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「愛する夫と部下の裏切り。絶望の海に沈んだ私は、地獄の淵で目を覚ます――」
◇
バキッ。
乾いた音が、頭蓋骨に響いた。
激痛よりも先に、世界が回る。 私の右足だ。「……あ、ぐぅ……ッ」
雨の叩きつけるクルーザーの甲板。
這いつくばる私の視界に、濡れて光る革靴が映る。 見上げると、夫・健太が蔑むような目で見下ろしていた。「汚ねえな。血でルブタンが台無しだ」
愛していた笑顔はそこになく、あるのは泥を見るような目。
「なんで……健太……」
ガチャリ。キャビンのドアが開く。
「パパぁ、もう終わりにしてよぉ。胎教に悪いじゃない」
現れたのは、私達の会社の秘書であり、妹のように可愛がっていた愛理。
彼女は傘もささず、ふっくらとしたお腹を愛おしそうに撫でている。「あか……ちゃん……?」
「先輩、気づかなかったんですかぁ? 健太さんの子ですよ。もう5ヶ月」
愛理はくすくすと笑い、私の顔をヒールの先で踏みつけた。
「先輩が不妊治療で泣いてる間、私たち、この船でずーっと『種付け』してたんですよぉ」
「……あぁぁぁぁぁぁ!!」
喉が裂けるほどの絶叫。
それを遮るように、健太が私の髪を掴み上げる。「うるせえな。……ああそうだ美咲、冥土の土産にいいことを教えてやる」
健太の口が、私の耳元に近づく。腐った生ゴミのような息。
「先月死んだお前の親父……心不全だったよな?」
最愛の父。まだ癒えぬ最大の悲しみ。
「あれ、俺が薬をすり替えたんだ」
心臓が止まる。
「遺産相続の手続き、待つの面倒くさかったからさぁ! ギャハハ!」
「社長ったら、悪い人ぉ〜(笑)」こいつらは、人間じゃない。
涙が蒸発し、腹の底からドス黒いマグマが噴き出す。「……殺してやる……お前ら……全員……!!」
「あーあ、怖い怖い。じゃあな、俺のATM!」
二人が私の体を持ち上げる。宙に浮く体。
「バイバイ。来世では幸せになってねぇ!」
ドボンッ!!
冷たい博多湾が、私を飲み込んだ。
暗い。寒い。苦しい。 水面の上から、こもった嘲笑が遠のいていく。(許さない……絶対に許さない……)
薄れゆく意識の中で、私は誓った。
神になど祈らない。 もし地獄から這い上がれるなら、私は悪魔にだって魂を売る――。◇
「……おい、起きろよ」
頬を叩く感触。
ガバッ、と息を吸い込んで目を開けた。「かはっ……! はっ、はっ……!」
溺れた時のように、喉がヒューヒューと鳴る。
シーツを握りしめる手が、脂汗で滑る。 目の前に、男の顔があった。「なんだよ、うなされて。すごい汗だぞ」
健太だ。
パジャマ姿で、歯ブラシをくわえながら、不思議そうに私を覗き込んでいる。「ひっ……!」
反射的に後ずさりし、ベッドから転がり落ちた。
全身の震えが止まらない。 殺される。また海に落とされる。「おいおい、情緒不安定だな。今日は大事な日だぞ」
健太が呆れたように言った。
「『事業承継の調印式』だろ? 親父さんも待ってるぞ」
え……?
親父さん(父さん)が、待っている? 父は先月、殺されたはずじゃ……。震える手で、枕元のスマホを掴む。
画面の日付が、青白く光る。『2025年2月14日』
父が死ぬ、3ヶ月前。
私が殺される、1年前。 そして……健太が会社を乗っ取る、運命の日。「ほら、立てよ。愛してるよ、美咲」
健太が手を差し伸べてくる。
さっき私を蹴り上げ、父を殺したと笑った、その手だ。 吐き気が喉までせり上がる。「ウッ……!!」
私は口元を押さえ、洗面所へ駆け込んだ。
「オエッ……!! ゲホッ……」
胃液を吐き出し、顔を上げる。
鏡の中の顔色は土気色だが、傷はない。足も折れていない。戻ったのだ。
あの地獄の始まりの日に。ガチャガチャとノブが回される。
「美咲? 大丈夫か?」
健太の猫撫で声がする。
私は蛇口を全開にして水を出し、その声をかき消した。
タオルで乱暴に口を拭う。 鏡の中の自分と目が合う。泣いてはいない。
私の瞳孔は開き、爬虫類のように冷たく光っていた。父さんはまだ生きている。
そして、ドアの向こうには、これから私を殺す男がいる。鏡の中の私が、ニヤリと、口角を歪めた。
「……待っててね。今度は私が、地獄を見せてあげる」
「行政の目を塞ぎ、天神の地下利権を完全に丸呑みした夜。私が味わう勝利の美酒は、最高に芳醇で、鉄の味がした」◇ 十一月二十日、深夜。 福岡・天神のペントハウス。 下界の喧騒から完全に隔絶されたこの最上階の密室には、極上の静寂と、温度管理された心地よい空気が満ちていた。 分厚い防音ガラスの向こう側には、光の海のように煌めく天神の夜景が広がっている。天神ビッグバンによって生まれ変わろうとしているこの巨大な都市の心臓部は、今、完全に私の掌の内にあった。 私は、最高級のバカラのグラスを指先で優雅に揺らしながら、深い真紅のワインを口に含んだ。 芳醇なベリーの香りと、熟成されたタンニンの渋みが舌の上で転がり、喉の奥へと滑り落ちていく。 私の足元では、かつて私を「地方の泥水」と嘲笑った純白のエリート、結城絢乃が、微かな寝息を立てて丸まっていた。彼女は今や、私の命令なしでは呼吸すらできない、完全に調教された絶対服従の飼い犬だ。 窓の下の街頭では、まだ空虚な熱狂が続いているのだろう。 十三人もの候補者たちが乱立し、誰も有効得票の二十五パーセントに届かなかった前代未聞の市長選。彼らは今、組織の梯子を外され、莫大な追加資金と疲弊の泥沼の中で、互いに疑心暗鬼に陥って殺し合っている。 私はその機能不全の泥沼に数人の傀儡を放り込み、市役所の行政手続きを完全に麻痺させた。 そして、その完璧な「権力の空白」を突き、高柴前市長が遺した天神ビッグバンの最深部――莫大な価値を生む地下空間の独占譲渡契約を、誰にも気づかれることなく私のダミーファンドへと書き換えたのだ。 自分の知略と圧倒的な悪意だけで、福岡という巨大な盤面を完全に制圧した。 人間の保身とエゴを弄び、すべてを思い通りに動かす、この絶対的な万能感。 私は、窓ガラスに映る自分の姿――冷徹で、美しく、すべての感情を削ぎ落とした女王の微笑みを見つめ、底知れぬ自己愛の絶頂に酔いしれていた。◇「……女王様」 極上の静寂を切り裂くように、背後の重厚な扉が開いた。 現れたのはクォンだった
「一億七千万円の祭壇がゴミと化した街で、私は行政という名の『盲目の肉壁』を背に、極上の果実を静かに丸呑みにした」◇ 十一月十九日。 天神交差点を見下ろす、私のダミーファンドが所有する真新しいオフィスビルの最上階。 分厚い防音ガラスの向こう側では、冷たい秋風が吹き荒れる中、今日も街頭の熱狂が続いていた。十三人の候補者が入り乱れ、誰一人として二十五パーセントの有効投票に届かなかった狂乱の市長選。その結末がもたらした「再選挙」という泥沼の中で、新興勢力たちは未だに自分たちが主役であると錯覚して叫び続けている。「――福岡の未来を、今度こそ我々の手に!」「――クリーンな政治を取り戻しましょう!」 拡声器から放たれる、空虚で耳障りな綺麗事。 私は、空調の完璧に効いたVIPルームのソファに深く腰掛け、氷の入った冷たいペリエのグラスを指先で弄びながら、その滑稽な景色をねっとりと見下ろした。 (あはっ……本当に、救いようのない馬鹿どもね) 大衆は、自分たちの一票がこの街の未来を決める権利だと信じ込んでいる。だが、あのベニヤ板で作られた一億七千万円の巨大な祭壇の前で踊り狂っている彼らは、ただの安上がりなエキストラに過ぎない。 本当の権力というものは、あんな白昼堂々の騒音の中ではなく、こうして静寂に包まれた冷たい密室の底で、音もなく決着するものなのだ。 ブルルルルッ。 手元のスマートフォンが、低く震えた。「……ごきげんよう、先生。市役所の空気はどうかしら?」『……さ、佐藤社長。ご指示の通り、再開発に関するすべての許認可フローと、外部からの監視体制を完全にストップさせました。……これで、数日間は誰も天神の地下プロジェクトの書類にはアクセスできません……』 電話の向こうから聞こえてくるのは、前夜、私が分厚い裏金という名の『新しい首輪』をはめ、愛人問題の証拠で完全に脅し上げた有力候補の中年男の声だ。
「泥水の中で差し出された札束を『蜘蛛の糸』だと錯覚した豚の絶望ほど、最高に芳醇なワインのつまみはない」◇ 十一月十八日。 外部の喧騒を完全に遮断した、天神の最高級ホテルのスイートルーム。 分厚い防音扉と幾重にも重ねられた豪奢なカーテンが、この空間から時間感覚さえも奪い去り、ただ空調の低く無機質な稼働音だけが、耳の奥底にへばりついていた。 分厚い防音ガラスの眼下には、機能不全に陥ったまま無意味な熱狂を続ける天神の交差点が広がっているはずだが、この密室には一滴のノイズも届かない。一億七千万円のポスター掲示板が雨に打たれ、泥水にまみれていく滑稽な景色を背に、私は優雅にソファへ深く腰を下ろしていた。「……これで、間違いないですね」 大理石のテーブルの向こう側で、脂汗にまみれた初老の男が、万年筆を持つ手を震わせながら、分厚い書類の最後のページにサインを書き終えた。 十三人もの候補者が入り乱れ、誰一人として法定得票の二十五パーセントに届かなかった、あの狂気じみた市長選。その乱立劇の中で、所属政党から「推薦見送り」という形で無惨に梯子を外され、資金も気力も完全に底を突いた有力候補の一人。 男は、自分の名前を書き終えた途端、憑き物が落ちたように深い安堵の吐息を漏らした。「ああ……助かった。これで、数日後の再選挙も戦える。事務所の連中にも、ようやく顔向けができる……」 男は、テーブルの端に置かれたジュラルミンケース――帯封のついた真新しい一万円札の束が敷き詰められた黒い箱――を、まるで神棚を拝むような卑しい目で見つめている。真新しい紙幣のインクの匂いが、男から発せられる加齢臭と脂汗の不快な臭いを微かに上書きしていた。 私は、手元に置かれた冷え切ったペリエのグラスを指先で弄びながら、その滑稽な姿を冷たい視線で観察した。 彼は本気で、私が差し出したこの黒い資金を、自分を泥沼から救い出してくれる「蜘蛛の糸」だと信じ込んでいるのだ。自分は市民のために戦う選ばれた人間であり、この一時的な裏金も、最終的
「一億七千万円の祭壇がゴミの山へと変わった翌日、私は絶望という泥水で溺れる亡霊の元へ、極上の首輪を届けに向かった」◇ 十一月十七日、夜。 冷たい秋の雨が、天神の裏通りに建つ古びた雑居ビルの窓ガラスを黒く濡らしている。 数日前まで、この一室はけたたましい電話のコール音と、ボランティア運動員たちの熱気、そして「高柴市政の継承」という空虚な熱狂で満ち溢れていた。 だが今、蛍光灯が半分消えかかった薄暗い事務所の中に、活気は微塵もない。壁に貼られたままの「必勝」のダルマや、十三人もの候補者がひしめき合った一億七千万円のポスター掲示板の縮小コピーが、まるで葬式が終わった後の祭壇のように空虚な残骸として壁に張り付いている。 部屋の片隅に置かれたパイプ椅子。そこに力なく腰掛け、両手で頭を抱え込んでいる初老の男こそが、あの狂騒の市長選で、見事に泥水へ叩き落とされた「有力候補」の一人だった。 私は、事務所の入り口の深い影に溶け込みながら、その無様な背中をねっとりと観察した。「市民党として戦う」 「自主支援で臨む」 そんな耳障りのいい美辞麗句を並べ立て、強大な政党や労働組合の幹部たちはあっさりと彼の梯子を外した。十三陣営の乱立という異常事態の中で、自分たちの保身だけを優先し、「推薦見送り」という形で彼を暗闇の荒野へと放り出したのだ。 資金も尽き、頼みの綱だった巨大な組織の後ろ盾も失い、たった一人で「再選挙」という底なし沼に取り残された男。彼の脳髄は今、数日後に迫る再選挙へ向けた莫大な追加資金の工面と、すべてを失う社会的な死の恐怖でドロドロに溶けかかっているはずだ。 私は、足元で息を殺して待機していた結城絢乃の背中を、ヒールの先で軽く小突いた。「……はい、女王様」 絢乃は、私にしか聞こえない微かな声で答え、ゆっくりと暗がりから蛍光灯の下へと歩み出た。 仕立ての良い純白のスーツ。かつて中国の巨大資本を背に、ダボス会議帰りのグローバルエリートとしてこの街のメディアを席巻した輝かしい彼女の面影は、その完璧な姿勢にだけ残っている。 だが、男の前に
「すべての勝者が消え去った泥水の玉座で、私は冷え切ったワインを飲み干し、次なる獲物たちの這いずる音を待っていた」◇ 十一月十六日、早朝。 極上の静寂に包まれた西中洲のペントハウスに、秋の冷たい朝日が射し込み始めていた。 分厚い防弾ガラスに額を押し当てると、暖房の効いた室内とは対照的な、氷のような冷気が皮膚を刺す。私は、昨夜から飲みかけのまま放置されていたバカラのグラスを手に取り、生温かくなった赤ワインをゆっくりと喉に流し込んだ。 眼下に広がる天神の街は、まだ白々とした薄明かりの中で眠っているように見える。 だが、昨夜のあの狂騒の余韻は、街のあちこちにドス黒い染みのようにこびりついていた。「……本当に、救いようのない滑稽な喜劇ね」 私は、喉の奥でクスクスと笑い声を漏らした。 過去最多、十三人もの候補者が乱立した福岡市長選。 大衆を熱狂させ、憎悪を煽り、綺麗事を喚き散らしたその結末は、「誰一人として有効投票の二十五パーセントに届かない」という、前代未聞の完全な機能不全だった。 当選者なし。再選挙。 街頭に立ち並ぶ、一億七千万円もの血税を注ぎ込んで急造された巨大なポスター掲示板。十三人の偽物の笑顔が並ぶその板切れは、一夜にして「誰の願いも叶わなかった、ただの巨大なゴミ」へと姿を変えた。 大衆の熱狂を吸い上げて燃え上がった無人の祭壇は、今や秋の冷たい風に吹かれ、惨めな残骸を晒している。 自分が絶対的な勝者になると信じて疑わなかった者たちが、一瞬にして足元をすくわれ、泥水の中に叩き落とされる瞬間。 その光景を安全な高みから見下ろすことほど、私の内側を満たしてくれる極上のデザートはない。◇「……んっ……」 不意に、足元の高級なペルシャ絨毯から、微かな寝息と身じろぎする音が聞こえた。 視線を落とす。 そこには、純白のシルクのネグリジェを身に纏い、私の足首に縋り付くようにして丸まっている結城絢乃の姿があった。 かつて、北京の清華大学を修了し、ダボス会議帰りのグローバルエリートとして、私を「地方の泥水」と見下していた女。 完璧な知性とクリーンな笑顔で大衆を魅了し、中国の巨大資本を背景にこの街を丸呑みしようとしていた絶対的な刺客。 その彼女が今、私の足元で、温もりを求める捨て犬のように無防備な寝息を立てている。 私は、素足のつま先で、絢乃
「すべての勝者が消え去った泥水の底で、私はただ一人、冷え切った玉座に腰を下ろしていた」◇ 十一月十五日、夜。 西中洲のペントハウスは、すべての照明が落とされ、深い静寂と冷たい闇に包まれていた。 広大なリビングで唯一の光源となっているのは、壁に掛けられた巨大な液晶モニターが放つ、無機質な青白い光だけだ。『――開票速報です。福岡市長選は、立候補した十八人の候補者全員が、当選に必要な法定得票数である有効投票の二十五パーセントに届かないことが確実となりました。これにより、極めて異例となる再選挙が行われる見通しです』 画面の中で、アナウンサーが上ずった声で原稿を読み上げている。 私は、最高級の革張りソファに深く身を沈めながら、その滑稽な結末を、ただ薄暗い窓ガラス越しに見下ろしていた。 眼下に広がる天神の街は、雨上がりの湿った空気に沈み、ネオンの光が黒いアスファルトに滲んで反射している。 数時間前まで、あの交差点には何千人もの大衆が群がり、名を連呼する選挙カーの爆音に酔いしれていた。一億七千万円もの血税を注ぎ込んで急造された、巨大なベニヤ板のポスター掲示板。そこに顔を並べた十八人の亡霊たちは、「次の世代へタスキをつなぐ」と空虚な言葉を喚き散らし、自分こそがこの街の救世主だと信じて疑わなかった。 だが、蓋を開けてみればこのザマだ。 誰も勝者はいない。誰も王にはなれない。 権力の空白という巨大な幻影に踊らされ、互いの足を引っ張り合った結果、残されたのは「誰も選ばれなかった」という底知れぬ徒労感と、宙に浮いた莫大な行政コストだけ。 テレビの画面には、万歳三唱の準備をしていた各陣営の事務所で、信じられないものを見たかのように頭を抱え、呆然と立ち尽くす運動員たちの姿が次々と映し出されていた。「本当に、救いようのない馬鹿騒ぎね」 私は、手に持っていたクリスタルグラスの氷をカランと鳴らし、喉の奥で静かに息を吐き出した。 彼らは何も分かっていない。 この無意味な再選挙という泥沼すらも、すでに失脚した高柴という一人の老害が、自分の保身と裏契約のために仕掛