深山夕奈(みやま ゆうな)が会社の四半期決算書を確認していると、帳簿上に存在しないはずの360億円もの巨額な支出が計上されていることに気づいた。財務責任者を問いただすと、相手は言葉を濁しながら、ただ「深山社長が直々に署名した『広報費』です」とだけ説明する。夕奈はそれ以上追及する暇もなく、時間ぎりぎりで毎週恒例の東都社交界の夫人たちの集まりへ向かった。その席では、すぐに最近の芸能界のゴシップ話へと話題が移る。「ねえ、聞いた?あの杏さんの違約金、360億円らしいわよ!」「ええっ?あの売れないタレントに?一生かかって働いても、360億円なんて稼げないのに」「そうよねぇ……でも聞いた話じゃ、謎の大物がもう彼女の違約金を払ったらしいわ」「どこの大物よ?たかが一人の売れないタレントのために、そんな大金を出すなんて」すると、誰かが冗談めかして口を挟んだ。「東都でそんな大金を動かせる男たちって、結局みんな私たちの旦那でしょ?まさか……誰かの旦那さんだったりして?」その言葉に、周囲がどっと笑う。けれど夕奈は、最初から最後まで一言も発しなかった。耳鳴りがして、頭の中ではただひとつの数字だけが何度も繰り返される――360億円。その女優・花森杏(はなもり あん)の違約金を支払った人物。もし予想が外れていないのなら、その相手はきっと……自分の夫、深山瑛介(みやま えいすけ)だ。集まりが終わると、夕奈はすぐに携帯を取り出し、杏のXを開いた。そこに残っていたのは、契約解除を伝える書き込みだけで、その他の投稿は全て削除されていた。【私は自由になりました。もう二度と会うことはありません】添えられていた写真には、花柄のワンピースを着て海に背を向ける杏の姿が写っている。画質は決して鮮明ではなかった。それでも夕奈は、写真の右下にわずかに写り込んだスラックスの裾を見逃さなかった。それは、夕奈が10か月もかけて仕立ての技術を学び、心を込めて瑛介のために作ったスラックス。世界にたった一本しかない。夕奈の指先が、かすかに震えた。直接、本人の口から確かめるために、彼女はアクセルを踏み込み、瑛介の会社へ向かった。しかし会社の前で、瑛介の車が目の前を猛スピードで通り過ぎていった。ためらいもせず、夕奈はあとを追う。車が停まったのは
Magbasa pa