All Chapters of これより先は、それぞれの道へ: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

私、高瀬美緒(たかせ みお)は、スーパーで周防綾人(すおう あやと)という男の子にぶつかられ、妊娠中のお腹を強く打たれた。あまりの痛みに、その場に座り込んだまま立ち上がれない。「お……夫に電話して……」周防麗奈(すおう れな)という女性は綾人の頬を叩くと、私のスマホを拾い、謝りながら連絡先の【夫】を探した。けれど、何度かけても夫は出なかった。「落ち着いて。うちの夫を呼びますから……」麗奈が自分のスマホから夫へ電話をかけると、呼び出し音が1回鳴っただけですぐにつながった。「あなた!また綾人が問題を起こしたの!会議はいいから、早く来て。この子が妊婦さんにぶつかったの!」10分後。遠方へ出張中のはずの夫、周防安人(すおう やすと)が現れた。安人はまず赤く腫れた綾人の頬に目を留め、心配そうに眉を寄せて辺りを見回した。「だからって、綾人を叩くことないだろ。いったい誰にぶつかったんだ……」私と目が合った瞬間、彼の声は途切れた。……せっかく買った特売の野菜が、床一面に散らばっていた。散らかった床に座り込んだ私は、使い古した買い物袋を握りしめていた。着古して色あせたワンピースも、すっかり汚れている。身なりのいい安人が目の前に立つと、私の惨めさがいっそう際立った。私は呆然と安人を見つめたまま、胸をよぎるいくつもの感情を、どう言葉にすればいいのか分からなかった。「あなた、早く妊婦さんを病院へ連れていって。かなり強く転んだみたい」麗奈は安人をせかすと、私に向き直った。「本当にごめんなさい。この子は小さい頃から甘やかしてしまって、外でも周りを見ずに好き勝手に走り回るんです」麗奈は革のバッグを開けると、分厚い札束を取り出し、私の手に押し込んだ。「今日はこれしか持ち合わせがなくて……ひとまず、こちらを受け取ってください。安人」そこでようやく、安人は我に返って麗奈を見た。「何だ?」「名刺を渡してあげて。あとで何かあったら、私たちに連絡できるように」私は安人から目を離せなかった。目の奥は乾いて痛み、下腹部の激痛は、いつしか痺れるような感覚に変わっていた。「安人……」声が喉に引っかかった。その先の言葉は、こみ上げる嗚咽に塞がれた。「知り合いなの?」と麗奈が尋ねた。安人は
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第2話

私は深夜まで、ソファに座り込んでいた。玄関が開き、安人が食材の入った大きな袋を提げて帰ってきた。「夕飯、食べたか?」私は答えなかった。安人は冷蔵庫からラップのかかった残り物を取り出し、中身も見ずに器ごとゴミ箱へ捨てた。「こんな栄養のないもの、もう食べるな。家事代行と栄養士を雇う。生活費は毎月200万円。俺の家族カードも渡す。これからはもう、貧乏暮らしをしなくていい。欲しいものは何でも買ってやる。それでいいだろ?」それまで安人が渡していた生活費は月6万円で、給料の半分だと彼は言っていた。私は毎日チラシを見比べ、安い店を何軒も回り、スーパーの特売品を選んで買っていた。いつか2人の家を買うため、少しでも貯金を増やそうと毎晩遅くまで内職をし、そのまま朝を迎えることも珍しくなかった。目がかすむほど働き続けたのに、人を見る目まで曇り、毎晩隣で眠る夫の本当の顔さえ見抜けていなかった。「ほかに何を隠しているの?」安人は体をわずかにこわばらせたが、何も答えず、そのままキッチンへ入っていった。私は、彼がソファに放り出したスマホを手に取った。私がこれまで一度も中を見たことがなかったからか、安人はパスコードすら設定していなかった。私は片っ端からSNSを開いていった。そこで、私の名前が【家事代行】と登録されていることに気づいた。胸の奥が、すっと冷えた。さらに探すと、ようやく【妻】と登録された相手を見つけた。今日、スーパーで会った麗奈だった。彼女のプロフィールには写真が何枚も並び、そのほとんどに安人も写っていた。安人が出張だと嘘をついていた間、彼は麗奈と旅行へ出かけていた。私が虫垂炎で入院し、痛みでベッドから起き上がれなかったときも、彼は麗奈と高級リゾートホテルで休暇を楽しんでいた。安人のスマホはずっと電源を切られたままで、電話もつながらず、メッセージにも返事はなかった。結局、私は1人で無理に退院手続きを済ませ、帰宅してから何日も寝込み、その数日で体重は5キロ以上も落ちた。それなのに、帰ってきた安人が最初に口にしたのは、こんな言葉だった。「仕事中なのに、なんでこんなに何度も連絡してくるんだ?見る暇なんてないんだ」私は仕事で忙しい彼を気遣い、それからは心配をかけまいと、つらいことが
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第3話

電話の向こうはしんと静まり返り、数秒後、重い呼吸だけが聞こえてきた。ちょうどキッチンから出てきた安人は、私が電話をしているのを見るなり慌ててスマホを奪い取り、画面に残る通話履歴を見た瞬間、顔から血の気が引いた。「お前、何を考えてるんだ!」「私が間違ってる?」私は安人を見据えた。「何年も私に隠れて浮気を続け、子供までいる。どうして私が問いただしちゃいけないの?よそに家庭をつくる度胸があったなら、認める覚悟も持ちなさいよ!」そのとき、麗奈から電話がかかってきた。安人は苛立ったように髪をかき上げ、電話に出ることも切ることもできず、固まっている。私は彼の手からスマホを取り返し、通話ボタンを押した。「あなた、誰なの?」麗奈が先に口を開いた。「それは、こちらの台詞です。周防安人とずっと一緒にいたのなら、まずあなたから説明するべきではありませんか?」電話の向こうで、麗奈が一瞬黙った。「もちろん、安人に家庭があることは知っているわ」心臓が大きく跳ね、続く麗奈の言葉に息が止まった。「だって私は、彼の初恋の相手で、戸籍上の妻だから。あなたは、どんな立場で私に電話しているの?」頬を思いきり殴られたようだった。熱を持った痛みが広がり、耳の奥で音が鳴り続ける。初恋の相手。戸籍上の妻。人に知られてはいけない存在だったのは、私のほうだった。手が震え始め、涙が止まらない。息もうまくできず、大きく口を開けて必死に空気を吸い込んだが、悲しいのか、絶望しているのか、自分でももう分からなかった。これまでの記憶が、次々と脳裏をよぎった。狭いアパートで、安人が自分の上着を脱ぎ、冷えた私の足を包んでくれた夜。建設現場の日雇いで稼いだお金を握りしめ、帰りに特売のアイスを買ってくれた日。結婚式を挙げる余裕はなく、私は自分で縫った白いワンピースを着て、2人で用意したささやかな指輪を交換した。安人を信じ、愛し、支え続け、絶対に裏切らないとも誓った。けれど安人は、安っぽい嘘だけで、私のかけがえのない青春と愛情を奪ったのだ。「どうして……安人、どうして……どうして!どうしてなの!」最後は、ほとんど叫び声になっていた。安人は画面の消えたスマホをソファへ投げた。天井や床に視線をさまよわせるばかりで、決して
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第4話

私は我を忘れ、手当たり次第に物をつかんでは安人へ投げつけ、彼が作ったばかりの料理まで皿ごとつかみ、熱さも構わず浴びせかけた。立ち上る湯気が、2人の間に白く立ちこめた。もう、安人の本心が何一つ分からない。「出ていって!今すぐ出ていってよ!絶対に許さない!」安人は、言いたいことをのみ込んだような顔で黙り続けていた。せめて、ほんの少しでも後悔していて、私との将来を真剣に考え、一度でも私と籍を入れようと思ってくれていたのなら、ここまで打ちのめされずに済んだかもしれない。私は最初から最後まで、使い捨てられるだけの存在。安人が本来の人生を取り戻すまでの単なるつなぎでしかなかったのだ。周防家の御曹司として生きる彼の人生に、私の居場所は初めから用意されていなかった。「よくも……よくも私の人生を踏みにじったわね!」安人は眉間を押さえ、熱い料理を浴びて赤くなった顎を引きつらせながら、明らかに苛立っていた。安人は財布からブラックカードを抜き取り、私の前へ投げつけると、「今は少し落ち着け。しばらくしたら、また来る」と言い残し、玄関へ向かった。玄関まで行った安人は足を止め、背を向けたまま付け加えた。「俺が悪かった。できる限りの償いはする。でも、これ以上、麗奈に連絡するのはやめてくれ。妻を困らせないでほしい」大きな音を立てて、玄関のドアが閉まった。私は散らかった部屋の中に座り込み、一睡もできないまま朝を迎えた。空が白み始めた頃、ようやく自分のスマホを見つけると、普段はほとんど投稿しない安人がSNSを更新していた。【何気ない日常が、いちばん幸せ】写真には、安人が私にもよく作ってくれたオムライスが写っていた。その横には、大きな手と小さな手が寄り添うように並び、どちらの薬指にも結婚指輪が光っていた。麗奈を安心させるために私へ見せつけたのか、それとも、もう隠す必要などないと思っただけなのか。すぐに安人からメッセージが届いた。【麗奈は事情を受け入れてくれた。もう怒るな。妊娠中なんだから、体に障る。これからは週に1回、必ず会いに行く。それでいいだろ?明後日は俺たちの結婚記念日だ。欲しいものはあるか?それとも、俺がサプライズを用意しようか?】胸の内で荒れ狂っていた感情はすっと消え、もう何も感じなかった。私
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第5話

私は麻酔がまだ残る体で、手術後の書類さえうまく持てないまま、エレベーターの前に立っていた。到着を知らせる音とともに扉が開いたが、誰も降りてこない。顔を上げると、綾人の手を引く麗奈と、その肩を抱く安人に目が合った。綾人が私を指さした。「お母さんを泣かせたのは、あんただろ!あんたなんか死ねばよかったんだ!この悪い女!うちの家族を壊すな!お父さんは昨日、あんたを絶対に家族にはしないって約束したんだから!」麗奈は綾人へ静かに視線を向けるだけで、止めようとはしなかった。安人は綾人の服をつかみ、厳しい声で叱った。「何てことを言うんだ。外では礼儀をわきまえろって教えただろ」「安人」麗奈は綾人をかばうように抱き寄せた。「そんなに怒らなくてもいいでしょう。子供の言うことよ。赤の他人のために、そんなに怒らなくてもいいでしょう?」安人は唇を結んで綾人から手を離し、私へ視線を向けた。けれど私はとっくに顔をそらし、目の前の家族を見たくも、声を聞きたくもなかった。「先に綾人を連れて、車で待っていて。上に忘れ物をしたから、取ってくるわ」麗奈はそう言って、エレベーターの中へ戻った。安人は複雑そうな顔でもう一度私を見たが、何の反応も示さない私に小さくため息をつき、綾人を連れて立ち去った。私は12階のボタンを押した。麗奈は私の後ろに立ったまま、何も言わない。エレベーターが到着する直前、ようやく彼女が口を開いた。「あなたのことは調べさせてもらったわ。高瀬美緒、35歳。両親はすでに亡くなり、定職にも就いていない。子供の頃から、誰にもまともに愛されずに育った」麗奈は鼻で笑った。「少し優しくされただけで、寄生虫みたいに相手へしがみつくのね。安人があなたにつけ込まれたのも、自業自得かもしれないわ」体がこわばった。私は顔を上げ、手入れの行き届いた麗奈の顔を冷たくにらんだ。「口の利き方には気をつけてください」麗奈と言い争うつもりはなかった。安人に執着している女だと、これ以上決めつけられたくもない。扉が開くと同時に、私は外へ出た。麗奈もすぐ後ろからついてくる。「妊娠しているんでしょう?」彼女が尋ねた。「1億円払うわ。その子をおろして。うちの子と財産を奪い合うような婚外子は、残したくないの
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第6話

ガラスの容器が大理石のテーブルに置かれ、キャンドルの光が中にある小さな姿をはっきりと浮かび上がらせた。安人の笑顔が凍りついた。つり上がっていた口角はゆっくりと下がり、やがて抑えきれないように震え始める。大きく見開かれた目には激しい驚愕が浮かび、呼吸さえ止まっている。「美緒、今、何て言った……?それは……いったい何なんだ……」私は口元をゆがめた。喉から漏れた笑い声には、痛みと憎しみしか残っていない。「安人、私たちの子供よ……私と安人の子供……」2年間、妊娠を願い続け、ようやく授かった子だった。少しでも豊かな暮らしをさせたくて、私は食費まで切り詰めた。まだ家を建てる前から、いつか子供部屋をつくり、3人で暮らす未来を思い描いていた。私の子供。安人との子供。その命は、冷たい手術台の上で消えた。私は泣きながら笑った。自分でも、正気ではないことくらい分かっている。ガラスの容器を安人の胸元へ押しつけた。「安人、うれしくないの?もう二度と安人に付きまとわない。自由にしてあげる。麗奈さんとの家庭を壊したりもしない!笑ってよ。どうして笑わないの?喜ぶべきことでしょう……うれしくないの……?」安人が勢いよく立ち上がった。容器は彼の手を離れ、床へ落ちると、テーブルの下まで転がっていった。安人は頭を殴られたように、ふらふらと後ずさった。膝を椅子の角に強くぶつけても、痛みすら感じていないようだった。「どうしてだ……?美緒、どうしてそんな残酷なことができるんだ!どうして、俺たちの子供を殺した!」安人は、私がこれまでの情に引きずられ、6年間の思い出があるから子供だけは残すと信じていたのだろう。高級車やマンションを与えれば、すべての嘘をなかったことにでき、私は何の立場も与えられないまま、誰にも知られず、これまでどおり彼のそばにいるはずだと思っていた。けれど安人は、私がここまできっぱりと別れを選び、彼にとって都合のいい未来を自分の手で壊すとは考えていなかった。「安人が憎いからよ!」私は声の限り叫んだ。「大嫌い!心の底からあなたが憎い!もう二度と関わりたくない!この先一生、あなたとの縁が切れないなんて、考えただけで眠れなくなる。気持ち悪いの!本当に耐えられない!分からないの?」レストランの中が、静まり返った。
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第7話

店内のただならぬ空気を察した店員たちは、次々とバックヤードへ下がり、スマホを取り出して撮影を始めた。安人はようやく我に返り、勢いよく顔を上げた。その目は赤く充血している。「一つの命だったんだぞ、美緒!償うと言っただろ!車でもマンションでも金でも、欲しいものは全部やる。それなのに、どうして子供まで巻き込んだ!どうして、そんなに残酷になれるんだ!」安人はテーブルの縁を強くつかみ、力の入った指の関節を白く浮き上がらせた。私の涙はもう枯れていた。バックヤードからこちらをうかがう店員たちへ目を向け、かすれた声で頼んだ。「……料理を、運んでもらえますか」店員は一瞬ためらったものの、用意していた料理を急いで運んできた。和牛のステーキ、ポタージュ、フォアグラ。高価なコース料理が次々とテーブルへ並び、香りが店内に広がったが、その華やかさは重く沈んだ空気にあまりにも不釣り合いだった。私はナイフとフォークを手に取り、自分でも驚くほど落ち着いた動作で皿の上のステーキをゆっくり切った。この6年間、食費を削り、満足に食べられなかった分まで、今ここで取り戻したかった。何事もなかったように食事を続ける私を見て、安人の怒りはさらに膨らんだ。「こんなときに、よく食べられるな!美緒、お前には心がないのか!」問い詰める声には怒りと絶望が混じり、その奥には、安人自身も気づいていない焦りがにじんでいた。私は手を止め、何の感情も残っていない目で、静かに安人を見上げた。「安人には妻がいて、子供がいて、帰る家もある。私の子供が亡くなったところで、安人にとっては厄介事が1つ片づいただけ。悲しむふりなんてする必要はないわ」安人の顔色が目まぐるしく変わった。「そんな言い方はあんまりだろ。お前と子供が邪魔なら、とっくに理由をつけておろさせていた。今さら……」私はまだ湯気の立つポタージュの器を持ち上げ、ためらうことなく安人の顔へ浴びせた。熱いスープが頬から首元へ流れ落ち、安人は目を見開いたまま、その場で凍りついた。そのとき、レストランの扉が勢いよく開いた。
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第8話

麗奈は綾人の手を引いて慌ただしく店内へ駆け込み、スマホを強く握りしめたまま、怒りをにじませた目で私たちのテーブルへ向かった。「2人とも、いったい何をしているの!」麗奈はスマホをテーブルへ叩きつけた。「この写真、もうネット中に出回ってるのよ!ニュースサイトにも載ってる!安人、私という妻がいるのに、いったい何をしているの!今じゃ、私は世間中の笑いものよ!」麗奈は涙を浮かべ、私を激しくにらんだ。「高瀬美緒、少しは恥を知ったらどうなの!ここまでされても安人につきまとって、私たちの家庭を壊さないと気が済まないの?いっそ死んでよ!」麗奈は泣きわめき、すっかり冷静さを失っていた。そこに、普段の上品で穏やかな姿は残っていない。母親の剣幕につられて興奮した綾人は、父親のひどい姿を見るなり、怒った顔で私をにらんだ。「悪い女!お父さんを取るな!やっつけてやる!」綾人は叫びながら麗奈の手を振りほどいて私へ突進し、その勢いのまま両手で強く押してきた。私はよろめきながらもどうにか踏みとどまり、もう一度向かってきた綾人の肩に手を添えて体を横へずらした。勢い余った綾人は足をもつれさせ、足首をひねって床へ激しく転んだ。「うわああん!」綾人の大きな泣き声が、レストラン中に響き渡った。麗奈はすぐに綾人へ駆け寄って、その体を抱きしめた。「大丈夫よ。お母さんが守ってあげるからね。誰にも傷つけさせないわ……」そう言った直後、麗奈は私の前に膝をついた。「高瀬さん、お願い。土下座でも何でもするから、私たちを放っておいて。家庭を壊さないで。綾人を傷つけないで。安人と綾人は、私のすべてなの。お金なら、いくらでも払う。全財産を失っても構わないから、もう安人につきまとわないで。家族3人で静かに暮らさせて……お願いよ……」麗奈が本当に床へ額をつけようとした瞬間、顔色を変えた安人が駆け寄り、その体を抱き起こした。「麗奈!」麗奈は胸元を押さえ、息をするのも苦しそうに涙を流した。「安人、私はもう、この人の顔を見るのも耐えられない。お願いだから、二度と私たちの前に現れないようにして……本当につらいの。安人が初めて愛したのも、結婚したのも私でしょう。あなたの隣にいるのは、最初から最後まで私だけのはずよ。この人なんて、あなたにとって何でもないで
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第9話

安人は壊れ物を扱うように麗奈を抱き寄せ、綾人を連れて店を出ていった。家族3人の姿が廊下の角へ消え、散らかった店内には私1人だけが残された。揺れるキャンドルの光が、床に散った食器の破片を照らしている。テーブルの下には、店の隅まで転がったガラスの容器があった。それは、まるで価値のないものとして捨てられた私の6年間そのものだった。私はそれ以上、その場に残らなかった。立ち上がって服を整え、背筋を伸ばしてレストランを出た。アパートへ戻ると、わずかな荷物だけをまとめた。最後に、棚の奥にしまっていた貯金箱を取り出し、底のふたを開けた。中から、細く折り畳んだ紙幣がテーブルの上へこぼれ落ちた。私は、失った時間と踏みにじられかけた自尊心を自分の手で取り戻すように、紙幣を1枚ずつ丁寧に伸ばしながら数えた。残りの物には触れなかった。安人に関わるものは、もう何一つ欲しくない。私はその日のうちに最も早く出発する新幹線のチケットを買い、安人の連絡先をすべてブロックすると、メッセージや通話の履歴もまとめて削除した。これで、私たちをつなぐものは完全になくなった。新幹線がゆっくりとホームを離れ、窓の外には景色が流れていく。長い間張りつめていた心はようやくほどけ、今度こそ久しぶりにぐっすり眠れそうだった。……その頃、安人は麗奈と綾人を寝かしつけると、ベランダへ出て、ポケットから取り出したたばこに火をつけた。煙を吐きながら遠くを見つめても、ニコチンは高ぶった感情を少しも鎮めてくれなかった。安人はシャツの襟元を緩めて次の1本に火をつけ、気づけば1箱すべて吸い切っていた。喉が焼けつくように痛む中、スマホを取り出し、しばらく迷った末、幼なじみの神谷直樹(かみや なおき)とのトーク画面を開いた。【俺、どうしたらいい?1人は妻としての立場を守りたい、もう1人は自分だけを選んで欲しいってさ】すぐに直樹から返事が届いた。【自業自得だろ。2人を同時に裏切ったのはお前だ】安人は深く息を吐いた。【俺だって分かってる。でも、どうしたらいいのか分からない。どっちも失いたくない。麗奈とは幼い頃から、いつか結婚することになってた。俺も必ず結婚すると約束した。今さら、その約束はたがえない。でも、俺が何も持っていなかった頃にそばにいてくれたのは美
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第10話

私は海沿いの小さな町、汐凪市へ移り住んだ。家賃も生活費も安く、わずかな蓄えでも暮らせるうえ、瑞京市から遠く離れた田舎町なので、安人が私を見つける可能性もほとんどなかった。残ったお金で、古い商店街の端に小さな花屋を始めた。通りを歩く人はそれほど多くなかったが、ネットからの注文が少しずつ入り、どうにか日々の生活費を賄えるようになった。静かな日々の中で口コミが広がり、注文も売上も開店当初とは比べものにならないほど増えていった。手狭になった店は少しずつ改装を重ね、今では当初の倍以上の広さになり、常連客だけでなく新しい客も途切れず訪れている。自分にここまでできるとは、思ってもみなかった。気づけば3年が経ち、今では本店を数人のスタッフに任せ、私は新たに開いた小さな支店を切り盛りしている。犬も飼い始め、ココと名づけた。よく晴れたある午後、私は店先に椅子を出し、膝の上で眠るココと一緒に日なたぼっこをしていると、ココが突然ほえ始めた。「ココ、どうしたの……?」眠い目をこすりながら顔を上げると、この古い商店街には不釣り合いな、磨き上げられた高価そうな革靴が目に入った。「美緒、いつまで俺から逃げ続けるつもりだ?」私はゆっくりと顔を上げ、安人と目を合わせた。記憶の中の彼とは見違えるほど姿が変わり、ひどく痩せた体には服がぶかぶかで、顎には無精ひげが残り、目は赤く充血していた。「どうして黙って消えたんだ?」私は唇を結び、ほえ続けるココの背中を静かになでた。安人の問いには答えない。「どうしてだ?何もかも捨てて逃げるほど、俺のことが憎かったのか?」安人はかすれた声で問いかけた。息をのみ、長い沈黙のあとで言葉を続ける。「そこまでする必要があったのか?3年間、ずっと探してたんだ……」そこで、安人の声が一度詰まった。「認める。俺は美緒を愛してる。美緒なしじゃ生きていけない。これから先も、ずっとそばにいてほしい。もう十分だろ……この3年、俺は散々苦しんだ。美緒が消えてから、一度だってまともに眠れてない。眠ろうとしても美緒の顔が浮かぶ。夢にまで出てきて、目が覚めてもまた美緒のことを考えてる。俺だって、忘れられるなら忘れたい!」安人の感情は、次第に抑えきれなくなっていく。「でも、できない!どうしても忘れられないんだ!」怒鳴り声が通りに
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