All Chapters of 霧が晴れる朝に: Chapter 1 - Chapter 10

19 Chapters

第1話

【あの数年、私は実家からの仕送りを止められてた。彼は一日に3つもバイトを掛け持ちして、こっそり私の口座にお金を振り込んでくれてたんだ。私が寝ている間に、スマホの振込通知もメッセージも全部消して】心臓が大きく跳ねた。指先が冷えていく。震える手で画面をスクロールすると、投稿主が1枚の写真を添付していた。写っているのは、キッチンで料理をする男の後ろ姿。そのそばにあるガラステーブルには、婚姻届受理証明書の上に、小さな勾玉のお守りのついている、赤いミサンガが2本並べて置かれていた。それは私が17歳の頃、夜更かしをしながら少しずつ編んだものだった。作ったのは全部で3本。1本は私が、もう1本は祐一が身につけ、残る1本は、一番の親友だった鶴本美樹(つるもと みき)の手首に私が結んであげた。頭の中で、何かが弾ける音がした。これが現実だなんて信じたくない。ただの偶然だろうか。編み方なら、真似できる人もいる。けれど、写真に写るあの後ろ姿だけは、たとえ何年経っていても見間違えるはずがない。震える指で、そらんじられるほど記憶に刻み込まれた番号を打ち込んだ。「どちら様ですか」低く落ち着いた声。かつて誰よりも聞き慣れた、彼特有の素っ気なさが滲んでいた。口を開いたが、自分の声は掠れて別人のようだった。「私よ」数秒の沈黙。彼は私の声に気づかなかった。かつては「お気に入り」に登録していたこの番号さえ、とうの昔に忘れてしまったのだ。電話の奥から、軽い足音が近づいてくる。続いて、甘えるような女の声。「ねえ、誰から?」美樹だ。祐一の声が、途端に甘く和らぐ。「さあ。詐欺か何かだろ」躊躇いもなく、通話は切られた。私は一歩も動けなかった。力の抜けた手からスマホが滑り落ち、地面に落ちて乾いた音を立てた。どうして?一体、何があったの?私の恋人が、どうして私の親友と結婚しているの?私はふらふらと街を彷徨った。行き交う車の音さえ耳に届かない。記憶ばかりがとめどなく溢れ出す。昔の祐一は、手のつけられない不良だった。喧嘩に明け暮れ、テストの答案はいつも白紙。全身に棘をまとい、教師たちからも見放され、教室の一番後ろの席で半ば放置されていた。けれど私だけは見捨てなかった。学年トップだった私は、彼に一目惚れしていたのだ。周囲の目など
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第2話

だが私は、18歳の姿のまま、4年後の世界へ飛ばされてきた霧子だ。そんな突拍子もない話をしたところで、信じてもらえるはずがない。私は深く息を吸い、掌に爪が食い込むほど拳を握り締めると、必死に平静を装い、とっさに嘘をついた。「私、死んでいません……2年前、海に落ちて、遠くの漁村の人に助けられたんです。頭を強く打ったせいで記憶を失ってしまって……数日前、ようやく記憶が戻ったので、ここへ帰ってきました……」戸籍担当の職員は、気遣わしげな眼差しを向けると、温かいお茶を注いだ紙コップを差し出してくれた。「それは大変でしたね。ただ、すでに戸籍に死亡の記載がある以上、こちらの窓口だけで元に戻すことはできません。まずは、提出された死亡届の内容を確認する必要があります。そのうえで、戸籍訂正の手続きを進めていただくことになります」「あの……今は、両親と連絡が取れなくて」私は紙コップを両手で包み込んだ。温かいお茶の熱が、冷え切っていた指先にじんわりと染みてくる。「ひとりだけ、連絡を取りたい人がいます。華原祐一という人なんですが……」「華原祐一?」少し離れた席にいた若い職員が顔を上げ、私をまっすぐに見た。「もしかして、あの祐一さんのことですか?」「ご存じなんですか?」「大学が一緒だったんです。この辺りでは、かなり有名な方なので」私が何か尋ねるより先に、彼は祐一を庇うような、それでいて私を牽制するような口調で言葉を継いだ。「どういうご関係かは知りませんが、今の祐一さんには奥さんがいます。夫婦仲もとてもいいと聞いていますから、突然訪ねていくのはやめた方がいいと思います」「奥さん……?」唇から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。私は強く唇を噛み締める。「ええ。美樹さんです」職員の声には、隠しきれない羨望が滲んでいた。「祐一さんの愛妻家ぶりは本物ですよ。大学の期末試験で、問題がつまらないと言って、専門科目の答案用紙いっぱいに『美樹至上主義』と書き殴ったことがあるんです。あれは今でも学内で語り草になっていてね。単位を落としてまで、奥さんへの愛を貫いたんだとか。誰だって憧れますよ、あの二人には」呼吸が止まった。胸の奥を鋭くえぐられたような痛みが走る。高校3年のあの年、祐一は物理の難問が解けず、苛立ちを爆発させた。
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第3話

窓口の空気が、一瞬で凍てついた。若い職員は目を丸くし、まるで汚いものでも見るような目を私に向け、無意識に一歩後ずさった。どうやって役所を出たのか、記憶がない。私は道端にしゃがみ込み、荒い息を吐いた。心臓がズキズキと悲鳴を上げている。薬はない。ただ胸元の服をきつく握り締めるしかなかった。彼らの口から語られた私は、数え切れないほどの悪事を働いた大罪人だった。震える手でスマホを取り出し、パスワードをかけていた日記アプリを開く。データが同期されるにつれ、失われた4年間に何があったのかが、残酷なほど鮮明に明らかになっていった。共通テスト当日の朝、私のスマホは何者かによって電源を切られ、セットしていた目覚まし時計まで時刻をずらされていた。目を覚ましたときには、もう試験開始時刻を大幅に過ぎていた。必要な科目を受験できなかった私は、第一志望の大学に出願することすらできなかった。祐一は目を真っ赤にして私を抱きしめ、自分も進学せず、一緒に浪人すると約束してくれた。「もう1年、一緒に頑張ればいい」だが、卒業式のあとのクラス会で、祐一は誰かから渡された飲み物を口にし、薬で意識を朦朧とさせられた。意識が朦朧とする彼を介抱してホテルへ連れていったその夜、薄暗い部屋の中で、私たちは一線を越えた。なのに翌朝、目を覚ました彼が私に向けたのは、底知れぬ嫌悪の眼差しだった。「霧子。俺を繋ぎ止めるために、薬を盛るなんて真似までしたのか?」私には、どう弁明していいか分からなかった。あの飲み物に細工されていたことなど、本当に知らなかったのだから。その後、美樹に条件のいい男性を紹介する話が持ち上がった。すると祐一が割って入り、美樹を背中に庇うようにして、相手との話を勝手に断ってしまったのだ。物陰からその一部始終を見ていた私の心は、完全に冷え切った。祐一が美樹に向ける視線には、3年間付き合ってきた私でさえ見たことのない、強烈な独占欲と執着が渦巻いていた。あの時の私は、どうしても諦めきれなかった。美樹が祐一を奪った証拠をかき集め、ネットに告発したのだ。けれど祐一はハッキング技術を駆使し、掲示板のサーバーに侵入した。そして、投稿内の名前をすべて書き換えてしまった。一夜にして、私は最悪の女に仕立て上げられた。親友の恋人を奪おうとし、飲み物に薬を盛って結
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第4話

祐一の顔は、これ以上ないほど青ざめていた。彼が大股でこちらへ近づいてきた。だが、彼が口を開くより早く、美樹が突然私の前にひざまずき、泣き崩れた。「霧子、ごめんなさい!」大粒の涙をこぼすその顔は、痛々しいほどか弱く、いかにも庇護欲をそそるものだった。「どうしてそんなこと聞くの?あなたが一番よく分かってるじゃない!あなたがまた祐一に薬を盛ったから、私は彼を助けようとして……私だって、祐一と一緒になんてなれるわけないって思ってた。私たちだって、どうしようもなかったのよ!」祐一は彼女を引き起こし、自分の背後に庇いながら私を睨みつけた。「霧子。2年間も姿を消しておいて、戻ってきた途端にこの騒ぎか」怒りを通り越し、私は思わず鼻で笑った。「私が薬を盛った?美樹、よくもまあ、そんな嘘がすらすらと出てくるわね」「もう……まだ祐一を愛してるなら、返してあげる!」美樹は祐一の袖をきつく握り締め、しゃくり上げながら訴えた。「祐一、離婚しましょう。私、身を引くから……」祐一は彼女の肩を抱き寄せ、きっぱりと言い放った。「離婚などあり得ない。お腹には俺たちの子がいるんだ。俺が一生、妻と認めるのはお前だけだ」その瞬間、美樹が突然胸を押さえ、激しく咳き込み、苦しそうに喘ぎ始めた。「薬……私の喘息の薬……」「美樹!」祐一は顔色を変え、慌てて寝室へと駆け込んだ。リビングには、私と美樹のふたりだけが残された。すると美樹は、先ほどまでの苦しげな喘ぎをぴたりと止め、私の顔を見てあざ笑うように口角を上げた。彼女は声を落として囁いた。「霧子、自分を何様だと思ってるの?そういえば、知らないわよね?あなたのご両親、行方不明になったあなたを捜して、道端で私に土下座して縋りついてきたのよ。鬱陶しかったから、ボディガードを呼んで追い払わせたわ。お父さん、そのときに突き飛ばされて肋骨を2本も折って、今でも力仕事はできないそうよ」私の中でかろうじて繋がっていた理性の糸が、ぷつりと切れた。私は怒りに任せて飛びかかり、思いきり彼女の頬を張った。美樹は短い悲鳴を上げ、その勢いのまま床に倒れ込んだ。薬を手にして戻ってきた祐一が、血相を変えて駆け寄り、倒れ込む美樹を抱き留めた。彼は振り返るなり、躊躇なく手を振り上げ、私の頬を力任せ
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第5話

私はその場に縫い付けられたように動けなくなった。頭の中が真っ白になった。祐一は研究者でありながら、決して情けをかけるような甘い人間ではない。かつて、身内を徹底的に庇う彼の偏執的なまでの執着は、私ひとりだけに向けられていた。それが今は、そっくりそのまま美樹へと捧げられているのだ。彼はかつて、痕跡すら残さず掲示板をハッキングし、投稿を書き換えて私の潔白を無残に踏みにじった男だ。今、私に濡れ衣を着せて警察に突き出すことなど、彼にとっては造作もないに違いない。「霧子、お前は度を越した」彼の口調は、酷薄なまでに平静だった。「しばらく留置施設で頭を冷やしてこい。出てくる頃には、その性根も少しは叩き直されているだろう」私は自嘲気味に口角を歪めた。一体、どちらが度を越しているというのか。パトカーはすぐに到着した。警察官たちが部屋に入り、私をその場で取り押さえた。連行される間際、美樹は祐一の胸にすがりつき、申し訳なさそうに目を潤ませた。「祐一、もういいじゃない。そんなに痛くないわ」彼女は彼の袖をそっと引く。「私が傷つけられたからって、あなたを困らせたくないの」祐一は彼女の腰を優しく抱き寄せた。「困ることなど何もない。一生守ると誓っただろう。俺は一度口にしたことは必ず守る。決して約束を破るような真似はしない」約束を破るような真似はしない。その言葉を聞いた瞬間、私は口の中が切れそうなほど強く頬の内側を噛み締めた。なんて滑稽で、なんて呪わしい響きだろう。だったら、私との約束は、どうしてあんなにも簡単に破ったの?扉が背後で閉まり、私はパトカーの後部座席に押し込まれた。留置施設の中には、骨の髄まで凍えるような、じっとりとした冷気が漂っていた。私は薄暗く狭い留置室へと入れられた。そこにはすでに数人の女たちがいた。私が入ってくるのを見ると、彼女たちは意味ありげな視線を交わし合った。その夜、私は部屋の隅に身を寄せていた。突然、頭上から氷のような冷水を浴びせられ、私は弾かれたように跳び起きた。全身がずぶ濡れだった。同室の女たちが、にやにやと笑いながら近づき、私の布団を奪い取った。「新入り、便所の横があんたの寝床だ」ひとりの女が私の髪を乱暴に掴み、冷たい床へ思いきり引きずり倒した。硬いコン
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第6話

私は震える手でアカウントを作成し、そのままライブ配信のボタンを押した。4年が過ぎ、今や祐一が世間に名を知られる存在となっていたこともあり、配信には瞬く間に数万人もの視聴者が押し寄せた。私は一滴の涙も流さなかった。ただ恐ろしいほど冷静に、当時起きた出来事を時系列に沿って説明し、先ほどリビングで美樹が私に吐いた挑発の言葉まで、一つ残らず語った。コメント欄は当初こそ、「人殺し」「死人が話題作りのために生き返った」という罵詈雑言で埋め尽くされていたが、私が淡々と事実を並べていくにつれ、次第に困惑と疑問の声が混じり始めた。中には、美樹がサブ垢で書き込んだ呪いの言葉を見つけ、そのスクリーンショットを拡散する視聴者まで現れた。世論の流れが、確実に変わり始めていた。そのとき、傍らに置いたスマホが震えた。画面には祐一の名前が表示されていた。「配信を切れ」通話を繋ぐなり、彼の声は凍りつくような冷たさを帯びていた。「絶対にお断り」私は奥歯を噛み締め、低く唸った。「霧子。どうしても共倒れになりたいのか」祐一は歯ぎしりするような声で、抑えきれない怒りを滲ませた。「美樹がお前の配信を見て取り乱し、切迫早産の兆候が出た。今、処置を受けている」「それは自業自得でしょう!」「お前の両親は今、ICUにいるな。莫大な治療費は、すべて俺が立て替えてやっているんだぞ。明日には、それぞれ大きな手術を受けさせるよう手配してある。もしお前が今すぐ、さっきの配信はすべてお前のでっち上げだったと声明を出さないなら、今後の治療費は一切負担しない」心臓を巨大な氷の手で鷲掴みにされたようだった。呼吸の仕方が分からなくなる。「祐一、この人でなし!両親の命を盾にして、私を脅すつもり!?」「1分だけ待ってやる」無慈悲に電話は切られた。配信画面を見ると、私を擁護するコメントが濁流のように流れ、高額な投げ銭が次々と画面上で弾けている。その光景を見た瞬間、せき止められていた涙が決壊したように溢れ出した。私の、完全な敗北だ。彼らには到底敵わない。今の私には権力も金もない。何より、愛する両親の命を賭ける勇気など、あるはずがなかった。私は涙で赤くなった目でカメラを見つめ、無理やり笑みを作ると、最後の言葉を絞り出した。「申し訳ありません
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第7話

その頃、街の反対側にある病院では、祐一のスマホが激しく震え続けていた。彼は苛立たしげに眉間を押さえると、秘書からの6度目の着信に出た。「言ったはずだ。あの女の茶番で、いちいち俺を煩わせるなと」秘書の声は、パニックのあまりひどく掠れていた。「祐一さん、違うんです!大変なことに!霧子さんが……霧子さんが病院の屋上から……」ブツッ。祐一は無表情のまま、一方的に通話を切った。画面が消える直前、続けて秘書からのメッセージがポップアップ表示された。【祐一さん!霧子さんが飛び降りて亡くなりました!】「死」の一文字が目に入った瞬間、祐一の瞳がわずかに揺れた。だが、直後に胸の奥から湧き上がってきたのは、悪質ないたずらに対する強烈な怒りだった。またこの手の見え透いた芝居か。俺を引きずり出すためなら、どんな嘘でも平気でつく女だ。彼は鼻で笑うと、苛立たしげにスマホの電源を落とし、そのまま車の助手席へ乱暴に投げ捨てた。私立病院のVIP病室。美樹は柔らかなクッションに背を預け、出来たばかりの滋養スープを手にしていた。顔色はまだ少し青白い。「祐一。霧子の配信のことだけど……大事になりすぎてない?」美樹は恐る恐る顔を上げた。目元がわずかに赤く腫れている。「ネットではみんな彼女を責めてるけど、私のこと、ひどく恨んでいるんじゃないかな。私、本当に彼女を追い詰めるつもりなんてなかったのに。もしまだ私を恨んでいるなら、私からネットで事情を説明するわ。全部私が悪かったって……」「お前が何を説明する必要がある?お前は何も悪くないだろう」祐一は先ほどのメッセージを頭から追い出し、彼女のもとへ歩み寄った。ティッシュを1枚引き抜くと、口元についたスープを優しく拭ってやる。「あいつは重い統合失調症で、口を開けば嘘ばかりだ。世論の流れが変わりかけているのも、ネット工作の業者を雇って仕組んだ自作自演にすぎない。広報部には、すでに火消しに動くよう指示を出してある。関連する話題も配信のアーカイブも、できる限り拡散を抑えさせた」美樹はうつむき、大きく膨らんだお腹にそっと触れながら、震える声で呟いた。「でも、彼女の最後の配信の背景……病院の屋上みたいだった。まさか本当に思い詰めていたんじゃ……」「飛び降りだと?」祐一は、とんでもない冗
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第8話

「言ったはずだ。しばらくの間、俺の前でその女の名前を口にするなと」祐一は不快げに眉をひそめた。「また何か企んでいるのか?病院の警備員に言って、追い返せ。美樹の病室に近づけるな」「違うんだ!祐一!」陸は目を真っ赤にし、声を震わせながら叫んだ。「あいつ、さっき市立病院の屋上で配信をしていて……飛び降りたんだ!本当に飛び降りたんだよ!」陸は震える手で、手元のタブレットを差し出そうとした。バシッ!祐一はその手を勢いよく弾き飛ばし、タブレットを床へ払い落とした。「いい加減にしろ!」彼は鋭く一喝した。周囲の空気が一瞬にして凍りついた。「陸、お前まであの女に丸め込まれたのか?誰かに巧妙な合成映像を作らせて、俺の前で三文芝居を打つつもりか?俺を引きずり出すためなら、あの女はそこまで下劣な手段を使うというのか!」タブレットは絨毯の上に転がり、画面は完全に暗転した。祐一は身を翻すと、スーツのポケットから上品なベルベット張りの小箱を取り出した。中には、希少なピンクダイヤの指輪が収められていた。彼はベッドのそばへ歩み寄り、恐怖に顔を引きつらせた陸の視線を完全に無視しながら、美樹の白く細い手を取り、その薬指にゆっくりと指輪をはめた。「先週、オークションで落札したものだ。今日ちょうど届いた」祐一の声は、また元の穏やかな柔らかさを取り戻していた。「どうでもいい人間のことで気を乱すな。安心して身体を休めていればいい」陸は戸口に立ち尽くし、その異様な光景を見つめながら、全身の血が凍りつくのを感じた。陸は何か言おうと口を開いたが、喉がひきつって声が出なかった。最後には、まるで狂人を見るような目で祐一を一瞥し、足をもつれさせながら病室を後にした。祐一は視界の端で陸が去っていく背中を捉え、鼻で冷たく笑った。彼はベッドへと向き直った。美樹が満面の笑みを浮かべ、ピンクダイヤをうっとりと眺めているのを見ると、心の奥にあの言いようのない苛立ちが、またじわりと湧き上がってきた。なぜか、その無邪気な姿がやけに目に障るのだ。いつものように優しく寄り添うこともなく、彼はベッドサイドに置かれていたジュエリーカタログを無造作に取り上げた。「たった今、怖い思いをしたばかりだろう。ちゃんと横になっていろ。余計なことは考えるな」美樹の笑
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第9話

黒いマイバッハが、市立病院の正面玄関前に滑り込むように停まった。祐一は慣れた足取りでエレベーターに乗り込み、最上階の集中治療室へと向かった。集中治療室は静まり返り、医療機器の電子音だけが規則正しく響いていた。彼は3号床と4号床の前まで歩み寄り、そこで足を止めた。ベッドはもぬけの殻だった。真っ白なシーツはしわ一つなく整えられ、ベッドサイドにあった医療機器もすべて撤去されていた。祐一は鋭く眉をひそめた。まさか、霧子が自分から逃げるために、こっそり両親を転院させたのか?あの女に、転院させるほどの金がどこにある?まさか、失踪していた2年間で、それなりの金を稼いだとでもいうのか?彼は身を翻すと、ナースステーションへ歩み寄り、苛立たしげにカウンターを指で叩いた。「3号床の野秋圭と、4号床の野秋百合子は?家族はいつ転院の手続きを済ませたんだ」当直の若い看護師が顔を上げる。祐一の顔をはっきりと認めた瞬間、看護師の手からボールペンが音を立てて転がり落ちた。彼女は祐一の顔を凝視したまま、その目に激しい嫌悪と衝撃、そして隠しようのない軽蔑を浮かべた。なんだ、その目は?彼は内心で鼻を鳴らした。幽霊でも見たような顔をして、なぜ犯罪者でも見るような目で俺を睨む?「あなた……華原祐一さん、ですか?」看護師の声は、怒りとも恐怖ともつかない震えを帯びていた。「そうだ」祐一の胸に、言いようのない苛立ちと焦りが湧いた。「聞いているんだ。霧子は、両親をどこへ連れていった」「どこに連れていった、ですって……?」看護師は目を赤くし、椅子を鳴らして勢いよく立ち上がると、一冊のファイルを祐一の目の前に叩きつけた。「あなた、ずいぶん世間の情報に疎いんですね!3日前からネット中で大騒ぎになっているのに、今さら私に霧子さんの行方を聞くんですか!」祐一の視線が、そのファイルの表紙に落ちた。そこに記された文字が、鋭い刃のように目を刺した。【死亡退院記録】「どういう意味だ」祐一が、地を這うような低い声で尋ねた。祐一は鈍い音を立てて、そのファイルを乱暴に払い落とした。次の瞬間、彼は必死に平静を装い、冷ややかな視線を看護師に戻した。「もういい。霧子がお前たちにいくら握らせたんだ?俺の同情を引くために、両親の死亡
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第10話

耳の奥で、甲高い耳鳴りがした。祐一はその場に縫い付けられたように凍りついた。全身の血が、完全に流れを止めたかのようだった。「そんなはずが……」反射的に否定の言葉が漏れた。引きつった口元には、強張った笑みさえ浮かんでいた。「お前たちがグルになって俺を騙そうとしても無駄だ。あいつはあれほど痛みに弱かったんだ。自分から飛び降りるなんて、できるはずがない。今すぐ電話して確かめてやる……」震える手でスマホを取り出し、番号をタップする。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」無機質な自動音声が、静まり返った廊下に冷たく響いた。祐一の呼吸が急激に乱れ始めた。胸をハンマーで殴られたような衝撃に襲われ、うまく息ができない。彼は医師を乱暴に押しのけ、半狂乱になってエレベーターへ駆け込んだ。市立病院の地下2階、霊安室。扉をくぐった途端、肌を刺すような冷気が全身を包み込んだ。担当者は手元の書類を確認すると、無言で部屋の奥へ進み、並んだ保冷庫のうち一つを開けた。「高所から転落し、死亡が確認されています。警察による確認は終わっていますが、まだご遺族と連絡が取れていないため、こちらでお預かりしています」担当者は一度言葉を切り、重い口調で続けた。「損傷が激しく、顔だけで身元を確認するのは難しい状態です。どうか、覚悟をなさってください」祐一は冷たい台の前で、全身を硬直させたまま立ち尽くしていた。担当者の手で、白い布がゆっくりとめくられる。露わになった顔は大きく損傷し、もはや誰なのか見分けることすらできなかった。けれど、白い布の隙間からのぞく右手首には、見覚えのある赤いミサンガが巻かれていた。血を吸って赤黒く染まったミサンガの中央には、真っ二つに割れた小さな勾玉のお守りが結びつけられていた。その編み方を、祐一が見間違えるはずはなかった。17歳のあの年、霧子が夜を徹して、一目ずつ編み上げたものだった。「霧子……」祐一の両膝から完全に力が抜け、コンクリートの床に崩れ落ちた。その手に触れようと腕を伸ばすが、指先は風に揺れる枯れ葉のように震えていた。かつて白く華奢だった手首は、今や赤黒いあざと傷に覆われ、留置施設で踏みつけられた靴底の痕まで痛々しく残っていた。「違う……お前のはずがない……絶
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