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愛人を選んだ夫は、彼のビジネス帝国全てを失った
愛人を選んだ夫は、彼のビジネス帝国全てを失った
Penulis: こなみ

第1話

Penulis: こなみ
深山夕奈(みやま ゆうな)が会社の四半期決算書を確認していると、帳簿上に存在しないはずの360億円もの巨額な支出が計上されていることに気づいた。

財務責任者を問いただすと、相手は言葉を濁しながら、ただ「深山社長が直々に署名した『広報費』です」とだけ説明する。

夕奈はそれ以上追及する暇もなく、時間ぎりぎりで毎週恒例の東都社交界の夫人たちの集まりへ向かった。

その席では、すぐに最近の芸能界のゴシップ話へと話題が移る。

「ねえ、聞いた?あの杏さんの違約金、360億円らしいわよ!」

「ええっ?あの売れないタレントに?一生かかって働いても、360億円なんて稼げないのに」

「そうよねぇ……でも聞いた話じゃ、謎の大物がもう彼女の違約金を払ったらしいわ」

「どこの大物よ?たかが一人の売れないタレントのために、そんな大金を出すなんて」

すると、誰かが冗談めかして口を挟んだ。「東都でそんな大金を動かせる男たちって、結局みんな私たちの旦那でしょ?まさか……誰かの旦那さんだったりして?」

その言葉に、周囲がどっと笑う。

けれど夕奈は、最初から最後まで一言も発しなかった。

耳鳴りがして、頭の中ではただひとつの数字だけが何度も繰り返される――360億円。

その女優・花森杏(はなもり あん)の違約金を支払った人物。もし予想が外れていないのなら、その相手はきっと……自分の夫、深山瑛介(みやま えいすけ)だ。

集まりが終わると、夕奈はすぐに携帯を取り出し、杏のXを開いた。

そこに残っていたのは、契約解除を伝える書き込みだけで、その他の投稿は全て削除されていた。

【私は自由になりました。もう二度と会うことはありません】

添えられていた写真には、花柄のワンピースを着て海に背を向ける杏の姿が写っている。

画質は決して鮮明ではなかった。それでも夕奈は、写真の右下にわずかに写り込んだスラックスの裾を見逃さなかった。

それは、夕奈が10か月もかけて仕立ての技術を学び、心を込めて瑛介のために作ったスラックス。世界にたった一本しかない。

夕奈の指先が、かすかに震えた。

直接、本人の口から確かめるために、彼女はアクセルを踏み込み、瑛介の会社へ向かった。

しかし会社の前で、瑛介の車が目の前を猛スピードで通り過ぎていった。

ためらいもせず、夕奈はあとを追う。

車が停まったのは、人目につかない小さな農場だった。

華やかな世界を捨てた今の杏は、飾り気のない素朴な姿をしていた。それでも、生まれ持った美しさは隠しきれない。

彼女はエプロンを身につけ、手には鍬を握り、畑の中を歩き回っている。

瑛介は、ほとんど駆け寄るように杏のもとへ向かうと、彼女の手から鍬を奪い取った。

「杏、本気でこんな所で自分の人生を無駄にする気なのか?」

青白い顔の杏が苦笑を浮かべる。「無駄?無理やり酒の席に呼ばれて、接待や余興を強要されていた頃に比べたら……今の私は、ずっと幸せだよ」

その瞬間、瑛介の目はうるみ、彼は強く彼女を抱きしめた。「俺と一緒に来い。これからは俺がお前を守ってやるから」

けれど杏は彼の腕を振りほどき、一歩後ろへ下がると、決意の滲んだ声で言う。

「瑛介……あなたはもう、私のためにあれだけのことをしてくれた。あの恩は、一生かかっても返しきれない。それに、今のあなたは何もかも手に入れている人。だから……これ以上、私があなたの負担になるわけにはいかないよ」

瑛介の表情が曇ったが、再び杏を抱き寄せた。「いつからお前は、俺に対してそんな他人行儀な言い方をするようになったんだ?俺たちは幼馴染だろ?あの時、花森家が破産して東都から消えていなければ、今ごろお前は、俺と結婚しているはずだった……」

その言葉を遮るように、杏の細い指がそっと彼の唇に触れた。

「瑛介、あなたにはもう奥さんがいる。私たちは、もう昔には戻れないの。これからは……私のことなんて、知らない人だと思って、ね?」

「知らない人?」と、問い返す瑛介の声には、抑えきれない怒りが混じっていた。

「どうやってお前を忘れろって言うんだ?この何年もの間、俺は一日たりともお前を忘れたことなんてない。結婚式の時だって、俺の隣でウェディングドレスを着ているのがお前だったら、どれだけよかったかって考えていた。

だから……お前が家族に売られて、悪質な芸能事務所に入れられたと知った時、あいつらを殺してやりたいと思った。360億円どころじゃない。たとえ全財産を失うことになっても、俺はお前を助け出したかった。なあ……お前に償う機会をくれないかな?」

しかし杏は、突然冷たい笑みを浮かべた。「瑛介、まだ分からないの?私たちはもう、別々の世界に生きている。あなたについて行ったら、私は何になるの?愛人?それとも不倫相手?私はもう疲れたの。お願いだから、私を放っておいて」

そう言い残すと、杏はもう瑛介を見ることもなく、地面に落ちていた鍬を拾い上げ、淡々と歩き去っていった。

立ち尽くした瑛介だったが、すぐに杏の前に駆け寄り、大きく溜息をつく。

「そんな心配するな。愛人なんかにさせないよ。俺の妻としてお前を迎えるから」

それまで強がっていた杏の表情が、その言葉を聞いた瞬間に、ふっと緩んだ。

その大きな目からは涙が零れ落ち、瑛介の腕の中で泣きじゃくる杏。

少し離れた場所でその「感動的」な光景を見ていた夕奈は、まるで心を刃物でえぐられたような痛みを感じた。

瑛介と出会い、恋に落ちてから5年。彼の心の中にいたのが、ずっと別の女性だったなんて……

あの頃、深山家は倒産寸前まで追い込まれていたのだが、それでも夕奈は、周囲からの反対を押し切り、瑛介との結婚を選んだ。

理由は、ある社交パーティーで彼を見かけ、一目惚れしたからだった。

当時の瑛介は、端正な顔立ちと爽やかな雰囲気を持ち、類まれな才能にも恵まれていた。

名家の御曹司でありながら、女性関係の噂ひとつなく、とても誠実な人。

そんな男性、上流階級の中ではかなり稀有な存在だ。

あの厳格な兄・黒崎陸(くろさき りく)でさえ、彼を高く評価していた。

だからこそ、窮地に陥った深山家を助けるため、夕奈は巨額の結納金を持参して嫁いだのだった。

その結納金は、倒産寸前だった深山家の事業を支えただけではなく、彼らの事業を10倍以上成長させ、彼らを東都でも屈指の資産家へと押し上げた。

しかし結婚後の瑛介は、夕奈に対していつもどこか淡々としていた。

それでも夕奈は、それが彼の生まれ持った性格なのだと思い、求めすぎることはしなかった。

燃え上がるような愛情など望まない。ただ、穏やかに寄り添う日々があればいい、そう思っていたから。

それに、夕奈はそれで十分幸せだった。

けれど今……自分が命懸けで支え、心から愛したその男が、別の女に向かって愛を誓っている。

しかも、彼女を妻にするという約束もしている。

では、自分は?

自分は何なのだ?

自分の独りよがりな愛がどれほど滑稽だったのかということに、夕奈はこの瞬間、ようやく気づいた。

彼に浮いた噂が無かったのは、彼に自制心があったわけではなく、ただずっと昔の恋人を想い続けていただけだった。

それに、彼が冷たかったわけでもない。ただ、燃えるような愛情を向ける相手が、自分ではなかっただけだった。

自分がしてきたことは、自己満足でしかなかったなんて。

涙が溢れてくる。

震えるまつ毛を伏せ、夕奈はゆっくりと目を閉じた。

そして再び目を開けた時、彼女の顔にはいつもの冷静さが戻っていた。

黒崎家の人間である自分は、手に入れるべきものは手に入れ、手放すべきものは潔く手放す。

愛情には失敗したかもしれない。だが――今まで自分が彼にもたらしてきたものは、何ひとつ残さず取り返してやる。

夕奈は携帯を取り出し、ある番号へと電話をかけた。

「もしもし、お兄ちゃん?私、離婚するから」

電話の向こうで一瞬の沈黙が流れたが、すぐにからかうような笑い声が返ってくる。「どうしたんだよ?お前が自分で選んだ男なのに、こんなに早く好きじゃなくなったのか?」

夕奈は何も答えなかった。

すると、相手も何かを察したのか、声のトーンが少し落ちた。「離婚したいなら、すればいい。誰にも、お前のことは傷つけさせないから。いつでも帰ってこいよ。お兄ちゃんはずっとお前の味方だ」

「ありがとう、お兄ちゃん」

電話を切り、夕奈が顔を上げると、そこには、驚いて目を大きく見開いた瑛介がいた。

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