Share

兄の親友、禁断の一夜と秘密の子
兄の親友、禁断の一夜と秘密の子
Author: Chloe Laurent

第1話

Author: Chloe Laurent
珠莉視点

19歳のあの日、私はシャワーから出てきた和也の姿を、偶然にも目撃してしまった。

腰にタオルを一枚巻いただけの彼のたくましい胸板を水滴が伝い落ちていく。まるで呪いの言葉でも吐き捨てるかのように、彼は私の名前をつぶやいていた。

そこに居合わせるつもりなど、当然ながらなかった。自分の部屋へスケッチブックを取りに行っただけだった。シャワーの水音が止んだとき、私はまだ廊下にいた。

半分開いたバスルームのドアの隙間から、白い湯気が廊下へと流れ出している。それは、抗うべき危険な誘惑のようだった。

それなのに、目を背けることができなかった。

廊下に立ち尽くしたまま、身動きひとつ取れなかった。胸を突き破りそうなほど、心臓が激しく脈打っている。

その日の夕方近く、父と兄の越山遼(こしやま りょう)は警察特別機動隊の訓練場で行われる演習へ出かけていた。

もともと、家には私しかいないはずだった。けれど2時間前、遼からの電話で、和也が来るのだと聞かされていた。8か月に及ぶ任務を終え、ようやく休暇を取れた親友が、家族のもとへ帰る前に一晩泊めてほしいと言っている――そんな話だった。

その知らせを聞いてからというもの、ずっと落ち着かずにいた。

星野和也。

190センチの長身に、引き締まった筋肉と、どこか昏い翳りを纏った男。6年前、兄とともに警察特別機動隊に入隊して以来、彼はずっと「兄の親友」でしかなかった。私より8つも年上の、決して手の届かない存在。

それでいて、体の芯が疼くほどに焦がれた、たったひとりだった。

出会ったのは、私が13歳、彼が21歳のときだ。

特別機動隊の出動服姿で我が家へやってきた彼は、自信に満ち、鋭く精悍な顔立ちをしていた。その姿に目を奪われ、思わず足がもつれてつまずいてしまった。遼は笑ったけれど、和也は私がつまずいたことにすら気づいていなかった。

一度だって、異性として意識されたことなどなかったのだ。

彼にとって、私は遼の厄介な妹でしかない。男同士の時間を邪魔するだけのガキで、テレビの前を陣取ったり、最後の一切れのピザを奪い合ったりしたときだけ、ようやく存在を思い出される程度の女の子だった。

6年もの間、私は彼の瞳に映っていなかった。

――3か月前までは。

警察特別機動隊の訓練施設にいる遼を訪ね、何度も作ってほしいとせがまれていたブラウニーを届けに行った日のことだ。

あの日、その場には和也もいた。

着ていたのは、季節に合わせて何気なく選んだ夏用のワンピースだった。けれど、落とした鍵を拾おうとかがんだ拍子に、その視線が私の脚へと注がれていることに気づいたのだ。

ほんの1秒のこと。奥歯を噛みしめ、その瞳がふっと昏く沈んだ。

そして、まるで私の見間違いだとでも言わんばかりに、彼は素早く目をそらした。

けれど、見間違いなんかじゃないと分かっていた。あの日、何かが変わった。それを、身体の奥深くで確かに感じ取っていたのだ。

そして今、彼はここにいる。この家で、シャワーを浴びている。ただそれだけのことで、息がうまくできなくなっていた。

半開きのドアの向こうで、濡れた黒髪をかき上げる姿が見えた。警察特別機動隊の身分証が、むき出しの胸元にぶら下がっていた。日に焼けた肌には、指先でそっとなぞりたくなるような傷痕がいくつも刻まれていた。

皮膚の下では、危うさを内に抑え込むかのように、しなやかな筋肉が息づいている。

そのとき、聞こえた。

かすかな、ささやきが。

「珠莉」

私の名前。彼が、私の名前を呼んだのだ。

呼吸が、完全に止まった。

その手が腹を滑り落ち、タオルの縁よりも下へと入り込んでいく。目をそらすべきだった。逃げるべきだった。けれど、脚はまるで言うことを聞かなかった。全身が熱を帯びたまま、麻痺したように動けない。

彼はタオル越しに、自らの昂りを強く握りしめた。頭が後ろへと反り、喉の奥から低く掠れた呻き声が漏れる。

「くそ、珠莉……っ」

膝から力が抜けそうになった。脚の間に、激しい熱が広がっていく。こんな感覚は、生まれて初めてだった。

これまでにふたりの男の子とキスをしたことはあったけれど、何も感じなかった。それなのに、私の名前を呼びながら自らに触れる和也を見ているだけで、体が燃え尽きてしまいそうだった。

彼がタオルを剥ぎ取った。何もかもが、隠すものひとつなく露わになった。太く、硬く、あまりにも完璧だった。彼がさらに強く握りしめるのを見て、思わず小さな声を漏らしてしまう。

その瞬間、彼が勢いよく振り返り、ドアのほうへ視線を向けた。

目が合った。

時間が、止まった。

私に気づき、その顔に浮かんだ驚きが、もっと昏い感情へと塗り替えられていく瞬間を――私は、確かに見た。飢え。そして、渇望。

その熱い眼差しが胃の奥をぎゅっと締めつけ、下腹の底を激しく揺さぶる。

3秒間、どちらも身動きひとつしなかった。

やがて、彼の表情が変わった。飢えが、瞬く間に激しい怒りへと変わっていく。

「出てけーッ!」

低く、鋭い怒鳴り声が飛んできた。

よろめいて後ずさった拍子に、肩を壁へと強く打ちつける。心臓が早鐘のように鳴り響く。

「今すぐだ、珠莉!」

廊下へ飛び出し、自室へ駆け込むと、後ろ手にドアを叩きつけた。全身が小刻みに震えている。顔が燃えるように熱い。太ももを、痛いほど強く押し合わせていた。

ベッドに崩れ落ち、両手で顔を覆う。

私、今、何をしてしまったの。

私、今、何を見てしまったの。

彼は自分に触れていた。私のことを考えていて、私の名前を、まるでそれだけが世界で唯一意味を持つ言葉であるかのように呼んでいたのだ。

和也が、私を求めている。

その事実だけで、眩暈がした。

けれど同時に、彼は私に出て行けと怒鳴りつけた。まるで許されない大罪を犯したかのように。越えてはならない一線を越えたかのように、睨みつけていた。

本当に、越えてしまったのかもしれない。

何時間にも思えるほど長く、ベッドに横たわったまま、激しく打つ鼓動を鎮めようとした。脳裏に焼きついた光景を忘れようとし、脚の間に残る鋭い疼きをどうにか鎮めようとした。

けれど、それはどうしても消えてはくれなかった。

6時を過ぎた頃、玄関のドアが開く音がした。父と兄が帰ってきたのだ。階下からふたりの声が響き、少し遅れて和也の低い声も混じり始めた。

部屋から出ることはできなかった。みんなと顔を合わせることなんて、到底できない。

特に、和也とは。

7時になると、夕食だから下りてくるようにと父さんから声がかかった。

スウェットパンツとぶかぶかのパーカーに着替え、髪を無造作にお団子にまとめ、できるだけ女らしさも魅力も感じさせないような格好をした。そうして、まるで処刑台へと向かうかのような重い足取りで、そっと階段を下りた。

ダイニングには、すでにみんなが揃っていた。父さんは冷蔵庫からビールを取り出し、遼はスマホの画面を見て何かに笑っている。そして和也は、カウンターに寄りかかって腕を組み、じっと入口を見つめていた。

まるで、見張りに立っているかのように。

部屋に入った瞬間、彼の視線とまっすぐにぶつかった。

私の体が固まった。

彼の表情は硬く、瞳は昏く、何を考えているのかまるで読み取れない。

私を殺したいのか。それとも、食い尽くしたいのか。どちらの方が恐ろしいのか、自分でも分からなかった。

「ほら、来たぞ」父が微笑んで言った。「珠莉、和也のことは覚えてるだろ?」

無言でうなずく。声を出す自信なんて、どこにもなかったから。

「……もちろん覚えている」和也が、低く威圧的な声で告げる。「そうだろう、珠莉?」

兄が私たちを交互に見比べ、怪訝そうに眉をひそめた。

「大丈夫か?ずいぶん怒ってるように見えるけど」

「大丈夫だ」和也は、私から目をそらさないまま答えた。「ただ、疲れてるだけだ」

嘘つき。

皿を取り、できるだけ彼から離れた席に腰を下ろした。それでも食事の間ずっと、その重い視線を肌で感じ続けていた。顔を上げるたびに、必ずこちらを見ている。何かに手を伸ばすたびに、執拗に視線が追ってくる。

それはまるで、拷問のようだった。

夕食のあと、父の皿洗いを手伝っている間に、兄と和也はリビングへと移っていった。

少しだけ、ほっとした。

このまま自分の部屋へ逃げ込んでしまえば、今夜はもう顔を合わせずに済むはずと、そう思っていた。

けれど、キッチンを出ようと振り返ると、戸口に立つ彼の姿が目に入った。まるで、出口を塞ぐかのように。

「話がある」静かだが、逃げ場を与えない声だった。

私の心臓がグッと止まった。

「今すぐにだ」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子   第10話

    珠莉視点その日の午後、私は7部屋を掃除したけれど、それがどんな部屋だったか、正直よく覚えていない。手だけが動いていた。シーツを剥がし、清潔なものに取り替え、武司に教わったとおり、ベッドの角を封筒のように折り込み、しわ一つなくぴんと張る。洗面台を拭く。便器と浴槽をこする。鏡をぴかぴかに磨き上げる。そこに映るのは、青ざめた顔、目の下の隈、自分のものではない制服を着た私。カーペットに掃除機をかける。客が一度使っただけで、まだ中身の残っているシャンプーやコンディショナー、ボディローションのミニボトルを新しいものに取り替える。手だけが動いていた。心は、まったく別の場所にあった。彼は、いったい何を望んでいるんだろう。考えないようにしていたのに、その問いはずっと頭から離れなかった。彼は陽菜のことを知りたいと言った。あの子を私から奪うつもりはないとも言った。でも、彼はすでに弁護士に相談したとも言っていた。それは、穏やかな話し合いを求める人間のすることじゃない。戦う準備をしている人間のすることだ。彼には、裁判で争えるだけのお金があるのだろうか。答えは、とっくにわかっていた。あの会議室で彼を見た瞬間から。あの高そうなスーツと腕時計を見た瞬間から。和也には昔から、並外れた意志の強さがあった。失敗を糧にし、二度と同じ目には遭わないと心に決めたら、必ずそれを実現する人だった。警察特別機動隊で過ごした7年間、そして計画的な投資。それ以外に何をしてきたのかは知らないけれど、明らかにそれらは大きな実を結んでいた。彼には、お金がある。そして私は、小学校の非常勤講師で、週末にホテルの床を磨かなければ家賃さえ払えない女だ。家庭裁判所で、私たちふたりを見比べる裁判官の姿を想像した。裁判官の目に何が映るのかも。片方には、華々しい警察特別機動隊の経歴を持ち、今は成功した実業家がいる。もう片方には、二つの仕事を掛け持ちしても、立ち退き通知を受け取る女がいる。子どもに安定した生活と安全、そして明るい将来を与えられる男と来月には家賃も払えなくなりそうな女。浴槽を力任せにこすったせいで、あとになって肩がひどく痛んだ。午後3時15分、タイムカードを切り、私は陽菜の学校まで40分かけて歩いた。午後の暑さの中、足は痛み、道中ずっと和

  • 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子   第9話

    珠莉視点私は床が足元から傾いていくように感じた。部屋全体がわずかに傾いたような気がして、体勢を立て直さなければ立っていられなかった。この衝突は、避けられないものだった。心の奥深く、直視することを拒み続けてきた真実を押し込めた場所で、私はずっとわかっていた。いつか彼が私たちを見つけ、真実に気づく日が来ることを。ただ、彼が本当に私たちを見つけ出すなんて、自分に信じさせたことは一度もなかった。「だめ。そんなこと、させない」私は言った。声にこもった強さを保つのは、もう限界だった。「お前を傷つけたいわけじゃない」彼は身を乗り出した。その眼差しは真剣で、まっすぐだった。陽菜が受け継いだ、あの濡れたような漆黒を思い出すのが、私は今も嫌でたまらなかった。「あの子をお前から奪おうとしてるわけじゃない。お前の生活をかき乱すつもりもない。ただ、俺の娘を知りたいだけなんだ」「でも、あの子はあなたを必要としてない!」「そうかもしれない。でも、あの子には自分で選ぶ機会を持つ権利がある」「まだ6歳よ。そんなことを、あの子一人で決められるわけないでしょう。それを判断するのは私の責任なの!」私はテーブルを回り込んだ。反対側に立ったままでいることが、まるで逃げているように感じられたからだ。彼から数歩離れたところで足を止める。「陽菜は幸せよ。安全に暮らしてる。たくさんの人に愛されてる。大切なものが足りなかったことなんて、一度もない」6年間、毎日それを確かめてきたのだから。最後の言葉を口にするとき、私の声が詰まった。「あの子には、雇った探偵がようやく私たちを見つけたから現れた男なんて必要ない。自分から見つけることさえできなかった父親なんて、必要ないの」彼は立ち上がった。私よりも、ずっと背が高かった。昔からそうだった。彼がただそこに立っているだけで、これほど部屋が狭く感じられることを、私は忘れていた。「お前の言うとおりだ」彼は言った。「まったくそのとおりだ。お前が正しいと、俺もわかってる」その言葉に、私は戸惑い、立ち尽くした。「でも、俺は帰らない」彼は言った。「そして、もう離れない。今も、これから先も」高価なスーツに身を包み、顎に力を込め、まなざしを揺るがせずに立つ彼を見つめながら、私の中に何かがこみ

  • 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子   第8話

    珠莉視点私は、振り返る前にエレベーターまでたどり着くことができた。何が自分をそうさせたのか、わからない。心のどこかが、この場から立ち去ることを拒んでいた。彼に最後の言葉を言わせたまま、終わらせたくなかったから。それに、心のどこかでは、7年間ずっと待ち続けていたのだ。あのとき言えなかった言葉を、彼に向かって口にするために。あの頃の私はあまりに若く、あまりにも傷ついていて、妊娠していて、逃げる以外の選択肢を持っていなかったから。私は会議室へ戻った。彼はまだそこにいた。椅子から立ち上がってすらいなかったことに、私は少し驚いた。もう電話をかけて、自分の思いどおりに事を運んでくれる人間たちに連絡しているだろうと、ほとんど思い込んでいたからだ。けれど彼は、私が去ったときと同じ場所に座り、両手をテーブルの上で組み、じっとドアのほうを見つめていた。まるで、私が戻ってくることを最初から確信していたかのように。それが、なんとも言えない苛立ちを呼び起こした。私はドアを押し開け、テーブルへ戻った。座らなかった。長テーブルの反対側に立ち、椅子の背に両手を置いて、彼の目をまっすぐに見据えた。「権利について話したいの?」私は言った。「いいわ。なら、権利について話しましょう」彼は何も言わなかった。ただ、静かに私を見つめていた。「あなたが私に、昨夜は間違いだったと言ったあの朝。あなたは、あの子に対するすべての権利を失ったのよ」私の声は震えていなかった。それだけが、せめてもの救いだった。「あなたが私に、全部忘れろと言ったとき。あなたは、もう手放していたの。振り返りもせずに、あのゲストルームを出ていったときに」椅子の背に置いた手に、さらに力がこもる。「あなたはあそこで、権利を失ったの。法廷でじゃない。書類の上でもない。あなた自身が、自分から手放したのよ」彼の表情に、何かが起きた。目元がわずかに引きつり、顎がかすかに動いた。和也は、震えた。ほとんど気づかないほどの、わずかな震え。彼は自制心が強すぎて、感情をあからさまに表へ出すような人じゃない。でも、13歳から15歳までのあいだ、私は彼の顔を覚えることに、数え切れないほどの時間を費やしてきた。決して手に入らないとわかっているものを、せめて記憶に刻みつけるように、彼のあら

  • 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子   第7話

    和也視点珠莉は、まだ清掃用のゴム手袋をはめ直していなかった。それは俺たちの間のテーブルに、彼女が乱暴に外したときのまま、灰色の塊になって置かれている。なぜか、そこから目を逸らすことができなかった。カーテンに安物の色鉛筆で光と影の模様を描いていたあの少女・珠莉が、今はホテルの清掃員として働いている。他人の会社のロゴが入った制服に身を包み、指の関節は赤くひび割れていた。彼女が俺に向ける目は、まるで俺がこれまでの人生で遭遇した最悪の出来事であるかのようだった。実際、そうなのかもしれない。彼女はひどく疲れきって見えた。目の下の隈は濃く、それは一晩の寝不足によるものではなく、何年ものあいだ積み重なってきた疲労の証だった。俺のスマホを手にしてからというもの、彼女の手はずっと小刻みに震えていた。それでも、彼女は変わらずに美しかった。それだけは、何ひとつ変わっていなかった。「あの子のことを知りたい」俺は静かに言った。「それに、俺は面倒を起こしに来たわけじゃないと、わかってほしい」口から出た声は、自分で思っていたよりも大きかった。彼女の顎に力が入り、あの独特な仕草で顔を上げる。まるで、決して屈するまいとする相手に、これから正面から立ち向かうかのように。「あの子のことを知りたい?」彼女はゆっくりと繰り返した。「ああ」「あの子が生まれたとき、あなたはいなかった。初めて歩いたときも、初めて言葉を話したときも、初めて何かを怖がったときも、あなたはいなかった」彼女は一歩詰め寄った。その激しい怒りが熱波のように押し寄せてくるのを肌で感じるほど、近くまで。「7年間、何の音沙汰もなかったのに、いきなり私の職場に現れて、誰かに娘の写真を撮らせたって言うの?それで、あの子のことを知りたい?」彼女の乾いた笑いが漏れる。「いったい、どの面下げてそんなことが言えるの?」珠莉の声がわずかに上ずる。「よくもまあ、面倒を起こしに来たわけじゃないなんて平気で言えるわね」「俺は、あの子の存在すら知らなかった」「私がそうしたからよ」彼女の視線は、俺の目から一度も逸れなかった。「それは私が選んだことよ。自分の意思でそうしたの。そして、もう一度やり直せたとしても、私は同じことをするわ」「あの子はまだ6歳だ」「歳くらい知

  • 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子   第6話

    珠莉視点清掃カートは、まだ廊下に置いたままだった。私は第3会議室のドアの前で立ちすくみ、長テーブルの向こうに座るあの男から目を離せずにいたとき、頭の中で唯一まともに考えられたのは、そのことだけだった。カートは外に置きっぱなしだ。モップも、スプレーボトルも、きれいに畳まれたタオルの山も。40分後には4階へ行かなければならないのに、そんなことはすべて頭から消えていた。だって、数メートル先に、私の1か月分の家賃よりも高そうなスーツを着た和也が、そこにいるのだから。そして、彼は変わっていた。それが、私が最初に気づいたことだった。パニックに陥るよりも先に。全身から血の気が引くよりも先に。彼は、以前とは違っていた。相変わらず圧倒的な存在感で、部屋全体を狭く感じさせるほどだったけれど、7年という歳月が彼を作り変えていた。顔立ちは以前よりも硬質で、さらに鋭さを増していた。艶のある髪には、こめかみのあたりに銀色が交じっている。ほんの数本だけれど、それでも十分に目を引いた。目尻には皺が刻まれ、顎には一筋の傷痕。喉元にも、薄い傷痕があった。彼が私を見る視線は、昔と変わらなかった。まるで私を分析しているかのような。この瞬間に起こり得る、あらゆる結末をすでに計算し終えているかのような目。けれど、私には何の準備もなかった。ドア枠をつかんだ手に力が入る。足が言うことを聞かない。私はホテルの制服姿だった――薄いグレーのシャツに、胸元にはロゴの刺繍。濃い色のスラックス。ワックスがけされた床の上を、足音も立てずに歩くための靴。髪は後ろでひとつに束ね、化粧もしていない。誰の記憶にも残らない従業員。それが、私のあるべき姿だった。彼に気づかれるような人間ではないはずだった。「座れ」彼は言った。その声は、昔のままだった。低く、落ち着いていて、人を従わせる鋭さを少しも失っていない。7年前に葬り去ったはずの声が、今ここに蘇り、私の内側を引き裂いていく。「嫌」私は答えた。彼の顔に一瞬、何かがよぎった。驚き。かすかだけれど、確かに。予想していなかったのだろう。いい気味だ。「珠莉」「どうやって私を見つけたの?」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。むしろ落ち着きすぎていた。「それは重要じゃない」「重要よ。少な

  • 兄の親友、禁断の一夜と秘密の子   第5話

    珠莉視点7年後。「ママ、お腹すいた」私は娘、水野陽菜(みずの ひな)を見下ろす。彼女は私譲りの黒茶の髪に、父親譲りの真っ黒の瞳を受け継いでいた。あの瞳は、この7年間、私の心から離れたことがなかった。「わかってるよ。もうすぐごはんにしようね。約束する」学校からの帰り道を、ふたりで歩いていた。今月は電車代を出す余裕がないため、40分かけて歩かなければならない。すり切れたスニーカーの中で、私の足の裏がじんじん痛む。午前中ずっと床を磨いていたせいで、背中も強張っていた。それでも陽菜は私の隣で跳ねるように歩きながら、今日あった出来事を話してくれる。6歳になった娘は、とても愛らしかった。彼女は、私のすべてだった。けれど、彼女の父親は、その存在すら知らない。7年前、妊娠を知ったとき、私は怯えきっていた。父と兄に打ち明けようとさえ思った。けれどその直後、SNSであの投稿を目にした。星野和也、神崎玲奈(かみさき れな)との婚約を発表した。その報せは、瞬く間に広まった。写真の中で、2人はフォーマルな装いで華やかなパーティーに出席していた。彼は玲奈を抱き寄せ、玲奈は大粒のダイヤモンドの指輪を見せるように左手を掲げている。和也は仕立てのいいスーツに身を包み、端整で、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。添えられた言葉――【婚約した。最高に幸せだ】私はその投稿を、しばらくのあいだ呆然と見つめ続けた。とっくに婚約していたなんて。彼が私にキスをしたときも。私の初めてを奪ったときも。私のことを完璧だと言ったときも。彼には、婚約者がいた。知らないうちに、私は婚約者のいる男と関係を持っていたのだ。その瞬間、決意した。荷物をまとめた。図書館のアルバイトで貯めた、なけなしの貯金を持って。そして、家を出た。一言も残さず、誰にも別れを告げず。私はただ、消えた。遠く離れた街に移り住み、電話番号だって変えた。SNSのアカウントをすべて削除した。母の旧姓、水野を使い、短期大学に入学した。狭いアパートを見つけ、飲食店のアルバイトも見つけた。そして9か月後、陽菜がこの世に生まれた。父が捜索願を出していると知ったとき、一度だけ公衆電話から、無事だと伝えた。ただ少し距離が欲しいだけだと。父は帰ってきてくれと懇願したが、私は電話を切った。そ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status