Alle Kapitel von SpringS ーハルタチー: Kapitel 41 – Kapitel 50

57 Kapitel

chapter,8 (1)

 聖母の悪戯と嘘に、賢者は溺れ始める。  愚者に糾弾された聖母は、静かに泣いた。    * * *  冷や汗がじっとり、身体を湿らせている。  嫌な夢を見たと鈴代は首を左右に振る。『母親の心を踏みにじるだなんて恐ろしい。人を殺したと同じよ』 あなたには関係ないことだと無視していたら余計彼女を怒らせた。傷つけるために人の過去を勝手に漁って、弱みにして、近づく彼女が苦手だった。『あなたは魔女みたいね。綺麗な顔して冷淡なことを平気で吐いて、気に食わないことがあると人を平気で殺してしまう』 それはあなたのことじゃないの? なんて心の中で反撃していたわたしを彼女は知らない。『あたしが命名してあげるわ! あなたに泉観だなんて晴れやかな名前は似合わないもの。人殺しの魔女、なんてみんなに知られたらきっと誰もあなたを相手にしなくてよ』 押し付けがましい一方通行の罵詈雑言。彼女自身が歪んでいることに、彼女は気づいていないのだろう。確かに、彼女に目をつけられたことで、鈴代は誰からも相手にされなくなった。味方になったところで救えることはないと知っていたから。彼らの判断は賢明だと鈴代自身も思う。『傑作ね。人殺しの魔女!』 もう、あのこは死んでしまったというのに、未だに夢に出てくるなんて。罪悪感の成せる技かもしれない。  ラベンダーの香りのするお線香だった。早春の空に、白い煙が眩しかった。遺体を焼いても白い煙が出るんだなと呆然と、そんなこと思った。 天誅と葬儀で囁いたのは誰だっけ。泣いたフリしてみんなで影で嘲笑ってやろうよ、なんて誘われたっけ。断ったら。『さっすが人殺しの魔女!』 けらけらけら、笑われた。みんな喜んでいた。彼女が死んでしまったことにホッとしていた。どういう風に死んだかなんてどうでもよかった。不幸な事故として片付けられたことすら彼女たちは知らなかっただろう。ただ、葬儀の時に鈴代が彼女の姉に責められたのを見た誰かや、彼女が死んだときに鈴代が傍にいたことを知った誰かが「もしかしたら鈴代さんの完全犯罪かも」なんて面白がって噂していたから。結果的に、鈴代は孤立してしまったけれど。  中学三年が終わる早春。みんな幼くて自分で自分の意見に対して自信を持てなかった頃の話。附属の高校に進んで、新しいクラスになってからも、根も葉もないバカげた噂だけが一人歩きを続
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-03
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chapter,8 (2)

  東の空に朱色が走る。薄くなってきた藍色の緞帳を塗りつぶすように、黄金色の太陽が一日のはじまりを合図する。  朝五時。眠っていた平井を起こさせたのはバタン、という開閉音。「ん?」 寝ぼけた顔で、起き上がった平井は、隣で肩に寄りかかったままむにゃむにゃ言っている上城を押しのけ、空になっている運転席を見つめる。「小松?」 「あ、先輩おはようございます!」 一晩中運転をしていたというのに小松は疲れた様子も見せず、笑顔だ。「どうした? 外に何かあったか?」 「車です」 小松が指さした場所は、廃車場のようだ。そこに、真新しい白い車が場違いのように置かれている……鈴代賢季が盗んでいった小松の車だ。どうやら賢季が乗り捨てていったらしい。「ここからは山道か」 「車で行くのは無理でしょう」 深い緑色の木々が坂道に沿うように植えられている。アスファルトで舗装された道はここで途切れている。突然途切れたアスファルトの道を見て、平井は苦吟する。「……人が行き来した跡はあるな」 柔らかい泥の上に、スニーカーの跡がくっきり残っている。賢季の靴にしては小さいようにも思えるが、まだ新しい足跡が山道に残っていることが、平井たちを安心させる。「賢季が乗り捨てた車がそこにあるんだ。ここから先は歩いて行ったと考えていいだろう。とりあえず、上城くんを起こそう。この先は車で行けないからな」 そう言いながら、平井が上城の身体を揺する。だが、上城はむにゃむにゃ意味不明な言語を呟くだけで、起きる気配がない。「おい、起きろ」 平井のドスのきいた声が車内に響く。だが上城はすぅすう寝息を立てつづけている。小松が呆れたように口を出す。「よく寝てますね。置いていきますか?」 「いや、そういうわけにもいかないだろ……彼がいないと本当にこの道でいいのかわからないわけだし」 「ですが、一本道ですよ。目が覚めたら追いかけてくるんじゃないですか?」 「まぁ、それもそうなんだよな」 い
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-04
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chapter,8 (3)

  目を覚ましたとき、上城はひとりだった。暗かった空の色が、澄み始めている。  寝起きの悪い上城は、どうして自分がここにいるのか理解できずに周囲を見回す。「先に行く……置いていかれたか」 平井の置手紙に気づいた彼は、ふぅと溜め息をつく。  車の扉を開ける。一面に広がる緑。針葉樹の森。外に出る。冷たい風。なだらかな上り坂。そして、泥の中に残った靴の跡。  足跡を辿る。明るさを取り戻した山道は、見通しがきく。ぬかるんだ泥にわざわざ足を突っ込む必要もない。慎重に、一歩、また一歩進む。  足跡が、消える。「?」 林が、途切れた。  ……畑か?  山深い場所に突然現れた畑は、淡い紫色に染まっていた。  場違いな花畑だった。もうすぐ冬だというのに、一面の紫。黄緑色の茎と、深緑のレースのような葉、天に手を伸ばすように花穂が風に揺れている。甘い香り。これは……「ラベンダーだ」 晩秋まで咲き誇る種類もあるという、きっとこれがそうなのだろう。上城は幻想的な光景に魅入られ、佇む。  だが、ラベンダーには記憶を失わせる作用がある。眠りにつく前にこの香りをかげば、ストレスを忘れさせ、心身をリラックスさせる効果があるが、日常生活で用いると、集中力を奪い、心神を喪失させることもありえる危険な花なのだ。  上城はしばし、ラベンダーの花穂が風に揺らぐのを見て、その先に石造りの建物があることに気づく。  木々に囲まれるように、その建物は鎮座していた。上城はその方向に向かって歩き出す。ラベンダー畑は突然途切れ、芝生によって作られた道に変わる。長い一本の道は、半分くらい歩くと石畳に変わった。そして、その先に見えたのは。「……鳥居?」    * * *  日の出の太陽は黄金色。地平線から顔を出した太陽を拝んだ豊は、夕陽の淋しげな表情とは異なる偉大な姿に感動する。「すごい」 ぐっすり眠った雪片を抱いたまま、雪奈が微笑む。「大きなてのひらみたいでしょ」 「うん、う
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-07
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chapter,8 (4)

 「さかきちゃんには、妹がいたの」 見知らぬ女性の声が、静まりかえった建物から響く。上城は彼女が翠子で、その話をおとなしく聞いているのが賢季であると理解する。  ……賢季さんに、妹?  もっと詳しい話を聞きたいと、上城が膝を乗り出すと。「そこにいらっしゃるのはどなた?」 逆に声をかけられた。上城は渋々、木製の引き戸に手を伸ばす。部屋から漂ってきた甘い香りにむせそうになる。  ……ラベンダーだ。  そこには、いつもの皮肉っぽい表情を浮かべる賢季ではない、死んだ魚の目をして息をしている賢季がいた。  翠子は悪戯を思いついた子どものように指を鳴らす。賢季に向けて、パチン。「……な」 上城はその光景をどこかで見た錯覚に陥る。そのとき、指を鳴らしたのは賢季で、鳴らされたのは鈴代だった。今、指を鳴らしたのは翠子で、鳴らされて崩れ落ちたのは賢季で。「簡単な催眠術よ。さかきちゃんも使っているでしょ?」 こっくり頷く上城は、子どものようなあどけない表情の女性と向き合い、口を開く。「あなたが、スズシロ……いや、泉観の乳母だったんですか?」 「そうよ。あなたが、いずみちゃんの恋人?」 「そういうことにしてください」 素っ気無く上城は言い返す。苦手なタイプだ。何を考えているのか理解できない。あの賢季ですら翻弄されていたのだから。まぁ、賢季は彼女に恋をしたという弱みもあるのだろうが。  上城は翠子を見据える。男装の美女は、榛色の瞳の少年を真っ直ぐに見つめ返す。「それで、警察はいらしたの?」 賢季が追われていることを知ったのだろう、翠子は上城が警察の人間と一緒に行動していると見て、尋ねる。「先に着いていると思ったんですが、まだみたいですね」 上城が辿った道は、近道だったのだ。平井たちが遠回りをして、日の出の見える場所で豊たちに足止めを食らっていることを彼は知らない。「そう……」 翠子の沈んだ表情を見て、賢季を警察に渡したくないのだろうかと首を傾げな
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-08
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chapter,8 (5)

  浅い眠りから覚めた鈴代は、花柄レースのカーテンに手を伸ばし、太陽の光を目の当たりにする。  ……カミジョは信じろって言うけど。  賢季が今、どこで何をしているのか、鈴代には理解できない。翠子に会って妹の死を伝えることだけのために、逃亡したとは思えない。まさか、今更……?  電話の音。時計を見るともう朝の九時だ。遅刻だなぁなんて考えて、今日は授業のない土曜日だったことに気づく。  誰からの電話だろうと考えながら、うとうとと再びまどろんでいた鈴代だが、コツコツという階段を上る音で閉じかけていた瞳を留まらせる。「泉観様。お目覚めでしょうか」 ノックの音。美弦の事務的な口調。扉が開く。それらは自然に行われる。「ええ、いらっしゃい」 起き上がり、美弦を傍に呼ぶ。無言で頷いて、美弦は鈴代の前へ立つ。  鈴代が着ているのは落ちたピンク色のベビードール。華奢な肩の左右に、ボリュームたっぷりのレースでできた肩紐が無防備に垂れている。ワインレッドのベルベッドでできたリボンが、綿菓子のように膨らまされている姫袖の縁や、膨らみかけの胸の谷間を飾っている。背中で蝶々に結ばれていたリボンは寝相が悪かったせいか、膝上丈の裾よりもだらりと長く、曝け出された白い腿に絡まっている……慌てて鈴代はリボンを結びなおす。発達途中の少女の身体。大きな鏡台の前に立ち、自分の寝起きの姿を確認する。  美弦は、目覚めたばかりの鈴代を見るたびに、背中に翼のある天使のようだと感じる。今日も、気だるそうな表情でマホガニーの椅子に腰掛けた鈴代を見届ける。ストレートの長い黒髪が優美に流れる。美弦はさらさらの手触りの髪に触れ、静かに櫛を通し始める。  鈴代の背に立ち、いつものように髪を梳る美弦。人形のように美しい少女は常に無言で美弦の行為を受けていた。が。「さっきの電話は誰だったの?」 声をかけられて、驚く美弦。「平井様からです」 「柊太さん……そう」 賢季の逃亡を阻止したのだろう。ということは彼が一人でこの館に帰ってくる可能性がなくなったということになる。警察に連行された賢季は車を盗ん
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-09
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chapter,9 (1)

  彼を手に入れるため、王妃は武器を、姫将軍は策略を、それぞれの手に、持った。    * * *  金木犀と銀木犀の季節が終わっても、紗枝の部屋は相変わらず、甘い香りが漂いつづけている。街並みを飾っていた白や橙色の小花が地面に落ちて、自然の摂理によって朽ちていくことも、紗枝は気づかない。  秋の、限られた季節に閉ざされた部屋。そしてそこへ篭りつづける紗枝。自らも気に入っている桂花の香水を身に纏って。 十六年前。  夕起久は確かに美しい少女のような紗枝を愛していた。彼女に精一杯愛されているとも感じた。だが、その愛が過剰なもので、重荷になっていることにも、気づいた。積み重なるにつれて、窒息していく夕起久は、彼女に求められることが苦しくて。  一度だけ逃げた夜があった。  紗枝の妊娠がわかった夜だった。なのに紗枝は喜ばなかった。これは理由になるのだろうか。彼女から逃げた理由に。  そして、その夜に。当時、屋敷で花嫁修業をしていた近淡海家の長女、翠子と、関係を持ってしまった。まさか、翠子まで孕ませてしまうとは露にも思わず。そして、翠子が産むと言い張ったことも。夕起久にとって予想外のことだった。  やがて、一人娘の泉観が生まれた。だが、お嬢様育ちの紗枝は、自分が娘を産んだことを信じられず、夕起久と二人きりでいられる新婚生活を永遠だと望んでいた。  生まれたばかりの赤子を見て、「気持ち悪い」と紗枝は泣いた。未熟児だった泉観は一ヵ月半の間、保育器の中で育てられた。  そのこともあって、紗枝は泉観を自分の股から出てきた娘だと信じなくなった。やがて、泉観が保育器から出られるようになった。折しも翠子が女の子を出産している……誰に問われても父親の名を絶対に教えず産むことだけを訴えていた……夕起久の子どもを。  だから夕起久は彼女に泉観を押し付けることで、以前の行為をなかったことにしようとした。  泉観の面倒を共に見るかわりに翠子は、夕起久に相談することなく、女児の名を「夕凪」と決めた。夕起久の「夕」なのよと、翠子は嘲笑った。夕起久は何も言わなかった。  そして、翠子は乳母になった。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-10
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chapter,9 (2)

  賢季が警察に留置されたことによって、事態は解決したかのように思われた。  翌日。日曜日ということもあって、上城は朝から鈴代の家にお邪魔していた。二人の仲はすでに公認のものとされている。「でも、本質的なことは何も解決していないね」 上城に言われて、鈴代も頷く。「翠子さんに会って、何かわかったの?」 鈴代は上城が翠子と一対一で話をしてきたことを知って、呆れている。賢季を信じろと言いつつ、警察と彼を追い詰めた上城に対して、多少、憤りも感じているのだろう、不貞腐れた表情で、彼の瞳を見つめている。  じっと見つめられて、上城はたじろぎつつも、正直に、応える。「嘘が下手だ」 「……は?」 「賢季さんは彼女の言うことを盲目的に信じていたところがあるから、気づかなかったんだと思う、けど」 翠子と話しているとき。彼女は嘘をつくときに、必ずある動作をしていることに、上城は気づいていた。「桜色の爪を自分の膝の上で滑らせる癖があったんだ。些細なことだし、表情に変化はなかったから気づけない人の方が多いだろうけど。彼女ですら無意識なんだと思う。けど、そのときに話したことは」 「何が嘘だったの?」 遮るように、鈴代が口を開く。  待ってましたとばかりに、格好つけながら上城が得意げに語りだす。「#ひとつ__ルビ__#アディーン。賢季さんに異母妹がいる、その母親が自分であること」 「美弦のことね」 「知ってるの?」 「わたしと同い年の使用人よ。美しい弦って書く女の子……そうね、翠子さんなら彼女のことも覚えているでしょうね」 ……使用人の名前か。  だから聞き覚えがあったんだ、と上城は心の中で納得する。鈴代はそんな上城を見ながら、美弦のことを考える。  美弦が美琴の死によって鈴代邸に引き取られた経緯、玉貴が美弦を悪い子じゃないけど好きになれないと取る態度、ときどき叔父である明起久が美弦に向ける舐めるような視線……それらを見れば、彼女がどういう立場の人間なのか、理解できないわけがない。  彼女
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-11
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chapter,9 (3)

  独房ってもっと狭くてひんやりしていて薄暗くてとてもじゃないけど常人が住めるような場所じゃないと思っていた。  ちゃんと蛍光灯はついているし、窓だってある、寒くはない。机とベッドしかないから、がらんとしていて淋しい雰囲気があるけど、人一人が暮らせない場所ではない。けど。「賢季」 豊は彼の名を呼ぶ。彼は、虚ろな双眸を豊に向けるが、何も話さない。「賢季ってば!」 こんなことになるなら、翠子になんか会わせなきゃよかった。重要参考人として警察にマークされていた彼が、堂々と車を盗んで一人で逃げ出した時点で、彼を止めればよかったんだ。翠子なんかに会わせたから、彼が。  賢季が、壊れてしまった。「……どうして何も言ってくれないの?」 「言いたくないからだろ」 「平井、警部」 豊の隣に控えていた平井が、賢季の変わり果てた姿を見て、静かに、自分の考えを述べる。「翠子と会う前まで、彼に異変はなかったんだな」 「だから何度もそう言ってるじゃないですか。賢季と翠子さんを二人きりにするまでは」 日の出を見る前まで、彼は自然体だった。平井たちを連れて戻ってきたら、彼は眠っていた。そして、パトカーの中で目覚めたとき、彼は、豹変していた……まるで、魔法にかかってしまったかのように、沈み込んだまま、何も語らなくなったのだから。「催眠術で眠らせたと翠子は言っていたな」 「でも、それだけじゃない気が、する」 「なぜ?」 躊躇うことなく反論してきた豊に、平井が驚きを隠さずに聞き返す。「刑事さんも見たでしょ? 季節はずれのラベンダー畑を」 翠子たちと別れ、上城の案内で車まで戻る途中で見た、淡紫色の風景。  朝陽に照らされたラベンダーの花穂は、弧を描くようなグラデーションで、優しい風に揺らされるのを心地よさそうにしていた。深紫、藤紫、淡紫、紅紫……もうすぐ冬を迎える山奥で、ラベンダーが静かに花開く。  初夏が見頃だと言われるラベンダーだが、近年のガーデニングブームの影響もあって、最近では屋外に出して
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-13
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chapter,9 (4)

 「やっぱり、僕の思った通りだ」 平井が外に出て行って、暫くして。取り残された豊の内耳に響いてきたのは、聞き覚えのある彼の声。「賢季?」 豊の声が聞こえたのか、賢季がこちらへ向かって歩いてくる。一歩、また一歩。  ガラス窓の前で、彼の足は止まる。透明なガラスを隔てて、豊と賢季は見つめ合う。  髭が、伸びているなと、豊は思う。「ユタカ、何淋しそうな顔してんだよ」 くぐもった声。  土曜日の昼に目覚めて以来、一言も口にしていなかった賢季の、乾いた声。「あ、あんたこそ……」 唖然とする豊。にやりと笑う賢季。  ……まさか、今までのって全部演技?「ずっと黙ったままで!」 賢季の悪戯っぽい笑みを見た瞬間。ぶちっと、何かが切れたような感覚と共に、豊は叫んでいた。「あたしが! どんなにあんたのこと心配してたかわかってないだろ! 翠子に会わせるんじゃなかったって後悔しちゃったあたしがバカみたいじゃないの! バカぁ!」 絶叫。びぃんびぃんとガラス窓を揺らしている。豊の甲高い声。そういう反応をされるとは思っていなかった賢季、慌てて彼女を遮るように叫び返す。「ユタカおいこらそこでどうして叫ぶっていうか叫ぶな頼むこっちに係員がくるだろ!」 「知らない! 賢季が壊れちゃったんじゃないかって心配してたんだから! ったく心配して損しちゃったじゃない!」 「だぁかぁらぁ文句はあとで聞くから今は黙ってくれ! これ以上厄介ごと増やすな!」 喉が渇いたなぁと場違いなことを考えながら、賢季は声を張り上げる。豊に張り合うように。彼女の叫び声を終わらせるために。「だからってだからって! 狸寝入りしてそのまま廃人のふりしてる? あんたが何考えてるかぜんっぜんわけわかんない!」 「やかまし! 文句はあとで聞くって言ってるだろがあぁつ!」 ぴし。「……え、ぴし?」 目の前のガラスに、一本の薄い線が引かれている。絶叫しながらの言い争いで、隔てられてい
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-14
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chapter,10 (1)

  賢者は愚者を嗾ける。眠り姫にキスをしろと。呪いを解き明かせと。    * * * 「陳腐なラブシーンをお見せしてしまいましたね」 豊が名残惜しそうに去ったのを見送って、賢季は平井の名をそっと呼ぶ。「あなたが何を考えているのか余計わからなくなりましたよ。鈴代財閥の人間だからと目を瞑っていられる状態を、あなたは自分で壊そうとしていますね」 呼ばれた平井も苦笑交じりに賢季を非難する。傷ついた腕を薄い包帯で巻きながら。「人を殺すよりは些細なことでしょう?」 くすりと微笑を浮かべる賢季を見て、まぁそうですけど、と平井は頷く。「それにしたって……素手でガラスを割る気力があるとは思いもしませんでしたよ」 「愛の力です」 いけしゃあしゃあと言い放つ賢季。「ぶっ」 思わず吹き出す平井。危うく応急処置した腕に力を入れるところだった。「その顔は信じていませんね」 「……何を信じろって言うんですか」 呆れきった平井を見ても、笑みを崩すことなく、賢季は続ける。「ところで。いつから気づいてました?」 平井はむっつりした表情で、無愛想に応える。賢季が、狸寝入りをしていたことを。「最初から」 はじめから気づいていたことに。「騙せませんでしたか」 わかりきったように、賢季が真面目な表情に戻る。無言で頷く平井。「少しばかりの猶予を与えたつもりなんですけどね」 「それはこっちの台詞だ」 賢季がなんのためにおとなしくなったのか、理解できないのが悔しいと、平井は両肩を落として呟く。「……翠子が不貞を働かせて近淡海家から離縁されたことは聞いたよ。その娘が紗枝によって殺されたらしい、ということもね」 淡々と事実を述べる平井に、賢季が確認するように口を挟む。「それが、僕の異母妹であるということも調査済みですよね?」 「は?」 
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-15
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