Semua Bab 縁が結ぶ影: Bab 31 - Bab 40

47 Bab

31.教室への来訪者

翌日からは、まるで地獄のようだった。 鳥が鳴き始めるよりも早く、頭痛が僕を眠りから引きずり出す。 こめかみの奥で、鈍い鐘を打ち鳴らされ続けているような痛み。それだけならまだ耐えられた。けれど実際には、そこへ尋常ではない倦怠感と、眼球の奥を直接握り込まれるような痛みが重なってくる。 地獄、という言葉を使わずにこの状況をどう言い表せばいいのか、僕は知らない。 一連の流れは、あの日からずっと同じだ。まず、身を起こすことさえままならない。布団が水を吸った綿のように重く、自分の身体までその一部になってしまったんじゃないかと錯覚する。 ――御霊見を発現した反動です。 美琴はそう言っていた。言っていたけれど、これほど酷いものだとは夢にも思っていなかった。 どうにか布団から身体を引き剥がし、洗面台の前に立つ。 鏡の中では、瞼の下に酷い隈が沈んでいた。夜の色をそのまま塗り込めたような、濃い影。僕は毎朝、それを指で一度なぞって確かめる。まだ、あるな──と。まるで消えない痣の安否確認だ。 顔色からは血の気が抜け落ちて、鏡の前に立っているこの人物は本当に自分なのかと、疑わしく感じるほどだった。 そんな生活を、どうにか続けること四日。 明日はようやく土曜日。今日さえ乗り切れば、美琴とともに風鳴トンネルへ向かえることになる。 その約束だけを杖にして、僕は重たい身体を引きずって支度を済ませ、家の扉に鍵をかけた。「うっ……」 途端、白い光が真正面から突き刺さった。 僕の家は高台に建つマンションの一室で、扉を開ければちょうど正面から朝日を受ける造りになっている。 本来なら、朝の光を浴びて自然に目を覚ませる、ちょっとした自慢の立地だった。扉ひとつで一日が始まる、そういう部屋だったはずなのに。 今の僕には、この光を心地いいと受け止める余裕なんて、どこにも残っていなかった。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 教室にたどり着くと、翔太の次に友達歴が長い男――立花春雪が、僕の顔を覗き込むようにしてやってきた。「お! 少しは隈……良くなった、か……?」 まさかの疑問形である
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-08
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32.証明

屋上へ続く重い扉を押し開けると、湿気をたっぷり含んだぬるい風が頬を撫でた。 朝はあれほど晴れていたのに、いつの間にか空は灰色の雲に覆われている。梅雨に入ってからというもの、朝の天気なんてまるで当てにならない。 今にも降り出しそうな空の下へ、僕は足を踏み出した。「今は……雨、降ってないみたいだね」「ええ。そのようですね」 隣に並んだ美琴も、つられるように空を仰ぐ。「ところで、美琴。どうしたの?」「先輩に御霊見が発現してから、今日で五日目です。まだ体調が優れないのではと思い、様子を見に来ました」「ああ、なるほど……」 たしかに、発現した直後に比べればずいぶん良くなった。それでも身体の芯には重い倦怠感が居座り、目の奥では鈍い痛みが絶えず脈打っている。治りかけというだけで、決して元気とは言い難い。「正直、明日までに治るのかなって不安だったんだ」 このままでは、風鳴トンネルへ向かうどころではない。 けれど美琴は、僕を安心させるように小さく頷いた。「その点でしたら、おそらく問題ありません。御霊見――あの力を使った反動であれば、明日頃には一気に楽になるはずです」「そうなの?」「はい。先輩はご存じないと思いますが、霊気そのものは誰もが備えているものなのです。しかし、先輩に発現した術は、常人が扱えるようなものではありません。古の巫女に伝わる御霊見である可能性が高いと、私は考えています」 そこまで口にすると、美琴は顎に指を添え、わずかに眉を寄せた。彼女にしては珍しい、答えを探すような顔だった。「古の巫女……? ともかくそれが、どうして僕に……。今のところ、そこが一番の謎だね」「ええ。ですが、先輩の身にあの現象が起きたことは、紛れもない事実です。私の方でも、何か手掛かりがないか調べてみます」「そっか。ごめんね、ありがとう」「いえ。もしあれが本当に御霊見であるなら、私も無関係ではいられませんので」 美琴はそこで一度、言葉を切った。 こちらを見つめる彼女の表情から、先ほどまでの柔らかさが消えている。「……先輩、覚えていますか? あの廃病院で、私が自分は呪われているとお話ししたことを」 忘れるはずがない。あのときの声も、それ以上を語らせなかった空気も、鮮明に蘇る。「それって……もしかして、なにか呪いと関係が?」 自分でも情けないほど、声が上
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-09
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33.美琴の指導

 空は、今にも泣き出しそうだった。  低く垂れ込めた鈍色の雲の下、目の前には──風鳴トンネル。苔と水気にまみれた坑口が、暗い口を大きく開けている。その入口の脇には、花束がひとつ、静かに供えられていた。  僕と美琴は、それぞれ傘を片手に、その暗がりの前へ並んで立っている。 「着きましたね」 「……うん」  屋上で言葉を交わした、その翌日。土曜日の今日、僕たちは約束どおり、風鳴トンネルを再び訪れていた。  驚くべきことに、昨日まで僕を苛んでいた異常な倦怠感は、今朝にはすっかり消え去っていた。美琴の言葉を疑っていたわけじゃない。それでも、まさか本当に、ここまで一気に楽になるなんて。目を覚ました瞬間、あまりの身体の軽さに、しばらく布団の中で呆けてしまったほどだ。 「では、先輩。今一度、御霊見を発動することは出来ますか?」  なんて無茶を言うんだ、と思う。発動のさせ方なんて、僕はまだ何ひとつ分かっていないのだ。それでも──やってみるしかない。 「わ、わかった」  えっと……あのときの感覚は……そうだ。たしか、目に熱さを感じた気がする。  その記憶を手繰り寄せながら、自分の両目に意識を集中させる。  ……。  けれど、いくら待っても視界は揺らがなかった。目に熱が灯る気配もない。 「ダメみたいだ……」  美琴は顎に指を添え、しばらく考え込む素振りを見せた。 「……やはり、自発的に発現したわけではない、ということですね」 「えっと……つまり?」 「恐らく、私の霊気に触発されて、先輩の中に宿っていた巫女の力が発現した。そう考えるのが自然ですね」  説明されても、正直、まだ何ひとつ現実感が湧かない。  ただ、思い返してみれば辻褄は合う。僕はおそらく、桜織旧病院で初めて、彼女の言う「霊気」というものに触れた。そして前回、このトンネルで手を繋いだとき、もう一度触れている。つまり──二度目で、発現したことになる。  頭では、そう整理できる。それでも「僕の中に巫女の力が宿っていた」なんて、まだどこか他人事のようにしか響かなかった。 「ひとまず、もう一度手を繋いでみましょう。そして、また前回同様に、私から先輩へ霊気を流します」  そう言って、美琴が手を差し伸べてくる。  僕は頷いて、傘を持っていない方の手で、その柔らかな手を、また取った。 「では
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-10
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34.魂の三原色

「霊の影に……色?」 美琴の言葉を繰り返してみたものの、やはり意味をうまく掴めなかった。 色と言われても、影の色といえば黒だ。それ以外の色なんて、あるのだろうか。「影なら黒しかないだろう――そうお考えですね?」 美琴が口元を緩め、どこか楽しそうに笑う。 まさか、そこまで顔に出ていたなんて。「そ、そんなことは……」「大丈夫ですよ。そう思われるのが当然ですから」 美琴はゆるやかに首を振ると、こほん、と可愛らしい咳払いをひとつ挟み、改めて僕へ向き直った。「では、説明を続けさせていただきますね。――先輩、霊の纏う影には、いくつかの色があります。まず、白い影。これを纏う霊は、私たち生者にとって無害な存在です」「白い影……」 頭の中に浮かんだのは、地面に白い影を落としている霊の姿だった。 けれど、すぐに美琴が「纏う」と言ったことに気づく。足元へ伸びるものではなく、霊そのものを覆う、白い靄のようなものなのだろうか。 実物を見たことがないせいで、いまひとつ像を結ばない。余計な質問を挟むより、まずは最後まで聞いてみることにした。「続いて、黄色い影を纏う霊です。こちらは、警戒を示す色となっています」 白に続いて、黄色。 ――まるで信号じゃないか。 思わずそんな連想が浮かんだものの、口には出さないでおく。 けれど、その並びでいくのなら、次はきっと――。「続いて――」「赤?」 美琴が言いかけたのと、僕の口が勝手に開いたのは、ほとんど同時だった。「ふふっ。やはり、お分かりになりますよね」 小さく笑ってから、美琴は僕の顔を覗き込んでくる。「先輩、まるで信号みたいだ――なんて思いませんでしたか?」「そ、それは……まあ」「素直でよろしいと思います。それに、そのほうが覚えやすいですから」「美琴も、最初はそう思ったの?」 そう尋ねると、美琴は華奢な人差し指を唇の下へ添えた。 考えごとをするときの、彼女の癖。 最近よく目にするおかげで、僕にもそれと分かるようになってきた仕草だった。「私は――……いえ。私の故郷には、信号といったものが存在しませんでしたので、教わったままを受け入れることができましたよ」「信号が……ない?」 あまりに予想外の答えに、僕は呆気に取られてしまった。 彼女の故郷。 その口ぶりからすると、信号ひとつないほどの田舎
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-12
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35.届かない言葉

僕たちが風鳴トンネルを離れ、バス停へ向かっていた途中のことだった。 山道の向こうから、一人の男性が歩いてきた。 くたびれた紺色のスーツを身にまとい、ワックスで整えていたらしい髪もすっかり崩れている。けれど、その手に抱えられた花束だけは、ひどく丁寧に包まれていた。 白い花々が、男性の歩みに合わせて小さく揺れている。 すれ違いざま、僕たちは互いに軽く会釈を交わした。 そのまま数歩進んだところで、背後から聞こえていた靴音がふいに止まる。「君たち」 突然呼び止められ、肩が跳ねた。 白い花束を抱え、風鳴トンネルへ向かう人。 もしかすると、あの場所で亡くなった誰かの関係者なのではないだろうか。そんな考えが、真っ先に頭をよぎった。「はい?」 振り返ると、男性は僕たちをじっと見つめていた。 眼差しは肌にまとわりつくように疑い深い。それなのに、その瞳自体は妙に乾いて見えた。怒っているというより、怒ることにさえ疲れてしまったような目だった。「……君たちは、どうしてあのトンネルへ行っていたんだい?」「それは……」 言葉に詰まる。 本当のことなら、はっきりしている。 あの場所を彷徨っている女性を救いたくて、手がかりを探しに来た。 けれど、そんな説明で納得してもらえるはずがない。見えないものが見えるから信じてほしい――なんて、知らない人に話したところで、怪しまれるだけだろう。 どう答えるべきか迷っていると、美琴が静かに一歩前へ出た。「私たちは、異常現象研究会というサークルで活動しております。こちらで過去に繰り返されてきた事故について、その原因を調べに参りました」 あまりにも淀みのない返答だった。 異常現象研究会。 少なくとも僕は、今この瞬間に初めてその存在を知った。 危うく「何それ」と聞き返しそうになったけれど、どうにか堪える。美琴は顔色ひとつ変えていない。その堂々たる様子に、隣で聞いている僕の方が冷や汗をかきそうだった。「異常現象研究会……?」 男性の眉間に皺が寄る。 無理もない。たった今会員にされた僕にだって、よく分
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-14
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36.悔い

結局、僕たちは男性のあとを追い、再び風鳴トンネルの前まで戻ってきていた。 美琴の突然の提案に振り回される格好にはなったけれど、これがあの女性を救う手掛かりになるのなら、断る理由なんてない。「あれ? どうしたんだい。まだ私に何か用でも?」 足音に気づいた男性が、怪訝そうに振り返る。 先ほど抱えていた白い花は、トンネル脇へ新しく供えられていた。代わりに男性の手には、そこに置かれていた枯れかけの花束がある。「いえ、そういうわけではございません。ただ……」 美琴はそれ以上を言葉にせず、男性の隣へ進み出た。白い花へ向き直り、胸の前で静かに両手を合わせる。「……本当にありがとう。きっと、詩織も喜んでいるはずだ」 男性の声が、ほんの少しだけ和らいだ。「その詩織さんという方が、こちらで亡くなられた方なのですね」 僕も美琴の隣に並び、花へ向かって手を合わせた。 ――どうか、詩織さんが安らかに眠れますように。 目を閉じ、胸の内でそう祈る。「ここで亡くなった私の婚約者は、詩織というんだ」 男性は、トンネルの暗がりを見つめたまま話し始めた。「あの晩、私たちの結婚をめぐって、詩織はお義母さん……静江さんと口論になってしまってね。深夜に家を飛び出して、このトンネルを歩いていたところを、速度を出しすぎたトラックに……」 それ以上は口にできなかったらしい。男性は顔を伏せ、目頭を指で押さえた。「……さぞ、お辛かったことでしょう」 美琴の声が、湿った風の中へ静かに溶けていく。「もちろんだよ。私の中の時計の針は、あの日から止まったままだ」 男性は自嘲するように、かすかに口元を歪めた。「これがきっと、後悔というものなのだろうね」「後悔……ですか」「彼女は、私に出会わなければ命を落とさずに済んだのかもしれない」 聞いているだけで、胸の奥が痛んだ。 彼はずっと、詩織さんを失った理由を自分の中に探し続けてきたのだろう。そして見つけてしまった答えが、自分と出会ったことそのものだった。「あの……先ほど、結婚のことで揉めたとおっしゃいましたよね」「ああ。静江さんは、ご主人とのことで深い傷を負っていてね。それで、私と詩織の結婚にも強く反対していたんだ」 男性の手の中で、枯れた花がかさりと鳴る。「その夜も二人は言い争いになって……詩織は家を飛び出した」 その言
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-15
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37.詩織の記憶:世界で一番強い母

──松田詩織── あれはまだ、ブランコに座った私の爪先が、地面に届かなかった頃の話。 物心がついたときから、私の家には母さんと私しかいなかった。 世間では、そういう家庭を母子家庭だとか、シングルマザーだとか呼ぶらしい。けれど幼い私に、自分の家に何かが足りないという感覚はなかった。 母さんがいてくれれば、それで家族は全部だった。 父がどんな人だったのか、私は母さんから聞いた話でしか知らない。 ただ、そのわずかな話だけでも、どうして母さんがそんな人を愛してしまったのかと、不思議に思うほどひどい男だった。 その人がいなければ、私はこの世に生まれていない。 それでも、母さんを傷つけたことも、私たち親子を置き去りにしたことも、許せる理由にはならない。 幼い頃の記憶にいる母さんは、いつも少し疲れている。 重そうな肩。目の下にうっすらと落ちた影。ふとした拍子にこぼれる、小さなため息。 それでも、私に向けられる手はいつだって優しかった。声を上げて笑ってくれたことも、一緒になってはしゃいでくれたことも、数えきれないほどある。 これは、そのひとつ。 母さんが私を公園へ連れていってくれた、ある夕暮れの記憶だ。 夢の中で見るその公園は、いつも茜色に染まっている。 滑り台も、砂場も、金網の向こうの街並みも、何もかもが同じ色に沈んで、そこだけ時間が止まってしまったみたいに静かだ。 私は古びたブランコに座り、短い足を懸命に前後させていた。鎖が軋むたび、きい、きい、と寂しげな音が響く。手のひらに残るのは、錆びた鉄の冷たさ。地面に伸びた影が、漕ぐたびに長くなり、また短くなる。 母さんは少し離れたところから、そんな私をずっと眺めていた。 そこへ、幼い子供を連れた女の人が二人、公園に入ってきた。 女たちは母さんに気づくと、ちらりと視線を交わし合う。そして自分の子供の帽子を直しながら、潜めたつもりの声で話し始めた。「ねえ、聞いた? 松田さん、離婚したんですって」「まあ。あんなに格好いい旦那さんだったのに、もったいないわねえ」「でも、松田さんって気が強いところがあるでしょう? 家でもあんな調子だったなら、旦那さんも息が詰まったんじゃない?」「ああ、それで逃げられたのね」「仕方ないわよ。男の人だって、安らげる家に帰りたいでしょうから」 くすくすと、押し殺した
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-16
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38.詩織の記憶:私の決意

次に浮かんだ記憶もまた、夕日の色をしていた。 集落を縫う細い道も、家々の屋根も、遠くに広がる畑も、何もかもが柔らかな橙色に染まっている。 自宅の前に立つ私の背中を、沈みかけた夕日がじんわりと温めていた。まだ身体に馴染んでいない真新しいセーラー服。その襟にも、スカートの襞にも夕日の色が滲んで、いつも見ていたはずの我が家さえ、少しだけ特別な場所に見える。 そして記憶の中で、次にその扉を開けたとき――私はもう、高校生になっていた。「母さんっ! ただいま!」 弾む声とともに家へ飛び込む。 その途端、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。 |鰆《さわら》だ。 脂の乗った皮がぱちぱちと爆ぜる音に、ほどよく焦げる匂いがかすかに混じっている。私の大好物だった。「おかえり」 台所から顔を出した母さんが、いつもの声で迎えてくれる。 幼い頃と比べれば、目尻には細い皺が増えていた。それでも、私を見る眼差しだけは少しも変わらない。温かくて、優しくて――いつだって私の帰る場所になってくれる、自慢の母さんだった。「念願の高校生活はどうだった?」「うーん、ぼちぼちかな!」 なんて、わざと何でもなさそうに答えたけれど。 今思い返せば、ぼちぼちだなんて言える声音ではなかった。声は自分でも分かるほど弾んでいたし、きっと頬も緩みきっていたのだろう。 母さんは私の顔をしばらく眺めたあと、堪えきれなくなったように、ふっと笑った。「何さ、その顔」「別に。ぼちぼちだったんだなと思ってね」「そうだよ。ぼちぼち!」 言い張る私に、母さんはますます可笑しそうに目を細める。「はいはい。ほら、早く上がんな。夕飯の支度、もうできてるからね」「うんっ!」 靴を脱ぎ、鞄を置くと、私は着替えもせずに居間の食卓へ向かった。 待ちに待ったセーラー服を、まだ脱ぎたくなかったのだ。今日一日だけでは足りない。家に帰ってからも身につけたまま、何度だって眺めていたかった。 そんな私を見て、母さんが呆れたように唇を尖らせる。「こら、詩織。いくらそのセーラー服が気に入ったからって、家に帰ったらちゃんと着替えな」「えーっ。だって、ずっと着たかったセーラー服なんだよ? 母さん、ちゃんと見てよ。可愛くない?」 椅子から立ち上がり、母さんの前で両腕を広げてみせる。その場でくるりと回れば、スカートの裾がふわ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-17
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39.詩織の記憶:ほろ苦い記憶と暖かい胸の内

あの頃、ぬいぐるみたちに囲まれた部屋で胸に誓った願いは、やがて叶った。 立派な会社に勤めて、今度は私が母さんを支える。 そう夢見ていた私は二十四歳になり、目標だった銀行に就職していた。 まだ入行して一年目の、ある夜のことだ。 広いオフィスは、私の席を残してすっかり暗くなっていた。 等間隔に並んだ机も、書類棚も、窓際に置かれた観葉植物も、夜の闇に輪郭を沈めている。その中で、私の頭上の照明と、パソコンの青白い画面だけが、ぽつんと灯っていた。 スーツの袖を肘までまくり、私は何度も同じ数字を打ち直す。「んん……。どうすればいいのよ……」 弱音が、誰もいないオフィスへこぼれた。 返事の代わりに聞こえてくるのは、キーボードを叩く音と、空調の低い唸りだけ。 一年目の私は、まだ仕事に慣れているとは言い難かった。 それでも、頼まれたことはできるかぎり早く終わらせたし、分からないことがあれば何度でも確認した。母さんに楽をさせたい。その一心で、どんな仕事にも手を抜かなかった。 きっと、そんな姿勢を評価してもらえていたのだと思う。 私は銀行の入出金に関わる記録を確認し、金額を管理する仕事を任されていた。 お金を扱う以上、たった一つの数字も間違えてはいけない。 分かっていた。 誰よりも気をつけていたつもりだった。 それなのに私は、その日、一つの金額を誤って入力してしまった。 しかも、間違いに気づかないまま、その数字をもとに次の処理を続けてしまったのだ。 一つのずれが次のずれを生み、そのずれを正しいものとして、さらに別の計算が重なっていく。 画面を遡っても、どこまでが正しくて、どこからが間違っているのか、もう簡単には見分けがつかない。 並んでいる数字のほとんどが、最初の過ちに引きずられていた。 上司や周囲の人たちは、明日、みんなで確認しようと言ってくれた。 初めての失敗なのだから、一人で抱える必要はないとも。 けれど、私には帰ることができなかった。 私が間違えたのだ。 このまま翌日の処理へ持ち越せば、影響がどこまで広がるか分からない。もしかしたら、取り返しのつかない損害を出してしまうかもしれない。 そんな不安が、椅子から立ち上がろうとするたび、私の肩を押さえつけた。 退勤の打刻さえしないまま、私は一人で数字を追い続けた。 けれど、焦れ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-18
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40.詩織の記憶:親子の亀裂

 その夜の雨音を、私は今でも覚えている。 屋根を叩き、窓を揺らし、集落そのものを押し潰そうとするような雨だった。空の奥で雷が鳴るたび、家の中まで青白い光が差し込み、遅れて腹の底に響くような轟音が追いかけてきた。 後になって、あれは歴史的な豪雨だったと知った。 けれど私にとって、あの夜を忘れられない理由は雨ではない。 忘れたくても、忘れられるはずがない。 あの日、私は母さんに、取り返しのつかない言葉を投げつけた。 銀行での失敗を竹本さんに助けてもらった夜から、一年ほどが過ぎていた。 憧れだった人は、いつの間にか私の恋人になっていた。 そして、その日。 私は竹本さんから、結婚を申し込まれた。『これからも、そばにいてほしい。私と結婚してくれないか』 場所は、二人で訪れた遊園地だった。 夜の園内を彩るイルミネーションが、まるで星を地上に集めたみたいに輝いていた。赤や青、金色の光が幾重にも重なり、竹本さんの差し出した小さな箱まで、夢の中のもののようにきらめいて見えた。 箱の中には、とても綺麗な指輪が収められていた。 けれど、そのときの私は、指輪の形も宝石の輝きも、きちんと見られていなかったと思う。 竹本さんの言葉を聞いた途端、目の前が涙で滲んでしまったから。 嬉しくて、幸せで、胸の奥から何かが溢れてきて。 本当にこれは私の身に起きていることなのだろうかと、どこか他人事のようにさえ感じていた。『はい……! こちらこそ、よろしくお願いします……』 泣きながら、どうにかそう答えた。 きっとひどい顔をしていた。涙で化粧も崩れていただろうし、声だってまともに出ていなかった。 それでも竹本さんは、心から嬉しそうに笑ってくれた。 私の人生で、いちばん幸せだった瞬間。 今でも思い出せる。 光の色も、彼の声も、指輪をはめてもらったときの指先の震えも。 全部、昨日のことのように。 母さんも、きっと喜んでくれる。 竹本さんがどれほど優しくて、誠実で、私を大切にしてくれる人なのか。それをきちんと話せば、きっと分かってくれる。 私は、そう信じていた。 家に着く頃には、雨脚はすっかり強くなっていた。 空にはひっきりなしに稲光が走り、雨粒が窓を激しく打ちつけている。それでも私の胸は、まだ遊園地の光の中にいた。 左手には、もらったばかりの指輪が
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-20
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