LOGIN3年間アルバイトを続け、私、野秋霧子(のあき きりこ)は華原祐一(かはら ゆういち)の借金を肩代わりして完済した。父親のギャンブルで借金まみれになっていた彼を救い出し、学年トップ3にまで押し上げたのは私だ。 私たちは一緒にA大を目指すと誓い合った。そろって合格できたら、その日に婚姻届を出そう、と。 それなのに、事故に巻き込まれた次の瞬間、私は4年後の世界へと放り出されていた。 気づけば、私はA大の教務課の前に立っていた。廊下を吹き抜ける風は肌を刺すほど冷たいというのに、私の血は熱く滾っていた。 18歳のままの私は、胸いっぱいの喜びと未来への憧れを抱いてA大に足を踏み入れたのだ。何度も夢に見た。白衣姿で実験室に立つ祐一。教授に肩を叩かれ、称賛を浴びる祐一の姿を。 だが、応対に出た担当者は、私を見るなり戸惑いの表情を浮かべた。 「華原祐一?ああ、あの理系の逸材か。彼はうちには来ていないよ。第一志望を、もっと難易度の低い別の大学に変えたからね」 全身に冷水を浴びせられたような衝撃を受け、その場から一歩も動けなくなった。 A大といえば国内屈指の名門大学。そこに合格することだけを目指して、私たちがどれだけ夜を徹して勉強してきたことか。 彼がランクを下げた大学を選ぶはずがない。 私は顔から血の気が引いていくのを感じながら、スマホで祐一の名前を検索した。研究実績どころか、それらしい情報すら見当たらない。代わりに目に飛び込んできたのは、タイムラインに流れてきた話題の投稿だった。 【愛のために、人はどこまで犠牲になれるのか?】 最も多くの「いいね」を集めているコメントには、こう綴られている。 【彼の成績なら最高峰のA大に余裕で受かったはず。なのに私のそばにいるため、迷わず志望を変えたの】
View More半年後のある夜。医局に残り、複雑な術前評価書を作成していると、救命救急センターから緊急の電話が入った。「先生、車体の下敷きになった重症患者が搬送されました。胸部の大血管損傷が疑われ、緊急手術が必要です」私は即座に立ち上がり、手術着に着替えて手術室へ向かった。ストレッチャーに乗せられた患者は、すでに深い昏睡状態に陥っていた。看護師たちが慌ただしく術前準備を進めている。「身元は確認できましたが、ご家族とはまだ連絡がついていません」「自動車整備士らしく、車の修理中にジャッキが外れ、車体の下敷きになったそうです」無言のまま手術台へ歩み寄り、患者の顔を確認した。血にまみれていたが、その顔立ちには見覚えがあった。祐一だった。胸郭が大きく損傷し、折れた肋骨が肺を傷つけ、さらに胸部の大血管から大量に出血していた。極めて危険な状態だった。私はためらうことなく、手術に入った。「開胸の準備を」手術は、丸8時間にも及んだ。私たちは彼を、死の淵から引き戻した。最後の処置を終え、手術室を出た。マスクを外し、長く息を吐き出した。私は、彼を救った。愛からでも、憎しみからでも、前の人生で犯した罪を償う機会を与えたわけでもない。ただ、そのとき彼が手術台の上に横たわり、私は目の前の命を救う医師だった。それだけだった。祐一はICUで3日間管理された。全身状態が安定したあと、一般病棟へ移された。術後4日目の朝。私は数名の若手医師とともに、回診へ向かった。扉を開けると、祐一がベッドに力なく横たわっている。身体にはドレーンや点滴の管が繋がれていた。物音に気づき、彼がゆっくりと目を開ける。充血した目が、私の白衣と胸につけられた名札に定まった瞬間、瞳が大きく揺れた。涙がたちまち溢れ出し、目尻を伝って髪の中へと流れていく。「霧子……」震える唇を動かし、私の名を呼んだ。か細い声だった。私はベッドの足元まで歩み寄り、電子カルテの画面を確認した。「患者、華原祐一」背後に控える研修医たちに向かって告げる。「術後4日目。心拍数75、血圧は安定しています。ドレーンの排液量は減少し、血性も薄くなっています。感染徴候に注意し、処置を続けてください」若手医師たちが真剣にメモを取る。私は画面から目を
大学4年のとき、私は返済不要の奨学金を得て、念願の海外留学の準備を進めていた。旅立ちの日が近づいた頃、ふと思い立って母校に足を運んだ。校舎はきれいに改装され、グラウンドには真新しい全天候型トラックが敷かれている。静かな並木道を歩きながら、ふと18歳だったあの頃を思い出した。もしあの日、私が彼を拒まなかったら。もしまた、前の人生と同じ愚かな轍を踏んでいたら。私は立ち止まり、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。澄んだ空気には花の甘い香りだけが漂い、あの頃の教室に満ちていたチョークの粉の匂いは、もうどこにもなかった。そう、もう私の人生に「もし」は存在しない。私はすでに、あの底なしの泥沼から完全に抜け出したのだから。海外へと飛び立つ飛行機に乗り込んだ。機体が離陸した瞬間、窓の外に広がる街並みが小さく遠ざかっていくのを見つめた。これから先の人生で、あの息の詰まるような深い霧に包まれることは、二度とない。私の未来にはただ、どこまでも高く澄み切った、晴れ渡る青空だけが広がっている。医学部を卒業して医師免許を取得したあと、国内で初期研修と心臓血管外科の臨床経験を積み、海外でも研究を続けた。十数年後、私はその成果を携えて帰国した。国内トップクラスの医療水準を誇る大病院に迎えられ、心臓血管外科医として第一線に立つようになった。毎日複雑な手術をこなし、若手医師を指導する目の回るような日々だったが、心はこれ以上ないほど充実していた。両親の工場の経営も順調で、定期的な受診と治療を続けたおかげで、ふたりとも元気に暮らしていた。ある週末の穏やかな午後。珍しく手術の予定がなかった私は、両親を連れて市の中心部にある大きな公園を散歩していた。暖かな秋の日差しが心地よく降り注ぎ、涼やかなそよ風が頬を優しく撫でる。きらきらと光る人工湖に沿って歩いていると、母が童心に返ったような笑顔で、少し先の屋台を指差した。「霧子、見て。あそこでりんご飴を売ってるわよ。1本買いに行きましょう」「いいよ、買いに行こうか」私はすっかり元気になった母の腕を優しく支えながら、ゆっくりと前へ歩き出した。園路の曲がり角まで差しかかったところで、不意にひとりの男性の姿が視界の端に入った。色あせた濃いグレーの作業着を着ている。作業着には黒ずんだ機械油の染みがこびり
大学生活は、常に緊張の連続だったが、充実していた。1年生の後期、私は極めて優秀な成績を評価され、国内トップクラスの国立大学の研究室に、特別研究生として参加することを許された。大学2年の冬、厳しい寒さが続いていた。4時間に及ぶ細胞分離実験を終えた私は、手袋を外し、ロッカーからスマホを取り出した。高校時代のクラスのLINEグループに、100件を超える未読メッセージが溜まっている。画面を開くと、モザイク処理された生々しい写真とニュースのリンクがいくつも貼られ、同級生たちが盛んに議論を交わしていた。【みんなニュース見た?美樹が逮捕されたって!】【退学後、ずっと荒れた生活してたらしいよ。犯罪歴のある連中とつるんでいて、数か月前に特殊詐欺グループの一員として何百万円も騙し取って、一網打尽にされたんだって。今は拘置所にいて、裁判を待ってるらしい】続けて、新たなメッセージが立て続けに投稿される。【祐一のことも知ってる?一浪したのに、大学どころか専門学校にも受からなかったんだって】【完全におかしくなったらしいよ。地元の知り合いの話だと、毎日道端で通行人を捕まえては、「自分が妻と義理の両親を死なせたんだ」って言い続けてるって】【先月なんて、美樹が裁判所へ移送されるところを待ち伏せして、突然首を絞めようとしたんだって。警察官4人がかりで取り押さえたらしいよ】【傷害未遂として捜査されたけど、精神鑑定の結果、重い精神疾患があると分かって、今は市郊外の精神科病院に入院してるって】【病院の中でも毎晩ほとんど眠らず、隠し持っていたボールペンで病室の壁に物理の公式を何度も書き殴ってるんだって。壁の隙間という隙間が「霧子至上主義」の文字で埋め尽くされていて、看護師が止めようとすると、頭を壁に打ちつけて暴れるらしいよ】グループでは、驚きや戸惑いの言葉が飛び交っていた。かつて学年でもひときわ目立っていたふたりが、今や被告人と、重い精神疾患を抱える患者になっていたのだ。私は画面に並ぶ文字を静かに見つめた。今の私にとって、これらの知らせはもう、ネットニュースのゴシップを読んでいるのと同じ感覚でしかない。無表情のまま電源ボタンを押し、画面を暗くする。スマホを白衣のポケットに戻すと、流し台でハンドソープを使って念入りに両手を洗った。それから実
1月18日、大学入学共通テスト2日目。太陽は顔を出さず、厚い雲に覆われた空からは、今にも冷たい雨が降り出しそうだった。私は受験票と筆記用具を確認し、静かに試験会場へ足を踏み入れた。理科の問題冊子が配られる。試験開始の合図とともにページをめくった私は、深く息を吸い込んだ。見慣れた出題形式だった。あの地獄のような4年間を経験しても、私が積み重ねてきた知識や思考力までは奪われていなかった。鉛筆を握り、問題を解いては、解答用紙の該当する欄を迷いなく塗りつぶしていく。張り詰めた静寂の中、鉛筆が紙を擦るかすかな音だけが響いていた。同じ市内にある、別の試験会場。祐一は窓際の席で、小刻みに震える手で鉛筆を握っていた。うつむいたまま、物理の最後の大問をじっと見つめる。ごくりと唾を飲み込み、喉仏が大きく上下した。静まり返った教室には、他の受験生たちが鉛筆を走らせる音が絶え間なく響いている。そのとき、祐一は突然、握っていた鉛筆を机の上へ投げ出した。カタン、と乾いた音を立てて鉛筆が床へ転がり落ちる。試験監督が異変に気づき、歩み寄ってきた。すると祐一は両手で頭を抱え込んだ。呼吸はひどく乱れ、胸が激しく上下している。虚ろな視線は、白い問題冊子に貼りついたままだった。そこに並んでいたはずの黒い文字が、歪んだ視界の中で、市立病院の屋上から見下ろした血だまりと重なっていく。赤い。目に焼きついて離れない、鮮烈な赤だった。「大丈夫ですか?」試験監督が声を落として尋ねる。祐一は何も答えなかった。目を閉じれば、あの日の音が耳の奥によみがえる。身体がコンクリートに叩きつけられた、鈍く重い音。それは彼の心と身体に刻み込まれた、決して逃れることのできない死の記憶だった。祐一は、二度と鉛筆を拾わなかった。ただ抜け殻のように席へ座り続け、残り時間が過ぎていくのを待っていた。やがて、試験終了を告げる声が響く。祐一はほとんど白紙のまま、解答用紙を提出した。翌日、学校で自己採点が行われた。私の得点率は9割を超えており、担任も進路指導の教師も驚きを隠せなかった。この結果なら、第一志望への出願をためらう理由はなかった。私が志望したのは、A大学医学部医学科だった。その夜、実家では、共通テストを無事に終えた私をねぎらうた