تسجيل الدخول深山夕奈(みやま ゆうな)が会社の四半期決算書を確認していると、帳簿上に存在しないはずの360億円もの巨額な支出が計上されていることに気づいた。 財務責任者を問いただすと、相手は言葉を濁しながら、ただ「深山社長が直々に署名した『広報費』です」とだけ説明する。 夕奈はそれ以上追及する暇もなく、時間ぎりぎりで毎週恒例の東都社交界の夫人たちの集まりへ向かった。 その席では、すぐに最近の芸能界のゴシップ話へと話題が移る。 「ねえ、聞いた?あの杏さんの違約金、360億円らしいわよ!」 「ええっ?あの売れないタレントに?一生かかって働いても、360億円なんて稼げないのに」 「そうよねぇ……でも聞いた話じゃ、謎の大物がもう彼女の違約金を払ったらしいわ」 「どこの大物よ?たかが一人の売れないタレントのために、そんな大金を出すなんて」 すると、誰かが冗談めかして口を挟んだ。「東都でそんな大金を動かせる男たちって、結局みんな私たちの旦那でしょ?まさか……誰かの旦那さんだったりして?」 その言葉に、周囲がどっと笑う。 けれど夕奈は、最初から最後まで一言も発しなかった。 耳鳴りがして、頭の中ではただひとつの数字だけが何度も繰り返される――360億円。 その女優・花森杏(はなもり あん)の違約金を支払った人物。もし予想が外れていないのなら、その相手はきっと……自分の夫、深山瑛介(みやま えいすけ)だ。
عرض المزيد瑛介が深山グループを完全に追い出されてから、1ヶ月が経っていたが、彼はまだあがき続けていた。毎日きちんとスーツを着て家を出る。まるで、今も多忙を極める深山社長であるかのように振る舞った。しかし、車に乗ったはいいが、どこへ向かえばいいのか分からない。以前は家族のように付き合っていた仲間たちも、少しずつ瑛介と距離を置くようになった。最初のうちは、まだ食事や酒の席に誘ってくれる人もいた。だが、酒が回れば、結局話題はいつも同じところへ行き着く。深山グループに起きた大きな変化。夕奈がどれほど迅速かつ大胆に会社を立て直しているか。そして、瑛介がどのように栄光の頂点から転落したのか……同情する視線や面白がるような視線、そんな全ての視線が彼の心に針のように突き刺さった。やがて、そんな誘いすら途絶えた。彼はまるで流行遅れになった服のようだった。クローゼットから取り出され、価値がないと判断されれば、あっさりゴミ箱へ捨てられる。瑛介はその落差を受け入れられなかった。わずか2ヶ月で彼の髪は半分以上白くなり、身体は大きく痩せ細った。頬骨は浮き出て、目の下は深く落ち窪んでいる。仕立ての良いスーツでさえ、今では身体に合わず、まるでハンガーに掛けられているだけのようだった。彼は重度のうつ状態に陥った。目覚めても、なぜ生きているのか分からない。食事は味気なく、夜は悪夢ばかり。ただ息をするのさえ苦しかった。酒浸りになり、一日中部屋に閉じこもる。酔うと物を投げ、散らかった床で泣き伏した。泣き疲れると、今度は車で深山グループのオフィスビルへ向かう。しかし、ビルには入らず、道路の向かいの花壇に腰掛け、かつて自分のものであったビルを見上げるだけ。太陽の光がガラス張りの外壁に反射し、眩しいほど輝いているのを、彼はただ細めた目で一日中じっと眺めていた。通り過ぎる人々は、皆複雑な表情を浮かべる。かつて頂点に立っていた男が、今では道端に座り込み、まるで主人に捨てられた犬のようにただ呆けているのだから。夕奈は毎日、会社へ出入りするたびに、向かい側に座る瑛介の姿を目にしていたが、最初は気にしないようにしていた。だが瑛介は、雨の日も風の日も毎日現れた。まるでそこに座る石像のように。社員たちの間でも、「社長は頭がおかしくなった」「気の毒だ」などという
瑛介の頭の中で、何かが弾けたような音がした。「夕奈!」ついに抑えきれなくなり、彼はほとんど叫ぶように声を張り上げた。「どうしてこんなことをするんだ!」夕奈は振り向き、瑛介を見つめる。彼女の瞳は凪いでいるようにとても静かで、かつて深く愛した男に向ける視線ではなかった。まるで通りすがりの他人にでも向けるかのような、無機質な視線。ゆっくりと彼に歩み寄る。ヒールの音が規則正しくフロアに響き、その一歩一歩に、瑛介は心臓が踏みつけられているように感じた。「どうしてって?」夕奈は口元を歪め、冷ややかな笑みを浮かべる。「瑛介、本当にわからないの?」夕奈は少し瑛介を見下ろすようにして、言い放った。「だって、今の深山グループがあるのは、私がいたからでしょ?資金も、築き上げた人脈も、会社の戦略だって……私が何日も徹夜して作り上げてきたもの。あなたが今の地位に就けているのだって、全て私を踏み台にしたからなんだよ?」夕奈の声は決して大きくなかったが、その言葉ひとつひとつは氷の刃のように、瑛介の胸へ深く突き刺さった。「今、私はただ……自分のものを取り戻しているだけ」瑛介の顔色がみるみるうちに青ざめていく。「ここは深山家のものだ!俺の父、祖父……何代にも渡って受け継いできたものなんだぞ!お前が奪っていいものじゃない!」「奪う?」夕奈は思わず吹き出してしまった。「瑛介。あなたが会社を譲り受けた時、会社の口座にいくら残っていた?銀行への返済は滞り、取引先への支払いは半年も遅れ、社員の給料すら払えなかった。それが、あなたの言う深山家が代々受け継いできたもの?」彼女の一言一言が、瑛介が長年守ってきた虚像を切り裂いていく。「私がいなければ、深山グループは5年前に無くなってた」瑛介は口を開いたが、喉に何かが詰まったようで、声が出なかった。夕奈が彼を見ることはもうなかった。そして、取締役たちへ向き直り、再び穏やかな声で問いかけた。「皆さん、私が深山グループを奪ったと思いますか?」会議室に沈黙が流れる。一人の取締役が眼鏡の位置を直し、淡々と言った。「株を保有する者の決定に従う。それがビジネスのルールです。奪うとかではありません」「私は黒崎社長を支持します」別の取締役も続ける。「この数年間、会社の運営を見てきた我々には分かっています。黒崎社長の先
2週間が過ぎた。夕奈は、洗練された黒のスーツに身を包み、深山グループのビルの前に立っていた。ロビーで待っていた瑛介は、夕奈が入ってくるなり、すぐに満面の笑みを浮かべる。「夕奈!」駆け寄って肩を支えようとした。「やっと来てくれたんだ……」しかし、夕奈はその手をふわりと避けた。静かな瞳で彼を冷たく見下ろすと、唇の端に薄い笑みを浮かべる。「行こう。取締役たちが待ってるから」瑛介の手は宙で行き場を失っていた。心に一抹の不安がよぎったが、再会できた喜びがすぐにそれを打ち消した。会議室のドアが開け放たれる。夕奈が足を踏み入れると、一瞬にして静寂が訪れた。会議テーブルには取締役や株主、幹部が全員集まり、ずらりと並んでいた。彼らの中には、深山家と長年の付き合いがある者もいれば、ここ数年、夕奈が引き上げた新参者もいる。皆の視線が一斉に夕奈へと集まった。畏敬や期待、そして見定めるような視線が交差する。夕奈の後について歩いていた瑛介は、いつもの癖で中央の席――代表取締役の椅子へと向かった。しかし、夕奈はそのままその席に座った。黒革の回転椅子に座った夕奈は、指を組んで机に置く。その動作はとても優雅で、落ち着き払っていた。掃き出し窓から降り注ぐ太陽光が彼女を照らし、薄い金のヴェールをまとわせている。瑛介の足が止まった。「夕奈、座る席を間違えてる。そこは俺の席だ」瑛介を見上げた夕奈だったが、動く気配はない。彼女は唇をわずかに引き上げると、室内全員に届く声で静かに言った。「座って。あなたの席はあそこだから」そう言って、彼女が指さしたのはテーブルの末席。瑛介の笑みが凍りついた。会議室が静寂に包まれる。瑛介は動かずに、役員へと視線を投げかけ、誰か味方がいないかと探した。しかし、皆が一様に目を逸らす。資料を見つめる者、お茶を啜る者、携帯を弄るふりをする者……「皆様」夕奈が沈黙を破った。「本日お集まりいただいたのは、新たな代表取締役を選出するためです」そう夕奈が言い終えるか否かのタイミングで、瑛介の顔から血の気が引いた。彼は夕奈に歩み寄る。「夕奈、どういうつもりだ?戻ってきたらもう一度籍を入れて、やり直すって約束しただろ――」「誰がそんな約束した?」夕奈が言葉を遮った。「瑛介、私が言ったのは、
妻にする、自分の女にする、結婚して家庭を築く……それらは全て嘘だったのだ。入籍の話を持ち出すたび、瑛介がいつもあやふやな言い訳でごまかしていたことを思い出す。ただ忙しいだけだと信じていたが、最初から彼にその気などなかったのだ。婚姻届を出せば、それが本当の結婚になる。しかし、彼は一度たりとも、夕奈との離婚を真剣に考えてはいなかった。「瑛介……」杏は瞳を潤ませた。溢れ出しそうな涙を必死にこらえながら、震える声で問いかける。「ねえ、私を一体何だと思っていたの?私を家に連れて帰って、ウェディングドレスを試着させて、式を挙げようとして……私って一体あなたの何だったの?」瑛介は何も答えずに、ただうつむいたまま、杏の視線を避けた。「答えてよ!」ついに杏は我慢の限界に達した。「私はあなたにとって何だったの?いつでも捨てられる都合のいい愛人?瑛介、あなたに人の心はあるわけ?」瑛介の喉仏が大きく動き、彼がかすれた声で一言だけ謝った。「ごめん。でも、今はお前を遠ざけるしかないんだ。もう二度と、連絡も取らない」杏は瑛介の瞳を見つめ、未練やためらい、もしくは罪悪感が残っていないかを探す。だが、そこに宿るのは揺るぎない決意だけ。本当の利益を前にした時、瑛介はほとんど迷わなかった。瑛介は杏のために大金を払って彼女の自由を取り戻した。海辺で杏にロマンチックなプロポーズをした。そして、彼女のためなら夕奈にハサミを向けることさえ躊躇わなかった。しかし、本気で天秤にかけなければならない時、一方が夕奈と深山グループの数兆の資産、もう一方が杏という存在——瑛介は一切の迷いなく前者を選んだ。杏はふっと静かに笑みをこぼす。やっとわかった。瑛介の世界で自分はただの花であって、絶対になくてはならないものではない。花は枯れれば捨てられるし、生きていく上で絶対に必要なものでもないのだ。「わかった」立ち上がると、杏は涙を拭い、冷え切った声で答えた。「私、行くね」杏が部屋を出ていったあとも、瑛介はそのままソファに沈み込んでいた。うつむいたまま、立ち上がることさえしない。玄関が閉まる音がした。その音はとても小さかったが、瑛介の胸には重い一撃のように響く。弾かれたように立ち上がり、玄関へと駆け出した。ドアノブに手をかけたものの、結局それを引き開