけらかんと立ち上がり、寝室へと向かってしまった。  彼は当たり前のように緋依のベッドに潜り込み、布団の中から両手を伸ばす。「僕の可愛い〝湯たんぽ〟ちゃん。おいで?」 「はいはい」 緋依もまた、当たり前のようにその冷たくて広い腕の中へと飛び込んだ。明日の朝は彼にどんな料理を作ってあげようか。今ある食材は……卵にほうれん草に、にんじんに……。  ぬくもりの中でそんなことを考えているうちに、緋依はいつの間にか深い眠りに落ちていた。 しかし、朝が訪れる前。 ジリリリリリリリッ!  突如として、部屋の空気を切り裂くようにけたたましい警報音が鳴り響いた。壁の警告灯が、血のような赤い光を点滅させる。『――緊急事態! 北の居住区に〝異形〟が出現! 白玖様、直ちに出撃をお願いします!』「んぇえ……こんな時間に……? 空気を読まない異形だな」 「は、早く軍服に着替えないと……!」 寝起きでよろよろしている白玖を無理やり起こし、二人は急いで特務軍の軍服に袖を通した。 現場に駆けつけると、そこはすでに地獄だった。  酷い血と内臓の匂いが鼻をつく。周囲はすでに、兵士と逃げ遅れた住民の血肉に塗れていた。今回現れた〝異形〟は数が異常に多く、しかも体躯が大きいものばかりだった。 白玖は空中に飛び出すと同時に
last updateLast Updated : 2026-07-15
Read more

13.残酷な世界

 崩れ落ちた瓦礫を越え、白玖は緋依を伴って、血に染まった小さな亡骸の元へと辿り着いた。 緋依は言葉を発することもなく、首を失った弥太郎の小さな身体をしっかりと胸に抱きしめた。その瞬間、堰を切ったように大粒の涙が零れ落ち、痛ましい号泣する声が冷たい朝の空気に響き渡った。  白玖は静かに目を伏せ、冷ややかな声でポツリと告げた。「……人間は脆い。そして、この帝都は狭い。どう足掻いても、この世界は残酷なんだ」 それは、数百年の間、幾度となく人間の死を見送ってきた彼だからこそ言える、絶対的な真理だった。「僕が『情を抱かないことだ』って伝えた意味、これでわかったかな?」 その問いに、緋依は弥太郎を抱きしめたまま、ゆっくりと首を横に振った。「……それは、無理です」 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、深紅の瞳で真っ直ぐに白玖を見つめ返す。「私は……人に救われました。幼い頃に白玖様に救っていただき、孤児院のたくさんの人たちに救ってもらえたから、この残酷で美しい世界で、今日まで生きてこられたんです」 嗚咽を漏らしながらも、彼女の声には決して揺るがない芯の強さがあった。「だから、情を抱かないなんて無理です。ただ……ただ、少しでも悲しい思いをする人がいなくなるように、手を伸ばして、人を救っていきたい……っ」 何度理不尽に打ちのめされようとも、人間を、世界を愛することをやめない。  そのひたむきで愚直な姿に、白玖は微かに眉根を寄せ、ひどく複雑な表情を浮かべた。まるで、眩しすぎる光に当てられて戸惑っているかのようだった。「……はあ。わかったよ」 やがて、彼は深く溜息を吐き出し、気怠げに頭を掻きむしった。「なら、さっさとこの子を安置所へ運んでやろう。そして本部に戻って、君の血を吸わせてもらうぞ。さすがに僕も疲れた」 緋依は白玖の手を借りながら、遺体が集められている場所へと弥太郎を運んだ。  冷たくなった小さな手を胸の上で組ませ、用意された花を添える。そして、軍服のポケットに入れたままになっていた、あの小さな赤い毛糸の手袋を、そっとその上に乗せた。「……返すのが、遅くなってしまってごめんなさい。助けられなくてごめんなさい……。どうか、どうか、安らかに……」 深く手を合わせ、祈りを捧げる。  二人分の足跡だけを雪に残し、彼らは静かにその場を後にした。 特
last updateLast Updated : 2026-07-16
Read more

14.名残雪

 あの凄惨な襲撃から、数週間が過ぎた。 対異形特務軍首席参謀官である火野の迅速かつ的確な手腕により、北の居住区の復興は目覚ましい早さで進んでいた。  立ち昇っていた黒煙はとうに消え去り、瓦礫の山は綺麗に片付けられ、黒焦げになっていた骨組みは真新しい木材へと組み直されている。帝都・白嶺には再び、人々の力強い営みが戻りつつあった。 あの地獄のような夜、緋依は目の前で小さな命を理不尽に奪われた。その悲しみと喪失感が、完全に癒えることはない。それでも彼女は、自らの宿命から逃げることなく、前を向いて己の使命を果たす日々を送っていた。 そんな復興の活気に満ちた街の中心部を、白玖と緋依は二人並んで歩いていた。  表向きは〝異形の残党が潜んでいないかの偵察〟という名目だが、肩が触れ合いそうなほど寄り添って歩く二人の姿は、はたから見ればただの微笑ましい逢瀬にしか見えないだろう。 歩きながらふと視線を上げると、重厚な赤レンガの西洋建築の塀越しに、梅の花が可憐なつぼみをほころばせているのが見えた。凍てつくような寒さの底にも、確かな春の気配が混じり始めている。もうすぐ、この長く厳しかった冬が終わろうとしていた。「……今日は一段と冷えるな」 特務軍の絶対的な神様は、相変わらず寒さに弱かった。  白玖は緋依から贈られた青いマフラーに顔の半分を深く埋めながら、すりすりと緋依の肩に身を寄せてくる。その白髪が、冷たい風にさらさらと揺れた。 その時、灰色の空からちらほらと白い結晶が舞い落ちてきた。  おそらく、この冬最後の名残雪だろう。途端にブルッと大袈裟に肩を震わせた白玖を見て、緋依はふふっと小さく笑い声をこぼした。「私は、次の冬の満月の日に、生贄に捧げられます」 ふいに紡がれた静かな言葉に、白玖の足がピタリと止まる。  いつもと変わらない、穏やかなトーンだった。自分の死を語っているというのに、そこに恐怖や未練の色はない。「白玖様は冬が嫌いかもしれませんが……春、夏、秋は一度限りでも、冬だけはもう一度、白玖様と一緒に過ごせるんですね」 緋依は足を止め、空を見上げた。ひらひらと舞い落ちる雪が、彼女の鼻先で淡く溶けていく。「そう思うと、なんだかこの冷たい雪も愛おしく感じます」 ゆっくりと振り返った緋依は、ふわりと柔らかく微笑んだ。「また、次の冬も……白玖様と一緒に
last updateLast Updated : 2026-07-17
Read more

15.潮騒に沈む傷跡

 長く厳しかった冬が終わりを告げ、帝都・白嶺に柔らかな春が訪れた。 雪解け水が川を潤し、街の至る所で木々が芽吹く。目抜き通りに立ち並ぶ重厚な赤レンガの西洋建築を縁取るように、見事な桜並木が一斉に薄紅色の花を咲かせていた。 チンチンと鐘を鳴らして走る路面電車が通り過ぎるたび、春の風に乗って美しい桜吹雪が舞い上がる。華やかな街並みと、儚くも鮮やかな桜の対比は、見る者の心を明るく弾ませた。「白玖様、桜、とっても綺麗ですね!」 緋依は舞い散る花びらを手のひらで受け止めながら、もう片方の手に持ったみたらし団子を幸せそうに頬張った。甘辛いタレが口いっぱいに広がり、ふにゃりと頬が緩む。「……緋依は花より団子じゃないか」 呆れたように言いながらも、白玖は自分の串から最後の一つを口に放り込んだ。二人は特務軍の白い軍服を纏い、並んで春の帝都を歩いていた。 食べ終えた串を紙に包んで捨てると、自然な動作で二人の手が繋がれた。 今日、二人が向かっているのは、帝都の端に広がる海沿いの道だった。孤児院育ちで海を見たことがないという緋依のために、少し遠出をして足を伸ばすことにしたのだ。 しかし、白玖の足取りはどこか重かった。「……僕、海って苦手なんだよね」 ぽつりと漏れたその声には、いつもの飄々とした響きがなく、微かな陰りがあった。冷たく暗い海底。思い出したくもない絶望の記憶が、潮の香りと共に蘇ってくるからだ。 そんな彼の事情を知らない緋依は、心配そうに足を止めた。「えっ、そうだったんですか? それなら、行くのやめておきますか?」「いや。緋依が見ておきたいなら付き合うよ」 だって君は、短い命なんだし――。 無意識に喉まで出かかったその言葉を、白玖はぐっと呑み込んだ。次の冬には失われてしまう命。だからこそ、彼女が望むものはすべて見せてやりたかった。 やがて視界が開け、見渡す限りの青い海が広がった。 太陽の光を反射してキラキラと輝く水面。ザザーッ、と寄せては返す波の音。「わあぁ……!」 緋依は歓声を上げ、白玖と繋いでいた手を離して波打ち際へと駆け出していった。 白玖は砂浜まで下りることなく、少し離れた防波堤に寄りかかり、ただ静かに彼女の姿を見守ることにした。「つめたっ!」 軍靴と靴下を脱ぎ捨て、素足で波と戯れる緋依。まだ冷たい海水に肩をすくめながらも、そ
last updateLast Updated : 2026-07-18
Read more

16.神様と恋バナ

 その日の夜。  春の柔らかな空気が帝都を包み、夜の冷え込みもすっかり落ち着いていたというのに。  特務軍本部の特別室、その寝室の扉を開けた緋依は、小さくため息をついた。  なぜか当たり前のように、緋依のベッドの布団の中には白玖が潜り込んでおり、「早くおいで」とばかりに両手を伸ばして待っていたのだ。「はいはい……」 緋依は苦笑しながら、彼が広げた腕の中へと潜り込んだ。「もう春ですし、さすがに湯たんぽは必要ない季節じゃないですか?」 「僕は寒がりだからね。夏でも必要になるから、今のうちから覚悟しておいてよ」 「それ……ただ一緒に寝たいだけなんじゃ……」 「細かいことは気にしない〜」 のらりくらりとかわし、白玖は緋依の身体をぎゅっと抱きしめてくる。氷のように冷たかったはずの彼の体温も、最近ではひどく心地よく感じられた。  まんざらでもない気持ちで彼の腕の中に収まりながら、緋依はふと、こんな穏やかで平和な日々がずっと続けばいいのに、と思いかけた。 しかし、すぐに胸の奥でかぶりを振る。(駄目よ。私は、生贄なんですから) やがて白玖が静かな寝息を立て始めても、緋依はなんとなく寝付けず、暗闇の中で考え事をし始めていた。  脳裏に浮かんだのは、日中、海辺で出会ったあの男性のことだ。恋人が左手を失い、渡せなくなってしまったという結婚指輪を、彼は悲痛な顔で空に透かしていた。(婚約……指輪……) 緋依は自分の左手をそっと目の前にかざしてみた。  生贄である自分は、十五歳の冬までしか生きられない。だから、誰かと結ばれて結婚する未来なんて、到底あり得ないのだ。万が一できたとしても、自分はすぐにいなくなってしまい、相手の男性に悲しい思いをさせてしまうだけ。 それでも、一人の女の子として生まれてきたからには、やはり結婚式への密かな憧れはある。  雪のように美しいドレスを着て、色鮮やかなステンドグラスから光が差し込む教会を歩く。そして、隣でタキシードを着て微笑んでくれているのは――。(――はく、さま……?) 不意に鮮明な想像が膨らみ、緋依は布団の中で「わわっ」と首をぶんぶんと横に振った。  神様相手に、なんておこがましい妄想をしているのか。けれど、孤児院での生活を振り返っても、ここまで距離の近い男性は白玖が初めてだった。どうしても、一つの特別な存在
last updateLast Updated : 2026-07-19
Read more

17.初恋の相手になってあげる

 翌朝。ふかふかの布団の中で微かに寝返りを打つと、緋依はふわりと冷たい空気に包まれた。 ゆっくりと目を開けると、息を交換できるほどの至近距離に、白玖の整った寝顔があった。雪のように白い前髪が、緋依の額をくすぐっている。 毎日の同室生活ですっかり慣れたはずの光景だったが、今朝はどうしても心臓の音がうるさかった。昨夜、彼から耳元で「もしかして、僕のこと男として意識してる?」とからかわれた記憶が鮮明に蘇り、ぶり返した羞恥心で頬がカッと熱くなる。 額に落とされた、あの冷たくて優しいキスの感触。 思い出してこれ以上顔が赤くなる前に、緋依はそーっと彼の腕をすり抜け、彼を起こさないようにベッドを抜け出した。 洗面所の冷たい水で火照った顔を洗い、キッチンスペースへと向かう。 手早く身支度を整え、朝ごはんの準備に取り掛かった。本日のメニューは、ほうれん草をたっぷりと混ぜ込んだ卵焼きのサンドイッチだ。 ボウルで卵を溶き、熱したフライパンにバターを落とす。香ばしい匂いとともに、黄色と緑の鮮やかな卵焼きがふんわりと焼き上がった。それを軽くトーストした食パンに挟み、食べやすい大きさに切り分ける。「……ん、いい匂い……」 寝室の扉が開き、シャツをだらしなく着崩した白玖が目をこすりながら現れた。 テーブルに並べられた湯気のおもてなしを見るなり、気怠げだった彼の瞳がパッと輝く。「おはようございます、白玖様」「おはよう。……相変わらず、君のご飯は最高だね」 椅子に座るなり、白玖はサンドイッチを一つ手に取って大きな口を開けた。バターのコクとほうれん草の甘みが口いっぱいに広がり、彼は満足げに喉を鳴らす。「……やっぱり緋依、僕の嫁にきた方がいいよ」 もぐもぐと咀嚼しながら、彼がなんでもないことのように爆弾発言を落とした。 いつもなら「私は生贄です!」と真っ赤になって否定するところだ。しかし今朝は、昨夜の教会での妄想を思い出してしまい、緋依の顔はポンッ! と音を立てんばかりに熱を持った。(……もしここで、私が『はい』と受け入れたら、白玖様はどんな反応をするのだろう?) ふと、そんな少しだけ意地悪な考えが脳裏をよぎった。 いつも自分ばかりからかわれて、恥ずかしい思いをしている。たまには、彼の余裕を崩してみたい。 急に黙り込んでしまった緋依の顔を、白玖が不思議そうに覗き
last updateLast Updated : 2026-07-20
Read more

18.失うには惜しい生贄

 春の心地よい陽気に包まれた、帝都・白嶺の目抜き通り。  満開の桜並木の下を、白玖と緋依はしっかりと手を繋いで歩いていた。緋依の胸の奥では、先ほど彼から「初恋の相手になってあげる」と言われた甘い余韻が、今もまだ静かに響き続けている。 ふわりと桜の花びらが舞う中、背後から低く通る声が二人を呼び止めた。「おい、そこの暇そうな二人」 振り返ると、路肩に停まった特務軍の黒塗りの自動車から、後部座席の窓が開けられていた。そこから顔を出していたのは、長い銀髪を低い位置で束ねた男――対異形特務軍総帥の鷺原斎である。  所用で出かけていた帰りなのだろう。鷺原は腕を組み、鋭い眼差しで白玖を見た。「ずいぶんと暇そうだな、白玖。たまには訓練場にも顔を出して、兵士たちに稽古をつけてやれ」 「げっ……総帥殿。面倒くさいなあ……」 あからさまに嫌そうな顔をしてそっぽを向く白玖。その隣で、緋依は総帥の姿を見るなりピシッと背筋を伸ばし、直立不動で敬礼をした。  鷺原が何か言葉を返そうとした、その時だった。「誰か! 子供が池に落ちたぞ!」 並木道のすぐ脇に広がる人工湖の方から、切羽詰まった悲痛な叫び声が上がった。  三人の空気が一変する。 鷺原が素早く車を降り、白玖と緋依もまた、声のした方へ弾かれたように駆け出した。  見ると、岸から少し離れた水深の深い場所で、小さな女の子が溺れて水面を激しく叩いていた。春とはいえ、水温はまだ凍えるほど冷たいはずだ。今にも水面下に沈んでしまいそうだった。  鷺原が即座に軍服の外套を脱ぎ捨て、躊躇なく湖へ飛び込もうとしたその瞬間。「お待ちください、総帥殿! 私が魔法で助けます!」 緋依が鷺原の前に躍り出て、湖に向かって両手を突き出した。  深く息を吸い込み、体内の膨大な魔力を一気に練り上げる。  緋依が指先を振り上げた直後、溺れる少女の真下の水面が大きく泡立ち、噴水のように勢いよく巨大な水柱が立ち上がった。水柱は少女の身体を傷つけることなく、その下から優しく押し上げるようにして空中へと浮かせたのだ。 周囲の民衆から驚きのどよめきが上がる。  緋依は額に微かな汗を滲ませながら、その水柱を巧みに操り、スライドさせるように岸辺へと移動させた。そして、芝生の上へ柔らかく少女を降ろした。「げほっ、ごほっ……! うわあぁぁん!」 「
last updateLast Updated : 2026-07-21
Read more

19.初恋を喰らった神様

 湖での騒動の後、二人は近くのレトロな喫茶店で遅めの昼食を済ませた。 春の柔らかな日差しの中、特務軍本部へと続く大通りを、並んでゆっくりと歩いて帰る。その道すがら、緋依の足がとある豪奢な宝飾店の前でピタリと止まった。 ガラス張りの美しいショーウィンドウ。そこに飾られていたのは、春の陽光を浴びてきらきらと輝く、ガラス細工で作られた桜モチーフの髪飾りだった。薄紅色の花びらが精巧に象られており、緋依は時間を忘れたようにうっとりとそれを見つめていた。 ふと視線を横に向けると、白玖もまた別のショーケースをじっと見下ろしていることに気がついた。彼の氷のような瞳の先にあるのは――美しいビロードの箱に大切に収められた、いくつもの豪奢な指輪だ。「……白玖様? 何か欲しいものでもあるのですか?」 緋依が小首を傾げて尋ねると、白玖はハッとしたように視線を上げ、ふいっと誤魔化すように緋依の方を見た。「君こそ。毎日僕の世話係としても活躍してくれているし、何か欲しいものがあれば買ってあげるよ?」「えっ……で、でも、私は生贄の分際ですし……そんな、アクセサリーだなんて贅沢なもの……」「どうせ国から支給されるお金から出すんだし、遠慮しなくていいんだよ」 慌てて遠慮する緋依をよそに、白玖は迷うことなく宝飾店の重厚な扉を開けた。そして、店員に手短に何かを伝えると、あっという間に小さな包みを受け取って戻ってきた。「はい、横向いて」「え……?」 戸惑いながら顔を横に向けると、緋依の深い藍色の髪に、そっと何かが差し込まれた。 先ほどまでショーウィンドウの向こう側で輝いていた、あの桜の髪飾りだった。「うん。似合ってる」 振り返った緋依を見て、白玖は満足げに目を細めた。 ショーウィンドウのガラスに、薄紅色の桜を髪に飾った自分の姿が映っている。緋依の顔がパッと明るくなり、深紅の瞳が宝石のように輝いた。「あ、ありがとうございます……! 私、ずっと大切にしますね!」 花が咲いたような笑顔で髪飾りに触れ、緋依はふと不思議そうに首を傾げた。「白玖様は、よろしかったのですか? さっき見ていた指輪、買わなくて」「僕は……そうだね」 白玖はもう一度だけ、ショーウィンドウ越しの指輪に目を向けた。「……そのうち、また買いにくるよ」 曖昧に微笑む彼の言葉の真意がわからず、緋依はただ「?
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

20.可愛い生贄ちゃんのお願い

 薄紅色の花びらが帝都の空を舞い踊っていた、あの春の盛りから数日。 華やかだった桜並木はすっかりその花を落とし、代わりに瑞々しい緑の葉が力強く茂り始めていた。季節は確実に巡り、初夏の足音が少しずつ近づいてきている。  特務軍本部の中庭を並んで歩きながら、緋依は眩しそうに木漏れ日を見上げた。「桜、もう散っちゃいましたね」 少しだけ寂しそうに呟く緋依の横顔を、白玖は隣からじっと見下ろしていた。  そして、ふいに手を伸ばし、緋依の深い藍色の髪にそっと触れる。「……まだ、咲いてるじゃん」 彼の長く冷たい指先が撫でたのは、緋依の髪に飾られたガラス細工の桜だった。あの日、宝飾店で白玖が買ってくれて以来、緋依がずっと大切に身につけている髪飾りだ。「えへへ、そうですね」 緋依はパッと顔を輝かせ、嬉しそうに微笑んだ。  白玖からの、初めてのプレゼント。彼が自分のために買ってくれたという事実が嬉しくて、緋依は毎日鏡の前でこの薄紅色の桜を髪に挿すたび、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。 木陰のベンチに腰を下ろした後、緋依は少しだけもじもじと膝の上で指先を絡ませた。「あの……白玖様。本日、何かご用事は……?」 上目遣いで尋ねてくる緋依に、白玖は足を組みながら、面白そうに狐のように目を細めた。「僕に用事なんて、あると思う?」 「い、いえ……」 「何? また僕と逢瀬したいの?」 意地悪くからかわれ、緋依は慌てて首を横に振った。「いえ……あの、少し我儘を言ってもいいでしょうか?」 「我儘? 内容によるかな。言ってみなよ」 緋依は姿勢を正し、真剣な深紅の瞳で白玖を見つめた。「花ノ瀬にある、私のいた孤児院に行きたいのです」 「……花ノ瀬ぇ? またずいぶんと遠いな」 白玖が露骨に眉間に皺を寄せたのも無理はない。花ノ瀬は帝都の中心部から遠く離れた、自然豊かな郊外の街だ。汽車を乗り継いで行かなければならない距離にある。「孤児院の先生やみんなに、また顔を見せると約束していまして……。特務軍に入隊してから、手紙のやり取りはしていたのですが、一度も直接会えていないんです」 緋依にとって、孤児院は唯一の帰る場所であり、家族そのものだった。  幼い頃に目の前で両親を〝異形〟に殺され、心を閉ざしていた自分を温かく迎え入れ、ここまで育ててくれた大切な人々。
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status