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第5話

Author: Chloe Laurent
珠莉視点

7年後。

「ママ、お腹すいた」

私は娘、水野陽菜(みずの ひな)を見下ろす。彼女は私譲りの黒茶の髪に、父親譲りの真っ黒の瞳を受け継いでいた。あの瞳は、この7年間、私の心から離れたことがなかった。

「わかってるよ。もうすぐごはんにしようね。約束する」

学校からの帰り道を、ふたりで歩いていた。今月は電車代を出す余裕がないため、40分かけて歩かなければならない。すり切れたスニーカーの中で、私の足の裏がじんじん痛む。午前中ずっと床を磨いていたせいで、背中も強張っていた。

それでも陽菜は私の隣で跳ねるように歩きながら、今日あった出来事を話してくれる。6歳になった娘は、とても愛らしかった。彼女は、私のすべてだった。

けれど、彼女の父親は、その存在すら知らない。

7年前、妊娠を知ったとき、私は怯えきっていた。父と兄に打ち明けようとさえ思った。けれどその直後、SNSであの投稿を目にした。

星野和也、神崎玲奈(かみさき れな)との婚約を発表した。

その報せは、瞬く間に広まった。写真の中で、2人はフォーマルな装いで華やかなパーティーに出席していた。

彼は玲奈を抱き寄せ、玲奈は大粒のダイヤモンドの指輪を見せるように左手を掲げている。和也は仕立てのいいスーツに身を包み、端整で、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。

添えられた言葉――【婚約した。最高に幸せだ】

私はその投稿を、しばらくのあいだ呆然と見つめ続けた。とっくに婚約していたなんて。彼が私にキスをしたときも。私の初めてを奪ったときも。私のことを完璧だと言ったときも。

彼には、婚約者がいた。

知らないうちに、私は婚約者のいる男と関係を持っていたのだ。

その瞬間、決意した。荷物をまとめた。図書館のアルバイトで貯めた、なけなしの貯金を持って。そして、家を出た。

一言も残さず、誰にも別れを告げず。私はただ、消えた。

遠く離れた街に移り住み、電話番号だって変えた。SNSのアカウントをすべて削除した。母の旧姓、水野を使い、短期大学に入学した。狭いアパートを見つけ、飲食店のアルバイトも見つけた。

そして9か月後、陽菜がこの世に生まれた。

父が捜索願を出していると知ったとき、一度だけ公衆電話から、無事だと伝えた。ただ少し距離が欲しいだけだと。父は帰ってきてくれと懇願したが、私は電話を切った。

それが6年前のこと。それ以来、父とは一度も話していない。兄とも話していない。自分がどこで暮らしているかを、誰にも明かしたことはない。

これでいいのだと、自分に言い聞かせてきた。和也の態度は明確だった、彼は私を望んでいない。それに、父親になりたくない男に、無理やり父親になれと迫るつもりもなかった。

「ママ、見て!ポッポ!」

陽菜が1羽の鳩を指さす。疲れていたけれど、私は思わず笑ってしまった。

「あれは鳩よ。覚えてる?公園で見たでしょう」

「あ、そうだった!今週末、公園行ける?」

「行けたらいいね」

もう少しシフトに入れれば、食費に余裕があれば。世界が私に、少しでも息をつかせてくれるなら……

私たちはようやくアパートに着いた。古びて、あちこち傷んだ建物だ。エレベーターはまた故障していた。4階まで階段を上る。

狭いワンルームで、残っていたご飯を使って陽菜に小さなおにぎりを作った。陽菜は嬉しそうに頬張りながら、古いテレビでアニメを観ていた。

私は小さなテーブルにつき、さっき集合ポストから取ってきた郵便物を開けた。

請求書、支払いの督促状。そして、賃貸借契約解除の予告通知。

私の手が震え始めた。

これで督促状が届くのは2度目だ。今週末までに滞納している家賃を払えなければ、契約を解除され、この部屋を出ていかなければならない。

口座には2万円しかない。家賃は8万円だ。どう考えても足りない。

私は両手に顔を埋めた。

こんなに必死に働いてきたのに。短期大学も卒業した。美術の非常勤講師にもなった。でも給料は安く、担当できる授業数も少ない。

だから、ふたつ目の仕事を始めた。週末と夜に、ホテルの客室清掃をする仕事だ。陽菜は隣に住む親切な老婦人、須藤さんに預かってもらっていた。彼女は決してお金を受け取ろうとしなかった。

それでも、足りなかった。

「ママ?どうして悲しそうなの?」

顔を上げると、陽菜が心配そうな顔で、私のそばに立っていた。

「悲しくなんてないよ。ただ疲れてるだけ」

「ママ、いつも疲れてる」

「そうだね。ごめんね」

彼女は私の膝に座り、両腕でぎゅっと抱きついてきた。胸が張り裂けそうだった。

この子には、もっとちゃんとした暮らしをさせてあげたい。壁紙が剥がれかけた狭いワンルームではなく、もっときれいで広い部屋で。週のほとんどをレトルト食品やカップ麺で済ませるのではなく、栄養のある温かいご飯を食べさせてあげたい。

疲れ果てて、一緒に遊んであげる余裕すらない母親ではなく、もっと笑顔でそばにいてあげられる母親になりたかった。

この子には、父親が必要なのだ。

けれど、後戻りはできない。和也と向き合うことなんてできない。彼が私にしたように、陽菜のことまで拒絶する姿を、見ていられるはずがない。

その夜、陽菜がベッドで眠りについたあと、私は非常階段に座り込み、何時間も泣いた。

私は、間違いを重ねすぎた。

和也を好きになったこと。彼と関係を持ったこと。逃げ出したこと。自分ひとりでなんとかできると思い込んでいたこと。

でも、陽菜のために。私の愛しい娘のために、頑張り続けなければならない。

明日、上司にもっとシフトを増やしてもらえないか頼んでみよう。ノートパソコンを売ろう。きっと、何か方法があるはずだ。

いつだって、そうやってきたのだから。

翌朝、陽菜を学校に送り届けたあと、私はグランビューホテルでの週末の仕事に向かった。街でいちばん豪華なホテル。私には到底泊まれないような場所だ。

清掃員の制服に着替え、清掃カートを押して歩き出す。

清掃部門の責任者である五十嵐武司(いがらし たけし)が、廊下で私を呼び止めた。

「水野さん、第3会議室へ。今すぐ行って」

私の胸がぎゅっと締めつけられた。

「私、何かしましたか?」

「いいから、早く行って」

私は震える脚で会議室へ向かう。クビになるんだろうか。この仕事を失うわけにはいかない。私には、この仕事が必要なのに――

ドアをノックする。

「どうぞ」

ドアを押し開けた。

そして世界が、止まった。

会議テーブルの向こうに座っていたのは、高価そうなスーツに身を包み、精悍さを増し、冷徹な雰囲気をまとった和也だった。

私たちの視線が絡み合う。

7年間、逃げ続けてきた日々。7年間、身を隠してきた日々。そのすべてが、一瞬で終わりを迎えた。

「久しぶりだ、珠莉」

彼は静かに言った。

「話がある」

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