All Chapters of SpringS ーハルタチー: Chapter 31 - Chapter 40

57 Chapters

chapter,5 (6)

「どうしましたか」 「刑事さん、気づいてないんですか」 「何を」 上城は応接室を見渡し、両肩を下ろす。こんな場所で一人一人話を聞いていても、意味はないだろうと彼は苦笑する。なぜなら。「あれ」 そう、上城が指さしたのは手のひら大の灰色の機械。盗聴器。  平井はにっこり微笑む。気づくも何も、彼が設置したのだから。「気にしないで大丈夫ですよ。そちらの目的がはっきりしていますから」 「賢季さんですか」 「ものわかりがよくて助かります」 上城夏澄の一人息子、上城春咲。鈴代財閥の将来に関わるであろう重大人物の息子が、まさか次期財閥当主と恋仲に陥っているとは事件が発生するまで誰も知らなかったのだろう。平井は運命の皮肉を感じながら、頭のいい少年の意見を請う。「あえて鈴代泉観に近づいた理由を教えてもらおうか」 「は」 「しらばっくれても無駄だよ。呪われた人殺しの魔女に惚れた愚者とあえて呼ばれることを甘受した理由は何だい?」 「……見当違いですよ」 むすっとした声で、上城は応える。その反応を見て、怒らせたかなと平井は苦笑する。「俺は親父と関係ない。好きになった女の子がたまたま次期財閥当主だっただけだと……何度言ったらわかるんですか」 「たまたま、なんだね」 平井の言い方が、あまりにもわざとらしかったので、上城は不機嫌そうに問い返す。「そういう刑事さんこそ、スズシロを疑ってないのですか」 「人殺しの魔女、って証言ならいくつか取れているよ。勿論、本人も」 自分が人殺しの魔女であることに相違はないと、口にしている。「嘘だ」 「本当だよ。さっき、本人がそう言った。自分こそが、呪われた人殺しの魔女だと」 「嘘だ」 「彼女は自分を責めていたよ。呪われた人殺しの魔女という名称を手にした人間として、この事件が起こったことを、元凶を」 まるで、一連の事件の犯人は鈴代であると言い切るような平井の態度に、上城は「嘘だ」としか言えなくなる。  信じていたのに、鈴代が自ら犯行を自供するなんて……そんなことが。  黙りこんでしまった上城を見て、平井は言い過ぎたかなと顔をしかめる。彼女が口にした人殺しの魔女という意味を、上城は履き違えている。彼女は、殺人を犯していない。犯したのは……「上城くん。なぜ、彼女がそう言ったかわかるかい?」 「え」 茫然自失状
last updateLast Updated : 2026-08-11
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chapter,6 (1)

 呪いを受けた魔女の、真実を暴くため。  賢者は聖母をめぐる、破滅への標を開く。    * * *  綺麗な、ひとだと、思う。「一度だけ、こっそりだけど見たことがあるの。一度だけだけど」 午後九時。  平井に「明日も学校だろ」と言われ、渋々鈴代邸をあとにした豊と上城。メイド服を脱いだ豊は見慣れたグレーのブレザーに着替えている。  上城と帰ることを豊は嫌がっていたが、帰り道が途中まで同じこともあったし、平井に「送ってもらえ」と命令されたこともあって、おとなしく上城の隣を歩いている。抵抗する気力も殺された小堂の遺体を直に見てしまったせいか、今はない。むしろ、早くこの不安をどうにかしたいと、豊は自分のわかっていることを、愚者と言いつけた彼に、話していた。「鈴代泉観の母親だって言われて、思わず納得した……でも」 その中の一つが、鈴代の母親、紗枝のこと。「でも?」 「怖かった」 豊は、小声で呟く。自分の部屋に閉じこもったままの紗枝の姿を垣間見た感想を。「それは、スズシロ……いや、呪われた人殺しの魔女の母親だから怖いってこと?」 真顔で上城に問われて、豊は咄嗟に首を横に振る。「違う。違うの……そういうわけ、じゃあなくて」 歯切れの悪い回答。なんだか豊らしくないなぁと上城は困惑する。鈴代を憎んでいた豊が呪われた人殺しの魔女の母親を恐れる理由として妥当だと思った選択肢を、彼女が自ら否定したのだ。それ以外の理由を、上城は推測できない。  そんな上城をよそに、豊は口を開く。「……彼女が幽閉同然に自室に留められている理由を、あんたは知らないでしょ?」 初めて鈴代邸に入った日に、母親は病気を患っているから今は一室に閉じこもっているという話を聞いただけの上城は、素直に声を上げる。「病気じゃないのか? あんまり詳しく聞かなかったから何の病気かは知らないけど」 「病気、ね。確かに、奥様は病気よ。それも、関係していないわけじゃないわ。でも、本当の理由があるの。もっと物騒で厄介な理由。それを知ってしまったら、いくら綺麗な人だと思っても、怖くて近寄れない」 ぶるっ、と身体を震わせた豊を見て、上城は低い声で確認する。「心の病気か」 「知ってるの」 「……そんな気がしただけ」 物騒で厄介な理由。上城は鈴代から聞いた自室にひきこもっているという紗枝の話、
last updateLast Updated : 2026-08-12
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chapter,6 (2)

 翌日。朝刊の社会面には小堂が何者かによって殺されたことを伝える文面が、隅にさりげなく記されていた。テレビのニュースやワイドショーで堂々と取り上げられてはいない。相変わらず緘口令は続行しているようだ。マスコミへの対応なら問題ないと鈴代は心配していた上城に教える。「圧力、ちょっとかけてるから」 驚いた顔を隠すこともなく、上城は声をあげる。「スズシロが?」 「えへ」 互いの机を向かい合わせてお弁当を食べている二人は、小声で事件について語り合う。「カミジョだって知ってたくせに」 それは、彼を責めるには優しすぎる口調。彼の父親が鈴代財閥の系列会社の責任者であったこと、経営を向上させたことを隠して、上城は鈴代の傍にいたのだから。  そのことを、上城は否定しない。だが。「権力が欲しくて、君に近づいたなんて、思わせたくなかった……それに」 一目惚れだったのは、事実だよ。  榛色の濡れた瞳が、鈴代を見据える。  ……言わなくてもわかるよと、鈴代は微笑を浮かべる。だが、その笑みは一瞬で消え、すぐに憮然とした表情へ戻る。「カミジョ。今日はどうするの?」 今日も朝から平井たちが鈴代邸の現場検証をしていることだろう。鈴代はなるべく彼らの邪魔をしたくないようだ。  それならと、上城は提案する。「放課後、図書館に行かないか? ちょっと調べたいことがあるんだ」 「いいけど、何を調べるの?」 鈴代は上城が何を調べたがっているのか理解できていない。まさか自分の母親が過去に起こした心中未遂について調べようなんて考えてもいないだろう。  だから上城は曖昧に応える。「鈴代財閥の、過去……かな」 嘘にならない程度の、言い訳を。当たらずも遠からずな言い訳を。    * * *  話を聞けば聞くほど、平井は混乱しているようだ。鈴代財閥の一族間で囁かれていた魔女の呪いをまともに考慮しろ、なんて言われるとは、思っていなかったのだろう。  午後四時。緑子は、賢季の部屋の掃除に入っていたようだ。ソファの前に置かれていたクッションに身体を沈めていた彼女と水槽の片隅に湿ったモップが立てかけられていたのを見て、賢季は何も言わずに理解した。一通り仕事を済ませておいてくれたのだろう。  昨日の事情聴取の際に使用した盗聴器を回収し、イヤホンで録音された証言の数々を聞きはじめた賢
last updateLast Updated : 2026-08-13
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chapter,6 (3)

 通報を受け、近淡海緑子の死体が、鈴代賢季の部屋で賢季によって発見されたことを、平井は疑問に思う。しかも殺害方法が針による毒殺……これは何を示すのだろう。「なんだかんだ年頃の男と女が一つ屋根の下にいたんだ、痴情のもつれだろ」 と、いうのが一般的な見解だろうが、それだけはありえないと平井は口を尖らせる。「執事の小堂が殺害されていなければ、俺もそう考えました。でも、その前に小堂が殺されているんです、これはどう説明するつもりですか」 小堂が殺された時間、賢季にはアリバイがある。殺された緑子が証言していた。肉親による証言は認められないが、この場合は有効だと平井は訴える。「だが、次期財閥当主候補である鈴代賢季を重要参考人としないわけにはいかないのは、事実だ。それに……財閥当主、鈴代夕起久毒殺未遂事件で使用された毒を彼は所有していることが判明している。一連の事件が彼を中心に起こっていることを考えると、彼を疑うのが自然なのでは?」 氏家警視の冷静な意見は、平井の訴えをやんわりと斥けるにも等しい。「それに、殺された近淡海緑子は、鈴代一族に仕えていたメイドではないそうだな。彼女が鈴代賢季のアリバイを立証したのが本当のことだとしても、二人が共謀したことも考えねばならない」 「確かに。近淡海緑子は鈴代賢季にだけ仕えていると、小堂が殺害された時の事情聴取で口を割りましたが……」 ……本当にお仕えしているのは、鈴代賢季様、ただお一人です。  あれは、どういう意味なんだ?  鈴代賢季にのみ仕えていた近淡海緑子。彼女が彼に仕えていたのは、彼を次期財閥当主の座に据えたいがためだったのか、それとも何か別の理由があったのか……彼女が何者かに殺されてしまった今になっては何も、理解できない。  だが。彼女を侍らせていた鈴代賢季が知らないわけはないだろう。彼女が傍にいた真の意味を。そうなると、警察は彼から話を聞くことしかできない。「重要参考人として、鈴代賢季を呼べ」 氏家の重苦しい溜め息のあとに吐き出されたのは、平井が想定したとおりの命令だった。    * * * 「わたしの家について調べて、何かわかるの?」 「調べてみないとわからないから、こうして調べているんじゃないか」 午後四時半。授業を終えた上城と鈴代は、区内で一番大きい中央図書館へ足を運んでいた。「近代史のコ
last updateLast Updated : 2026-08-15
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chapter,6 (4)

 綺麗な、ひと、だった。  初恋、だと思う。それまで、こんなに綺麗な人がいるなんて、なんて考えたことがなかったから。  パトカーの後部座席に乗せられた賢季は、終始無言で呆然と、窓の向こうに見える流れていく町並みを眼で追っている。隣にいる平井は、彼が何を考えているのか理解できずにいる。  緑子の死体が賢季の部屋から出てきたことによって、鈴代賢季は重要参考人として警察からマークされることになった。被疑者として。彼は肯定も否定もせずに、パトカーに乗り込んだ。何かに対して諦めているようにも見えるし、逆に何かに対して決意を漲らせているようにも感じられる。  平井は、抵抗もせずに警察の要請を受けた彼を見て、彼が本当に、鈴代夕起久を殺そうとし、小堂雄二郎を殺し……近淡海緑子を殺した一連の事件の犯人なのだとしたら。  そこまで考えて、身震いする。  ……あくまで仮定だということを、忘れそうになる。次期財閥当主候補という隠れ蓑を纏ったままの鈴代賢季が、人を殺すという危険を冒してさえ、望んだものがあるのだとすれば。  それは仮定の域を越えた確信へ変わるだろう。この、事件について黙秘している彼が、話し始めたら。  平井が隣でそのようなことを考えていることも、賢季は気にしていない。  彼は、これから自分が何をすべきかようやく、計画を練り終えたところだから。    * * * 「豊、お疲れっ。今日もバイト?」 更衣室でユニフォームを脱ぎ、慌てて制服に着替えた豊を見て、友人の理沙が興味深そうに声をかける。「うん。これから行かなきゃ」 「毎日ご苦労さん。でも楽しそうだね」 「楽しそう?」 そうなのだろうか。妹が死んだ理由を調べようと始めたバイトなのだ。楽しいなんて言ったら円に対して失礼だ。それに、昨日だって殺人事件が……そう、小堂が殺されたというのに。なんであたしは楽しそうだなんて見られているんだろう?  首を傾げる豊の反応を見て、理沙は意外そうに呟く。「いい人見つけたんじゃないの?」 「はぁっ?」 思いがけない問いかけに、豊は口をあんぐりさせる。いい人? 誰のこと?  ぼんやり脳裡に浮かんだ鈴代邸の若者約一名の面影を思いっきり追いやり、豊は苦笑する。「そんなわけ、ないじゃん」 あんな男、願い下げよ。あたしを厄介ごとに巻き込んで……楽しそうに傍観し
last updateLast Updated : 2026-08-16
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chapter,6 (5)

 夜九時。「春咲、電話。女の子」 「あはいいますぐいきますいますぐ!」 ばたばたと階段を駆け下りる音が受話器越しに聞こえた。鈴代はそんなに慌てなくても逃げないのにと思いつつ、母親から受話器をひったくったのであろう上城に声をかける。「カミジョ?」 「……#また__・__#誰か死んだのか?」 母親がキッチンに戻ったのを確認して、上城は鈴代に尋ねる。彼女が自分に連絡してきた意図を知るために。「残念ながら正解。緑子さんよ」 「だ、誰?」 聞きなれない名前だと、上城が聞き返す。「近淡海さん。カミジョも小堂が殺されたときに見たでしょ?」 「あぁ……近淡海、ね」 その独特の苗字は、忘れていなかったらしい。鈴代から緑子の死体が発見された経緯と、それにまつわる出来事を聞いた上城は、うんうんと頷いて、やがて一つの結論を出す。「賢季さんが疑われるのは仕方ないよ。でも、彼なら自力でどうにかするんじゃないかな」 「でも……」 頼りになる従兄が疑われているのにおとなしくしていらないと鈴代は上城に助けを求めるように、声を荒げる。「重要参考人として素直に応じていたのに、突然姿を消して現場から逃亡しちゃったのよ! これじゃあ自分が怪しい人間ですって公言しているようなものじゃない! それでも放っておいていいの?」 鈴代のぷりぷり怒った声に、上城は事実を確認するように、ゆっくりと言葉を発する。「……え、逃げたの?」 まさかあの賢季さんが? 刑事とも対等に会話していた彼が? どうして?  沈黙を驚きと解釈したのか、鈴代が困ったように溜め息を吐き出す。「それもあったから電話したの。お兄様が一体何を考えて警察を敵に回すようなことをしたのか、わたしにはまったくもってわからないから」 「確かに」 警察から逃げ出すよりも、傍にいて情報を利用する方が彼らしいと、上城も頷く。  それなのに賢季は、警察署から逃亡し、他人の車を盗んでどこかへ行ってしまったという。一体なぜ? どこへ向かった?  上城が考え込んでいるのを電話越しに感じた鈴代は、少しでも彼に情報を与えようと、房江から聞いた過去の話を、語りだす。  紗枝が包丁で胸を刺した一歳二ヶ月の娘の正体。それは。「乳母の、娘?」 「わたし、すっかり忘れていたの。わたしは、事件が起こるまで、彼女に育てられていたってこと
last updateLast Updated : 2026-08-18
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chapter,7 (1)

 妖精が抱く淡い光、輝きだす夜の行方。  それは聖母の生み出した物語をも凌駕する。    * * *  人攫い、人殺し、誘拐犯、ろくでなし……さんざん喚かれても、賢季は堪えない。けろりとした表情で、ハンドルを握りつづけている。  助手席で目覚めた豊は、自分がいつの間にか賢季によって車に乗せられ、知らない町へ連れ出されているという事実が信じられず、何度も自分の頬を叩いては感じる痛覚の存在を確認している。  罵っても平然としている賢季に苛立ちを隠せない豊。つっかかって彼を戸惑わせようと試みるが、彼はそんな豊をいつものように軽くあしらっていた。「警察署から逃げ出して車盗んでおまけにあたしを誘拐するなんて犯罪者顔負けね!」 「誘拐したとは思ってないよ。君が僕を追いかけてきてくれたんじゃないか。駆落ちと言っても疑われないと思うよ」 「誰が駆落ちよ! あんたなんかとそんな展開全然期待していませんからっ」 「じゃあ誘拐犯と人質ってシチュエーションで」 「だからどうしてそうなるのよ!」 賢季を睨めつける豊は、何を言っても表情一つ変えずに楽しそうに応える彼と押し問答をしているうちに、呆れたのか諦めたのか、もういいわと黙り込む。それを、少しだけ残念そうに見つめる賢季。「ところで、ユタカはどうしてここにいるんだい?」 「……あんたが車に強引に乗せたんでしょ」 「その前。警察署に君がいた理由を知りたいんだ。追いかけてきたわけじゃないって言うなら、どうしてかなぁって気になって気になってこのままじゃ夜も眠れなくなりそうだよ」 「不眠症で死ぬことはないわ」 「ヒドイな」 ぶすっとした表情の豊をサイドミラー越しに眺めて、賢季は苦笑を浮かべる。「……偶然よ」 「ぐうぜん?」 「そ。部活が終わったからいつものように屋敷に行くつもりだったんだけど、駅前通りであんたを乗せたパトカー見つけて」 「愛の力で追いかけて今に至る、と」 咄嗟に、心底嫌そうな顔で言い返す豊。「いやそれ絶対ありえない」 「ヒドイな」 「……で、何があったのか電話したら。房江さんが『今日はお休みなさい』って言ってくれたから」 「僕を追いかけてくれたんだね」 「うっ……そう言わせたいんでしょ」 「ご名答」 顔を真っ赤にして、俯く豊。やがて。「あんたが、人を殺したんじゃないかって
last updateLast Updated : 2026-08-19
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chapter,7 (2)

 頭を抱える状況とは、まさしくこのような状態だと平井は痛感する。  重要参考人としておとなしくやってきた鈴代賢季が警察署から逃亡した。それも部下の車を盗んで。  車を盗まれた小松に非があることも事実だ。車のキーを差しっぱなしにしたままにしておくとは同じ刑事でありながら恥ずかしい限りだ。無用心極まりないったらありゃしない。  が、当の小松は車を盗まれて被疑者に逃亡されたというのに慌てていない。自分が焦ってもどうにもならないじゃないですか先輩と硬直する平井を宥める始末。「……そういう問題じゃねぇだろ」 だが、盗まれたものは仕方ない。車のナンバーもわかっていることだし、照合すればすぐにどこを走っているかはわかるはずだ。携帯電話を彼が持っていれば追跡機能を使うことも可能だ。「まぁ、まずは鈴代賢季の行方を探すか」 それにしても。  なぜ、今になって鈴代賢季は逃亡したのだろう? 警察とも同等にやりあっていた彼が逃げ出すとは……自分が怪しいと自ら言い出すようなものではないか。「まさか、なぁ」 疑いだすときりがない。カサゴ毒を示唆したのは彼だし、動機があるように感じられるのも彼だし、彼の行動は平井から見ると何をしたいのかがよくわからない。もしかしたら、賢季の言動に翻弄されても、本当に彼が凶悪な犯罪に手を出した人間だと、信じたくないだけなのかもしれないと、平井は気づく。「人殺しの魔女と、冬将軍か」 呪われた人殺しの魔女と陰で囁かれる次期財閥当主、鈴代泉観。彼女の囮として、次期財閥当主候補という立場を見せる正統なる賢者、鈴代賢季。  半年前に泉観の目の前で死んだ妖精のような少女、東金円。  十五年前に心中未遂を起こし、それ以来自室に引篭もるようになった王妃、鈴代紗枝。 何者かによって命を狙われた財閥当主、鈴代夕起久。無残な姿になった執事の小堂雄二郎。そして。  今日の夕方、賢季の部屋で何者かによって首を絞められ命を絶たれた近淡海緑子。  これらの、一連の出来事は本当に『呪い』が生み出したものなのか? いや、それはないだろう……平井は頷く。  呪いというヒトコトで片付けるにはもう、無理がある。そもそも呪いなんて非現実的な現象を今もなお存在していると言い張る鈴代一族にも問題がある、とは思う。 呪いが生み出した悲劇なんて陳腐な表現、誰が最初に言ったんだ
last updateLast Updated : 2026-08-30
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chapter,7 (3)

 呼ばれた。だけど、その呼び名は少女の名前ではない。美琴……母親の名前のような気がした、けど少し違うような気もした。  誰だろう、と、思う。「み……こ」 でも、そのことを尋ねるのは無粋だ。だから我慢していた。真実を尋ねて後悔したらいけないからと。いつから我慢したのか、どうして我慢しなきゃいけないのかなんてわからなかったけど。「美弦! 何時だと思ってるの。もう就寝時間よ。早く掃除して寝なさい!」 刺々しい玉貴の声が響く。どうして彼女は自分を憎んでいるんだろう。何か理由があったと思う。だけど、それを考えることすら、美弦は放棄しようとしていた。  下賎の人間である自分のことを、常に気配ってくれた小堂の死。そして、姉のように慕っていた緑子の死。美弦にとってそれは、呪いのようだとも思えたし、運命という残酷な方程式が解かれただけのようにも思えた。  立場が違えど、自分と同い年の少女、鈴代泉観が人殺しの魔女だと囁かれているのも、不思議だと感じるだけだ。ただ、綺麗な彼女があんな風に人を殺す姿は想像できないし、したくないなと美弦は思う。  冬将軍だと紗枝は言っていた。だけど、人殺しの魔女でもない彼女がどうしてそんな言葉を口にしたのか美弦にはわからない。  美弦がここにいられるのは、明起久のおかげだ。彼が天涯孤独の身になった美弦を引き取ってくれたから。たとえそれが、母親の面影を求める行為を代償にされたとしても。彼女は一人で生きるには幼いと自覚していたから、甘受してしまった。  発達途中の身体は、ときどき明起久に弄ばれる。その無言の約束を知っているのは、緑子だけだった。緑子亡き今も、その意味をなさない行為は続いている。明起久は、美弦を愛撫する都度、彼女ではない誰かの名前を囁く。美琴。美しい琴。母親の名前を。  神楽坂の芸者だった母親。政界や経済界、法曹界の大物を手玉にとって、男どもを魅了したという母親。その娘である美弦も、同じような職につくのかなとおぼろげながら、考えていた。美琴が死ぬまでは。「ようこそ、美弦」 雪が溶けたばかりの早春、母親の美琴が肺炎で呆気なく死んで、ひとりぼっちになった美弦は、不登校がちだったにも関わらず入学することができたエスカレーター式の高校に進学したものの、すぐに学校をやめ、鈴代邸に仕えることになった。そのとき、優しく声をかけてくれ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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chapter,7 (4)

「そうだ。殺された近淡海緑子の一回り年上の姉で、現在三十八歳。どうやら羽村翠子と名乗っているらしい」 「結婚なさっていたんですか?」 「いや、結婚はしていない。今も昔も」 上城は両親に友人の家に泊まるとでも言ったらしく、賢季の後を追うことにした平井たちについていくとちゃっかり小松の運転するパトカーの後部座席に居座っている。その隣でつい先ほど調べ上げた翠子に関する情報を伝える平井。「でも、スズシロの乳母だったんですよね」 「シングルマザーさ」 だから近淡海姓のまま、鈴代邸にいたのか。上城は頷き、平井の言葉の続きを待つ。「で、近淡海家から離縁された彼女は今、羽村家で世話になっているらしい」 「もしかして、小堂さんと関係があるんですか?」 「いや。そこまでの繋がりはなさそうだ。大利根雪奈って大学時代の同級生……要するに旧姓羽村雪奈だ……の元に身を寄せているだけみたいだからな」 「はぁ」 興味なさそうに上城が首を振るのを見て、疲れているのか眠いんだろうなと平井は苦笑する。「着くのは明け方だろう。今のうちに少し休んだ方がいいんじゃないか?」 車はまだ、中央自動車道に入ったばかりだ。目的地は遠い。「そうですね」 平井からの提案を受け入れた上城は、目蓋を閉じて、やがて何も言わなくなる。「……疲れていたんでしょうね」 運転席で、二人のやりとりを聞いていた小松が、ぼそりと呟く。横目で眠り込んでしまった上城を見て、平井は苦笑する。「だろうな」 「それにしても、面白い子ですね。一人で呪いを解くんだ、なんて」 賢季に車を盗まれたことを責められ、渋々運転手役を仰せつかることになった小松だが、平井と上城の真剣なやりとりを聞いているうちに、自分も負けてはいられないと闘争心を煽られたようだ。「何が言いたい」 平井に問われ、あくまで推測ですけど、と小松は囁く。「賢季よりも、翠子の方が怪しいと思いますよ」 「それは、どういうことだ」 低い声で、念のため、上城に聞かれないよう声を抑えた平井に、小松が微笑を浮かべる。「鈴代紗枝の心中未遂事件で我が子を失った被害者であるはずの彼女が、なぜ一族から離縁させられたのか……彼女が、離縁させられるだけの罪を犯しているんではないでしょうか?」 「離縁させられるだけの罪?」 「あ、でも警察沙汰になるほどのことでは
last updateLast Updated : 2026-09-02
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