「近寄らないで。あなたのその匂い、吐き気がするわ」「あんた……っ!」彩葉は、宥里が泣いたり騒いだりするだろうと思っていた。少なくとも陽太と自分の前で、多少なりとも自分をアピールしてくるはずだと。まさか、匂いで気分が悪くなるなどと言われるとは、思ってもみなかった。彩葉は顔を真っ赤にして怒りながら、無意識に自分の体の匂いを嗅いでみた。香水の香りしかしないのに、どこが気持ち悪いというのか!宥里は最後にもう一度、陽太を見た。香織に食べさせてもらいながら、ひと口ごとに笑みを浮かべるその子は、まるで本当の親子のように仲睦まじく、実の母である自分のことなどすっかり忘れているようだった。瞳が翳ったが、それ以上何も言わず、身を翻して部屋を出た。何度も傷つけられた心は、それでもやはり痛む。けれど、その痛みにはもう耐えられるようになっていた。これ以上、自分をすり減らすことはない。和室の前を通りかかると、知輝と正臣はまだ話し込んでいた。宥里は足を速め、素早く玄関へと向かった。最後に一度だけ、背後の赤沢家の屋敷を振り返る。それ以上立ち止まることなく、身を翻して外へと出た。まるで、これが赤沢家との最後の、完全な決別であるかのようだった。赤沢家の敷地を出て、外の澄んだ自由な空気を吸い込んだ瞬間、ずっと胸の中に押し込められていたものが、ようやくすっと軽くなった。赤沢家の屋敷はタクシーを呼びにくい場所にあり、外からの車も敷地内までは入ってこられない。宥里はまだ車を持っていなかったため、歩いて大通りまで出るしかなかった。そこまで行けば、タクシーを呼べるだろう。幸い、それほど長い道のりではない。二十分ほど歩けば着くはずだった。けれどこれで改めて、宥里は思い知らされた。やはり早く車を買わなければ、どこへ行くにも不便でしかたがない。十分ほど歩いたところで、前方から一台の車がこちらに向かって猛スピードで走ってきた。ヘッドライトが眩しく、宥里は思わず目を細めた。不意に、その車が彼女のすぐそばで急停止した。目の前のパナメーラにどこか見覚えがある、と宥里が思ったその時、車窓が下がり、洋介の顔が覗いた。「……宥里?こんな時間に、一人でこんなところを歩いているのか?」洋介は赤沢家の屋敷のほうへとちらりと目をやり、だいたいの事情を察したようだった。
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