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21.覆された価値観

「でさぁ、優花にめちゃくちゃ叱られたんだよ」「そりゃそうでしょ。まったく……本当に危ないところだったんだよ? 翔太はもう少し、自分の軽はずみな行動を反省して」「お前まで優花みたいなこと言うなよ……」 雲一つない青空の下。 僕は学校の屋上で、無事に帰ってきた幼なじみと昼休みを過ごしていた。 フェンスを抜ける春の風が、翔太の持つパンの袋をかさかさと鳴らしている。 目の前で不満そうに頬を膨らませている姿を見ると、本当に助けられたのだと、ようやく実感できた。 あのあと、月瀬さんと僕は廃病院の探索を続けた。 霊安室があったのは、病棟の裏手。 草木に覆われた細い渡り廊下の先に、建物から切り離されるようにして建てられていた。 患者にとって、霊安室は死を連想させる恐怖の対象になる。だから病室の窓から見えない場所へ造られたのではないか――と、月瀬さんは話していた。 言われてみれば、確かにそのとおりだと思う。 その霊安室で、僕たちは翔太たちを発見した。 翔太、奏汰、蓮、遊助。 帰ってこなかった四人全員が、折り重なるように床へ倒れていた。幸い呼吸はあり、外傷も見当たらなかった。 月瀬さんが巫術を使うと、四人は一人ずつ意識を取り戻した。 そして、今に至る。 翔太たちは警察から事情を聞かれたあと、学校と家族から、これでもかというほど叱られたらしい。 原稿用紙三枚分の反省文を書かされたうえに、今後は心霊スポットへ決して近づかないという誓約書まで提出させられたという。 先生たちの執念すら感じる対応だった。 けれど、一歩間違えば四人とも帰ってこられなかったのだ。無理もない。 ただ、僕の胸中は少し複雑だった。 翔太たちにとって、桜織旧病院は恐ろしい幽霊に襲われた場所として記憶されるのだろう。 その幽霊が本当は、ずっと誰かに見つけてもらいたかった、寂しがり屋の男の子だったことを知るのは、僕と月瀬さんだけだ。 誠也くんは、これからも恐ろしい霊として噂され続けるのかもしれない。 そう考えると、胸の奥が少しだけ寂しくなった。「そういえばさ、新しい裏サイトができたんだよ」「えっ? 裏サイトって閉鎖されたんじゃなかったの?」「知ってるか、悠斗。俺たち学生はな、『するな』と言われたことほど、やらずにはいられない生き物なんだぜ」「何をそんな当然みたいに言っ
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22.噂もまた目印となる

 それから僕は、昼休みのほとんどを費やして、ようやく月瀬さんを見つけ出した。 彼女がいたのは、校舎の裏手にある小さな中庭だった。 古びた木製のベンチに腰かけ、木漏れ日の下で静かに過ごしている。「つ、月瀬さん……。ようやく見つけた……」 僕は乱れた呼吸を整えながら、額に浮かんだ汗を袖で拭った。 校舎中を走り回ったせいで、足まで少し痛い。「先輩? どうされたのですか?」「あっ、えっと……」 月瀬さんが不思議そうに僕を見上げる。 さて、どう答えよう。 翔太から、君が別の心霊スポットで目撃されたと聞いて、それが気になったから捜していた――。 正直にそう言うのは、いささか無遠慮ではないだろうか。 彼女がどこで何をしていようと、本来なら僕が口を挟むようなことではない。 咄嗟に、僕は別の言葉で取り繕った。「その……月瀬さんに、会いたくなってさ」「…………」 口にしてから気づいた。 これは――まずい。「……えっ?」 月瀬さんが目を丸くし、自分の胸元へ指を向ける。「会いたかった……のですか? 私に?」 やはり、とんでもない誤解を招いてしまった。 少しどころではない。かなりだ。 けれど、嘘ではない。 そう、嘘ではないのだ。 彼女の力について知りたかったし、話したいこともあった。だから、月瀬さんに会いたかったこと自体は間違っていない。 意味合いが、受け取る人によって大きく変わってしまうだけで。 そう自分へ言い聞かせても、急に顔が熱くなってきた。「え、えっと、ごめん! 変な意味じゃなくて……!」 ――変な意味って、どんな意味だよ。 自分で言っておきながら、心の中で自分へ突っ込む。「その……霊について、もう少し教えてほしいと思って」「……ああ、なるほど」 月瀬さんは納得したように、小さく息を吐いた。「申し訳ありません。少し勘違いをしてしまいました」「あはは……。紛らわしい言い方をした僕が悪いよ」「それで、何をお知りになりたいのでしょ
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23.風鳴トンネル

 そして――。「これが……風鳴トンネル」 僕は小さな山の麓に立ち、目の前にぽっかりと開いた暗闇を見つめていた。 古びたコンクリートの入口には、蔦が何本も絡みついている。錆びついた標識は文字が読めないほど色褪せ、道の両脇から伸びた雑草が、ひび割れた路面を覆い隠していた。 まだ太陽は出ている。 それなのに、山の影に覆われたこの場所まで光はほとんど届いていない。空気は湿り気を帯び、春の半ばとは思えないほど冷たかった。 人が寄りつかなくなった場所というのは、それだけでこんなにも暗く見えるものなのだろうか。 僕は、月瀬さん――いや、美琴に連れられ、彼女が訪れていたという心霊スポットへやって来ていた。 中庭で話したあと、美琴からこう尋ねられたのだ。『もし…気になるのでしたら、先輩も一緒に来られますか?』 怖くないわけじゃない。 むしろ、心霊スポットなんて今でも苦手だ。 それでも僕は、彼女の誘いを断らなかった。 そして僕たちの関係も、あの病院で出会ったときから、ほんの少しだけ変わっていた。『先輩。私のことは、美琴と呼んでいただいて構いませんよ』 そう言われたときは、返事に困った。 後輩と先輩。 霊が視えるという共通点があるだけの二人。 そこから何に変わったのかと聞かれても、僕にはまだうまく答えられない。 ただ、もう互いに何も知らない他人ではなかった。 だから僕は、彼女を月瀬さんではなく、美琴と呼ぶことにした。「ええ。ここが、風鳴トンネルです」 美琴は暗い入口を見つめたまま答えた。「ここに、強い後悔を抱えた方が彷徨っています。ですが……今は姿が見当たりませんね」「いないって、どういうこと?」「地縛霊だからといって、必ずしも一つの場所からまったく動けないわけではないのです」 美琴はトンネルの前へ歩み寄り、静かに辺りを見回した。「縛られる範囲には個人差があります。このトンネルそのものに縛られる方もいれば、この山一帯や、亡くなったときの記憶に縛られる方もいます。範囲の中を彷徨ったり、一時的に離れたりできる御魂もいるのですよ」「地縛霊なのに、動けるんだ……」「はい。ただし、現世との繋がりが残っている限り、どれほど離れても、いずれ縛られた場所へ戻されてしまいます」 地縛霊だから、一歩も動けない。 そんな単純なものではないらしい。
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-01
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24.御霊の領域

『―――』 何かが、聞こえる。 囁いているような。 それとも、声を押し殺して泣いているような。 けれど、何を言っているのかまでは聞き取れない。 ざらざらとしたノイズが声へ重なり、僕に言葉を聞かせまいとしているようだった。「先輩、大丈夫ですか?」 美琴の声に、僕は耳元を押さえた。「……囁き声が、さっきからずっと耳を離れないんだ」「おそらく、この場所に染みついた思念の残滓ですね」「この声も、痕跡なの……?」「はい。その方が何度も繰り返した言葉や、最期まで伝えられなかった想いが、音として残ることもあります」 僕はもう一度、耳を澄ませた。 水滴の落ちる音。 濡れた地面を踏む、僕たちの足音。 その隙間に、微かな声が混ざっている。『――……さい』「……さい?」 何かを伝えようとしている。 意味までは分からなくても、それだけは感じ取れた。 もう少しだけ集中すれば、聞き取れるかもしれない。 そう思ったとき、美琴が僕の制服の袖を軽く引いた。「先輩。今は、これ以上聞かない方がよろしいかと」「えっと……この囁きを?」「はい。私たちはまだ、この方がどのような御魂なのかを知りません」 美琴は霧に覆われた前方へ視線を向けたまま、声を潜めた。「可能性は低いと思いますが、御魂の中には、ごく稀に呪詛を紡ぐ方もいます。言葉を最後まで聞き取り、その意味を認識したことで、聞いた者と呪いが結ばれてしまう場合もあるのです」「……呪詛」 なんて恐ろしいことを、さらりと言ってのけるんだ。 僕は囁き声へ意識を向けるのをやめ、前を歩くことだけに集中した。 というか――。 それにしても、このトンネルは長すぎないだろうか。 もうかなり歩いたはずなのに、出口は一向に近づいてこない。 振り返れば、入口は霧の向こうで小さな光の点になっていた。けれど前方に見える出口も、ほとんど同じ大きさのままだ。 少なくとも五百メートル近くは歩いている気がする。 壁一面には黒ずんだ苔が生え、天井
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25.血に濡れた女

『……さい』 霧の奥から、掠れた声が聞こえた。 何かが、こちらへ歩いてくる。 ゆらり、ゆらりと身体を左右へ揺らしながら。それでも一歩ずつ、確実に僕たちとの距離を縮めていた。「先輩、私の後ろへ」 美琴の声には、ほんのわずかな硬さがあった。 僕は黙って頷き、彼女の背後へ回る。 年下だとか、女の子だとか、そんなことを気にしている場合じゃない。霊を相手にするなら、美琴の方が比べるまでもなく頼りになる。 やがて白い霧を押し分けるように、その姿が現れた。 ――血に濡れた女だった。『ごめん……なさい……。ごめん……なさい……っ……!』 誰へ向けているのかも分からない謝罪を、壊れたように繰り返している。 長い黒髪は血に濡れ、何本もの束となって頬や首筋へ張りついていた。全身を覆う衣服も赤黒く染まり、青白い肌には紫色の死斑が浮かんでいる。 顔は、両手で覆い隠されていた。 けれど、細い肩は小刻みに震えている。指の隙間から漏れる声も、泣いているようにしか聞こえなかった。 痛ましい。 そう思うのに、恐怖はまるで薄れてくれない。 膝が勝手に震え始め、奥歯が微かに鳴った。 目の前には美琴がいる。 それでも、身体の震えは止まらなかった。 誠也くんのときとは違う。あまりにも凄惨な姿を前にして、僕の身体は完全に怖気づいてしまっていた。「み、美琴……!」 戻ろう。 そう言おうとした僕の声を、美琴の穏やかな問いかけが遮った。「……あなたは、どうして謝っているのですか?」 美琴が、一歩を踏み出す。「それとも、謝り続けなければならないほど、何かに追い詰められているのですか?」 その声も、佇まいも、誠也くんへ語りかけたときと何も変わらない。 目の前にいるのがどれほど恐ろしい姿をしていようと、美琴はその奥にいる一人の人間へ、そっと手を伸ばそうとしていた。「教えてください。あなたのことを」 また一歩、美琴が近づく。「あなたが何に縛られ、何を悔やんでいるのか。もしかすると、私にも力になれることがあるかもしれ
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-02
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26.美琴の焦り

「痛っ……!」 濡れた地面に手をつき、僕はどうにか身体を起こした。尻もちをついた腰に、遅れて鈍い痛みが走る。 数歩先では、美琴が両膝をついたまま、うなだれていた。「み、美琴っ!」 痛みを堪えながら、慌てて彼女のそばへ駆け寄る。「先輩……すみません。私……」 今にも消え入りそうな声だった。 どうしたというのだろう。 霊を前にしても臆することなく、穏やかに語りかける。そんな美琴の姿を、僕は誠也くんのときに見ている。 けれど、さっきの彼女はどこか違っていた。 遠ざかろうとするあの女性を、無理にでもこちらへ手繰り寄せようとするような――そんな焦りが感じられたのだ。 美琴が霊と向き合う姿を見たのは、まだ一度だけだ。 それでも思ってしまった。 ――らしくない、と。「どうしたの? さっきの美琴……なんていうか、焦ってるように見えたけど」 責めるような言い方にならないよう、慎重に言葉を選ぶ。 美琴は俯いたまま、小さく息を吐いた。「……先輩にも、そう見えてしまいましたか」「うん……正直に言うとね」「私は以前、一人でここを訪れたときにも、あの方へ声をかけました。ですが……やはり、逃げられてしまったのです」「やはり?」 その言葉が引っかかった。 美琴はわずかに顔を上げ、僕を見つめる。「……先輩も、お気づきなのでしょう?」 正直、違和感は覚えていた。 少なくとも僕がこれまで見てきた霊は、生きた人間へ自分の声を届けようとする者が多かった。 僕はずっと、その声から耳を塞ぎ、逃げ続けてきたけれど――あの女性は違う。 誠也くんも、美琴を見たときに『怖い人が来た』と言っていた。 そして先ほどの女性も、美琴が近づくほど後ずさっていた。何かを訴えようとするどころか、怯えて逃げようとしているようにしか見えなかった。 美琴は濡れた地面へ視線を落とした。「私は巫女であるがゆえに、攻撃的な気を身に纏って締まっているのです」「美琴が攻撃的な気を……?」「はい。私自身に危害を加えるつもりがなくと
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-03
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27.暗闇で灯る輝き

『お母さん、ただいま!』 閉じた瞼の向こうで、朗らかな声が弾けた。 声の主の笑顔まで浮かんできそうな、明るく、屈託のない声だった。『――許さない』 次の瞬間、空気が一変する。 深い絶望と、押し殺しきれない怒り。そのすべてを一言に凝り固めたような低い声が、頭の奥へ突き刺さった。『うーん、ぼちぼちかな』 再び、先ほどと同じ朗らかな声。 何気ない会話の一場面だけを切り取り、耳元で再生しているかのようだった。『お前にも、わかるはずだ』 また、あの低い声が響く。 けれど、その言葉だけは何かが違った。 過ぎ去った誰かの記憶ではなく、今ここにいる僕へ向けて囁かれたような気がして、背筋が粟立つ。 これは……なんだ? 美琴の言っていた通り、この場所には何人もの未練が留まっているのだろうか。 声はトンネルの奥から聞こえてくるわけでも、壁に反響しているわけでもない。耳元から、頭の中から、あるいは胸の奥から――方向すら定まらないまま、いくつもの声が流れ込んでくる。『お母さん! 見て、これー!』 今度は、幼い子供の声だった。 その瞬間。 僕の奥底で、何かが胎動した。 ドクン、と心臓が大きく脈打つ。 もう一度。 ドクン――。 鼓動に呼応するように、手のひらの奥で熱が生まれた。 それは手首から腕を駆け上がり、胸の中心へ潜り込む。心臓を通り抜け、首筋を這い、最後には両目の奥へと流れ込んできた。「っ……!」 焼けつくような熱に耐えきれず、僕は反射的に目を開いた。「う……っ」 視界がひどくぼやけていた。 暗いはずのトンネルが白く滲み、壁も地面も輪郭を失って揺れている。 何度か瞬きを繰り返すうちに、少しずつ焦点が戻ってきた。 けれど、そこに映っていたのは、さっきまで見えていなかったものだった。 黒い霧のような何かが、トンネルの至るところでゆらゆらと蠢いている。 視界の端では、人影にも見える何かが走り抜け、振り返るより早く壁の中へ消えていった。 だけど――霊じゃない
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-04
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28. 先輩が眠るあいだに

──月瀬美琴── そう呟いたのを最後に、先輩は深い眠りへ落ちていった。 全身から力が抜け、身体が私のほうへ傾いてくる。私は慌ててその肩を抱き留めると、首を痛めないよう、ゆっくりとベンチへ横たえた。 そして、先輩の頭を自分の膝へ載せる。 穏やかな寝息を確かめ、私はようやく息をついた。 けれど、安堵できたのはほんの一瞬だった。 脳裏から離れないのは、先ほど暗闇の中で輝いていた先輩の瞳。 あれは、見間違えようがない。 私たち古の巫女が使う霊眼の術――御霊見だった。 どうして、先輩が……? 御霊見は、古の巫女にしか扱えないはずの術。それを先輩が発現させたということは、まさか、先輩の中にも――。「……」 そこまで考え、私は小さく首を振った。 まだ早計だ。 御霊見に似ていただけかもしれない。先輩が古の巫女と同じものを宿していると決まったわけではない。 けれど、もし本当にそうだとしたら。 先輩もまた、私と同じように呪われていることになる。 でも――。 先輩の瞳は、紅くなかった。 呪いに穢された血の色ではなく、澄んだ霊気をそのまま映したような、深い碧だった。 ならば、呪われてはいない……? けれど、呪われていない人が、どうして御霊見を使えるのだろう。 わからない。 考えれば考えるほど、新たな疑問が浮かんでくる。「……いけない」 私は膝の上で眠る先輩へ視線を落とした。 今、混乱しているのは先輩のほうだ。 目を覚ましたら、突然見えるようになったものについて、きっと説明を求められる。そんなときに私まで取り乱していては、余計な不安を与えてしまう。 私が、しっかりしないと。 けれど――どこから話せばいいのだろう。 御霊見について。 古の巫女について。 そして、私の瞳が紅く染まる理由について。 先輩に聞かなければならないことも、あまりに多い。術を使ったときに何が見えたのか。何を聞いたのか。これまでにも、同じようなことが起きていたのか。 私は先輩の髪へそっ
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-05
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29.名前のない少女

──櫻井悠斗──「……あれ? ここは……」 気がつくと、僕は見知らぬ神社の境内に立っていた。 空は分厚い雲に覆われ、辺りには白い霧が立ち込めている。湿った石畳の両脇には古びた石灯籠が並び、その先は霧に呑まれて見えなかった。 鳥の声も、木々のざわめきも聞こえない。 耳が痛くなるほど静かだった。「ここ……どこなんだ?」 どうして僕は、こんな場所にいるのだろう。 思い出そうとしても、何も浮かんでこない。 ただ、目を覚ましたらここにいた。それしか分からなかった。「……歩いてみよう」 立ち尽くしていても仕方がない。 僕は自分に言い聞かせるように呟き、霧の中を歩き始めた。 その途中で、不意に前方へ目を奪われる。「……山?」 境内の遥か向こうに、天を衝くほど巨大な山がそびえていた。 霧に覆われているせいか、その全貌は見えない。それでも、見上げなければ山頂を捉えられないほど高い。 そして、その山頂の真上だけが異様だった。 空を覆う灰色の雲とは明らかに違う、墨を流し込んだような黒雲が渦を巻いている。まるで山の中へ吸い込まれているようにも、反対に、山頂から際限なく湧き出しているようにも見えた。「あれは、なんだ……?」 いくら目を凝らしても、その正体までは分からない。 ただ見上げているだけなのに、胸の奥がざらつくような感覚がした。 僕は逃げるように山から視線を逸らす。 今は考えても仕方がない。まずは、ここがどこなのか確かめるべきだ。 そう言い聞かせ、再び石畳の上を歩き始めた。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 どれほど歩いただろう。 ようやく霧の向こうに、巨大な拝殿が姿を現した。「……広すぎないか、この神社」 途中でポケットを探ってみたものの、スマートフォンも時計も見つからなかった。正確な時間は分からないが、体感では数十分近く歩いていた気がする。 それほど長い参道を抜けて現れた拝殿は、思わず息を呑むほど豪華だった。 黒々とした太い柱や梁の至るところに、
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-06
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30.別れがあるからこそ、尊いもの

  翌日の朝は、肌にまとわりつくような蒸し暑さだった。 もうすぐ梅雨がやってくる。 それを過ぎれば、季節はあっという間に夏へ変わってしまうのだろう。 桜翁の花も、さすがに散り始めていた。 今年も随分と長いあいだ咲き続けてくれたけれど、それでも、この桜を見られるのはもうわずかだ。次に花を咲かせる姿を見られるのは、来年になる。 そう思うと、やはり少し寂しかった。『──……』 まただ。 声と呼ぶには、あまりにも曖昧な感覚だった。耳に何かが聞こえたわけじゃない。 それでも時折、桜翁に呼ばれているような気がする。 ……もちろん、そんなことを誰かに話せるはずもない。 良くて怪訝そうな顔をされるだけだろうし、悪ければ本気で引かれる。 いや、多分その両方だ。 だから僕は、その感覚を誰にも打ち明けないまま、放課後を迎えた。 授業が終わると、高台の丘に立つ桜翁のもとへ向かった。最後にもう一度、この桜を目に焼き付けておきたかった。「……あ。先輩もいらっしゃったのですね」 背後から、聞き慣れた声がした。 振り返る。「やあ。美琴も、最後の桜を見に来たの?」「はい」 美琴の手には、少し古い型のカメラが握られていた。「最後に、散り際の桜翁を残しておきたくて」 そう言うと、美琴は慣れた手つきでカメラを構える。 カシャリ、と小気味よいシャッター音が響いた。「最初は信じがたかったのですが……まさか、夏が近い今になっても桜が咲いているなんて。思いませんでした」「でしょ? 桜って、本来すぐに散ってしまうものだからさ。その儚さも好きだけど、桜翁だけはずっと咲いていてくれた」 枝先に残る淡い花を見上げる。「だから、僕はこの桜が好きなんだ」 桜を眺めていると、いつも胸の奥が切なくなる。 理由は分からない。 何かを思い出しかけているような。あるいは、僕自身も気づいていない未練を、この桜に重ねているような。 ──未練。 その言葉で、今朝見た夢を思い出した。 白蛇神社。 名前だ
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-07
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