LOGIN翌日も店の外には安人が立っていたが、話す気にはなれず、私は店を閉めて数日間アパートにこもった。安人がどうやって汐凪市を突き止めたのかは分からない。小雨の中、ゴミを出して振り返ると、少し離れた場所に彼が立っていた。安人が何か言おうと口を開くより先に、私は部屋へ戻った。雨脚は次第に強まり、空が一瞬白く光った直後、激しい雷鳴が響いた。慌ててカーテンを閉めようと窓辺へ行くと、安人はまだ雨の中に立っていた。激しい雨に打たれて全身ずぶ濡れになり、服は体に張りつき、髪の先からは絶え間なく雫が落ちている。その姿は、あまりにも惨めだった。窓ガラス越しに目が合った瞬間、自分を痛めつける姿を見せれば、私が心配して許すとでも思っているのだろうと察した。そう考えると少し笑えてくるほど、本当にばかばかしかった。雷に驚いたココがソファの下へ潜り込み、小さく鳴いていた。私はカーテンを閉めてココを抱き上げ、そのまま寝室へ入り、雨音を聞きながら一緒に昼寝をした。目を覚ますと、すでに午後7時を過ぎていた。雨は止んだようで、さすがに安人も帰っただろうと思った。けれど、嵐のあとの通りに人影はなく、彼だけが街灯の下にぽつんと立っていた。「美緒!」安人がかすれた声で叫んだ。濡れた服は体温で半ば乾いていたが、顔には血の気がなく、唇も小刻みに震えている。「頼むから、話をさせてくれ!」私はカーテンから手を離してソファへ戻り、テレビをつけて音量を最大まで上げた。画面では気象情報が流れている。「汐凪市では今夜、非常に激しい雨が予想されています。不要不急の外出は控えてください」リモコンを握りしめたまま、内容はほとんど頭に入らなかった。ココがソファの下から出てきて、私の手へ鼻先を寄せた。私はその頭をなでながら、声をかけた。「ねえ、ココ。私って、甘すぎるのかな」ココは首をかしげた。「安人は、あんなひどいことをした。私だって平手打ちをして、思いつく限り罵って、二度と立ち直れないほど傷つけてもいいはずなのに。安人が一番苦しむ言葉を選び、傷口を何度もえぐってやるべきなのかもしれない」私は力なく笑った。けれど、そんなことはできない。安人がかわいそうだからではなく、ただ憎しみに支配されたくないだけだ。私は今の生活が好きで、安人のことで心を乱し、自分か
私は海沿いの小さな町、汐凪市へ移り住んだ。家賃も生活費も安く、わずかな蓄えでも暮らせるうえ、瑞京市から遠く離れた田舎町なので、安人が私を見つける可能性もほとんどなかった。残ったお金で、古い商店街の端に小さな花屋を始めた。通りを歩く人はそれほど多くなかったが、ネットからの注文が少しずつ入り、どうにか日々の生活費を賄えるようになった。静かな日々の中で口コミが広がり、注文も売上も開店当初とは比べものにならないほど増えていった。手狭になった店は少しずつ改装を重ね、今では当初の倍以上の広さになり、常連客だけでなく新しい客も途切れず訪れている。自分にここまでできるとは、思ってもみなかった。気づけば3年が経ち、今では本店を数人のスタッフに任せ、私は新たに開いた小さな支店を切り盛りしている。犬も飼い始め、ココと名づけた。よく晴れたある午後、私は店先に椅子を出し、膝の上で眠るココと一緒に日なたぼっこをしていると、ココが突然ほえ始めた。「ココ、どうしたの……?」眠い目をこすりながら顔を上げると、この古い商店街には不釣り合いな、磨き上げられた高価そうな革靴が目に入った。「美緒、いつまで俺から逃げ続けるつもりだ?」私はゆっくりと顔を上げ、安人と目を合わせた。記憶の中の彼とは見違えるほど姿が変わり、ひどく痩せた体には服がぶかぶかで、顎には無精ひげが残り、目は赤く充血していた。「どうして黙って消えたんだ?」私は唇を結び、ほえ続けるココの背中を静かになでた。安人の問いには答えない。「どうしてだ?何もかも捨てて逃げるほど、俺のことが憎かったのか?」安人はかすれた声で問いかけた。息をのみ、長い沈黙のあとで言葉を続ける。「そこまでする必要があったのか?3年間、ずっと探してたんだ……」そこで、安人の声が一度詰まった。「認める。俺は美緒を愛してる。美緒なしじゃ生きていけない。これから先も、ずっとそばにいてほしい。もう十分だろ……この3年、俺は散々苦しんだ。美緒が消えてから、一度だってまともに眠れてない。眠ろうとしても美緒の顔が浮かぶ。夢にまで出てきて、目が覚めてもまた美緒のことを考えてる。俺だって、忘れられるなら忘れたい!」安人の感情は、次第に抑えきれなくなっていく。「でも、できない!どうしても忘れられないんだ!」怒鳴り声が通りに
安人は壊れ物を扱うように麗奈を抱き寄せ、綾人を連れて店を出ていった。家族3人の姿が廊下の角へ消え、散らかった店内には私1人だけが残された。揺れるキャンドルの光が、床に散った食器の破片を照らしている。テーブルの下には、店の隅まで転がったガラスの容器があった。それは、まるで価値のないものとして捨てられた私の6年間そのものだった。私はそれ以上、その場に残らなかった。立ち上がって服を整え、背筋を伸ばしてレストランを出た。アパートへ戻ると、わずかな荷物だけをまとめた。最後に、棚の奥にしまっていた貯金箱を取り出し、底のふたを開けた。中から、細く折り畳んだ紙幣がテーブルの上へこぼれ落ちた。私は、失った時間と踏みにじられかけた自尊心を自分の手で取り戻すように、紙幣を1枚ずつ丁寧に伸ばしながら数えた。残りの物には触れなかった。安人に関わるものは、もう何一つ欲しくない。私はその日のうちに最も早く出発する新幹線のチケットを買い、安人の連絡先をすべてブロックすると、メッセージや通話の履歴もまとめて削除した。これで、私たちをつなぐものは完全になくなった。新幹線がゆっくりとホームを離れ、窓の外には景色が流れていく。長い間張りつめていた心はようやくほどけ、今度こそ久しぶりにぐっすり眠れそうだった。……その頃、安人は麗奈と綾人を寝かしつけると、ベランダへ出て、ポケットから取り出したたばこに火をつけた。煙を吐きながら遠くを見つめても、ニコチンは高ぶった感情を少しも鎮めてくれなかった。安人はシャツの襟元を緩めて次の1本に火をつけ、気づけば1箱すべて吸い切っていた。喉が焼けつくように痛む中、スマホを取り出し、しばらく迷った末、幼なじみの神谷直樹(かみや なおき)とのトーク画面を開いた。【俺、どうしたらいい?1人は妻としての立場を守りたい、もう1人は自分だけを選んで欲しいってさ】すぐに直樹から返事が届いた。【自業自得だろ。2人を同時に裏切ったのはお前だ】安人は深く息を吐いた。【俺だって分かってる。でも、どうしたらいいのか分からない。どっちも失いたくない。麗奈とは幼い頃から、いつか結婚することになってた。俺も必ず結婚すると約束した。今さら、その約束はたがえない。でも、俺が何も持っていなかった頃にそばにいてくれたのは美
麗奈は綾人の手を引いて慌ただしく店内へ駆け込み、スマホを強く握りしめたまま、怒りをにじませた目で私たちのテーブルへ向かった。「2人とも、いったい何をしているの!」麗奈はスマホをテーブルへ叩きつけた。「この写真、もうネット中に出回ってるのよ!ニュースサイトにも載ってる!安人、私という妻がいるのに、いったい何をしているの!今じゃ、私は世間中の笑いものよ!」麗奈は涙を浮かべ、私を激しくにらんだ。「高瀬美緒、少しは恥を知ったらどうなの!ここまでされても安人につきまとって、私たちの家庭を壊さないと気が済まないの?いっそ死んでよ!」麗奈は泣きわめき、すっかり冷静さを失っていた。そこに、普段の上品で穏やかな姿は残っていない。母親の剣幕につられて興奮した綾人は、父親のひどい姿を見るなり、怒った顔で私をにらんだ。「悪い女!お父さんを取るな!やっつけてやる!」綾人は叫びながら麗奈の手を振りほどいて私へ突進し、その勢いのまま両手で強く押してきた。私はよろめきながらもどうにか踏みとどまり、もう一度向かってきた綾人の肩に手を添えて体を横へずらした。勢い余った綾人は足をもつれさせ、足首をひねって床へ激しく転んだ。「うわああん!」綾人の大きな泣き声が、レストラン中に響き渡った。麗奈はすぐに綾人へ駆け寄って、その体を抱きしめた。「大丈夫よ。お母さんが守ってあげるからね。誰にも傷つけさせないわ……」そう言った直後、麗奈は私の前に膝をついた。「高瀬さん、お願い。土下座でも何でもするから、私たちを放っておいて。家庭を壊さないで。綾人を傷つけないで。安人と綾人は、私のすべてなの。お金なら、いくらでも払う。全財産を失っても構わないから、もう安人につきまとわないで。家族3人で静かに暮らさせて……お願いよ……」麗奈が本当に床へ額をつけようとした瞬間、顔色を変えた安人が駆け寄り、その体を抱き起こした。「麗奈!」麗奈は胸元を押さえ、息をするのも苦しそうに涙を流した。「安人、私はもう、この人の顔を見るのも耐えられない。お願いだから、二度と私たちの前に現れないようにして……本当につらいの。安人が初めて愛したのも、結婚したのも私でしょう。あなたの隣にいるのは、最初から最後まで私だけのはずよ。この人なんて、あなたにとって何でもないで
店内のただならぬ空気を察した店員たちは、次々とバックヤードへ下がり、スマホを取り出して撮影を始めた。安人はようやく我に返り、勢いよく顔を上げた。その目は赤く充血している。「一つの命だったんだぞ、美緒!償うと言っただろ!車でもマンションでも金でも、欲しいものは全部やる。それなのに、どうして子供まで巻き込んだ!どうして、そんなに残酷になれるんだ!」安人はテーブルの縁を強くつかみ、力の入った指の関節を白く浮き上がらせた。私の涙はもう枯れていた。バックヤードからこちらをうかがう店員たちへ目を向け、かすれた声で頼んだ。「……料理を、運んでもらえますか」店員は一瞬ためらったものの、用意していた料理を急いで運んできた。和牛のステーキ、ポタージュ、フォアグラ。高価なコース料理が次々とテーブルへ並び、香りが店内に広がったが、その華やかさは重く沈んだ空気にあまりにも不釣り合いだった。私はナイフとフォークを手に取り、自分でも驚くほど落ち着いた動作で皿の上のステーキをゆっくり切った。この6年間、食費を削り、満足に食べられなかった分まで、今ここで取り戻したかった。何事もなかったように食事を続ける私を見て、安人の怒りはさらに膨らんだ。「こんなときに、よく食べられるな!美緒、お前には心がないのか!」問い詰める声には怒りと絶望が混じり、その奥には、安人自身も気づいていない焦りがにじんでいた。私は手を止め、何の感情も残っていない目で、静かに安人を見上げた。「安人には妻がいて、子供がいて、帰る家もある。私の子供が亡くなったところで、安人にとっては厄介事が1つ片づいただけ。悲しむふりなんてする必要はないわ」安人の顔色が目まぐるしく変わった。「そんな言い方はあんまりだろ。お前と子供が邪魔なら、とっくに理由をつけておろさせていた。今さら……」私はまだ湯気の立つポタージュの器を持ち上げ、ためらうことなく安人の顔へ浴びせた。熱いスープが頬から首元へ流れ落ち、安人は目を見開いたまま、その場で凍りついた。そのとき、レストランの扉が勢いよく開いた。
ガラスの容器が大理石のテーブルに置かれ、キャンドルの光が中にある小さな姿をはっきりと浮かび上がらせた。安人の笑顔が凍りついた。つり上がっていた口角はゆっくりと下がり、やがて抑えきれないように震え始める。大きく見開かれた目には激しい驚愕が浮かび、呼吸さえ止まっている。「美緒、今、何て言った……?それは……いったい何なんだ……」私は口元をゆがめた。喉から漏れた笑い声には、痛みと憎しみしか残っていない。「安人、私たちの子供よ……私と安人の子供……」2年間、妊娠を願い続け、ようやく授かった子だった。少しでも豊かな暮らしをさせたくて、私は食費まで切り詰めた。まだ家を建てる前から、いつか子供部屋をつくり、3人で暮らす未来を思い描いていた。私の子供。安人との子供。その命は、冷たい手術台の上で消えた。私は泣きながら笑った。自分でも、正気ではないことくらい分かっている。ガラスの容器を安人の胸元へ押しつけた。「安人、うれしくないの?もう二度と安人に付きまとわない。自由にしてあげる。麗奈さんとの家庭を壊したりもしない!笑ってよ。どうして笑わないの?喜ぶべきことでしょう……うれしくないの……?」安人が勢いよく立ち上がった。容器は彼の手を離れ、床へ落ちると、テーブルの下まで転がっていった。安人は頭を殴られたように、ふらふらと後ずさった。膝を椅子の角に強くぶつけても、痛みすら感じていないようだった。「どうしてだ……?美緒、どうしてそんな残酷なことができるんだ!どうして、俺たちの子供を殺した!」安人は、私がこれまでの情に引きずられ、6年間の思い出があるから子供だけは残すと信じていたのだろう。高級車やマンションを与えれば、すべての嘘をなかったことにでき、私は何の立場も与えられないまま、誰にも知られず、これまでどおり彼のそばにいるはずだと思っていた。けれど安人は、私がここまできっぱりと別れを選び、彼にとって都合のいい未来を自分の手で壊すとは考えていなかった。「安人が憎いからよ!」私は声の限り叫んだ。「大嫌い!心の底からあなたが憎い!もう二度と関わりたくない!この先一生、あなたとの縁が切れないなんて、考えただけで眠れなくなる。気持ち悪いの!本当に耐えられない!分からないの?」レストランの中が、静まり返った。