縁が結ぶ影

縁が結ぶ影

last update最終更新日 : 2026-07-21
作家:  渡瀬藍兵たった今更新されました
言語: Japanese
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概要

現代

ミステリー

泣ける

一途

先輩

高校生

超能力

成長

 ごく普通の高校生、櫻井悠斗。ただ一つ、彼には「視える」という秘密があった。  平穏を望む彼だったが、幼馴染が悪名高い心霊スポット「桜織旧病院」で消息を絶ったことで日常は崩壊する。  恐怖を押し殺し、友を救うため一人で廃病院の闇へ足を踏み入れた悠斗。  そこで彼が遭遇したのは、この世ならざる者たち――そして、同じく霊が視える後輩・月瀬美琴。しかし彼女は、不思議な術を使う巫女だった。  二人はやがて、病院を彷徨う少年の霊が抱える、悲痛な過去と対峙することになる。  これは、傷を抱えた少年が謎多き巫女と出会い、恐怖を越えて失われた“縁”を結び直していく物語。二人が紡ぐ縁の先に、一体何が待っているのか――。

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15 チャプター
1.桜が紡ぐ町
   ────────────────『私は……何のために生まれてきたんだろう』「……君にしか、成し得ないことがあったからだ」『でも、そこに私の気持ちが入り込む隙間なんて、どこにもなかった』「それでも君は、その命を燃やし続けた。鮮やかに――春になれば咲き、やがて散っていく桜のように」「君が成し遂げたことは、決して無駄ではない。払った代償は、あまりにも大きかった。けれど、私は知っている」 わずかな沈黙のあと、声は静かに告げた。「……私こそが、君がここにいた証だ」   ──────────────── 桜が、降っていた。 薄桃色の花びらが春の光を透かし、風に乗って古い町並みを流れていく。石畳に落ちるものもあれば、瓦屋根の上を滑っていくものもある。ひとひらが僕の肩に触れ、すぐにまた宙へさらわれていった。 僕は通学鞄の肩紐を持ち直しながら、その行方を目で追った。 僕の名前は、櫻井悠斗。 今日から高校二年生になる。 一見すれば、どこにでもいる地味な高校生だと思う。目立つような容姿でもなければ、人に自慢できる特技があるわけでもない。 ただ、ひとつだけ。 僕には、本来なら見えないはずのものが見える。 それさえ除けば、本当に何の変哲もない高校生だった。 ここは、風穂県桜織市。 格子戸の並ぶ町家や、白壁の蔵、細い水路に架けられた石橋が、今も古い時代の面影を残している。千年もの昔から桜とともに歴史を織り上げてきた――そんな言い伝えから、桜織の名がついたらしい。 その名に違わず、町の至るところに桜がある。 川沿いにも、駅のホームにも、寺社へ続く石段にも。バスの窓から外を眺めても、電車を待っていても、春の桜織で桜を目にしない日は一日たりともない。 今朝も街じゅうが淡い色に染まり、冷えた空気の中に、花のかすかな甘い匂いが混じっていた。「あら、悠斗ちゃん!」 通りに面した煙草屋から、朗らかな声が飛んできた。 顔を向けると、店番のおばさんが軒先から身を乗り出し、こちらへ大きく手を振っている。赤い「たばこ」の看板の下で、いつもと変わらない元気そうな笑顔を浮かべていた。「あ、どうも。おはようございます」「今日から高校二年生だろう? 桜もこんなに見事に咲いて、縁起のいい門出になりそうだねえ」 おばさんの目尻に、柔らかな皺が寄る。「悠斗ちゃんは
last update最終更新日 : 2026-07-17
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2.桜翁の下の少女
 高校二年生として迎えた最初の一日が、ようやく終わろうとしていた。 窓から差し込む夕暮れの光が、教室を淡い橙色に染めている。机や椅子の影は細長く床へ伸び、開け放たれた窓からは、春の風とともに桜の花びらが一枚だけ迷い込んできた。 それでも、教室に満ちた浮ついた空気は、朝から少しも衰えていない。「このあと、どうする?」「駅前に新しいカフェができたんだって。今から行ってみない?」「いいね。ほかに誰か誘う?」 弾んだ声が、教室のあちこちから聞こえてくる。 新しいクラスになったばかりだというのに、もういくつもの輪ができていた。きっと、その中には今日初めて話した者同士もいるのだろう。誰かが笑えば、別の誰かがそれにつられて笑う。そんな光景を横目に、僕は机の中から教材を取り出し、順番に鞄へ詰め込んでいった。 教科書、ノート、筆箱。 忘れ物がないことを確かめ、鞄の口を閉じる。 別に、誘われなかったことを寂しく思っているわけではない。 僕には僕で、行きたい場所があった。 席を立って教室を出る。廊下にもまだ生徒たちの声が響いていたけれど、昇降口を抜けるころには、それも次第に遠ざかっていった。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸「はぁ……はぁ……」 学校を出てからしばらくして。 僕は現在、地味に――いや、かなり険しい坂道を登っていた。 足を一歩前へ出すたび、革靴の底が舗装された道を重たく叩く。背中にはじっとりと汗が滲み、首元を春風が撫でていくものの、火照った身体を冷ますにはまるで足りない。 始業式だけで授業らしい授業はなかったはずなのに、身体は妙に疲れていた。 新しい教室、新しい席、新しい顔ぶれ。 慣れない一日というのは、それだけで体力を使うらしい。 そこへ追い打ちをかけるように、この坂道だ。「こんなに……きつかったっけ……」 息を吐きながら、思わず呟く。 一年前に来たときは、もう少し楽に登れた気がする。 記憶が都合よく書き換わっているのでなければ、僕の体力がこの一年で著しく衰えたということになる。思い当たる節は、残念ながらいくらでもあった。放課後はまっすぐ家に帰ることが多いし、休日に運動する習慣もない。 とはいえ、今日の目的地へ向かうには、この道を登るしかない。 春になると、そこでは「綺麗」なんて言葉だけでは
last update最終更新日 : 2026-07-17
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3.まるで祈るように
桜翁の前に立つ少女の髪を、ふいに風がさらった。 彼女は片手を上げ、揺れたポニーテールをそっと押さえる。その拍子に、桜を見上げていた横顔がこちらへ向いた。 同時に、一陣の風が桜翁の枝々を駆け抜ける。 夕日に染まった無数の花びらが枝先からこぼれ、少女の周囲を包み込むように渦を巻いた。 まるで桜翁が、彼女の存在を迎え入れ、祝福しているかのように。 舞い散る桜の中に佇むその姿は、あまりにも絵になっていた。 気づけば、僕は視線を逸らすことも忘れていた。 ほんの数秒だったのか、それとも、もう少し長いあいだ見入ってしまっていたのか。 やがて少女の瞳が、まっすぐこちらを捉えた。 「……あの、私に何かご用でしょうか?」 少女は少し困ったように眉を下げながら、それでも柔らかな笑みを浮かべて尋ねてきた。 しまった。 そう思ったときには、もう遅かった。 これだけ見つめていれば、声をかけられるのも当然だ。 けれど、どう答えればいい。 見ず知らずの相手に、桜の中に立つ姿があまりに綺麗で、つい見入ってしまった――などと正直に言えるはずがない。 そんなことを言えば、引かれるか、困らせるか。 たぶん、その両方だ。 「ごめん。用ってわけじゃないんだけど……この辺りでは見かけない顔だなと思って」 咄嗟にそう答えた。 口にしてから、我ながら悪くない言い訳だと思う。 この神社には何度も足を運んでいるし、桜の季節になると、毎年決まって見かける人たちもいる。少なくとも、彼女の姿をここ数年で目にした覚えはなかった。 だから、嘘ではない。 うん。決して嘘ではない。 ただ、本当にそれだけが理由だったのかと聞かれれば、少し答えに困る。 彼女は、素直に可愛らしいと思える顔立ちをしていた。 整った目鼻立ちに、どこか凛とした佇まい。僕の頭に真っ先に浮かんだのは、美少女という、ひどくありふれた言葉だった。 「なるほど。そういうことでしたか」 彼女は僕の言葉を疑う様子もなく、小さく頷いた。 その反応に、胸の内で安堵の息を吐く。 「その制服、桜織高校のものだよね」 「はい。本日より、桜織高等学校の一年生となりました」 少女は背筋を伸ばすと、僕に向かって丁寧に頭を下げた。 「月瀬美琴と申します。以後、お見知りお
last update最終更新日 : 2026-07-17
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4.桜織旧病院と帰らない幼なじみ
 翌朝。 いつも通り教室の扉を開けた瞬間、僕は足を止めた。 教室の中が、妙にざわついている。 新学期が始まってまだ二日目だ。昨日と同じように浮ついた空気が残っていても、不思議ではない。 けれど、今日のざわめきは明らかに質が違っていた。 興奮した様子でスマートフォンの画面を見せ合う生徒がいる。その一方で、顔を強張らせ、小声で何かを囁き合っている者もいた。「これ、本当に途中で切れたの?」「最後の音、聞いた?」「やばくない? まだ誰も帰ってないって……」 断片的な言葉が耳に入る。 誰かが面白半分に笑えば、別の誰かが「笑い事じゃないだろ」と顔をしかめる。 高揚と恐怖。 相反する二つの感情が教室の中で入り交じり、空気を落ち着かないものにしていた。 一体、何があったんだろう。 僕は自分の席へ向かい、鞄を机の横に掛ける。椅子を引いて腰を下ろすと、隣の席にいる男子生徒へ声をかけた。「おはよう」「お、櫻井。おはよう」 彼はいつもと変わらない軽やかさで片手を上げた。 その反応に少しだけ安心しながら、僕は周囲を見回す。「なんだか、クラスの雰囲気がおかしくない? 何かあったの?」 そう尋ねると、彼は意外そうに目を丸くした。「なんだ、櫻井。昨日の生配信、見てないのか?」「……生配信?」 何のことだろう。 僕が首を傾げると、彼は「ああ」と納得したように頷いた。「そこからか。じゃあ櫻井、裏サイトは分かるか?」「名前くらいなら」 裏サイト。 名前だけを聞けば、いかにも危険で、いかがわしい場所を想像してしまう。 けれど、実際に扱われているのは、誰と誰が付き合い始めたとか、どこの教師が何をしたとか、町にある心霊スポットの情報だとか――そういった、狭い範囲の噂話がほとんどらしい。 当人にとっては広められたくないような話まで、匿名で好き勝手に書き込まれている。 以前、幼なじみの不動翔太から聞いたことがあった。「その裏サイトでさ、奏多たちが結構有名だったんだよ」「奏多?」 聞き覚えのある名前だった。 同じ学年の生徒だ。直接話したことはほとんどないけれど、廊下ですれ違ったことくらいはある。「どうして有名になったの?」「あいつら、よく心霊スポットに行って生配信してたんだ。それを裏サイトに上げてたら、いつの間にか人気が出てな。反応が増えた
last update最終更新日 : 2026-07-17
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5.帰りを待つ人
 昼休み。 僕は校舎の屋上で、焼きそばパンを頬張っていた。 甘辛いソースの匂いはしている。口の中には確かに麺もパンもあるはずなのに、どういうわけか、ほとんど味がしなかった。 噛んでも、飲み込んでも、湿った紙を口に詰め込んでいるような感覚しかない。 原因は分かっていた。 今朝、翔太たちが帰ってきていないと聞かされたあと、学校では急遽、全校朝礼が開かれた。 壇上に立った教師や校長から、昨夜起きたことについて説明があった。とはいえ、学校側も事態のすべてを把握しているわけではないらしい。 桜織旧病院へ向かった生徒が四人。 昨夜から連絡が取れず、今朝になっても誰一人、自宅へ戻っていないこと。 今日中に帰宅が確認できなければ、警察が旧病院の管理者と連絡を取り、敷地内の捜索を検討していること。 そんな話が、重苦しい声で告げられた。 ただちに捜索へ入る、ではない。 まず管理者へ連絡し、立ち入りの手続きを済ませたうえで、ようやく検討する。 行方不明になったのが高校生だというのに、それほど慎重にならなければならない場所なのだ。 ――桜織旧病院は。 さらに、今回の一件をきっかけに、学校側は例の裏サイトの存在も把握したらしい。 匿名で生徒の噂や個人情報が書き込まれていたこと。過去には、似たようなサイトがいじめや誹謗中傷の温床となった事例もあること。 そうした理由から、関係機関へ連絡し、サイトを閉鎖する方針だと説明された。 そして最後に、校長は何度も念を押した。 興味本位で心霊スポットへ近づかないこと。 危険な廃墟へ無断で立ち入れば、建物の管理者や周辺住民へ迷惑をかけるだけではない。崩落や転落といった事故にもつながりかねない、と。 それはもっともな話だった。 けれど、僕にはその言葉が、単なる事故への警告だけには聞こえなかった。 そもそも、桜織市は生者と死者の距離が近い町だ。 この町には、亡くなった人々を悼み、その魂へ想いを届けるための祭事がいくつも残っている。 中でも有名なのが、毎年春に行われる桜祭りだ。 名前だけを聞けば、満開の桜を楽しむ華やかな催しを想像するだろう。実際、町には屋台が並び、多くの観光客が訪れる。 けれど、その祭りの始まりは、もっと静かなものだったという。 亡くなった人へ伝えられなかった言葉を灯籠に託し、川へ流す。
last update最終更新日 : 2026-07-17
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6.桜織旧病院での捜索:林の中の不気味な影
 そして今、僕は桜織旧病院の前に立っていた。 ……一体、どうしてこんなことになったのだろう。 昼休みには、ただ翔太の無事を願いながら、屋上から町を眺めていたはずだった。 それなのに日が沈んだ今、僕の目の前には、懐中電灯の光に照らされた白い建物が、不気味な影を地面へ落としている。 戦後間もなく建てられたという、かつての総合病院。 外壁の至るところに亀裂が走り、雨水が染み込んだ跡が、黒ずんだ筋となって壁を伝っている。窓ガラスの大半は曇っているか割れていて、残ったものも内側に溜まった闇を映すばかりだった。 遠目からでも分かるほど、大きな建物だ。 横に長い造りで、見上げれば三階まであるらしい。戦後すぐの病院とは思えないほど立派だったのだろう。 少なくとも、かつては。 今では、年月に食い荒らされた巨大な骸にしか見えない。 屋根はところどころ崩れ、外壁からは蔦が伸びている。建物の周囲に生えた雑草も、長いあいだ誰の手も入っていないことを物語っていた。 そして何より――。 僕の目には、病院全体を覆うように、黒く淀んだ何かが渦巻いているように見えた。 霧にも、煙にも似ている。 けれど、夜の闇とは明らかに違う。 建物の内側から滲み出し、病院を包み込みながら、ゆっくりと蠢いている。「っ……」 息を呑んだ途端、喉の奥がひどく乾いた。 膝が震えている。 止めようとしても、力がうまく入らなかった。 僕には、確かに霊が見える。 だからといって、怖くないわけではない。 むしろ、逆だ。 霊が見えるのに怖がるのか、と言う人もいるかもしれない。 けれど、見えない人が暗闇の中で感じる恐怖は、想像によって作り出されたものだ。 細枝のように痩せた腕。 濁った瞳。 不自然に曲がった首。 何もないはずの場所から、こちらを覗き込む青白い顔。 すべてが想像でしかないのなら、どれほどよかっただろう。 振り返って何もいなければ、気のせいだったと笑うことができる。 けれど、僕の目には映ってしまう。 そこにいるものが。 見てはいけない姿が。 こちらを見返す、その視線まで。 だから僕は、ずっと避けてきた。 見えても気づかないふりをして、関わらないようにしてきた。 それなのに今、自分からこんな場所へ足を運んでいる。 理由は一つしかない。 翔太が心配だ
last update最終更新日 : 2026-07-17
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7.桜織旧病院での捜索:けん玉の音
 それから僕は、懐中電灯の光だけを頼りに、病院の中を慎重に進んでいた。 足元には、砕けたガラスや剥がれ落ちた壁の破片が散乱している。踏み抜かないよう一歩ずつ確かめながら、暗い廊下を歩いていく。 湿気を吸った床材が、体重をかけるたびに軋んだ。 ぎし。 ぎし、と。 その音が、自分の足音ではなく、すぐ後ろから誰かがついてきているように聞こえてならない。 何度か振り返った。 けれど、そのたびに懐中電灯が照らし出すのは、誰もいない廊下だけだった。「……考えすぎだ」 誰に聞かせるでもなく呟き、前へ向き直る。 その直後だった。「わっ!?」 突然、顔に何かが絡みついた。 細く、乾いた糸のような感触が、頬から額へまとわりつく。 髪の毛――。 そんな言葉が頭をよぎった瞬間、全身から血の気が引いた。「っ……!」 反射的に腕を振り回し、顔に絡んだものを必死に払い落とす。懐中電灯の光が大きく揺れ、壁や天井を目まぐるしく照らした。 やがて、目の前に細い糸が垂れ下がる。「……蜘蛛の巣」 正体を知った途端、肺に溜め込んでいた息が一気に抜けた。 ただの蜘蛛の巣だ。 それだけのことなのに、心臓は壊れそうなほど激しく脈打っている。 僕は顔に残った糸を指先で取り除きながら、恨めしげに天井を見上げた。「驚かせないでくれよ……」 蜘蛛の巣に文句を言っても仕方がない。 それでも何か口にしていなければ、この静けさに呑み込まれてしまいそうだった。 気を取り直し、再び歩き出す。 しばらく進むと、廊下は突き当たりで左右に分かれていた。 僕はその場で足を止め、まず左へ懐中電灯を向ける。 少し先に、吹き抜けのような広い空間が見えた。壁際には汚れた長椅子が並び、その向こうには大きな窓と、外へ続いていたらしいテラスがある。 かつては患者や見舞客が行き交っていた、待合ホールなのだろう。 次に右側を照らす。 壁に沿って上階へ続く階段があり、その奥には金属製の両開き扉が見えた。扉の上には、傾いたプレートが残っている。 ――職員用出入口。 恐らく、救急車で運ばれてきた患者は、あの扉から院内へ搬送されていたのだろう。 どちらへ進むべきか迷い、僕はもう一度左を見る。「ホールなら、案内図があるかもしれない」 闇雲に歩き回るより、先に建物の構造を把握したほうがいい。
last update最終更新日 : 2026-07-17
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8.桜織旧病院での捜索:遭遇
 懐中電灯の光を近づけ、僕はカルテに記された文字を上から追っていった。『患者名:山口 誠也 享年九歳』『診断名:肺結核――急性期』『主訴:数週間に及ぶ長引く咳、断続的な高熱、ならびに全身の強い倦怠感』『入院日:昭和四十七年四月二日』『経過:入院後も持続的な激しい咳と呼吸困難あり。各種薬剤による治療を行うも反応乏しく、病状は悪化の一途を辿り、徐々に衰弱』『死亡確認:昭和四十八年三月十二日 午後三時十四分』『備考:危篤状態の折、家族の――を知り――その後、容体急変。家族との面会は叶わず』 そこまで読み終えたところで、僕は眉を寄せた。「家族の……何を知ったんだ?」 備考欄の一部は、黒いインクで塗り潰されていた。 経年による滲みではない。 誰かが意図的に、その部分だけを読めなくしたように見える。 懐中電灯を近づけ、角度を変えて照らしてみる。けれど、光を強く当てても、下に書かれた文字までは浮かび上がらなかった。 家族に、何かがあった。 それを危篤状態にあった誠也という少年が知り、直後に容体が急変した。 読み取れるのは、その程度だった。 カルテの隅には、小さな顔写真が貼られている。 七歳で亡くなったという少年の顔。 頬は痩せ、表情もどこか硬い。正面を向いているはずなのに、その目はカメラではなく、もっと遠くにある何かを見ているように感じられた。 寂しそうな顔だった。 ――結核。 今なら、早く見つけて適切な治療を受ければ、助かることも多い病気なのだろう。 けれど、この子にはその治療が届かなかった。 五十年以上も前。 たった七歳の子どもの命を奪うには、あまりにも残酷で、それでいて十分すぎる病だった。 長いあいだ病院から出ることもできず、咳と熱に苦しみ続けて。 どれほど家へ帰りたかったのだろう。 どれほど家族に会いたかったのだろう。 想像しようとしただけで、胸の奥に鉛の塊が沈んだような重さを感じた。 そのとき。 カサッ、と小さな音がした。「……?」 カルテの束の間から、一枚の紙が滑り落ちていた。 床に伏せるように落ちたそれは、古びた小さな便箋だった。 僕はカルテを机の上へ置き、慎重に紙を拾い上げる。 黄ばんだ便箋は、几帳面に何度も折り畳まれていた。端はすっかり柔らかくなっていて、力を入れれば簡単に破れてしまいそう
last update最終更新日 : 2026-07-17
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9.月瀬美琴
 ――月瀬美琴―― 国道を行き交う車の音を背に、私はガードレール脇の茂みをかき分けていた。 伸び放題になった草が足首へ絡みつき、湿った土の匂いが鼻をかすめる。わざわざ人が足を踏み入れるような場所ではない。 では、なぜ私はここにいるのか。 ここには、死してなお苦しみ続けている人たちがいる。 理由は、ただそれだけだった。 茂みの奥には、三つの影が漂っていた。 けれど、もはや人の姿とは呼べない。輪郭は崩れ、黒い煙がかろうじて人の形を保っているようにしか見えなかった。 長い年月、この場所に縛られ続けてきたのだろう。 声を上げる力さえ失いかけた彼らの想いを、私は偶然拾ってしまった。 この世に留まる霊の多くは、誰かに伝えたい想いや、託したいものを抱えている。 目の前を彷徨う三人も、きっと同じなのだ。 やがて三つの影のうち、最も小さなものが揺らめいた。 こちらを振り返るような仕草を見せたあと、私を導くように茂みの奥へ進み始める。『こっち……こっちだよ』 声として聞こえたわけではない。 それでも、その子が伝えようとしていることは、私の胸へ確かに届いた。「はい。今、行きますね」 枝を避けながら、小さな影のあとを追う。 少し進んだところで、その影は立ち止まった。 周囲には草が生い茂っているのに、そこだけ不自然に地面が露出している。土はわずかに窪み、過去に何かが起きた痕跡だけが、長い年月を経ても消えずに残っていた。「ここが、皆さんを縛りつけている場所なのですか?」 尋ねると、小さな影が微かに上下へ揺れた。 頷いたのだと思う。 続いて影は、形の定まらない腕を持ち上げ、地面の一角を指し示した。「そこに、何かあるのですか?」 私は示された場所へ近づき、その場にしゃがみ込んだ。 土の間から、何かが僅かに突き出している。 初めは人形の足かと思った。けれど、指で表面の泥を拭ってみると、それは古びた木片のようだった。 小さな影が私の隣へ寄り添う。『それ……それを……』「これを、掘り出してほしいのですね?」 影が、もう一度頷いた。「分かりました。少し待っていてくださいね」 私は両手で土を掘り始めた。 けれど、埋まってから一体どれほどの年月が過ぎているのか。土は固く締まり、細い根が幾重にも絡み合っている。 爪の間に土が入り込み、指先
last update最終更新日 : 2026-07-17
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10.予想外の告白
 ──櫻井悠斗── 目の前の扉が、軋んだ音を立てて開いた。 暗闇を切り裂くように、白い光が差し込んでくる。ライトの光をまともに浴びた僕は、眩しさに耐えきれず顔を背けた。「えっ……!? さ、櫻井先輩……!?」 驚きに弾んだ声が、静まり返った廊下に響く。 この声――聞き覚えがある。 まさか。 恐る恐る顔を上げると、ライトを下ろした少女の姿が闇の中から浮かび上がった。 桜翁の前で出会った、一年生の少女。 ――月瀬美琴さんだった。「月瀬さん……!?」 どうして彼女がここにいるんだ。 疑問ばかりが頭の中を駆け巡り、何一つ答えにたどり着かない。 月瀬さんは急いで僕のそばまで来ると、床に座り込んでいる僕と目線を合わせるようにしゃがんだ。「先輩、大丈夫ですか? どうして、このような場所に……?」 戸惑いを滲ませながら、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。 それは、こっちの台詞なんだけど……。 そう言いかけて、口を閉じた。 月瀬さんが扉を開けてくれなければ、あのまま僕がどうなっていたか分からない。まずは僕から事情を話すべきだろう。「実は、僕の幼なじみがここへ入り込んだみたいなんだ。昨日から家にも帰っていないらしくて……それで、僕が探しに来たんだよ」「……そういうことでしたか」 月瀬さんは納得したように頷いた。「ところで、その……月瀬さんは、どうしてこんなところへ?」「私は、こちらを届けに来たんです」「届ける……?」 月瀬さんは肩に掛けていた鞄を開き、中を探り始めた。 やがて取り出したのは、白いハンカチに包まれた小さな何かだった。 膝の上で丁寧に布を広げる。 中から現れたのは、木彫りの犬だった。 表面は黒ずみ、全身に深い傷が刻まれている。片脚も途中から折れて失われていた。それでも、丸みを帯びた素朴な形からは、誰かの手で大切にされてきたような温かさが感じられた。 これを届けに来たって……誰に? こんな廃病院にいる相手なんて――。「それよりも、先ほど……ものすごい音が聞こえましたけど」「うっ……」 心臓がぎくりと跳ねた。 きっと、僕が霊に吹き飛ばされ、扉へ叩きつけられたときの音だ。 けれど、正直に話していいものなのだろうか。 霊に襲われました――なんて口にしたところで、普通なら信じてもらえるはずがない。「こ、転んじ
last update最終更新日 : 2026-07-17
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