All Chapters of 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

珠莉視点19歳のあの日、私はシャワーから出てきた和也の姿を、偶然にも目撃してしまった。腰にタオルを一枚巻いただけの彼のたくましい胸板を水滴が伝い落ちていく。まるで呪いの言葉でも吐き捨てるかのように、彼は私の名前をつぶやいていた。そこに居合わせるつもりなど、当然ながらなかった。自分の部屋へスケッチブックを取りに行っただけだった。シャワーの水音が止んだとき、私はまだ廊下にいた。半分開いたバスルームのドアの隙間から、白い湯気が廊下へと流れ出している。それは、抗うべき危険な誘惑のようだった。それなのに、目を背けることができなかった。廊下に立ち尽くしたまま、身動きひとつ取れなかった。胸を突き破りそうなほど、心臓が激しく脈打っている。その日の夕方近く、父と兄の越山遼(こしやま りょう)は警察特別機動隊の訓練場で行われる演習へ出かけていた。もともと、家には私しかいないはずだった。けれど2時間前、遼からの電話で、和也が来るのだと聞かされていた。8か月に及ぶ任務を終え、ようやく休暇を取れた親友が、家族のもとへ帰る前に一晩泊めてほしいと言っている――そんな話だった。その知らせを聞いてからというもの、ずっと落ち着かずにいた。星野和也。190センチの長身に、引き締まった筋肉と、どこか昏い翳りを纏った男。6年前、兄とともに警察特別機動隊に入隊して以来、彼はずっと「兄の親友」でしかなかった。私より8つも年上の、決して手の届かない存在。それでいて、体の芯が疼くほどに焦がれた、たったひとりだった。出会ったのは、私が13歳、彼が21歳のときだ。特別機動隊の出動服姿で我が家へやってきた彼は、自信に満ち、鋭く精悍な顔立ちをしていた。その姿に目を奪われ、思わず足がもつれてつまずいてしまった。遼は笑ったけれど、和也は私がつまずいたことにすら気づいていなかった。一度だって、異性として意識されたことなどなかったのだ。彼にとって、私は遼の厄介な妹でしかない。男同士の時間を邪魔するだけのガキで、テレビの前を陣取ったり、最後の一切れのピザを奪い合ったりしたときだけ、ようやく存在を思い出される程度の女の子だった。6年もの間、私は彼の瞳に映っていなかった。――3か月前までは。警察特別機動隊の訓練施設にいる遼を訪ね、何度も作ってほしいとせがまれてい
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第2話

珠莉視点身体が動かない。キッチンのドアの前に立ち尽くしたまま、ヘッドライトに射すくめられた鹿のように、ただ和也を見つめていた。彼は近づいてくる。ふたりの間を隔てていた距離が消え、清潔で男らしい石鹸の香りが漂う。その大きな身体から立ちのぼる熱を、痛いほど肌で感じていた。「外へ」彼が言う。「今すぐだ」「外で話すのは、よくないと思うわ」「お前がどう思うかなんて、どうでもいい」それは硬く、冷え切った声だった。「外だ」肘を彼に掴まれた。力強く、それでいて優しい手つきで裏口へと連れ出される。触れられた箇所が、じんわりと熱を持った。ふたりで裏口に出ると、日はすでに落ちていた。夜気は暖かいというのに、私は震えが止まらなかった。後ろ手でドアを閉め、彼がこちらを振り返る。彼はしばらく、身動きひとつしなかった。両脇で拳を固く握りしめたまま、胸はまるでマラソンを走り終えたあとのように激しく上下していた。「一体、何を考えてたんだ」ようやく、彼は口を開いた。私は自分の身体を抱きしめるように両腕を回した。「何も見るつもりなんてなかったわ。ただ部屋に戻ろうとしただけ。ドアが開いてたから。中にいるなんて知らなかったの」「嘘をつけ」私はびくりと肩が跳ねた。「あそこに突っ立って、俺を見てた」彼の声はさらに低く沈み、暗い響きを帯びていった。。「立ち去らなかった。ドアも閉めなかった。俺がお前の名前を呼びながら自分に触れているのを、ただ見てたんだ」私の顔が燃え上がるように熱い。「ごめんなさい」「は?」彼は短い笑いを漏らしたが、そこに楽しさなど微塵もなかった。「ごめんなさい、だと?」「そうよ。あそこに残るべきじゃなかった。すぐ立ち去るべきだったわ。分かってる」彼はさらに一歩、詰め寄ってくる。後ずさった背中が、手すりにぶつかった。「お前は自分が何をしてるか、本当に分かってるのか」私は無言で首を振る。「6年だ。6年間、俺はお前が存在しないふりをしてきた。くそ長い6年間、ずっと距離を置き、ただの子供だと自分に言い聞かせてきた。越山遼(こしやま りょう)の妹。触れちゃいけない、禁じられた存在。それまでは、ずっとうまくやれてた。ちゃんと自分を抑えられてたんだ」私の息が詰まった。「何を、抑えて
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第3話

珠莉視点どうしても眠りにつけそうになかった。ベッドに背を預けたままぼんやりと天井を見つめていると、スマホに表示された時刻だけが進んでいく。23時15分、23時30分、そして23時45分。家の中に響くどんな些細な物音にも、心臓がびくりと跳ね上がる。床板がかすかにきしむ音ひとつにさえ、胸の奥で早鐘が打ち鳴らされた。もしも、彼が来てくれなかったらどうしよう。途中で気が変わってしまっていたら……そもそも、今夜のことはすべて私の妄想にすぎないのではないだろうか。23時50分。私はたまらず起き上がり、着替えることにした。パーカーとスウェットを着てみたものの、すぐに脱ぎ捨て、迷ったままクローゼットの前に立ち尽くす。何年も焦がれ続けてきた人が、もう間もなくこの部屋へやってくる。そんな夜に、いったい何を着ればいいのだろう。散々迷った末に選んだのは、飾り気のない黒のキャミソールと、お揃いのショートパンツだった。派手すぎず、かといって気合いを入れすぎているようにも見えない。髪はあえて結ばず自然に下ろし、すっぴんのままでいることにした。飾らない、ありのままの私を見てほしかったからだ。23時58分。私はベッドの端にそっと腰をかけ、じっと待つ。0時ちょうど。部屋のドアが控えめにノックされた。私は弾かれたように立ち上がる。両脚は小刻みに震えていた。気づけば、両手まで同じように震えている。「入って」かすれた声でなんとかそう告げると、ドアがゆっくりと開かれた。和也が足音ひとつ立てずに室内へ入り、背後でドアを閉める。かちり、と鍵のかかる小さな音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。彼は黒のスウェットに、引き締まった身体のラインが浮かび上がる黒のTシャツ姿だった。髪は無造作にかき上げたのか、少し乱れている。そのまなざしはどこまでも深く、確かな熱を宿していた。私たちはただ長いあいだ、交わす言葉も見つからないまま、見つめ合っていた。「これが最後のチャンスだ」やがて和也が静寂を破って口を開いた。「今ならまだ引き返せる。全部なかったことにもできる」「帰らないで」「一度触れたら、もう俺は止まれない。わかってるのか?」私は無言のまま、小さく、けれどはっきりとうなずいた。大股で三歩。彼はあっという間に距離を詰め、大
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第4話

珠莉視点目覚めると、窓から陽射しが差し込んでいた。隣は、もう空っぽだった。和也は、いなくなっていた。私はがばりと身を起こし、シーツを身体に巻きつける。気だるさが全身を覆っていた。乱れたシーツ、肌に浮かぶ淡い赤み、そして脚のあいだに残るかすかな鈍痛。昨夜の名残は、そこかしこに残っているというのに。和也はもういない。私はスマホを手に取る。時刻は午前7時半。父も兄も、もう起きている頃だろう。和也は誰にも気づかれないよう、そっと部屋を出ていったのだろうか。私は慌ててジーンズとTシャツを身につけた。髪を結ぶ手が、かすかに震えている。これは、どういうことなんだろう。彼はどこへ行ったのか。忍び足で1階へ降りる。心臓が早鐘を打っていた。キッチンから話し声が聞こえてくる。父と遼、それに、和也の声だ。私は思わず廊下で足を止め、耳を澄ませた。「で、本当に今日発つのか?」遼が尋ねる。「ああ。午後2時のフライトだ」「なあ、全然ゆっくり話せなかったな」「わかってる。悪いな」「お前の仕事だ。わかってるさ」父の声だった。「誇りに思ってるぞ、和也」そこで、私は深く息を吸い、キッチンに足を踏み入れる。3人の顔が一斉にこちらを向いた。父は笑った。遼はうなずいた。和也の表情からは、何の感情も読み取れなかった。「よう、珠莉」父が言う。「何か食べるか?」「お腹すいてない」和也の視線が私に向き、すぐに逸らされた。「大丈夫か?」遼が尋ねる。「顔色悪いぞ」「平気」私は震える手でコーヒーを注ぐ。和也の視線を感じた。振り返ると、その目は私を刺し貫くようだった。「荷造りしてくる」和也が急に立ち上がって言った。「朝食、ごちそうさまでした」「いつでも歓迎だ」和也はそれ以上何も言わず、私の横を通り過ぎた。目も合わせずに。まるで、私が見ず知らずの他人であるかのように。まるで、昨夜のすべてが、何の意味もなかったかのように。私はその場に凍りついた。コーヒーカップの熱さが、手のひらを焼けつくように刺激した。「珠莉?」父の声が、私の思考を遮った。「本当に大丈夫か?」「うん。ちょっと疲れてるだけ。よく眠れなかったの」遼が鼻を鳴らす。「お前はいつも寝不足だろ。夜中
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第5話

珠莉視点7年後。「ママ、お腹すいた」私は娘、水野陽菜(みずの ひな)を見下ろす。彼女は私譲りの黒茶の髪に、父親譲りの真っ黒の瞳を受け継いでいた。あの瞳は、この7年間、私の心から離れたことがなかった。「わかってるよ。もうすぐごはんにしようね。約束する」学校からの帰り道を、ふたりで歩いていた。今月は電車代を出す余裕がないため、40分かけて歩かなければならない。すり切れたスニーカーの中で、私の足の裏がじんじん痛む。午前中ずっと床を磨いていたせいで、背中も強張っていた。それでも陽菜は私の隣で跳ねるように歩きながら、今日あった出来事を話してくれる。6歳になった娘は、とても愛らしかった。彼女は、私のすべてだった。けれど、彼女の父親は、その存在すら知らない。7年前、妊娠を知ったとき、私は怯えきっていた。父と兄に打ち明けようとさえ思った。けれどその直後、SNSであの投稿を目にした。星野和也、神崎玲奈(かみさき れな)との婚約を発表した。その報せは、瞬く間に広まった。写真の中で、2人はフォーマルな装いで華やかなパーティーに出席していた。彼は玲奈を抱き寄せ、玲奈は大粒のダイヤモンドの指輪を見せるように左手を掲げている。和也は仕立てのいいスーツに身を包み、端整で、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。添えられた言葉――【婚約した。最高に幸せだ】私はその投稿を、しばらくのあいだ呆然と見つめ続けた。とっくに婚約していたなんて。彼が私にキスをしたときも。私の初めてを奪ったときも。私のことを完璧だと言ったときも。彼には、婚約者がいた。知らないうちに、私は婚約者のいる男と関係を持っていたのだ。その瞬間、決意した。荷物をまとめた。図書館のアルバイトで貯めた、なけなしの貯金を持って。そして、家を出た。一言も残さず、誰にも別れを告げず。私はただ、消えた。遠く離れた街に移り住み、電話番号だって変えた。SNSのアカウントをすべて削除した。母の旧姓、水野を使い、短期大学に入学した。狭いアパートを見つけ、飲食店のアルバイトも見つけた。そして9か月後、陽菜がこの世に生まれた。父が捜索願を出していると知ったとき、一度だけ公衆電話から、無事だと伝えた。ただ少し距離が欲しいだけだと。父は帰ってきてくれと懇願したが、私は電話を切った。そ
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第6話

珠莉視点清掃カートは、まだ廊下に置いたままだった。私は第3会議室のドアの前で立ちすくみ、長テーブルの向こうに座るあの男から目を離せずにいたとき、頭の中で唯一まともに考えられたのは、そのことだけだった。カートは外に置きっぱなしだ。モップも、スプレーボトルも、きれいに畳まれたタオルの山も。40分後には4階へ行かなければならないのに、そんなことはすべて頭から消えていた。だって、数メートル先に、私の1か月分の家賃よりも高そうなスーツを着た和也が、そこにいるのだから。そして、彼は変わっていた。それが、私が最初に気づいたことだった。パニックに陥るよりも先に。全身から血の気が引くよりも先に。彼は、以前とは違っていた。相変わらず圧倒的な存在感で、部屋全体を狭く感じさせるほどだったけれど、7年という歳月が彼を作り変えていた。顔立ちは以前よりも硬質で、さらに鋭さを増していた。艶のある髪には、こめかみのあたりに銀色が交じっている。ほんの数本だけれど、それでも十分に目を引いた。目尻には皺が刻まれ、顎には一筋の傷痕。喉元にも、薄い傷痕があった。彼が私を見る視線は、昔と変わらなかった。まるで私を分析しているかのような。この瞬間に起こり得る、あらゆる結末をすでに計算し終えているかのような目。けれど、私には何の準備もなかった。ドア枠をつかんだ手に力が入る。足が言うことを聞かない。私はホテルの制服姿だった――薄いグレーのシャツに、胸元にはロゴの刺繍。濃い色のスラックス。ワックスがけされた床の上を、足音も立てずに歩くための靴。髪は後ろでひとつに束ね、化粧もしていない。誰の記憶にも残らない従業員。それが、私のあるべき姿だった。彼に気づかれるような人間ではないはずだった。「座れ」彼は言った。その声は、昔のままだった。低く、落ち着いていて、人を従わせる鋭さを少しも失っていない。7年前に葬り去ったはずの声が、今ここに蘇り、私の内側を引き裂いていく。「嫌」私は答えた。彼の顔に一瞬、何かがよぎった。驚き。かすかだけれど、確かに。予想していなかったのだろう。いい気味だ。「珠莉」「どうやって私を見つけたの?」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。むしろ落ち着きすぎていた。「それは重要じゃない」「重要よ。少な
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第7話

和也視点珠莉は、まだ清掃用のゴム手袋をはめ直していなかった。それは俺たちの間のテーブルに、彼女が乱暴に外したときのまま、灰色の塊になって置かれている。なぜか、そこから目を逸らすことができなかった。カーテンに安物の色鉛筆で光と影の模様を描いていたあの少女・珠莉が、今はホテルの清掃員として働いている。他人の会社のロゴが入った制服に身を包み、指の関節は赤くひび割れていた。彼女が俺に向ける目は、まるで俺がこれまでの人生で遭遇した最悪の出来事であるかのようだった。実際、そうなのかもしれない。彼女はひどく疲れきって見えた。目の下の隈は濃く、それは一晩の寝不足によるものではなく、何年ものあいだ積み重なってきた疲労の証だった。俺のスマホを手にしてからというもの、彼女の手はずっと小刻みに震えていた。それでも、彼女は変わらずに美しかった。それだけは、何ひとつ変わっていなかった。「あの子のことを知りたい」俺は静かに言った。「それに、俺は面倒を起こしに来たわけじゃないと、わかってほしい」口から出た声は、自分で思っていたよりも大きかった。彼女の顎に力が入り、あの独特な仕草で顔を上げる。まるで、決して屈するまいとする相手に、これから正面から立ち向かうかのように。「あの子のことを知りたい?」彼女はゆっくりと繰り返した。「ああ」「あの子が生まれたとき、あなたはいなかった。初めて歩いたときも、初めて言葉を話したときも、初めて何かを怖がったときも、あなたはいなかった」彼女は一歩詰め寄った。その激しい怒りが熱波のように押し寄せてくるのを肌で感じるほど、近くまで。「7年間、何の音沙汰もなかったのに、いきなり私の職場に現れて、誰かに娘の写真を撮らせたって言うの?それで、あの子のことを知りたい?」彼女の乾いた笑いが漏れる。「いったい、どの面下げてそんなことが言えるの?」珠莉の声がわずかに上ずる。「よくもまあ、面倒を起こしに来たわけじゃないなんて平気で言えるわね」「俺は、あの子の存在すら知らなかった」「私がそうしたからよ」彼女の視線は、俺の目から一度も逸れなかった。「それは私が選んだことよ。自分の意思でそうしたの。そして、もう一度やり直せたとしても、私は同じことをするわ」「あの子はまだ6歳だ」「歳くらい知
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第8話

珠莉視点私は、振り返る前にエレベーターまでたどり着くことができた。何が自分をそうさせたのか、わからない。心のどこかが、この場から立ち去ることを拒んでいた。彼に最後の言葉を言わせたまま、終わらせたくなかったから。それに、心のどこかでは、7年間ずっと待ち続けていたのだ。あのとき言えなかった言葉を、彼に向かって口にするために。あの頃の私はあまりに若く、あまりにも傷ついていて、妊娠していて、逃げる以外の選択肢を持っていなかったから。私は会議室へ戻った。彼はまだそこにいた。椅子から立ち上がってすらいなかったことに、私は少し驚いた。もう電話をかけて、自分の思いどおりに事を運んでくれる人間たちに連絡しているだろうと、ほとんど思い込んでいたからだ。けれど彼は、私が去ったときと同じ場所に座り、両手をテーブルの上で組み、じっとドアのほうを見つめていた。まるで、私が戻ってくることを最初から確信していたかのように。それが、なんとも言えない苛立ちを呼び起こした。私はドアを押し開け、テーブルへ戻った。座らなかった。長テーブルの反対側に立ち、椅子の背に両手を置いて、彼の目をまっすぐに見据えた。「権利について話したいの?」私は言った。「いいわ。なら、権利について話しましょう」彼は何も言わなかった。ただ、静かに私を見つめていた。「あなたが私に、昨夜は間違いだったと言ったあの朝。あなたは、あの子に対するすべての権利を失ったのよ」私の声は震えていなかった。それだけが、せめてもの救いだった。「あなたが私に、全部忘れろと言ったとき。あなたは、もう手放していたの。振り返りもせずに、あのゲストルームを出ていったときに」椅子の背に置いた手に、さらに力がこもる。「あなたはあそこで、権利を失ったの。法廷でじゃない。書類の上でもない。あなた自身が、自分から手放したのよ」彼の表情に、何かが起きた。目元がわずかに引きつり、顎がかすかに動いた。和也は、震えた。ほとんど気づかないほどの、わずかな震え。彼は自制心が強すぎて、感情をあからさまに表へ出すような人じゃない。でも、13歳から15歳までのあいだ、私は彼の顔を覚えることに、数え切れないほどの時間を費やしてきた。決して手に入らないとわかっているものを、せめて記憶に刻みつけるように、彼のあら
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第9話

珠莉視点私は床が足元から傾いていくように感じた。部屋全体がわずかに傾いたような気がして、体勢を立て直さなければ立っていられなかった。この衝突は、避けられないものだった。心の奥深く、直視することを拒み続けてきた真実を押し込めた場所で、私はずっとわかっていた。いつか彼が私たちを見つけ、真実に気づく日が来ることを。ただ、彼が本当に私たちを見つけ出すなんて、自分に信じさせたことは一度もなかった。「だめ。そんなこと、させない」私は言った。声にこもった強さを保つのは、もう限界だった。「お前を傷つけたいわけじゃない」彼は身を乗り出した。その眼差しは真剣で、まっすぐだった。陽菜が受け継いだ、あの濡れたような漆黒を思い出すのが、私は今も嫌でたまらなかった。「あの子をお前から奪おうとしてるわけじゃない。お前の生活をかき乱すつもりもない。ただ、俺の娘を知りたいだけなんだ」「でも、あの子はあなたを必要としてない!」「そうかもしれない。でも、あの子には自分で選ぶ機会を持つ権利がある」「まだ6歳よ。そんなことを、あの子一人で決められるわけないでしょう。それを判断するのは私の責任なの!」私はテーブルを回り込んだ。反対側に立ったままでいることが、まるで逃げているように感じられたからだ。彼から数歩離れたところで足を止める。「陽菜は幸せよ。安全に暮らしてる。たくさんの人に愛されてる。大切なものが足りなかったことなんて、一度もない」6年間、毎日それを確かめてきたのだから。最後の言葉を口にするとき、私の声が詰まった。「あの子には、雇った探偵がようやく私たちを見つけたから現れた男なんて必要ない。自分から見つけることさえできなかった父親なんて、必要ないの」彼は立ち上がった。私よりも、ずっと背が高かった。昔からそうだった。彼がただそこに立っているだけで、これほど部屋が狭く感じられることを、私は忘れていた。「お前の言うとおりだ」彼は言った。「まったくそのとおりだ。お前が正しいと、俺もわかってる」その言葉に、私は戸惑い、立ち尽くした。「でも、俺は帰らない」彼は言った。「そして、もう離れない。今も、これから先も」高価なスーツに身を包み、顎に力を込め、まなざしを揺るがせずに立つ彼を見つめながら、私の中に何かがこみ
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第10話

珠莉視点その日の午後、私は7部屋を掃除したけれど、それがどんな部屋だったか、正直よく覚えていない。手だけが動いていた。シーツを剥がし、清潔なものに取り替え、武司に教わったとおり、ベッドの角を封筒のように折り込み、しわ一つなくぴんと張る。洗面台を拭く。便器と浴槽をこする。鏡をぴかぴかに磨き上げる。そこに映るのは、青ざめた顔、目の下の隈、自分のものではない制服を着た私。カーペットに掃除機をかける。客が一度使っただけで、まだ中身の残っているシャンプーやコンディショナー、ボディローションのミニボトルを新しいものに取り替える。手だけが動いていた。心は、まったく別の場所にあった。彼は、いったい何を望んでいるんだろう。考えないようにしていたのに、その問いはずっと頭から離れなかった。彼は陽菜のことを知りたいと言った。あの子を私から奪うつもりはないとも言った。でも、彼はすでに弁護士に相談したとも言っていた。それは、穏やかな話し合いを求める人間のすることじゃない。戦う準備をしている人間のすることだ。彼には、裁判で争えるだけのお金があるのだろうか。答えは、とっくにわかっていた。あの会議室で彼を見た瞬間から。あの高そうなスーツと腕時計を見た瞬間から。和也には昔から、並外れた意志の強さがあった。失敗を糧にし、二度と同じ目には遭わないと心に決めたら、必ずそれを実現する人だった。警察特別機動隊で過ごした7年間、そして計画的な投資。それ以外に何をしてきたのかは知らないけれど、明らかにそれらは大きな実を結んでいた。彼には、お金がある。そして私は、小学校の非常勤講師で、週末にホテルの床を磨かなければ家賃さえ払えない女だ。家庭裁判所で、私たちふたりを見比べる裁判官の姿を想像した。裁判官の目に何が映るのかも。片方には、華々しい警察特別機動隊の経歴を持ち、今は成功した実業家がいる。もう片方には、二つの仕事を掛け持ちしても、立ち退き通知を受け取る女がいる。子どもに安定した生活と安全、そして明るい将来を与えられる男と来月には家賃も払えなくなりそうな女。浴槽を力任せにこすったせいで、あとになって肩がひどく痛んだ。午後3時15分、タイムカードを切り、私は陽菜の学校まで40分かけて歩いた。午後の暑さの中、足は痛み、道中ずっと和
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