縁が結ぶ影

縁が結ぶ影

last updateLast Updated : 2026-08-31
By:  渡瀬藍兵Updated just now
Language: Japanese
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霊を見る力を持つ高校生・櫻井悠斗は、春の廃病院で、千年の巫術を受け継ぐ少女・月瀬美琴と出会う。 美琴は、怨霊をただ祓うべき怪異とは考えていなかった。怒りや憎しみの奥に取り残された声へ耳を傾け、その未練を解き、魂をあるべき場所へ送り届ける。 そんな彼女の姿に母の面影を感じた悠斗は、美琴とともに各地の怪異へ立ち向かうようになる。 風鳴トンネルに響き続ける、二十年越しの後悔。 温泉郷に語り継がれる、花守巫女の伝説。 二人を結ぶ数々の怪異は、やがて千年前に封じられた呪いと、忘れ去られた巫女たちの悲劇へと繋がっていく。

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Chapter 1

1.桜が紡ぐ町

 ────────────────

『私は……何のために生まれてきたんだろう』

「……君にしか、成し得ないことがあったからだ」

『でも、そこに私の気持ちが入り込む隙間なんて、どこにもなかった』

「それでも君は、その命を燃やし続けた。春に咲き、やがて散ってゆく桜のように――どこまでも鮮やかに」

「君が成し遂げたことは、決して無駄ではない。君が払った代償は、あまりにも大きかった。けれど、私は知っている」

「……私こそが、君がここにいた証だ」

 返事はない。

 あるのは、遠い春から届く彼女の声だけだった。

 風が吹き、ひとひらの桜が僕の傍らを通り過ぎていく。

 あの日も、こうして桜が舞っていた。

 ────────────────

 桜が、ひらひらと舞っていた。

 春風にさらわれた淡い花びらが、古い町並みの間を縫うように流れていく。瓦屋根をかすめ、石畳の上を転がり、ときには道行く人の肩へ、いたずらのように舞い降りる。

 町じゅうが、春特有のどこか甘い匂いに包まれていた。

 僕の生まれ育った桜織市は、風穂県の平野部にある古都だ。

 町の至るところに桜が植えられ、春になれば、通りも、川沿いも、家々の庭先も、枝いっぱいの花で彩られる。古い町並みは薄紅色をまとい、散った花びらまでが道を華やかに染めていく。

 桜とともに歳月を重ね、歴史を織りなしてきた町――だから、桜織市と名づけられたのだという。

 僕は緩やかな坂道を上りながら、目の前を横切った一枚の花びらをぼんやりと追っていた。

 花びらが風に持ち上げられ、青い空へ紛れようとした、そのとき。

「あら、悠斗ちゃん!」

 横から明るい声が飛んできた。

 振り向くと、古びた木造の店先から、店番のおばさんが顔を覗かせていた。頭上には、色褪せた「たばこ」の看板が掲げられている。

「おはようございます」

 僕は足を止め、ぺこりと頭を下げた。

「おはよう。今日から新学期だねえ」

「はい。今日から高校二年生です」

「そうかい、もう二年生か。早いもんだねえ」

 おばさんは目尻の皺を深くすると、通りに並ぶ桜を見渡した。

「今年もそこらじゅうに立派な桜が咲いて、いい門出じゃないか。悠斗ちゃんはいい子だからね。今年もきっと、いい一年になるよ」

 期待をそのまま手渡されたようで、少しくすぐったい。僕は返事に困り、曖昧な笑いを漏らした。

「あはは……そうだといいんですけど。それじゃあ、おばさん。行ってきます」

「気をつけて行くのよ」

「はい」

 もう一度頭を下げ、僕は坂道を上り始めた。

 町の人に挨拶をして、毎朝同じ道を通って学校へ向かう。勉強も運動も人並みで、これといって目立つところもない。

 僕は自分を、どこにでもいる何の変哲もない高校生だと思っている。

 ――ひとつだけ、人には言えない秘密を除けば。

 僕には、霊が見える。

 道の隅に立ち尽くす人影も、人のいない路地へ消えていく背中も、ふとした瞬間に当たり前のように視界へ入り込んでくる。

 けれど、見えても目を合わせず、足を止めず、何も気づかなかったふりをして通り過ぎる。

 見えることと、関わることは別だ。

 それが僕なりに身につけた、普通でいるためのやり方だった。

 再び吹いた春風が、足元に落ちていた花びらを連れ去っていった。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 教室の扉を開けた途端、新学期特有の浮き立った空気が押し寄せてきた。

「おっ、またお前と一緒か!」

「ええっ、勘弁してくれよ!」

 教室のあちこちで、再会を喜ぶ声と、それを茶化す笑い声が飛び交っている。新しい席を探して歩き回る者もいれば、さっそく机を囲んで春休みの話を始めている者もいた。

 まだ朝だというのに、教室の熱気は随分と高い。

 僕はその喧騒を横目に、自分の席へ向かった。

 窓際のいちばん後ろ。

 通学鞄を机の上へ置いたところで、隣の席にいた男子がこちらを振り向いた。

「おはよう、櫻井。今年はよろしくな」

「おはよう。こちらこそ、よろしくね」

 挨拶を返し、鞄から取り出した教材を机の中へ収める。そのまま椅子に腰を下ろして、何となく窓の外へ目を向けた。

 校舎の向こう、町を見下ろす丘の上に、一本の大きな桜が立っている。

 枝いっぱいに薄紅色の花を抱えた大桜は、春の日差しを浴びながら、吹き抜ける風にゆったりと身を任せていた。遠くから眺めているだけなのに、なんだか心地よさそうに見える。

 その姿をしばらく眺めていると、始業を知らせるチャイムが鳴った。

 ほとんど同時に、教室の前方の扉ががらりと開く。

「よっしゃー、ホームルームやるぞー。ほら、座れ座れー」

 気怠そうな声とともに、担任が出席簿を片手に入ってきた。言葉の勢いに反して、その足取りはひどく重い。新学期の朝だというのに、もう一日分働き終えたような顔をしている。

 誰かが小さく笑い、教室に散らばっていたクラスメイトたちは、それぞれの席へ戻っていった。椅子を引く音が重なり、先ほどまでの喧騒が少しずつ静まっていく。

 僕も窓から視線を戻し、教室の前へ向き直った。

 窓の外では、またひとひら、桜が風にさらわれていた。

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1.桜が紡ぐ町
 ──────────────── 『私は……何のために生まれてきたんだろう』 「……君にしか、成し得ないことがあったからだ」 『でも、そこに私の気持ちが入り込む隙間なんて、どこにもなかった』 「それでも君は、その命を燃やし続けた。春に咲き、やがて散ってゆく桜のように――どこまでも鮮やかに」 「君が成し遂げたことは、決して無駄ではない。君が払った代償は、あまりにも大きかった。けれど、私は知っている」 「……私こそが、君がここにいた証だ」  返事はない。  あるのは、遠い春から届く彼女の声だけだった。  風が吹き、ひとひらの桜が僕の傍らを通り過ぎていく。  あの日も、こうして桜が舞っていた。  ────────────────  桜が、ひらひらと舞っていた。  春風にさらわれた淡い花びらが、古い町並みの間を縫うように流れていく。瓦屋根をかすめ、石畳の上を転がり、ときには道行く人の肩へ、いたずらのように舞い降りる。  町じゅうが、春特有のどこか甘い匂いに包まれていた。  僕の生まれ育った桜織市は、風穂県の平野部にある古都だ。  町の至るところに桜が植えられ、春になれば、通りも、川沿いも、家々の庭先も、枝いっぱいの花で彩られる。古い町並みは薄紅色をまとい、散った花びらまでが道を華やかに染めていく。  桜とともに歳月を重ね、歴史を織りなしてきた町――だから、桜織市と名づけられたのだという。  僕は緩やかな坂道を上りながら、目の前を横切った一枚の花びらをぼんやりと追っていた。  花びらが風に持ち上げられ、青い空へ紛れようとした、そのとき。 「あら、悠斗ちゃん!」  横から明るい声が飛んできた。  振り向くと、古びた木造の店先から、店番のおばさんが顔を覗かせていた。頭上には、色褪せた「たばこ」の看板が掲げられている。 「おはようございます」  僕は足を止め、ぺこりと頭を下げた。 「おはよう。今日から新学期だねえ」 「はい。今日から高校二年生です」 「そうかい、もう二年生か。早いもんだねえ」  おばさんは目尻の皺を深くすると、通りに並ぶ桜を見渡した。 「今年もそこらじゅうに立派な桜が咲いて、いい門出じゃないか。悠斗ちゃんはいい子だからね。今年もきっと、いい一年になるよ」  期待をそのまま手渡されたようで、少しくすぐったい
last updateLast Updated : 2026-07-17
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2.桜翁の下の少女
高校二年生になって、最初の一日がようやく終わった。  窓から差し込む淡い夕日が、教室をやわらかな橙色に染めている。黒板も机も、帰り支度を始めたクラスメイトたちの横顔も、朝とは少し違って見えた。 「ねえねえ、帰りに寄ってかない? 新しくできたカフェがあるんだって!」 「いいねー! 行こ行こっ!」  近くから弾んだ声が聞こえ、楽しげな笑い声が重なる。  朝からもう八時間近く経っているというのに、新学期特有の浮き立った空気は、少しも衰えていなかった。  なんだか、眩しい。  別に、彼女たちが羨ましいわけではない。ただ、放課後の予定を決めて屈託なく笑い合う、そんなありふれた日常が、僕には少しだけ眩しく見えたのだ。  ふと、その笑顔から視線を外し、教室の入り口へ目を向ける。  そこに、真っ黒な人影が立っていた。 「――っ」  人の形をしているのに、夕日の中で、その姿だけが黒く抜け落ちている。顔も目も見えない。それでも、そいつが女子たちをじっと睨んでいるのだと、僕には分かった。  息を呑んだことさえ悟られないよう、すぐに俯く。歪みかけた表情を隠し、机の中から教材を取り出して、鞄へ押し込んでいった。  僕があれを見ていると、気づかれてはいけない。  とにかく、この場を離れなくちゃ。  震えそうになる指で鞄のファスナーを閉じ、肩へ掛ける。なるべく足音を立てないように席を離れ、教室の入り口まで来たところで、そこにいたはずの影が消えていることに気づいた。  振り返らないほうがいい。  そう思ったのに、僕は教室を出る直前、もう一度だけ後ろを見てしまった。  影は、女子たちのすぐ目の前に立っていた。  手を伸ばせば触れられそうな距離にいるというのに、彼女たちは何も知らず、カフェの話を続けながら笑っている。  僕の足が、ほんの一瞬だけ止まった。  それでも、声をかけることはできなかった。  ――ごめん。  何も知らずに笑っている彼女たちへ、胸の内で謝る。  すぐに前を向き、僕はそのまま教室をあとにした。  昇降口で上履きを脱ぎ、革靴へ履き替えて校舎を出ると、夕日に染まった一本の桜が僕を出迎えた。  枝いっぱいに咲いた花が、風に吹かれてやわらかく揺れている。橙色の光をまとった花びらは、昼間に見るものとはまた違う美しさがあった。 「ここの桜も
last updateLast Updated : 2026-07-17
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3.声なき声に呼ばれて
どれほど、そうしていたのだろう。  ふいに、少女がこちらを振り返った。 「……あの。私に、何かご用でしょうか?」  硝子の縁を指先で弾いたような声だった。澄んでいて、それでいて芯がある。春風にも紛れず、僕の耳へまっすぐ届いた。 「えっ――あ、ごめん。用ってわけじゃないんだけど……」  我に返るのと、自分が彼女を見つめていたと気づくのは、ほとんど同時だった。  声が情けないほど上ずる。咄嗟に視線を逸らすと、火照った頬を撫でる春風まで、妙に生ぬるく感じられた。  何か話さなければ。  そう思って目を泳がせた先で、ようやく彼女の制服が目に入る。  桜織高校の紺色のブレザー。胸元では、一年生を示すリボンが揺れていた。 「君、僕と同じ桜織高校だよね?」 「はい。今日から桜織高校の一年生になりました、月瀬美琴と申します」  月瀬さんはリボンにそっと手を添え、折り目正しく頭を下げた。  言葉遣いにも、ぴんと伸びた背筋にも、どこか古風な品がある。たった一学年下のはずなのに、こちらまで背筋を正したくなるほど丁寧な挨拶だった。  ……ずいぶん、礼儀正しい一年生だ。 「僕は二年の櫻井悠斗。よろしく、月瀬さん」 「ふふっ。先輩でいらしたのですね」  顔を上げた月瀬さんが、口元をほころばせる。笑うと、先ほどまでの凛とした雰囲気がやわらぎ、ようやく年相応の少女に見えた。  それを見て、僕もようやくまともに笑うことができた。  風が二人のあいだを通り抜け、花びらを一枚、足元へ運んでくる。 「実は、こちらの桜がとても綺麗だと、一年生のあいだで話題になっていまして。それで見に来たのですけれど……」  月瀬さんは桜翁を仰いだ。  そのまま、言葉を失ったように唇がわずかに開く。見開かれた瞳の奥に、夕映えの桜が映り込んでいた。 「本当に……息を呑むほど美しいですね」  その声は夕風にほどけ、枝々の向こうへ溶けていった。  僕も同じ梢を見上げ、小さくうなずく。 「この桜は、地元じゃ有名なんだ。――もしかして、この辺りに来るのは初めて?」  半ば確信しながら尋ねた。この町で育った人間なら、桜翁を知らないはずがない。 「はい。遠い地方から、先日引っ越してきたばかりで……まだ右も左も分からないことばかりなのです」 「やっぱり。地元の人なら、この木を知らない
last updateLast Updated : 2026-07-17
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4.桜織旧病院と帰らない幼なじみ
 翌朝。 いつも通り教室の扉を開けた瞬間、僕は足を止めた。 教室の中が、妙にざわついている。 新学期が始まってまだ二日目だ。昨日と同じように浮ついた空気が残っていても、不思議ではない。 けれど、今日のざわめきは明らかに質が違っていた。 興奮した様子でスマートフォンの画面を見せ合う生徒がいる。その一方で、顔を強張らせ、小声で何かを囁き合っている者もいた。「これ、本当に途中で切れたの?」「最後の音、聞いた?」「やばくない? まだ誰も帰ってないって……」 断片的な言葉が耳に入る。 誰かが面白半分に笑えば、別の誰かが「笑い事じゃないだろ」と顔をしかめる。 高揚と恐怖。 相反する二つの感情が教室の中で入り交じり、空気を落ち着かないものにしていた。 一体、何があったんだろう。 僕は自分の席へ向かい、鞄を机の横に掛ける。椅子を引いて腰を下ろすと、隣の席にいる男子生徒へ声をかけた。「おはよう」「お、櫻井。おはよう」 彼はいつもと変わらない軽やかさで片手を上げた。 その反応に少しだけ安心しながら、僕は周囲を見回す。「なんだか、クラスの雰囲気がおかしくない? 何かあったの?」 そう尋ねると、彼は意外そうに目を丸くした。「なんだ、櫻井。昨日の生配信、見てないのか?」「……生配信?」 何のことだろう。 僕が首を傾げると、彼は「ああ」と納得したように頷いた。「そこからか。じゃあ櫻井、裏サイトは分かるか?」「名前くらいなら」 裏サイト。 名前だけを聞けば、いかにも危険で、いかがわしい場所を想像してしまう。 けれど、実際に扱われているのは、誰と誰が付き合い始めたとか、どこの教師が何をしたとか、町にある心霊スポットの情報だとか――そういった、狭い範囲の噂話がほとんどらしい。 当人にとっては広められたくないような話まで、匿名で好き勝手に書き込まれている。 以前、幼なじみの不動翔太から聞いたことがあった。「その裏サイトでさ、奏多たちが結構有名だったんだよ」「奏多?」 聞き覚えのある名前だった。 同じ学年の生徒だ。直接話したことはほとんどないけれど、廊下ですれ違ったことくらいはある。「どうして有名になったの?」「あいつら、よく心霊スポットに行って生配信してたんだ。それを裏サイトに上げてたら、いつの間にか人気が出てな。反応が増えた
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5. 味のしない焼きそばパン
 昼休み。  僕は校舎の屋上で、焼きそばパンを頬張っていた。  甘辛いソースの匂いはしている。口の中には確かに麺もパンもあるはずなのに、どういうわけか、ほとんど味がしなかった。  噛んでも、飲み込んでも、湿った紙を口に詰め込んでいるような感覚しかない。  原因は分かっていた。  今朝、翔太たちが帰ってきていないと聞かされたあと、学校では急遽、全校朝礼が開かれた。  壇上に立った教師や校長から、昨夜起きたことについて説明があった。とはいえ、学校側も事態のすべてを把握しているわけではないらしい。  桜織旧病院へ向かった生徒が四人。  昨夜から連絡が取れず、今朝になっても誰一人、自宅へ戻っていないこと。  今日中に帰宅が確認できなければ、警察が旧病院の管理者と連絡を取り、敷地内の捜索を検討していること。  そんな話が、重苦しい声で告げられた。  ただちに捜索へ入る、ではない。  まず管理者へ連絡し、立ち入りの手続きを済ませたうえで、ようやく検討する。  行方不明になったのが高校生だというのに、それほど慎重にならなければならない場所なのだ。  ――桜織旧病院は。  さらに、今回の一件をきっかけに、学校側は例の裏サイトの存在も把握したらしい。  匿名で生徒の噂や個人情報が書き込まれていたこと。過去には、似たようなサイトがいじめや誹謗中傷の温床となった事例もあること。  そうした理由から、関係機関へ連絡し、サイトを閉鎖する方針だと説明された。  そして最後に、校長は何度も念を押した。  興味本位で心霊スポットへ近づかないこと。  危険な廃墟へ無断で立ち入れば、建物の管理者や周辺住民へ迷惑をかけるだけではない。崩落や転落といった事故にもつながりかねない、と。  それはもっともな話だった。  けれど、僕にはその言葉が、単なる事故への警告だけには聞こえなかった。  そもそも、桜織市は生者と死者の距離が近い町だ。  この町には、亡くなった人々を悼み、その魂へ想いを届けるための祭事がいくつも残っている。  中でも有名なのが、毎年春に行われる桜祭りだ。  名前だけを聞けば、満開の桜を楽しむ華やかな催しを想像するだろう。実際、町には屋台が並び、多くの観光客が訪れる。  けれど、その祭りの始まりは、もっと静かなものだったという。  亡くな
last updateLast Updated : 2026-07-17
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6.桜織旧病院での捜索:林の中の不気味な影
 そして今、僕は桜織旧病院の前に立っていた。 ……一体、どうしてこんなことになったのだろう。 昼休みには、ただ翔太の無事を願いながら、屋上から町を眺めていたはずだった。 それなのに日が沈んだ今、僕の目の前には、懐中電灯の光に照らされた白い建物が、不気味な影を地面へ落としている。 戦後間もなく建てられたという、かつての総合病院。 外壁の至るところに亀裂が走り、雨水が染み込んだ跡が、黒ずんだ筋となって壁を伝っている。窓ガラスの大半は曇っているか割れていて、残ったものも内側に溜まった闇を映すばかりだった。 遠目からでも分かるほど、大きな建物だ。 横に長い造りで、見上げれば三階まであるらしい。戦後すぐの病院とは思えないほど立派だったのだろう。 少なくとも、かつては。 今では、年月に食い荒らされた巨大な骸にしか見えない。 屋根はところどころ崩れ、外壁からは蔦が伸びている。建物の周囲に生えた雑草も、長いあいだ誰の手も入っていないことを物語っていた。 そして何より――。 僕の目には、病院全体を覆うように、黒く淀んだ何かが渦巻いているように見えた。 霧にも、煙にも似ている。 けれど、夜の闇とは明らかに違う。 建物の内側から滲み出し、病院を包み込みながら、ゆっくりと蠢いている。「っ……」 息を呑んだ途端、喉の奥がひどく乾いた。 膝が震えている。 止めようとしても、力がうまく入らなかった。 僕には、確かに霊が見える。 だからといって、怖くないわけではない。 むしろ、逆だ。 霊が見えるのに怖がるのか、と言う人もいるかもしれない。 けれど、見えない人が暗闇の中で感じる恐怖は、想像によって作り出されたものだ。 細枝のように痩せた腕。 濁った瞳。 不自然に曲がった首。 何もないはずの場所から、こちらを覗き込む青白い顔。 すべてが想像でしかないのなら、どれほどよかっただろう。 振り返って何もいなければ、気のせいだったと笑うことができる。 けれど、僕の目には映ってしまう。 そこにいるものが。 見てはいけない姿が。 こちらを見返す、その視線まで。 だから僕は、ずっと避けてきた。 見えても気づかないふりをして、関わらないようにしてきた。 それなのに今、自分からこんな場所へ足を運んでいる。 理由は一つしかない。 翔太が心配だ
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7.桜織旧病院での捜索:けん玉の音
 それから僕は、懐中電灯の光だけを頼りに、病院の中を慎重に進んでいた。 足元には、砕けたガラスや剥がれ落ちた壁の破片が散乱している。踏み抜かないよう一歩ずつ確かめながら、暗い廊下を歩いていく。 湿気を吸った床材が、体重をかけるたびに軋んだ。 ぎし。 ぎし、と。 その音が、自分の足音ではなく、すぐ後ろから誰かがついてきているように聞こえてならない。 何度か振り返った。 けれど、そのたびに懐中電灯が照らし出すのは、誰もいない廊下だけだった。「……考えすぎだ」 誰に聞かせるでもなく呟き、前へ向き直る。 その直後だった。「わっ!?」 突然、顔に何かが絡みついた。 細く、乾いた糸のような感触が、頬から額へまとわりつく。 髪の毛――。 そんな言葉が頭をよぎった瞬間、全身から血の気が引いた。「っ……!」 反射的に腕を振り回し、顔に絡んだものを必死に払い落とす。懐中電灯の光が大きく揺れ、壁や天井を目まぐるしく照らした。 やがて、目の前に細い糸が垂れ下がる。「……蜘蛛の巣」 正体を知った途端、肺に溜め込んでいた息が一気に抜けた。 ただの蜘蛛の巣だ。 それだけのことなのに、心臓は壊れそうなほど激しく脈打っている。 僕は顔に残った糸を指先で取り除きながら、恨めしげに天井を見上げた。「驚かせないでくれよ……」 蜘蛛の巣に文句を言っても仕方がない。 それでも何か口にしていなければ、この静けさに呑み込まれてしまいそうだった。 気を取り直し、再び歩き出す。 しばらく進むと、廊下は突き当たりで左右に分かれていた。 僕はその場で足を止め、まず左へ懐中電灯を向ける。 少し先に、吹き抜けのような広い空間が見えた。壁際には汚れた長椅子が並び、その向こうには大きな窓と、外へ続いていたらしいテラスがある。 かつては患者や見舞客が行き交っていた、待合ホールなのだろう。 次に右側を照らす。 壁に沿って上階へ続く階段があり、その奥には金属製の両開き扉が見えた。扉の上には、傾いたプレートが残っている。 ――職員用出入口。 恐らく、救急車で運ばれてきた患者は、あの扉から院内へ搬送されていたのだろう。 どちらへ進むべきか迷い、僕はもう一度左を見る。「ホールなら、案内図があるかもしれない」 闇雲に歩き回るより、先に建物の構造を把握したほうがいい。
last updateLast Updated : 2026-07-17
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8.桜織旧病院での捜索:遭遇
 懐中電灯の光を近づけ、僕はカルテに記された文字を上から追っていった。『患者名:山口 誠也 享年九歳』『診断名:肺結核――急性期』『主訴:数週間に及ぶ長引く咳、断続的な高熱、ならびに全身の強い倦怠感』『入院日:昭和四十七年四月二日』『経過:入院後も持続的な激しい咳と呼吸困難あり。各種薬剤による治療を行うも反応乏しく、病状は悪化の一途を辿り、徐々に衰弱』『死亡確認:昭和四十八年三月十二日 午後三時十四分』『備考:危篤状態の折、家族の――を知り――その後、容体急変。家族との面会は叶わず』 そこまで読み終えたところで、僕は眉を寄せた。「家族の……何を知ったんだ?」 備考欄の一部は、黒いインクで塗り潰されていた。 経年による滲みではない。 誰かが意図的に、その部分だけを読めなくしたように見える。 懐中電灯を近づけ、角度を変えて照らしてみる。けれど、光を強く当てても、下に書かれた文字までは浮かび上がらなかった。 家族に、何かがあった。 それを危篤状態にあった誠也という少年が知り、直後に容体が急変した。 読み取れるのは、その程度だった。 カルテの隅には、小さな顔写真が貼られている。 七歳で亡くなったという少年の顔。 頬は痩せ、表情もどこか硬い。正面を向いているはずなのに、その目はカメラではなく、もっと遠くにある何かを見ているように感じられた。 寂しそうな顔だった。 ――結核。 今なら、早く見つけて適切な治療を受ければ、助かることも多い病気なのだろう。 けれど、この子にはその治療が届かなかった。 五十年以上も前。 たった七歳の子どもの命を奪うには、あまりにも残酷で、それでいて十分すぎる病だった。 長いあいだ病院から出ることもできず、咳と熱に苦しみ続けて。 どれほど家へ帰りたかったのだろう。 どれほど家族に会いたかったのだろう。 想像しようとしただけで、胸の奥に鉛の塊が沈んだような重さを感じた。 そのとき。 カサッ、と小さな音がした。「……?」 カルテの束の間から、一枚の紙が滑り落ちていた。 床に伏せるように落ちたそれは、古びた小さな便箋だった。 僕はカルテを机の上へ置き、慎重に紙を拾い上げる。 黄ばんだ便箋は、几帳面に何度も折り畳まれていた。端はすっかり柔らかくなっていて、力を入れれば簡単に破れてしまいそう
last updateLast Updated : 2026-07-17
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9.月瀬美琴
 ――月瀬美琴―― 国道を行き交う車の音を背に、私はガードレール脇の茂みをかき分けていた。 伸び放題になった草が足首へ絡みつき、湿った土の匂いが鼻をかすめる。わざわざ人が足を踏み入れるような場所ではない。 では、なぜ私はここにいるのか。 ここには、死してなお苦しみ続けている人たちがいる。 理由は、ただそれだけだった。 茂みの奥には、三つの影が漂っていた。 けれど、もはや人の姿とは呼べない。輪郭は崩れ、黒い煙がかろうじて人の形を保っているようにしか見えなかった。 長い年月、この場所に縛られ続けてきたのだろう。 声を上げる力さえ失いかけた彼らの想いを、私は偶然拾ってしまった。 この世に留まる霊の多くは、誰かに伝えたい想いや、託したいものを抱えている。 目の前を彷徨う三人も、きっと同じなのだ。 やがて三つの影のうち、最も小さなものが揺らめいた。 こちらを振り返るような仕草を見せたあと、私を導くように茂みの奥へ進み始める。『こっち……こっちだよ』 声として聞こえたわけではない。 それでも、その子が伝えようとしていることは、私の胸へ確かに届いた。「はい。今、行きますね」 枝を避けながら、小さな影のあとを追う。 少し進んだところで、その影は立ち止まった。 周囲には草が生い茂っているのに、そこだけ不自然に地面が露出している。土はわずかに窪み、過去に何かが起きた痕跡だけが、長い年月を経ても消えずに残っていた。「ここが、皆さんを縛りつけている場所なのですか?」 尋ねると、小さな影が微かに上下へ揺れた。 頷いたのだと思う。 続いて影は、形の定まらない腕を持ち上げ、地面の一角を指し示した。「そこに、何かあるのですか?」 私は示された場所へ近づき、その場にしゃがみ込んだ。 土の間から、何かが僅かに突き出している。 初めは人形の足かと思った。けれど、指で表面の泥を拭ってみると、それは古びた木片のようだった。 小さな影が私の隣へ寄り添う。『それ……それを……』「これを、掘り出してほしいのですね?」 影が、もう一度頷いた。「分かりました。少し待っていてくださいね」 私は両手で土を掘り始めた。 けれど、埋まってから一体どれほどの年月が過ぎているのか。土は固く締まり、細い根が幾重にも絡み合っている。 爪の間に土が入り込み、指先
last updateLast Updated : 2026-07-17
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10.予想外の告白
 ──櫻井悠斗── 目の前の扉が、軋んだ音を立てて開いた。 暗闇を切り裂くように、白い光が差し込んでくる。ライトの光をまともに浴びた僕は、眩しさに耐えきれず顔を背けた。「えっ……!? さ、櫻井先輩……!?」 驚きに弾んだ声が、静まり返った廊下に響く。 この声――聞き覚えがある。 まさか。 恐る恐る顔を上げると、ライトを下ろした少女の姿が闇の中から浮かび上がった。 桜翁の前で出会った、一年生の少女。 ――月瀬美琴さんだった。「月瀬さん……!?」 どうして彼女がここにいるんだ。 疑問ばかりが頭の中を駆け巡り、何一つ答えにたどり着かない。 月瀬さんは急いで僕のそばまで来ると、床に座り込んでいる僕と目線を合わせるようにしゃがんだ。「先輩、大丈夫ですか? どうして、このような場所に……?」 戸惑いを滲ませながら、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。 それは、こっちの台詞なんだけど……。 そう言いかけて、口を閉じた。 月瀬さんが扉を開けてくれなければ、あのまま僕がどうなっていたか分からない。まずは僕から事情を話すべきだろう。「実は、僕の幼なじみがここへ入り込んだみたいなんだ。昨日から家にも帰っていないらしくて……それで、僕が探しに来たんだよ」「……そういうことでしたか」 月瀬さんは納得したように頷いた。「ところで、その……月瀬さんは、どうしてこんなところへ?」「私は、こちらを届けに来たんです」「届ける……?」 月瀬さんは肩に掛けていた鞄を開き、中を探り始めた。 やがて取り出したのは、白いハンカチに包まれた小さな何かだった。 膝の上で丁寧に布を広げる。 中から現れたのは、木彫りの犬だった。 表面は黒ずみ、全身に深い傷が刻まれている。片脚も途中から折れて失われていた。それでも、丸みを帯びた素朴な形からは、誰かの手で大切にされてきたような温かさが感じられた。 これを届けに来たって……誰に? こんな廃病院にいる相手なんて――。「それよりも、先ほど……ものすごい音が聞こえましたけど」「うっ……」 心臓がぎくりと跳ねた。 きっと、僕が霊に吹き飛ばされ、扉へ叩きつけられたときの音だ。 けれど、正直に話していいものなのだろうか。 霊に襲われました――なんて口にしたところで、普通なら信じてもらえるはずがない。「こ、転んじ
last updateLast Updated : 2026-07-17
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